暴論

かつてスペインの僧侶ブルーノは、当時の教会に対して「暴論」をはいたために、火あぶりの刑になった。いつの世でも異端は迫害される。だがその中で少なからず先見の明があった例には事欠かないのだ。

高速道路を埋め戻せ

Giordano Bruno

HOME > Think for yourself > 暴論 > 高速道路

日本中に高速道路網を設置し、この南北に長い島のどこからでもただちに輸送が可能なように、里帰りが可能なように,と考え出したのはいったい誰だろう。きっと、その人は、またその人に賛成した人は、幼稚園の時に砂場での遊びが大好きだったに違いない。

どんな国でも国力の限界というものがある。それを越えて何かを行おうとすれば、必ず滅亡の原因になったことは歴史が教えてくれる。その場合は、必ず警報が出る。外的の侵入に絶えられない、インフレーション、デフレーション、大量の移民の流出、そして不良債権などである。

なんびとも歴史をしっかり学ぶべきだ。そしてテレビ・ゲームで仮想世界にとじこもってばかりいないで、その「経験」を現実世界に当てはめさえすれば、自ずと進むべき方向が見えてくるものだ。あなたは上下4車線の高速道路の幅をはかったことがあるか?これによって、どれだけ貴重な耕地がつぶされ、山の木が切られたと思うか?旭川から鹿児島まで、その途方もない広大な帯が続こうとしている!!

今高速道路に求められているのは、不必要な道路建設をただちに中止し、在来の道路で十分やっていけることを証明することだ。残念ながら日本の高速道路は、アメリカのインターステート、イギリスのM路線、ドイツのアウトバーンをモデルにしている。だが、そのいずれにも及ばなかった。

その最大のポイントは、通行料金の徴収である。料金収入を次の路線建設に当てようとしたこと自体、もう国力の限界を超えている。無理を承知でやってきたのだ。できないことを政治力で実行しようとすれば、過大な見積もりがまかり通り、末代までの子孫に借金を背負わせることになることは、ちょっと簿記でも勉強すれば、誰でもわかること。

何でも国に金をもらえればよいと考えてきた長年のつけだ。これをやめられなくなっているのは、覚醒剤中毒とそっくりである。それを無視し、強引に話を進めた、地元の政治家も責任を負うべきだし、そのような人を十分に考えもせず選んだ選挙民にも十分な責任を負ってもらおう。つまり、その道路の負債は、地元の「選挙民」が全額負担をするということだ。その人たちの収入から、「高速特別税」を取り立てれればよい。

それが無理というなら、高速道路の存在価値はない。実際、料金収入で自活できる路線など、日本全国を見渡しても、東名、名神、などごく数えるしかない。それ以外の路線は、今の日本の国力で維持していくことはとうてい無理などだ。新たな建設など論外である。地方の振興という人もいるが、その前に国が滅ぶ。まさに「痴呆」の「進行」なのだ。

加えて、高速道路の建設は、新幹線と同様、途方もない自然破壊を伴ってきた。ただあまりに大規模なので、それを具体的に示すことができないでいる。これらの工事による影響の総合評価は、きわめて難しい。だが、素人でもわかる破壊はいくらでもある。

豊かな田んぼのど真ん中に鉄骨とコンクリートの固まりを埋め込んだという暴挙。高速道路を走っていると必ず出くわす切り通し。切り通しにはさまざまな地層が入り組んでいるのがわかるが、最初のブルドーザが入った日から、付近のこんこんとわき出る泉は、その日から水を生み出すことをやめた。それまで豊かに木々の根に供給されていた水がこなくなった。

何万年も前から山の木々に水を供給してきたそのような地下水脈は、たちどころに破断された。そのような山は単なる「ボタ山」となる。さらに無数の野生動物が行き来していた獣道(けものみち)はずたずたに引き裂かれ、愚かな行楽客が行き来するベルトコンベヤーに取って代わった。道路公団が、申し訳程度に、高速道路の地下にトンネルを掘って見せたのがほほえましい。

高速道路は、自然の地形は無視し、自らの論理に従って、できるだけ直線で目的地に向かって進もうとする。その間に遺跡があろうが、動物のすみかがあろうが、何千年も生きてきた樹木があろうとそんなことはおかまいなし。それが天然記念物や国宝の指定でもあれば話は違っていたろうが、「経済価値」もなく、名も知れぬ田舎の里山がどうして守られるはずがあろうか。

力任せの無理強い新幹線と高速道路は行く先すべての物を破壊した。「過疎」の防止という大義名分のもとに。新幹線も、地元の強欲政治家のために、全く不要な路線まで造られてしまい、高速道路ほどではないにしても、今後大量のエネルギーを消費して、高速度を維持することになる。今回も盛岡から八戸へ路線が延びた。儲かるのはおみやげ屋だけ。地元の真の意味での振興に役立つことはない。

いったい、八戸まで新幹線を開通させて何の意味があるのだろうう?時代の変遷を理解できない、これを計画した馬鹿者どもの顔が頭に浮かぶ。かつて盛岡も仙台ものんびりした実に情緒ある街だった。それが、新幹線開通以来急速に個性を失い、東京都「大宮区」の北は「仙台区」だという陰口もきかれるようになった。

新幹線は、それぞれ独特の顔を持った日本を急速に画一化していく。渋谷が北に移転したとて何がいいというのだろうか?もうかるのは東京資本だけ。八戸もつまらないブティックとか、グルメのレストランが増えるのだろう。おそらく「お台場」あたりがモデルとなるであろう。

そして、新幹線で急がなければならないビジネス客とはなにしにくるのだろう。地元のコンビニをつぶす特命をおびた某巨大コンビニチェーンの社員だろうか?倒産させる予定の、地元の旅館の跡地利用を協議しにゆくホテル業者か?

さらに、新幹線開通は、東京から「・・・堂」とか「・・・コ」というような大規模小売店舗が進出していく。これで周辺の市町村の駅前は前例が示すとおりのゴーストタウンとなる。これらは日本の社会には有害なものだ。

アメリカ式の経済理論を擁護する人たちは、「自由競争のため」をしきりに口にするが、実は自分たちの頭には規模拡大による「利潤」しかない。彼らは偽善の最骨頂なのだが、それに気づかず本当に「自由経済」を実現しようとしていると信じるおめでたい人もいる。

新幹線と高速道路は、一部の「めざとい」人々に富をもたらした。だが、過疎化はすこしも止まらない。日本各地の駅前商店街は、かつてはにぎわいがあり、地方文化がそれなりに花開いていたのに、ゴーストタウン化し、地方文化には後継者がおらず、どんどん死に絶えている。

道路構造は、すべて自動車優先で作られ、地方のバス路線は瀕死状態である。このため、旅客鉄道はもちろん、せっかくのJR貨物という新会社も本領を発揮できずにいる。最新の技術を持ってすれば、高速を走るトラックの何十分の一のクリーン・エネルギーで、日本中くまなく貨物列車が行き来することも可能だった。それは、世界の運輸業性のお手本にもなっただろうに。

高速道路は、東名、名神、さらに日本海とをつなぐ関越の3本だけで十分だった。新幹線も、東京ー新大阪間だけで十分だった。このあと調子に乗ってさらに増設したのが間違いのもとだった。こんな方法を採らず、在来の国道を改良し、道幅を広げたり、歩道を完備したり、都市部ではバイパスにするなどで十分だったのだ。というより、日本の経済的な体力からすればそれがせいぜいだったのだが。

今、高速道路と平行する国道を走ってみると、よくわかる。不況のために追いつめられた運送会社が、運転手に高速道路の使用を禁じ、おざなりにされた舗装に痛みが目立ち、狭いままで、歩道も幅40センチという、国辱ものの国道を大型ダンプが、路肩をきしませながら渋滞の列をつくっている。

このような国道は、旧市街のど真ん中を通り、高速道路への建設費のために、歩行者のためのまともな歩道のための予算もなく、ガードレールだけで体裁をつけているのが痛々しい。しかも、日本人はどこでもおとなしく文句を言う人が少ないから、それが、もう何十年も放って置かれている。歩道の整備なら、高速道路の費用に比べれば取るに足らない費用しかかからないし、中央のゼネコンが儲かるような大規模工事ではないから、地元の小さな土木会社に仕事がまわる。

日本の道路は、昭和30年代までは、ちょっと地方に出れば舗装されず穴凹だらけ、車が走ればもうもうたる砂埃が立った。ところがどうだ、こんにちではたんぼのあぜ道まで舗装されているではないか。

ところで日本で最も広大な産業廃棄物処理場はどこだか知っているだろうか?それは道路だ。なぜかというと毎日消費されるガソリンやら重油は原油を精製して作られるわけだが、その最後に残った泥のようなピッチが実はアスファルトの原料。

これに細かく砕いた石を加えて練り混ぜたのが舗装道路だ。どおりで日本の隅々まで行き渡っていると思ったことだろう。舗装することはこのピッチをどこかに片づけるには最も好都合な方法だったのだ。

もしこうでもしなければ、ピッチの巨大な山を全国各地に作らねばならないことになっていたはずだ。この大量のピッチはもちろん毒物を含み、油分だから環境に有害なのはもちろんである。また雨水を透過しないので、降った雨はどんどん表面を流れてまわりに油分を含んだ水をぶちまける。

最近透過性を持つアスファルトを開発したということだが、実はこれはすぐに詰まってしまう。細かい穴が無数にあいているだけなので、ほこりやゴミが溜まればすぐに役に立たなくなってしまうのだ。このため地下に浸透していく水がどんどん減り、特に都会では深刻な問題を生じている。

今こそ、よけいな高速道路を埋め戻すときだ。これまで犯した日本という美しい国へ与えた甚大な損害への謝罪を込めて、もとの自然に戻そう。(分断された水脈は永久に戻ることはないが)。日本列島の自然を生かし、その生活を子孫代々まで続けるというのなら・・・人間らしい生活は21世紀の真ん中あたりでやめていいというなら話は別だが。

2002年12月初稿

ここにきて、これまでの私の主張は暴論ではなくなった。実際にそう考える人がこの6年間で世界中でどんどん増え、自動車交通をこのまま続けるわけにはいかないという風潮が、特にヨーロッパでは強くなったからだ。路面電車の目覚しい復活のその現われなのだ。

そして実際にもう高速道路を撤去する動きが始まっている。たとえば解体例としてサンフランシスコと外部リンクソウルが有名になっている。特にソウルではふたをして暗渠になった川を取り戻し、上を走る高架を取り外してしまった。都市の美観を損ない、騒音と排気ガスをばら撒く道路は都市の真ん中に置くべきではないことがようやく認識され始めたのだ。

高架橋は太い柱にがっしりと支えられて、何百年も持ちそうな構築物だが、社会的に見ても、建築学的に見ても、実は100年の寿命もない。ローマ時代に建造され、今でも使われている水道橋などと比較してみよう。実に浅はかで近視眼的な発想で作られたことがよくわかるだろう。

日本でも東京オリンピックの狂騒の中で、日本橋が高架下になってしまった。この歴史的過ちも今まさに正すときがきている。何が何でもスピードアップ。インターチェンジから10分でいける便利さ。このようなおろかな目標のために、計り知れない資源が浪費されてきたのだ。

一部の団地では、バンプ(bump)が路上に作られている。疾走してきた車もこの前に来たのではスピードを落とさないわけにはいかない。いわゆる生活道路にはこれをいたるところに設けるべきだ。特に幹線道路の”抜け道”となって近隣の住民に多数の死傷者を出しているところでは。

北海道の直線道路部分も同様である。すでにそれと平行して多くの”無用な”高速道路ができている。早く走りたい人はそちらをどうぞ。一般道路はたくさんのバンプを作ればよい。何しろ北海道は日本有数の交通死亡事故多発地域なのだから。

大切なことは車好きや運転狂から”車をとばす”という運転の喜びを奪えばよい。そうすれば路上に彼らが出てこなくなり、生活に本当に必要な宅配便やその他の荷物運搬トラック、そして公共輸送機関だけが走るようになる。

2008年2月追加

Think for yourself > 暴論 > 高速道路

© Champong

inserted by FC2 system