暴論
かつてスペインの僧侶ブルーノは、当時の教会に対して「暴論」をはいたために、火あぶりの刑になった。いつの世でも異端は迫害される。だがその中で少なからず先見の明があった例には事欠かないのだ。

原発を廃止しよう

Giordano Bruno

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遠い将来、もはやこの意見は、「暴論」ではなくなっていることを願っている。「豊かな生活」を卒業した人々が、原子力発電の危険性を認識し、つぎつぎと廃炉の方向へ向かっていく日が来ればいいのだが、そんな楽観論は当分実現しそうもない。

悲しむべき事に、人類の最大の関心事は依然として「豊かな生活」であり「便利な生活」であり、この方向からの転換がない限り、今後も世界中の原発は増え続けるであろう。中には原子力に頼るのをやめようとする動きが浮上することもあるが、いったん不景気になればたちまちのうちに消し飛んでしまう。

まだこれから開発を押し進めようとする国々、これまで二酸化炭素を多量に発生してきたために、表向き罪滅ぼしをしているかのように見せかけたい国々、など、依然として原発依存への世界的傾向はかわりはしない。

この国日本でも、世界の趨勢と同様に、何とかして今ある50基の原子炉では足りず、何とかして住民運動を押さえ込み、発電量を増やそうと躍起になっている。

原発推進主義者の頭には、常に電力使用量の終わりのない増大がある。彼らは小さい頃に、停電に悩まされたのだろうか。私がインドを旅行したとき、真夜中になると、ホテルの扇風機がたびたび止まるのだ。当地では発電量が消費量に追いつかず、猛暑のなかで蚊が襲ってくるのは日常茶飯事であった。

だが現代日本では、電力消費量のこれ以上の増大は、地球温暖化をますます悪化させる原因になるだけだ。それは単に火力発電所から出る二酸化炭素の量が増えるというだけでない。社会全体が消費するエネルギーが特に都市からあふれ、周辺に熱公害をもたらす。

原発推進主義者の常套文句は「もし原発に反対なら、ロウソクで生活したら?」である。原発を否定することは現代の生活を否定する事だという短絡的な発想である。現代の文明社会を維持するためには原発によるエネルギー供給しか考えられないという硬直的な態度が問題だ。

振り返って過去の原発事故がいかに現代の文明生活をぶちこわしたかを見てみよう。チェルノブイリ事故によって、ウクライナの広大な黒土地帯が農業にも住宅にも適さなくなり、ヨーロッパに死の灰の雨を降らせた。

崩壊した原発から、いまだに出る放射能を防ぐため、石棺を作ったが、それも常時出る熱によってひび割れを起こし、これを再び安全な入れ物に閉じこめるためには莫大な費用が必要で、ロシア一国ではまかないきれず、国際的な協力が必要だ。

この事故の教訓だけで十分なのに、日本の原発推進主義者は、1億2千万人の住むこの密集列島にさらに原子炉を増やそうと躍起になっている。東海村の臨界反応事故でわかるとおり、この国の国民のほとんどは、核分裂のなんたるかを知らないし、勉強しようともしない。

もちろん推進主義者も同様である。半減期が何万年にも及ぶということが彼らの脳裏を横切ることはない。ただ頭にあるのは、今日寝る部屋のクーラーが作動するかどうかだけである。一体、わずか100年後において、核廃棄物をきちんと保管管理する体制があると言い切れるのか?

人類が永続的な繁栄と、いやあと50年でも生き延びたいなら、日本全国の原子炉を今すぐ廃炉にしなければならない。傲慢さと物欲だけが支配する地方政治の中では、きわめてこれは難しいことだが、これがなければ廃棄物一つとってもにっちもさっちもいかない状態になるのは明らかなのだ。

毎日50基を越える原子炉から生じる高放射能を含む廃棄物はどんどんたまってゆく。その処理をしてくれるはずのフランスやイギリスの工場は、資料改ざんなどの問題を引き起こし、将来当てにできなくなっている。そもそも海を越えてこのような危険な物質を船で輸送すること自体が狂気の沙汰なのだが。

はっきり言えば、今の技術ではとうてい処理しきれない量の「死の灰」が、日本に、そして世界の原子力発電国の内部に蓄積している。その量と毒性、致死性は寒気を覚えるほどの量である。だがいつものように「快適生活」のカモフラージュのもとに人々の目から実態は隠されてしまっている。

日本の役人は、これまで何とかして世界の原子力技術の先頭をいこうとしていた。高速増殖炉の開発がいい例だ。だが各国とも研究に行きづまり、次々と取り止めた。だが、日本ではそれにしがみつき、さらに原子炉から生成したプルトニュウムとウランとを混ぜて燃やすなど、危険きわまりないことを行っている。

さらにすでに原子炉ができてから30年になり、廃炉にすべきオンボロ炉を、配管漏れとかの小規模な事故を起こしながらも、だましだまし使い続けようとしている。現に配管の水漏れには栓をして使えなくするなど、幼稚で姑息な手段で何とか運転を続けようとしている。

原子力発電所の職員はどういう訓練や教育を受けているのだろう。トンネルのコンクリート剥落事故や、ロケットの打ち上げ失敗、地下鉄の脱線、汚染された牛乳など、初歩的な技術的ミスが続く中、原発だけがきちんとした体制で運営されているとはとても思えない。

彼らにあるのは、事故隠し、責任逃れだけであり、そういういざとなって危機管理のできない人間が、この国の生命を握っているのである。今この瞬間にでもチェルノブイリ級の事故が起きても少しもおかしくない状況なのである。

もし原発銀座といわれる能登半島や敦賀付近でこのレベルの事故が起これば、北海道と沖縄を除いて、ほとんどの地域が高放射能に汚染される。逃げ出す場所がない。もちろん風に乗って大陸へも死の灰は飛んでゆくだろう。世界の農業が大打撃を受けることは疑う余地もない。そのような危険が今の我々と子孫の上にかぶさっていて、それでも札束で頬をひっぱたかれれば、ニコニコしながらそれを受け取るのか?

まずこの間違った方向へ向かわせている根本的な原因、つまり際限ない「電力需要」の増大を止めることがまず先決である。実は今の技術ではこれを実現することは決して難しいことではない。電力会社の収入が減るという議論のレベルではない。冷蔵庫、クーラー、その他の電気機器はこの50年の間に電力消費量は激減しているのである。燃料電池やその他の効率的なエネルギー源の実用化も間近である。

今ここで、電力消費量の増大をストップしなければならない。今すぐ減らすことはできなくとも、今の枠内で順次無駄を防ぎ、効率化を進めれば、現在の施設の範囲内でやってゆくことができる。そのゆとりができた上で、寿命が来たものから順次廃炉にしてゆけばよいのだ。

風力発電の効率の悪さやコストの高さ、ダムの河川や生態系に及ぼす悪影響、火力発電での二酸化炭素の膨大な消費など、どのエネルギー源も将来は明るくないが、今のような野放図なエネルギー政策は直ちに改めなければならないのは確かだ。

中には核融合発電が実現するまでのつなぎとして現在の原発を考えている人もいる。だが、核融合を実現させてまで、かなえなければならない「エネルギー需要」とは何か?生物体におけるエネルギー消費は実に効率よくできている。

しかし人間が20世紀の間に作り上げた文明は、「力まかせ」であり、高エネルギー、非能率、大量浪が特徴だ。このやり方を21世紀にまで続けるべきなのか?これからはコンピュータの発達に見られるように、集積による小電力、省スペースの方向へ持っていかなければならないはずなのである。

ここで消費者が愚かである限り、いつまでも原子力政策が続くということだ。消費者自身が目覚めないと、みんなで一緒に地獄行きのバスに乗ることになる。まずは不要不急のエアコンを止めなければならない。年間電力消費量のピークは真夏である。エアコンが全家庭でフル回転するためだ。発電所の最大発電量はそれに基づいて決定される。

老人、病人、人の密集する部屋の場合以外はエアコンの使用を大幅に制限すべきだ。待機電流は全電力消費の何と1割近くを占める。リモコンの「便利さ」のために発電所まるまる一つが使われているのだ。まずはこの狂気の沙汰に早く気づくべきなのだ。

この点から見ると、原発はまったくの過去の考え方に属する。あの名著「Small Is Beautiful」にあるように、地球を生きながらえるためには、今までのやり方は全く間違ったものでなければならないだ。

2000年7月初稿・2002年6月改訂

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