暴論

かつてスペインの僧侶ブルーノは、当時の教会に対して「暴論」をはいたために、火あぶりの刑になった。いつの世でも異端は迫害される。だがその中で少なからず先見の明があった例には事欠かないのだ。

ルイ・ビトンを買う人は購入者試験を

Giordano Bruno

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ブランド商品というのは素晴らしい。ルイ・ビトンに代表されるように、それらの品物を詳細に調べてみると、製造の歴史の長さ、誇り高き職人たち、ブランドの名に恥じないていねいなモノづくりなど、浪費と安売り競争のアメリカ式経済の中にあって、独自の地位を保っている。

ブランドと位置づけられた製品がちょっとでも値段や、それまでの評価に見合わないような製品を出したりすれば、たちまちのうちにブランドの地位から転落する。その点では消費者は容赦がないものだ。

とくに、カバンや、装身具の場合は、耐久性はいうまでもなく、そのデザインのすぐれていること、上品さが身上である。これらの品物は、上品な人がいっそう上品さを増すようにと注文を作り始めたものだった。つまりはじめは特注品だったわけである。

一流の職人が集められ、これ以上のものはないと言われるほどに洗練に洗練を重ねた。当然の事ながらそれを身につける人は「同程度」に洗練されていることが要求される。身なりとは、バランスである。最も大切なことは統一がとれていること。したがってボロなら頭のてっぺんからつま先までボロでできているならそれなりの統一されたイメージができあがる。

だが、ブランド品の場合は作られた当時の品格というものがあらかじめ決まっていて、これと身につける本人を合わせることは至難の業だ。誰が見ても下品だという人が最高級のブランド品を身につければこれはまさに「マンガ」である。それを強行することは冷笑と軽蔑を招くことになり、ひいてはそのブランド品の地位低下さえ招きかねない。

特に困るのは、自分の財産の額と上品さは自動的に比例するものだと思いこんでいる人が多いことである。いわゆる成金であるが、残念ながらこれが世界中の経済発展が著しい国で特に目立つようになってきた。

おそらくブランド品製造の一流職人たちは、自分が心を込めて作った製品が下品な人間たちが身につけていることは十分承知の上だろう。だから時々仕事をするのがいやになるときもあろう。だが一方でそのような人々が買ってくれるおかげで自分たちの生活が潤っていることも事実だ。誇り高き職人ほどそのところにジレンマがあるかもしれない。

もしここで成金たちにおもねってしまえば、そのブランド品の命も終わりともなりかねないからだ。金がすべての世界経済の中で、ブランド品はとても微妙な位置に立たされている。

しかももっと難しい問題は、そもそも今まで使ってきた「上品」「下品」とは何かということだ。こんな言葉にそもそも意味がないといってしまうなかれ。大昔からこの言葉は世界中の言語に含まれており、依然として人々が愛用しているところを見ると、決していい加減な言葉ではなく、厳然と現実世界に存在しているのだ。

では、上品と下品の境界線はどこか?これは誰にも決定できない。なぜなら人間の数だけその場所は違っているし、上品がポジティブで下品がネガティブな意味を持っている以上、誰も自分が下品だと思いたくない。

そういう曖昧な状態だから、かつての貴族社会のように、厳格な掟や不文律がない限り、ブランド品は下品な人間が自由に買い求めることができるのである。ブランド品がよく売れる現象は、現代市場至上主義の影の面を実に明確に表している。

初稿2006年2月

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