暴論
かつてスペインの僧侶ブルーノは、当時の教会に対して「暴論」をはいたために、火あぶりの刑になった。いつの世でも異端は迫害される。だがその中で少なからず先見の明があった例には事欠かないのだ。

大学の数を半分に減らせ・
レベルを落とすな

Giordano Bruno

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子供の数が減り、大学へ全入が可能になったとしても、それで一国の教育水準が上がるわけではない。むしろ学習に向かない者が多く大学教育の中に取り込まれ、すでに問題になっているように授業に付いていけない者の数が増えて行くだけになる。21世紀の社会はテクノロジーを身につけたものと、そうでない者との分化が一層激しくなることが予想される。そのようなときに、いい加減な教養科目だけでお茶を濁した大学で、社会に通用する人間が一体育つだろうか?一刻も早く専門的職業訓練に重点を置いた学校を作るべきだ。

戦後「駅弁大学」というように悪口を言われ続け、学力低下の惨憺たる状況にも目をつぶってきたために、「役に立たない大卒者」「企業で再訓練、徹底的な研修を行わなければ西も東もわからない大卒者」が急激に増えてしまった。この状況は、ひとえに、大学卒業者には「何ができるべきか」という明確なビジョンが、教育関係者にも、省庁にも存在しなかったからである。もし真の意味での応用力や想像力に富む、人材を育成することを大学に期待するのなら、それに見合う人数は、人口比率からして、10万人もいないはずである。能力的な問題を無視して、やたらに在籍人数を増やしたから現在のような惨状になったと言っていい。

これを打開するためには、選りすぐった教官や施設のもとに、厳選した人材に良質の教育を施すことである。ただこの考えは常に「エリート主義」という非難を受けがちである。

しかしある特定の分野に適した人材は、常に人口のある一定の比率でしか存在しないので、誰でも希望者を受け入れるわけでにはいかない。したがって、そのレベルに達しなかった層もまた適切な教育を受けられるように、「準」大学を作り、より易しく、能率的なカリキュラムで望むべきなのだ。

問題は、名前ではない。現在の「大学」に適したグループと、「専門学校」に適したグループの間には、どちらにも適さない、中途半端の巨大集団が一応大学の名の下に在籍しているということなのだ。

この「中間グループ」こそ、新しい、能率的な方法で教育を施す必要がある。大学のシステムはすでに50年も前から形骸化し、能力の優れた者にとっても役に立たない部分が多く出てきている。ましてや60年代から始まった大衆化の前には全く社会的機能を持たない、「集会所」「入れ物」でしかなくなっている。

今後技術革新の速度が加速度的に速くなることを考えると、今までのような「教養科目」などというものは、時間の無駄でしかない。新しい技術や社会生産の方法が生まれたたら、その翌日には教室でそれが教えられているような素早さと機動性が、特に「中間層」の教育には求められているのである。

したがって少子化による、大学定員割れは新しいシステムを作り出す絶好の好機である。思い切って全国の「大学」の8割の認可を取り消し、新しい時代に適したカリキュラムづくりに励ませるべきだ。淘汰されたくなければ、各「元」大学は、ユニークで今までなかったようなシステムを作り出せるかもしれないのだ。

ただ大学の数を減らすことに関係ある問題として、幼少時からの塾通いがある。はっきり最初に言えば、塾に通わなければ追いつかないようであれば、そこまでしなければ成績が伸びないというのなら、高度な大学の教育にはついていけないことは、誰でも最初からわかっていることだ。

大学でやるような分野に向かない子供を無理矢理にその方面に駆り立てるのをやめ、もっと多様な選択肢を選ぶべきなのだ。一つの進む方向しかないから、閉塞感が生まれ、ストレスが生じる。

一つの進む方向以外は「不幸への道」みたいに思いこまされているから、人生への希望を失う。しかもこれに金銭至上主義が伴っているからもっと始末が悪い。

ところが、ホンネを置き去りにして、「うちの子だけは・・・」という親の必死の態度がこの国の教育を狂わせている原因になっていることを為政者たちは知らんぷりである。

大学の入試試験に「ノート取り」を課すとよい。その子供の学習適性がすぐわかる。先生が早口でしゃべりまくる。板書も次から次へと書きまくる。受験生は先生の話を聞きながらノートが取れるかをテストするのだ。ノートを回収してみればその差は歴然としている。学力検査よりもずっと信頼できる選別ができる。

大学へ入れる人数が極端に減り、その分だけ有用な技術や特技を高める施設が用意されて、しかもその給料や社会的地位が大学卒と大差ないとすれば、事態はもっと改善されるはずなのだ。

「東大病」もこの際、徹底的に治療する機会でもある。真に能力のある人は東大を受けて合格はするが、やがて「中退」する。そのような人々の名前を思い浮かべて欲しい。これはこのような人々にとって東大の教育はスケールが小さすぎ、在籍する価値がないからなのだ。

あるところでおもしろい比喩を耳にした。「映画館」の比喩である。前の人の背が高くて見えないから、ある観客はお尻に座布団を重ねて見ることにした。実に具合がいい。

ところがそのおかげでそのうしろの人が見えなくなった。そこでその人はもっと分厚い座布団を重ねることになった。気がついてみたら、最前列以外のすべての観客が座布団を敷いていたが、状況は当然のことだが、以前とまったく変わらぬままだった!

このような観客の愚を、塾通いに関しては、人々は素直に認めようとしない。最前列に座れる人は少数だ。それはわかっていることだ。まさかその人たちを追い出して自分がとって代わるわけにはいくまい。

幼稚園から、塾で追い回して、常に学校教育の「補強」をつけなければやってゆけない子供たちのことを気の毒に思う。児童心理学の立場から見ても、14歳ぐらいまでの塾通いは、有害無益以外の何物でもない。のびる子かどうか確かめるためなら、中学校3年からで十分である。だが、巨額の教育費を投じても、「うちの子だけは・・・」と思っている親が後を絶たない。

能力のある者に最大の教育機会を与えるという、教育基本法の精神は踏みにじられ、金を持つ親が、一流の訓練を受けさせて、自分の子供を一応一流といわれている大学や会社に押し込む。教育の機会均等はどこかへ消え、親の所得格差がそのまま、子供に受け継がれるようになってしまっている。

これは、東大生の親の所得調査結果を見ただけで一目瞭然である。貧しい家庭の出身がいないわけではないが、入学までの学習環境には雲泥の差がある。

このようにして、少しずつ所得階層の固定化が、安定した中流が大多数を占めていたはずのこの国をもむしばんでゆく。越えることのできない差と、社会流動性の硬直化がこの国から活力を奪ってゆくのだ。

アメリカの例を見るとよい。あの国には、会計士でも計算できないほどの収入を得る少数の人間と、最低賃金に張り付いたままの巨大な層を抱えている。

それでもまだアメリカの活力が低下していないのは、社会の入れ物が非常に大きいことと、移民の努力のおかげである。まだ、「アメリカン・ドリーム」を抱く余地が残っているためだ。だから何が何でも一流大学へ、というように騒ぐ必要はない。

ところが日本ではそのいずれもが存在せず、閉塞状態になってしまっている。このまま貧富の差が固定化すると、大学に入って重要な訓練を受けさせるべき人間が参加できなくなる事態も予想されるのだ。

いよいよ少子化が本格化すると、当然のことながら大学の数がだぶついてしまった。各大学は、(愚かなことに)自分の大学だけは生き残れると信じているから、あるいはそのように行動するから、学力の水準を引き下げても多くの学生を招き入れようとする。

おかげでこれまで深刻化していた学生の学力低下に一層拍車がかかることになった。自分たちで自分の首を絞めているのは十分わかっているはずだが。この国の教育水準を下げないため、法律の力を借りてでも、この大学の数を大幅に減らさなければいけない。

大学の数を減らすには、ただ学校をつぶすよりも、かつての銀行の時と同じように、合併に合併を繰り返すのがよい。というのもいったん学生を引き受けた責任上、4年生になるまで面倒を見なければいけないが、合併ならほかの大学に行って勉強を続けることができる。

そしてかつての受験競争を彷彿とさせるほど、大学への定員を減らすのだ。大学はきれいに整理され、大学に入れない人たちはあきらめるか、もっと学力をつけるべく浪人になって勉強を続けるだろう。

さまざまな入試改革が叫ばれているが、単なる知識の暗記に頼る能力などというのはこの世の中に出ても何の役にも立たないし、そもそも大学とは「自分でものを考える人間」を作るところであって、単なる技術学校ではないことをきちんとしておかなければならない。大学の数が減ればなおさらである。

入試問題はどうしても記述式となる。「明治維新について800時から1000字の間で2時間以内で述べよ」というような問題を出し、問題のしたには参考資料を”英語”で出しておく。歴史の不得意なあるいは十分に授業を受けたことのない学生のためにも、この参考資料を見て作ってもらう機会を提供する。ただし英語だからもちろん読解能力は必要である。

採点は一人の大学教員が行うのではなく、全員が担当する。入試事務局は受験生の答案コピーを際転写の数だけ作り配布し、教員は受験生の名前を知ることはなく、採点者同士、互いに結果がわからないようにして採点させる。採点する順番も、ランダムに混ぜておく(最初に採点した答案はよく見るが、あとになるほど疲れて雑になる傾向をなくすため)。

その受験生の合否は、多数の教員によって採点された結果を平均した値をもとに決定する。これはフィギアスケートの採点に似ているが、もっと得点のばらつきが出るだろう。それでも現行の試験よりずっと公平だろう。隠してその大学には自分の意見をきちんとまとめ、相手に伝えることができる学生が闊歩するようになる!!

2000年7月初稿 2009年6月追加

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