暴論

かつてスペインの僧侶ブルーノは、当時の教会に対して「暴論」をはいたために、火あぶりの刑になった。いつの世でも異端は迫害される。だがその中で少なからず先見の明があった例には事欠かないのだ。

規制緩和から規制強化へ

Giordano Bruno

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20世紀前半の人々は21世紀が、自分たちの時代よりもいっそう金儲けに奔走する時代になるなどと想像しただろうか。少なくとも労働運動に従事していたり、社会福祉の整備に努めていた人々は、まさかこんな時代になるとは思いもしなかったことだろう。

特に社会主義者や共産主義者でなくとも、来世紀になればすさまじい搾取が終わりを告げ、もっと平穏でバランスのとれた、いわば北欧型の社会になると期待していたに違いない。それが今になって大きくはずれてしまった。逆の方向へ人類は向いてしまったのだ。

それは1970年代ぐらいから各国政府にとって重荷になっていた行政サービスの負担をどうやって解決しようかというアイディアにさかのぼる。ますます過大になる予算は、もはや限界に達しつつあった。イギリスが特によい例で、サッチャーという首相があらわれたのち、どんどん行政の仕事を民間に任せはじめた。

同じころアメリカではレーガン大統領が、民間の活力を活かし、互いの競争によって効率化を目指そうと大幅な規制緩和を行った。交通機関や通信会社の上にかけられていた規制の網はどんどん取り去られ、人々は自由に自分の望む業界に参入して大いに産業活動が盛り上がった。

その結果、英米ではそれまでの経済の停滞が解消し、流通と輸送の発達に伴ってその勢力を世界中に広めようという野望が芽生えた。これがグローバリズムであり、新自由主義と呼ばれる市場原理主義である。その発端はフリードマン教授の「選択の自由」という本なのだと言われている。サッチャーもレーガンもこの本にかぶれたのだ。

この原理主義という呼び名がおもしろい。もともとイスラム原理主義、キリスト教原理主義というように、極端で保守的な行動指針を特徴とする宗教団体に使われていたからだ。市場原理主義の場合でも、アダム・スミスの「見えざる手」の考えに立ち戻り、かつてのジャングルの競争社会を復活させようというのだから、実はきわめて保守的な考え方であることがわかる。

だが、何事も極端に進むと、狂信的な人々の例に漏れず、社会に甚大な被害を与えることになる。政治家や経済学者の掲げる政策は、大衆の中に浸透するにつれて金儲けがすべてに優先する態度に溶け込んできた。

かつての北欧型福祉制度では、社会の格差で生じた問題を国の力でできるだけ解消し、人々が安心して働けるようにセーフティネットを整備することであった。これはかつてのソ連型の国家統制とは違い、ある程度の自由な経済活動を許した上で「不運」な人々の救済を目的にしたものであった。

問題は金がかかりすぎることである。国家がこのような事業を担当するにあたっては、税金を財源とするしかない。だが、税率の決定権も国の側にあるために、税金の額は止めどもなく上がってゆく。一方、これを使う公務員も、使える金には上限がないかのように錯覚して湯水のごとく無駄な使い方をするようになる。

かくして慢性的で年々ひどくなる悪循環を抱えた「福祉国家」が誕生した。市場原理主義は、この問題を解決すべく生まれたのである。民間に移行した仕事は、はじめのうちはきわめて効率的に遂行された。国や自治体が委託した場合でもそれは自分たちがやった場合よりも大幅なコストの削減が行われたのである。

だが、その蜜月時代は長く続かなかった。民間企業は営利が最終目標である。金儲けが至上命令であるから、行政サービスの色合いが濃ければ濃いほど、多くの矛盾が生じてくる。英米を先頭に世界各国がまねをし始めたときに、一斉に困った問題が拡大しはじめた。

なるほど道路工事は役所でやるより建設会社に任せた方がいいだろう。だが、世界の都市の中には水道事業まで民営化を進めたところが出てきた。民間企業には価格の設定権がある。倒産も「自由」である。自分たちの水道を民間会社に任せた都市の住民は、特に水道料金の払えない貧困層は、水道料金の値上げによって毎日の生活にも支障を来すようになった。そしてある日その会社は倒産した!

民間会社はちょっとしたミスで簡単に倒産したり、縮小したりするのである。ソニーや松下がつぶれても、他にも家電企業はいっぱいあるから、社会の中での不便は大したことはないが、水道がある日突然出なくなるということはその地域の住民には死活問題である。

アメリカでは通信事業や電気事業が規制緩和されてたくさんの会社が分割競争をすることになったが、東海岸から西海岸へ電話をかけるとき、たくさんの会社の通信線を経なければいけない。そのうちのある会社がつぶれでもすれば、ほかの回線を経由せねばならず、きわめて不経済である。

電話などは品質で勝負できる部分は限られているから、彼らは絶えず安売り競争をやっている。だから経営基盤はきわめて不安定で、今日はよくても明日のサービスは心許ないのだ。航空会社はもっとすさまじい。航空券の安売り競争でパン・アメリカンという老舗がつぶれ、世界中から一斉にその姿を消した。他の航空会社への売却による機体のペンキ塗り替えだけでもすさまじいコストの無駄である。

日本でも国鉄が分割されて地域別の会社になったが、それぞれのサービスのシステムが違う。東京で使っている自動改札のシステムが大阪と違うから兌換性がない。いずれは両方で使えるようにはなるが、そのための調整コストが大変な無駄になる。北海道や九州ではほとんどが赤字路線だ。どうやって競争するのか?それともみんな廃線にしてしまうのか?

技術の革新によって、特に製造業における自由競争は、「安い」ことが自分たちの販売をあげる唯一の手段になってしまっている。だが、大衆食堂での「低価格料理」というものが、水で薄めたり小麦粉で増量したり、質の悪い材料を使うことだと誰でも知っているように、昔からの有名なことわざ「安物買いの銭失い」がいっそう身にしみて感じられるのである。

東京で買うイチゴでも近くの県で生産されたものよりも、九州からはるばるトラック便で運ばれてきたものの方が安く美味しいともてはやされたときがあった。今では消費者も少しは賢くなっているからそれほどでもないが、長距離輸送の無駄というものは、これから燃料となる石油資源が心細くなるにつれていっそう表に出て来るであろう。

市場原理主義は、新しいものではないだけに、それが前面に押し出されると、かつてから持っていた欠点もいっそう強まって現れているのである。結局、昔からよく引き合いに出される「効率化」にしても、それはその会社内部についてだけであって社会全体から見た効率は大して高くない、いやむしろひどい浪費だって起こっている。

安くて素晴らしい性能の自動車を見るがいい。おかげで社会は道路建設や交通事故対策に追われている。これらの金を自動車会社が一部でも負担した話は聞いたことがない。そんなことをしたら自動車会社は一夜でつぶれる。費用は利用者が税金の形で払わされている。つまり彼らはおいしい部分だけを持ち逃げしているのだ。

雇用についても例外ではない。チャップリンの映画でもわかるように、1930年代における労働運動の抑圧は実にひどいものだった。現代では警官に殴られるというようなあからさまな問題はないが、組合の組織率は下がり、労働組合幹部は経営陣に取り込まれてしまって、巧妙な労働者管理が行われるようになった。正規雇用でなく、臨時雇いの形態への移行に至っては、あまりにも企業側の都合が優先されている。

所詮、人件費は、会社にとって目の上のタンコブであり、これを極限にまで押さえ込みたいという願いがある。一方では優秀な人材を確保もしたい。これは労働者の格差をますます激しく広げる。優秀な人は厚遇され、単純労働に従事する人はますます歯車化して、会社の景気しだいで自由に増減される、単なる部品と化している。人間もまた、ますます「カンバン方式」に取り入れられているのだ。

これが社会における格差の増大につながった。20世紀の初頭まで見られた、社会の格差を少なくして共存共栄をしようという理想はもはや死に絶えた。一方で「自己責任」という言葉がまことしやかに語られるが、街頭で餓死する浮浪者を見殺しにするのと同じ意味であるという、この表現の本質をきちんととらえている人々は少ない。

金儲けの優先は脱法、違法行為にまで及ぶ。本来、市場原理主義というのは、誰もが資本主義のルールをきちんと守る理想社会を想定した上のシステム実現を目指す。だが、行政サービスが第1の時代には役人の腐敗が絶えなかったように、規制緩和の時代には、規制が少ないことをいいことに、ありとあらゆる汚い方法で金儲けを目指す連中が出現している。

もちろんすでに存在する法律に違反する者たちは論外であるが(インサイダー取引、嘘の財政報告など)、規制そのものが緩くなっているためにあちこちで法の抜け穴を考え出す者たちが絶えない。法律は一夜にして変更することができないのをいいことに、罰則のない「脱法」行為が次々と生まれるのである。だから「起業家」とか「ビジネス・チャンス」というのはさまざまな意味を持つ言葉であるのだ!

こうやってみると、市場原理主義の最大の欠点は、「人間性善説」に立っていることにある。現実の人間は生まれながらにして利益を追求して、それを手に入れるためには手段を選ばないのだ。そのためには、嘘も人殺しも平気で行う。

経済システムが人間の本性をきちんと理解していないと、極端にまで暴走することが21世紀初頭のわずかな期間によって実証された。経済システムは政治システムと同様、「人間への不信」によって設定されなければいけない。アメリカの憲法草案を作った人々はそのことをきちんと理解していたと言われる。

人間の暴走を止めるには法による規制しかない。しかし過去の規制を繰り返せば、再び同じ害悪が生まれるだけである。過去の規制がかえって悪い結果を生じた場合が多いのは、単なるブレーキの働きしか持たず、しかもそれが一方的に適用されてきたからだ。

もし規制を考えるならば、ある行為を止めた上で、ほかの行為を触発するようでなければいけないのだ。そうでないと、人間の本性はどこかで爆発を起こす。現代では、企業の際限ない利潤追求が問題となっている。これを止めるには利益を得にくくするだけでは何の効果もない。

そのうちに寡占化が進み、一社の利益だけに集中するか、安売り競争の果て、各社が体力を消耗して共倒れになるか、大規模な不景気が襲ってきていずれの企業も生存がきわめて難しくなるか?おそらく資源の枯渇で経済そのものが成り立たなくなるだろう。これは最も確実なシナリオだろう。

このように利益追求企業の将来は暗澹としている。利益を得るためには生産活動を拡大せねばならず、そのためには営業活動を拡大するが、その結果多量の資源を食い尽くすことが前提となっている。だが、石油生産がピークに近づきつつある今、そんな考えそのものがもう行き詰まっているのだ。会社幹部は夜逃げをし、ツケを食らうのは一般国民だ。

こうやってみると行政サービスのコストを削減するねらいから始まった新自由主義は、実はコストは少しも減らず、ただ「後払い」になるだけだということがわかる。70億近くの人間を抱え、ブリックスの国々を筆頭とする資源の浪費競争はまだ始まったばかりだが、市場至上主義はもうすでに破綻している。

すなわち、今後の世界では、金儲けによる活動ではもはや人類の経済そのものを維持することは不可能だということが予測されるのだ。もし新たな展開を目指すならば、別種のシステムを考えなければならない。たとえばNPO である。これがもしかしたら、政府と民間企業の間のギャップを埋める有効な橋渡しになるかもしれない。

ただし「非営利」というものが、それぞれの国の社会にどれだけ受け入れられるかは未知数である。西ヨーロッパのように、このタイプの団体の歴史が長い場合は別として、貧困が支配し、市場経済すら確立されていない社会では、その考え方そのものがまだまだ新しい。

さらに”先進”諸国では、消費社会がすっかり確立してしまっている。一般の人々は自分が得ている「生活給」だけでは満足せず、毎日テレビで垂れ流しされる「欲望刺激情報」によって、際限なくモノを買う傾向もこの金儲け社会を押し進めているのである。

ここで、人間に対する不信だけでなく、操作されやすさ、洗脳や暗示にすぐに影響されてしまうという人間の心理面での脆弱さについての理解も経済システムを把握する上に欠かすことができないのだ。

現在では広告の内容についてはまるで野放しである国々が多い。日本でもたとえばサプリメントの広告を見ると、まるでそれが効果があるかのようにまことしやかに作られており、人々は簡単に情報操作されていることがわかる。大部分の人々は基礎的科学知識すら身につけていないし、広告に対しての確認とか懐疑的な態度があまりに不足している。「人を見たら泥棒と思え」を「広告主を見たら泥棒と思え」に置き換えるだけでいいのだが。

テレビのコマーシャルなどで、サラリーマン金融はぬけぬけと「計画的に利用しましょう」などというメッセージを送るが、これは欲望のままに借りまくる人が多く、それによって多くの焦げ付きを出していることをあからさまに表している。「ワナにかかりたい人ありてワナにかける人あり」なのである。

情報操作に免疫を持つ人々を今すぐ作ることが不可能な以上、商業的意図を持った情報には大いに規制が加えられるべきである。少なくとも虚偽すれすれの内容となるものは、厳重に取り締まるべきである。冷蔵庫の電力消費量、自動車の燃費などは、情報を作る側の専門的知識でいくらで消費者をだますことができるのだが、現在の法律ではそれを取り締まることは不可能なのである。

人間社会の流れは常にスイングしている。つまり極端から極端へのふれである。市場至上主義は、2006年の時点において、そろそろピークを迎えている。南アメリカでは合衆国のあまりに露骨な自由貿易攻勢によってそれまでもひどかった貧富の差がますます広がり、反米的な左翼政権が次々と誕生している。

むしろこれまでの反応が弱すぎたといってもよい。WTOに対する抗議運動が高まったのも、まだ最近のことだ。だが、ふれ戻しは確実に始まっている。経済のあらゆる面での規制強化がこれからは必要になる。

しかも今回は世界の資源、環境問題も関わっているので、人類にとっては正念場であり背水の陣をしかなければならない。もしこれで失敗すると、無秩序な経済成長によって地球環境は取り返しのつかない損傷を受け、22世紀になる前に資源は枯渇して、人類は19世紀末から続いたこの短い繁栄をまもなくあきらめなければならなくなるだろうから。

2006年2月初稿

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