暴論

かつてスペインの僧侶ブルーノは、当時の教会に対して「暴論」をはいたために、火あぶりの刑になった。いつの世でも異端は迫害される。だがその中で少なからず先見の明があった例には事欠かないのだ。

公共事業を廃止せよ

Giordano Bruno

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日本の国や地方での借金の総額は、すでに国際的な評判になり、信用の低下、株の値下がり、この国の将来の見通しのなさ、いずれの点でも悪影響を与えつつある。

その原因は、非効率な行政組織による予算の使い方の無駄が指摘されているが、とりわけその中でも他の国に例を見ない現象は、その国や地方主導による巨大な公共事業へのバラまきである。

戦後の復興が軌道に乗った昭和30年代後半の頃、「新産業都市」の名の下に、全国各地に工業地帯を作る計画が発表され、直ちに造成工事が始まった。

すでにある京浜、中京、阪神などの工業地帯にならって開発を進めれば、各地にも同じような生産基地ができるという幻想がまかり通ったのである。

現在、それはほとんど全て失敗に終わり、買い手のつかない空地が夏草に埋もれている。そしてそれに懲りずに、次々と新しい計画が立てられ、その実行に至るまで巨額の税金がつぎ込まれているのだ。

そしてなお悪いことに、地方では過疎地の問題が何十年もの間放置され、農業の衰退と、人口の極端な減少、それに伴う交通網の廃止のおかげで、残された人々は、土木工事以外に生活の糧を得ることができない事態になってしまっている。

このような官主導型の開発計画は、明治維新以来のことであるが、日露戦争に至る急速な国力の増強、太平洋戦争直前までの軍備増強、そして戦後の復興、いずれも国が多くの金を出して成功したものだから、このような形式が国家全体にとってふさわしいものだという考えが役人の間にとどまらず、国民の間にも広く行き渡ったのである。

このような国家が面倒を見てくれるなら万事うまくゆく、という「自信」や「信仰」は元寇の撃退以来のことなのかもしれない。あるいは、ある人はこれを旧ソビエト顔負けの社会主義計画経済の実現だというような、うがった見方をする人もいる。

現在、原発、ダム、空港、巨大な橋、トンネル、新幹線、高速道路がいまだ色あせない「開発」のかけ声のもとに押し進められている。

マックス・ウェーバーの官僚論を待つまでもなく、これらの計画の特徴は、いったん立案されると止まることができないこと、実現に向けて予算や人員は増えることがあっても、減らされることは絶対あり得ないことはわかり切っている。

そうであっても、村八分をおそれて誰も真剣にその問題について討論する者はおらず、あらゆることが「先送り」され、皆が「利権」に引きずられて、いつの間にか破滅に向かって突っ走ってゆく。

環境アセス、時のアセス、などさまざまな手続きはあるけれども、根本的な姿勢が変わらない限り、これらの法制上の工夫も骨抜きになるだけなのだ。

現に公共事業を減らそうというかけ声も、最も目立つ事業、たとえば河口堰の建設とか、減反が進む中での農業用地を作り出す干拓事業がやり玉に挙がったが、それ以外のものは有形無形の圧力のもとに、確実に計画が強行されるのである。

公共事業に歯止めがかからないのは、一つに「麻薬説」がある。住民が国や地方自治体からの計画に盲従し、その利益を得、そのために活躍してくれた政治家を再び選ぶという構図がいったんできあがってしまうと、その循環からはずれることは大変な苦痛を伴う。

住民は自分たちで販路を広げたり、事業を始める気を失い、すべて上からの押しつけ事業による収入だけをあてにするから、いわゆる自活能力を失ってしまうのである。

もしこの時点で公共事業を取り上げられると、住民はその日から収入のあてを失う。偏った経済構造が、取り返しのきかない「禁断症状」という結果を生むことになる。

かくしてふつうの企業ではとっくの昔に放棄されているはずの事業が採算を度外視して進められ、住民はそれに依存し、国や地方政府は借金の山に押しつぶされ、利息を払うことすらできなくなる。

この悪循環の始まりは、そもそも「ポーク・バーレル pork barrel 」志向の政治家を選出したときから、いやもしかしたら、もともとアジア的風土のためだったかもしれないが、いつの間にか政治体制に組み込まれてしまっているのだ。

本来、政治家は、地元の住民の面倒など見てやる必要はない。そんなものは地元の事業者の自主性に任せるべきなのだ。政治家は、もっと大きな理想や外交関係のためにその知恵を出すべきなのだ。

日本の政治家は、地元に「開発」とそこから生じる「利益」を自分の支持者に分配することを仕事と心得ている。これでは国家の将来図はとても描けるものではない。住民は自ら計画を立て、自分たちの郷土を作り上げる気概を失い、すべて「お上」に指図通り動くように条件づけられてしまっている。

最後に待ち受けているのは、政府の「破産」である。それがどんなものであるか、先輩のアメリカに例がある。カルフォルニア州のオレンジ郡は、実際に破産宣告を出された。住民サービスは停止し、管財人の管理下におかれた。

ニューヨーク市も破産の瀬戸際まで行ったことがある。犯罪がばっこし、街中の道は穴だらけ、ついに高速道路の一部が腐って高架部分が落ちてしまった。その後の大変な努力の末、かなり回復したが、一時期は、人々が南部や西部へと企業の本社機能を移し、もうこの街の運命もこれまでかと騒がれた。

日本の場合はもっと深刻である。ほとんどの市町村が負債に苦しんでいるだけでなく、その親玉の政府そのものの国家予算が、大変な負債を抱えているからだ。中央集権が強いから、前者は後者に全面的に依存している。

これは将来的には国家と自治体の同時破産を意味する。新幹線は止まり、発電所はその運転をやめ、都市の管理機能も停止する。自治体の住民サービスに多くを依存している国柄だから、いったんそれが止まったときの影響は大きいだろう。ちまたには浮浪者があふれ、高齢者は面倒を見る人がいないために大勢が病死することになる。

現在の公共事業への散財ぶりを見ると、破産の時期はおそくとも、25年から30年後ぐらいになろう。その前に何か手を打っておかないと、このシナリオは実現してしまう。

これを防止する方法は、一つしかない。今すぐ、ほとんどの公共事業をただちに中止することだ。これまでに投資した額が無駄になるとか、いっさいの言い訳はきかない。

盛岡以北、北陸地域、博多以西の新幹線はすべて中止、横につながる、いわゆる「肋骨」高速道の中止、干拓、埋め立て、ダムの全面中止、架橋と長大トンネルの中止を今すぐ実行する必要がある。

中止したものは、直ちに私企業の手に渡す。といってもほとんどは誰も引き受けようとはしないだろう。採算のめどが立たないどころか、それを度外視したとしても公共の福祉に役立つものはほとんどないからだ。

建設中のものの多くが廃墟になるのは覚悟しなければなるまい。それは役人にとっては耐え難いことかもしれないが、これまで問題を先送りしてきたからには、そうする以外に打つ手がないからだ。

これより少しでも時間稼ぎができぬものかと考える人はいるだろうが、利息の雪だるまになることを考えれば、一刻の猶予もないのである。

借金の限界を超えたとき、日本が3等、いや4等国となり、もはやそこからはい上がれない悲劇が目の前に迫っている。これに気づかず、または気づいても知らないふりをしていることはできない。

一見、飽食が相変わらず続き、海外旅行も相変わらず盛んな昨今であるが、舞台裏では確実に悲劇の準備が整っている。「政府はそれを選ぶ国民にふさわしいものができる」との格言通り、あまり知恵の働かない国民である以上、土壇場になるまでほとんどの人々が気づかないのかもしれない。

忘れてならないことがある。戦争も公共事業の一つである。大恐慌を経験したアメリカも第2次世界大戦のおかげでその経済力を取り戻した。日本の朝鮮戦争における「朝鮮特需」がなかったら、日本中に工業地帯が生まれることもなかっただろう。

戦争は急激な力で生産を押し進めるために、皮肉にも公共事業につきものの悪い点があまり現れないのだ。歴代の政治家や王様や肯定が戦争を好んだのも理由がある。

2000年12月初稿2004年10月追加

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