暴論

かつてスペインの僧侶ブルーノは、当時の教会に対して「暴論」をはいたために、火あぶりの刑になった。いつの世でも異端は迫害される。だがその中で少なからず先見の明があった例には事欠かないのだ。

大規模店舗をつぶせ

Giordano Bruno

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昔、昭和30年代の終わり頃、友達の家の裏には小さなお好み焼き屋があって、おばさんが一人でやっていた。10円を出すと、小さな金物のカップに、小麦粉を溶いたのと、具を入れて持ってきた。その安さと気軽さから、その友達の家に行ったときにはいつも楽しみだった。

かつてはこんな屋台ともつかない小さな店がいくらもあって、お客がきてそれなりに生計を立てていたことを考えると、まだ高度成長を遂げてもいなかった時代なのに実に不思議な気がする。ささやかながらの共存共栄だったのだ。ちょうど、うっそうとした森林の中の生態系のようだったのだ。

今はどうだろう。いくら衰退したとはいえ、まだ世界有数の経済力を保持していることになっているのに、地方の駅を降りると、どこの町もシャッターをおろしたままだ。すっかりゴーストタウンになってしまった町もある。

これは単に地方の過疎化によるものだけではない。不景気のせいにするのもよくない。客はどこへ行ったのかは誰でも知っている。幹線道路沿いの大ショッピングセンターだ。特に首都圏や近畿、中京圏では、モールの建設がめざましい。これは禿げ山になったところに同じ木だけを植えた風景に等しい。

これが客を吸い取って、はじめは安値が魅力だったが、それは次第に後ろに隠れ、品揃えや店の雰囲気を重視するようになった。売り場面積の広さを誇る店舗が客を集めれば小さなパパママショップの衰退は当然のことだ。

これを経営や経済の合理化という。流通の近代化と称する。これを実行しない国は遅れており、グローバリゼーションに乗り遅れていると言われる。商売は勝ち組と負け組とに分離しなければならない。以上は、本家本元のアメリカの「経済学者」たちのご意見だ。

そしてもちろんアメリカでも小規模な商店は、ニューヨークのごみごみした横町以外の全域で絶滅した。アメリカの商店は大都市中心部を除きモールだけでできていると言ってもいい。

日本も直ちにアメリカの後を追った。人口密度の高い日本の場合は、大規模店舗で埋めきれない部分があり、ここにはコンビニが居座った。コンビニは、売れ筋だけに商品陳列を絞った、小型のモールである。駅の売店もこの筋である。

一方大規模店舗が発達するためには、幹線道路が整備されなければならなかった。この点で各都市の「バイパス」は土地の安さも手伝って立地には最適だった。しかも日本には世界に冠たる小型自動車の産業がある。

すべての条件がそろい始めた昭和50年代後半から、急速に日本全国に大規模店舗がアメリカと同じように郊外に広がり始めたのだ。同時に零細店舗の衰退が始まった。衰退するのは当然だ。消費者が使う金は、ほとんど一定している。モールへ向かえばその分だけ他へ行かなくなる。

駅前商店街の衰退を不景気のせいにする人々が多い。だが、日本はもっと貧しい時代にも、商店には活気があった。扱う商品が狭く限られていたにもかかわらず何とかやっていたのが今では奇跡のようだ。

モールが建設されるときは、「経済効果」が喧伝される。いったい誰のためのものか?ただ単に大資本のもとに企てられた計画への収入が増えるだけではないのか。従業員への収入という形の利潤環流もあろう。だが、彼らは転勤もする、雇われ人であって地元への経済貢献は少ない。

結局大規模店舗は、長い目で見れば地域を潤すために新出したのではなく、地元から吸い上げられるだけ吸い上げようという意図がはっきりする。そして全国からかき集められた金は、東京の本社へと流れていく。これも、年による地方の略奪の一形態なのである。

アダム・スミスの「見えざる手」は、ほくそ笑んでいる。すべての条件が整い、アメリカの画一性の移植が実現したからだ。長崎のモールで目隠しをして、旭川のモールにつれて行き、目隠しをはずしたら、自分がどこにいるか当てることができるだろうか。

モールのおかげで、日本中実に見事なほど規格化された。流通の効率化には多様性は最大の敵である。絶えずトラックが納品口から商品をそそぎ込まなければならないし、納品の遅れや、規格外の製品ははねられる。

大規模店舗は消費者の意見を尊重する。それが遺伝子組み替え反対と結びつきプラスの方向に進む場合もあるが、アメリカでは逆に消費者が組み替えには全く無頓着だから、モール側も全く無関心である。

大規模店舗の目的は唯一、金儲けだけだからそのための行動ならどんな方向にでも向かうだろう。だが、消費者が関心を持たないとなれば、商品の改善の方向に向かうとは限らない。

さて、消費者は、自宅から離れた店舗に向かうために自動車が不可欠となった。今や高齢者でも、免許をとって安い軽自動車を買い求め、老夫婦で買い出しに来る。今までなら自動車が不要な人まで、必要な状態に持っていくのがこのシステムの特徴だ。

砂漠の真ん中に住むアリゾナ州の住民ならともかく、日本の地方中小都市の住民であっても、店舗から10数キロ離れているというだけで、車が必要になる。

今や、近くのお店で気軽に夕食の材料を毎日歩いて買うことができるのは、首都圏や近畿圏のJRや私鉄沿線の駅前半径1キロに住む人だけだ。地方都市では、そのように密集して小規模店舗が維持できるような地域はずっと限られている。

人々は自動車で一週間に一度大規模店舗で買い物ができることが、「進歩」だと思いこんでいる、いや思いこまされている。今日の夕食は何にしようかとぶらぶら歩きながら肉屋から八百屋へと「ハシゴ」する余裕は「忙しさ」が美徳とされる現代生活は与えてくれない。

今や、おいしい味を競った豆腐屋とか麺類販売店などは貴重な存在だ。豆腐はスーパーで規格化されて、しかも安いのを買え、というシステムからのメッセージに人々は忠実に従っている。

今、地方で残っている「独特の味」「特産」は観光用であって、地元の人のためではない。地元の人のための産品は若い人は買わないし、後継者がいないこともあってほとんど絶滅した。

そしてもっと恐ろしいことが待っている。人口減少地帯では「スクラップ&ビルド」方式によるしっぺ返しが待っているのだ。大店舗ができたことを素朴に喜んでいる人たちは、冷酷な資本の原理のことをまるで知らない。いったん売り上げが減り始めると”本部”は直ちに撤退の指令を出す。それが地元の人々の生活にとって影響があるかないかにはお構いなしだ。

大きな店が突然なくなるとその地域の人の流れにぽっかりと穴が開く。人々は遠く離れた別の店に買い物に行かなければならなくなる。車を持つ人は燃料消費量と買い物時間が増え、車のない人は途方に暮れる。

アメリカのようにはじめから画一性しかないところなら、砂漠の真ん中にモールを作っても大きな影響はないが、かつては各村、各家庭で作るみその味が異なっていたほど、ローカル色豊かな国だった我が国では、タヌキやキツネが跳び回っていた丘にブルドーザーを入れて粉々にし、のっぺらぼうの団地を作った風景と同じく、文化、特に食文化をモノトーンの世界に変えてしまった。

大規模店舗をなくせと言っても、時代の流れは止められまい。とことんまで行くしかないし、気がついたときには、豊かな文化はすっかり消滅していることになる。

だが黙っていることはできない。最近では盛岡に巨大ショッピングセンターが生まれた。これでまた、零細の商店は束になって消えてゆく。地方は、それでなくても不況の影響をまともに受けて苦しんでいるのに、そのわずかな収入をまとめて持っていき、力任せの大資本のやり方は実に卑怯である。これが「強食弱肉」のルールだといえばとても人間のやることではない。

大企業にとっての「効率」とは何か。それは競争を廃し、自分たちだけの商圏を獲得することである。そもそも「独占」「寡占」は資本主義のルールに反する。たとえば資本が大きいために有利な状況で戦略を進められる場合には、理想的な「自由競争」はそこに存在していない。

多くの人々が、資本主義の本質について勘違いしているようだ。「独占」も「談合」も「排除」も資本主義の特徴ではない。その成長過程で出てくる「弊害」なのである。こういうことは法律を使ってコントロールすべきことなのに、日本の大規模店舗法では、これを実現していない。

一日も早く大規模店舗法を書き換え、一定の床面積以上の店舗の建設を厳禁すべきだ。駐車場も禁止する。全国で禁止すれば、不平等はなくなる。このようにして、小さな店舗が「自由競争」に参加できる環境を作る。。人々が駅前やバス停から、気軽に「歩いて」行けるところに店をたくさん作るのだ。アメリカ式の商習慣を取り入れたのでは、この国の小売業の未来はない。

さらに、法整備もさることながら、一般住民の考え方も変わらなければならない。もっとも大切なのは車中心の生活をやめることだ。車の生活がスプロールかをいっそう押し進め車のない生活ができなくなる。仕事に支障のない限り、郊外の広い団地に住むことをやめ、市街地の中に住む。

東京都に巨大モールがないのは、そのための土地がないというのが一番の理由だが、おかげで駅前商店街は元気だ。渋谷、原宿、新宿、アメ横は車で行くところではない。歩いて楽しむところ。豊島区の巣鴨にある巣鴨地蔵商店街は「老人の街」としてすっかり勢いを取り戻した。

日本は、城下町から発展してきた都市が多い。それらは愚かな市担当者によって、ばかでかい通りを何本も通し、立ち退きは人々の生活を破壊してきた。アメリカ西部の清潔だが埃っぽい何の個性もない街にいっぱいにしてはならない。

2003年7月初稿・9月追加

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