暴論
かつてスペインの僧侶ブルーノは、当時の教会に対して「暴論」をはいたために、火あぶりの刑になった。いつの世でも異端は迫害される。だがその中で少なからず先見の明があった例には事欠かないのだ。

ダムを廃止して
川を原状に戻そう

Giordano Bruno

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梅雨が終わり、夏が近づくと、河原を散歩したくなるだろう。それまでじめじめしていた空気が一掃されて、すがすがしい太平洋高気圧に一帯が覆われる。だがその水を見てほしい。日本の河川では、6月から7月にはダムに水をため込んでいる時期なのだ。

夏の渇水期に備えて、特に大都市ではダムを山間に多数作り、梅雨の時期に降った水を満杯にまで取り込もうとする。100万人規模の都市では、その量は想像を超えている。

河原を散歩してまず第一に気づくことはその水の量の少なさである。ついこの前まで豪雨であふれかえらんばかりに流れていた川の水がほとんど干上がり、真夏の太陽で水温が上がりよどんでいる。

これはいうまでもなくダムが放水を止めているからだ。そのため川を流れる流量が著しく減り、そのために起こる影響は一刻も猶予のできない事態になっている。

今まで人々はダムの持つ恐ろしい環境破壊については全く無知であるか、関心がなかった。無理もない。ダムの周辺にはレクリエーションのためのこぎれいな公園が作られ、ダムによってできる広大な湖はどうしても自然の一部に見えてしまうからだ。

しかも人々は子供時代に砂場でトンネルやダムや山を作った思い出から離れられないらしく、そのような建造物が実際にできるのを楽しみにしているように思える。これは公共事業が少しもなくならない原因の一つであるとも思えるが。

今日ダムがいかに自然を破壊するかをはっきり認識しなければならないときが来ている。日本のように山が険しく、水量が少なく、急流の多い河川を抱えているところでは、確かにある程度のダムは必要かもしれないが、実際のところ多すぎる。

まずその計画段階での犠牲は谷間に住んでいた住民たちだ。長く住み慣れた家を離れさせられ、知らない土地に無理矢理住まわされる人権無視。そして他の大規模事業でもあることだが、ほっぺたを札束でひっぱたく人間破壊。

水がためられるところは、すべての木々や植生や動物が一掃される。これには何も保証はない。しかもそこへいきなり水をため込むものだから、水底の状態は何十年にもわたって不毛である。

このことは渇水によって水面が著しく低下したときに、むき出しになって赤茶けた土を見てわかるだろう。普通の湖岸と違い、水面から急な崖になっているためもあって水草がほとんど育たないのである。

ダムを建設するには多量のコンクリートが必要だ。しかも途中で決壊でもしたら大変だから、特別な構造を工夫して、補強に補強を重ねなければならない。谷のすき間に逆三角形の板を取り付けるのだから。

水力発電は原発や火力発電よりも自然へのインパクトがずっと少ないと思われてきた。だが現実はそうではない。タービンを回すために流れるすさまじい水流は魚などを巻き込み、またため込んだ水の量を一気に減らす。

朝のラッシュ時に消費される山手線の電力量のおかげで、信州のある揚水発電の水たまりはまたたくまに水位が下がる。これを夜間にまた汲み上げて元に戻すのだが、火力や原発では対応できない一時的な電力量の高まりに対処するために水力が利用されているのだ。

いわゆる「水の工場」であり、そこにはさかのぼってくる魚たちの通行を許す余地はほとんどない。「魚道」が作れるのは比較的水位差の緩やかな場合だけであって、ビルの何倍にもそそり立つダムの場合にはとてもそんなことはできない。

おかげで日本の大多数の河川で魚が上流にさかのぼれなくなった。自然の巨大な計画、海の豊かな資源を山の上に持ち上げること、これが太古の昔から無数のサケをはじめとする魚たちによって行われてきたわけだが、これがぷっつりと切断されてしまったのだ。

考えてみると壮大な計画である。雨が降ると水はどんどん山にある養分を溶かし込んで海へ流す。だから海はどんどん栄養が豊かになるが、一方では山の栄養分が枯渇してゆく。この流れを逆行させるには、魚たちの「泳力」を利用して山の上にまで持ち上げるという方法を採っているのだ。産卵を終わったサケたちは川の上流で死んでゆく。

あるものはクマに食われ、あるものは木の枝に引っかかり、川岸に死体がうず高く積まれる。サケの体は彼らが遊泳中に海で取り入れた栄養分の宝庫である。山では不足しがちなカルシュームなども効率よく戻される。

ダムはこのような見事な逆向きの流れを断ち切った。だがこれだけにとどまるのではない。もしダムがなければ、山の土や岩石は次々と削り取られ、砂となり、海に注ぐ。海ではその砂が砂浜を形作り、岩浜とは違った生態系を形作る。

ダムによって砂が流れ込まなくなるとどうなるか。もちろん海岸の砂はやせ細ってゆき、波の力によって地形そのものが浸食されてゆく。その結果、海岸が削り取られないように、テトラポットを投げ込んだり、岸壁を作ることになる。

ところで流れ込まなくなった砂はどこへ行くか。それは素人でもわかるとおり、ダムの内側にたまってゆくだけである。たまに放水したところで大量の砂を海まで移動させる勢いはもちろんない。ダム湖は年毎に浅くなり、ついには浚渫しなければ使いものにならなくなるだけでなく、砂の途方もない重みによってダムが決壊するおそれさえある。

ダムの設計者は、ダムができる前の水の動きは研究しても、生物や砂の流れまでは考えていない。ましてや栄養分のことなど夢にも見たことがないだろう。専門家の「狭さ」の持つ恐ろしさはここにある。

近年沿岸漁業の衰えが目立つようになった。もちろん、乱獲、水質汚染、海岸の地形の変化が原因であるということはよくわかっているが、それ以外にもダムがその犯人であることを指摘しておかなければならない。

上流では、秋になると特に広葉樹の繁茂する地域では無数の落ち葉が生じ、腐り、それが有機物を生む。これはどこへ行くか。もちろん山の腐葉土となってとどまってもいるが、雨が降るたびにそれは溶けだし、川の流れに乗ってこれが海に運ばれて行く。

栄養分は海にたどり着くと、貝や腔腸動物、プランクトンたちに吸収され、沿岸の小動物たちを養うのである。さらにそれらを魚が食べて、海岸付近の生物の栄養を支える。

もしこれがダムによって遮られればどうなるか?「森は海の恋人」だが、恋人同士の再会を阻んでいるのがコンクリートの巨大な壁なのだ。これではどんどん近海漁業が衰えてゆくのも無理はない。

韓国から北朝鮮にかけての朝鮮半島東海岸の漁獲がまだ豊富なのは、沿岸にダムができていないからだ。特に北朝鮮側ではそのダムの数は現在のところ著しく少ない。皮肉なことに国家建設の遅れが、漁業の繁栄を約束しているのである。

アメリカではダムが利益よりも害が大きいという結論のもとに、少しずつ今までのダムを取り壊す方向に向いている。大都市近郊のみずがめは多少必要だとしても、単なる水利調節のためにダムを建設することは効果が薄いのだ。

洪水防止機能としてダムを造ることは先に述べた砂場の幼稚園児の発想である。どんな頑丈なダムでも決壊のおそれはあるし、そのときの害はダムがない場合に比べて遙かに大きい。

洪水の備えは今では「遊水池」が常識である。自然に逆らわない。水が増えたら、遊水池に広く薄く導き入れて、その勢いをそいでしまう。普段遊水池は公園や、市民農園に利用し、公共の緑地としておくのだ。

ナイル川の洪水に毎年悩まされたエジプトの人々も、洪水によってもたらされたアフリカ奥地の肥沃な土のおかげで豊かな収穫を上げることができた。今ではアスワン・ハイ・ダムができてカイロの水道水は確保されたものの、農民は高価な化学肥料を買って畑に投入するという愚かな事態に陥っている。

それでもダムの建設が止まらないのは、それにかかる建設費が膨大だからだ。遊水池は土地を確保してしまえば、あとは利益が見込めない。これが「力任せ」の現代文明に嫌われたということだが、今や転換点に来たことは間違いない。

全国のダムを再点検し、不要なダムの取り壊しを直ちに行うべきだ。うがった見方をすれば、取り壊しも建設会社の収入になるではないか?

一刻も早く今までの愚かな政策を取りやめて、清流と、豊かな漁獲を取り戻すべきである。

2000年7月初稿

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