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暴論

かつてスペインの僧侶ブルーノは、当時の教会に対して「暴論」をはいたために、火あぶりの刑になった。いつの世でも異端は迫害される。だがその中で少なからず先見の明があった例には事欠かないのだ。

切腹の復活を

Giordano Bruno

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汚染牛乳を平気で出荷する。原発の配管の老朽化を見て見ぬふりし、おまけに耐用年数を水増しする。欠陥自動車を作っておきながらリコールをせず、事故が起こっても自己責任だと主張する。エイズウィルスが入っていると知りながら血液製剤を売りに出す。人の貯金をかき集めて客が誰も来ないリゾートを作る。

最近の無責任体制のひどさは目に余る。これは組織が巨大化し、責任の所在が明らかにならなくなってからいっそう顕著である。特に役所の人間や、大企業の幹部というのは官僚体制を隠れみのにしてますます大きな犯罪をそしらぬ顔でやるようになった。

最も腹立たしいことは、自分が検挙される前につまり懲戒免職になる前に辞表を提出し、まんまと巨額の退職金をせしめていることだ。これを取り締まる法律がないから、彼らは「合法的に盗んだ金」で余生を送ることになる。

三島由紀夫の事件では切腹が日本独特の責任の取り方や主張の仕方として世界中で有名になったが、これを前時代的だとか野蛮だとする見方が少なくない。ハラキリは食人風習や人身御供と同類に見られることも少なくない。

だがギリシャやローマ帝国における大政治家が熱い風呂に入って静脈を切断する形で自分の人生の始末をつけたように、世界中どこでも自分が手のほどこしようのない事件を起こした場合は自分の命を持ってあがなうのが当然とされた。

キリスト教では自殺は罪とされているようだが、他殺に比べれば大きな罪ではあるまい。日本では自殺をはっきりと禁じる宗教はない。キリスト教徒は少数派に過ぎない。現在、いわゆる「公人」としての地位や権力を握ったものは、その過ちの責任をとるために切腹の美風を再び復活させるべきではないかと思う。

あの「みそぎ選挙」の汚らしさを見よ。そもそもみそぎという古来からの言葉を汚している。自分は再選されたから罪はきれいになったと主張するならば、それ以前にまず自分の腹を切り、自らの犯罪行為を帳消しにすることの方が重要ではないか。

現在の法律制度では、公人の犯した犯罪に関して死罪が適用されることはまずない。(他の国で反逆罪というものは存在するが)だが、それに等しい犯罪を犯したものは少なくない。彼らはどんな手段を使ってもそれから逃れようとする。例えば池田総理大臣の部下が「造船疑獄」において検察庁の調べを受けたときに彼らがとった手段は「指揮権」発動だった。

総理大臣の指揮権は検察庁の調べさえストップすることができる力を持っている。こんなばかげた制度がありこれを実際に発動すること自体日本は民主主義国家であることをやめてしまっているのだが、このような場合当事者に自害を強く迫ることは、国家の清潔さを保つ上で大変重要なことであろう。

お隣の中国では役人の腐敗が跡を絶たない。このため死罪さえ適用して躍起になって取り締まろうとしている。腐敗の蔓延は国家存亡の危機である。日本にはこの切腹の美風があり、江戸時代にはこれによってある程度の清潔さが保たれた。これを現代に生かす知恵はないものか。

2004年11月初稿

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