暴論

かつてスペインの僧侶ブルーノは、当時の教会に対して「暴論」をはいたために、火あぶりの刑になった。いつの世でも異端は迫害される。だがその中で少なからず先見の明があった例には事欠かないのだ。

老人医療よりも幼年医療を

Giordano Bruno

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今、日本では高齢化社会を迎えて、老人に対しては、手厚い医療制度がしかれている。それを国内だけに限って不十分だと主張する人はいるけれども、開発途上国の実態と比較すればはるかにましであることは確かだ。だが、空前の借金を抱えて国家は破産寸前(実はすでに破産しているのだがしていないフリをしているのだという人もいる)であり、一刻の猶予もできない。

老人の数が増えるにつれ、医療費はどんどん増大し、それに対して医者の数や病院の数が追いつかなくなった。どこの自治体でも医療費の支出をおさえている。このように限られた予算内で、健康維持のための体制を維持するには、すべての人々を平等に扱うことは無理な相談である。それどころかどこも実質的には体制そのものが崩壊しているのに、多重債務者のように無制限に未来へ向かって借金をしているのが現実なのだ。

この状態から脱出するためには抜本的な変革が必要である。そしてそこには過酷な”選択”が必要である。今ここに5歳の子供と75歳の老人が瀕死の状態で担ぎこまれたとする。医者は一人しかいない。どちらを先に診るべきか?それは当然のことだろう。未来につながる人間と、すでに役目を終えた人間とでは、その優先順位は当然のことながら決まっているはずだ。

最近、救急車に乗せられた妊婦が搬送先が見つけられずに途中で死亡したという悲惨なニュースがあった。これはどこの病院でも老人の患者が大多数を占め、収容に限界がきており、このために彼女が犠牲になったのだ。これはどう解決したらいいのか?

もちろん国家からの医療費を大幅に増やしてこの事態を改善するのが理想であろう。だがこれはもう無理な事態だ。日本国には800兆円の借金がある。こんな”先進国”は地球上どこにもない。ほかの部門から予算を回すとしても、もはや国家財政にはすべての患者を診る余裕などない。どこかを削るしかないのだ。

そのためには優先順位を設ける必要がある。「後期高齢者」という名前が突然有名になったが、いずれ死ぬことがわかっている人々には徹底的な治療をするのはおかしいという考え方がその根底にはある。しかもますます激化する「格差社会」のおかげで長生きしたい老人はそれまでに溜め込んだ金を湯水のように利用して延命を図り、一方では貧しい老人は病状が悪化するまで病院に行くことさえ我慢している。

今必要なのは未来社会に備えることであって、もうじき死に行く人に過剰な回復治療を施すことではない。すでに少子化になっているのに、未来を担うはずのその肝心の母子に十分な治療が十分に与えられず、また働き盛りの人々が長時間労働による過労で倒れている現状を見ると、物事の成り行きが完全に逆立ちしているのではないか。

一方高齢者は、この戦後日本を行きぬきよく働いてくれたから、どうぞゆっくり快適な生活を送ってくださいというような考え方が多数を占めている。しかしよく働いてくれたのは今の高齢者の世代だけではない。どの世代もそうだった。たまたま医療技術が発達し、栄養状態がよくなったから現在の高齢者が長生きできているのに過ぎないのだ。

しかも高齢者の増加は、皮肉なことにどこの政党でもその成員の高齢化を招き、高齢者が一大政治勢力となってしまった。彼らは、幼い人間の福祉や健康よりも自分たちの安泰を(当然のことながら)要求する。その結果いびつな医療の実態が生じてしまったのだ。一方未成年者には選挙権がない。彼らは一方的に政治の世界から排除されている。子供たちは親権者の保護に頼るしか方法がなく、自分たちで権利の主張ができない。

どこかの老人が数多く集まる旅館に行ってみるがいい。夕食がすんで食堂から宿泊客たちが引き上げると、テーブルの上には山のような薬の包装が転がっている。つまりほとんどの老人たちが大量の薬を服用しているのだ。彼らにしてみればそれらがなければ健康を維持できない。そしてそれには莫大な税金が使われている。だが、そのために若年者の医療がおろそかになっている。(最近聞いた話だが、高脂血症などの治療薬は下水に廃棄しても分解せず、自然界に垂れ流しされているのだという。)

国民皆保険というならば、どの世代についてもきちんとしたケアが行われるべきであって、日本のように少子化が進み、将来の日本人の健やかな成長が何よりも必要とされているときは、当然そちらにしかるべき注意と資金が向けられるべきなのだ。それなのにそれが公正に行われていない。

これは人類の未来や存続に対して由々しき問題である。二酸化炭素の排出が将来に響くというのなら、これから育つ世代の健康維持も同様に重大な問題ではないだろうか。目先の老人たちの健康を維持することにエネルギーが注がれるあまり、ほかのことが明らかになおざりにされている。

たとえ血も涙もないといわれても、これからは勇気を持って老人切捨て策を断行しなければなるまい。「年寄りは死ねというのか?」という声があるが、「そのとおりだ」といいたい。「男はつらいよ」の映画の中で、まもなく死を迎える女性が、寅さんに「どうして人は死ぬの?」とたずねると、「ほら、小さな島に人がいっぱい増えて、もう立つ隙間もなくなると、海辺のところにいる人が、アッアッと海に落ちてしまうだろう。それと同じではないかな」という場面がある。

自然の流れはいつもそうだった。生物は常に「交替」が円滑に行われなければならない。現代の医学の誤った運用はそれをめちゃくちゃにしてしまった。すぐれた技術は深い議論もなされないまま、すぐに現場に当てはめられた医療によって「(とりあえず)生き延びさせられている人々」を生み出した。子供はつぎつぎと生まれているのに、老人が生命維持装置のおかげで一向に退場しないという、およそ自然界では考えられない異常事態が生じてしまったのだ。

最近、ある研究者が、「アンチ・エイジング」だと称して細胞が年をとらないようにするにはどうしたらいいかという自分の研究を自慢げに話していた。彼は自分の研究結果が社会にどういう影響を及ぼすか考えたことがあるのだろうか。原爆の研究者と同じく、その行使については自分ではなんら思索を行わず、政治家に”全面的に”おまかせしますというのだろうか?

すでにヨーロッパのかなりの国では「安楽死」が合法化されているのに、日本人は論議そのものを避けるから、この問題は一向に解決する兆しがない。医者は心の中では無駄だと思いつつ、瀕死の老人はビニールパイプと電線を張り巡らした「生命維持装置」にかけられる。そのスイッチを切る勇気こそ今必要なのだ。

人間社会では”自然淘汰”が完全に押さえ込まれてしまっている。人はほかの動物と同じく、「自然に死ぬ」ことが大切である。殺すのではなく、死なせる医療が必要だ。表向きだけの人道主義では事態をますます手のつけられない方向にもっていくだけだ。

人生というのはストレートなものであるべきで、水割りワインのようなものであるべきではない。高杉晋作や坂本竜馬を見よ。彼らの人生はあまりに短く、そしてあまりに中身が濃い。「ガリバー旅行記」に、”不死の国めぐり”の話がある。そこでは死ぬことのできない人間たちが暮らす悲惨な状況が描写されている。

このような問題を考えるときにはぜひ一読しておきたい部分だ。ついでにこの物語では、”馬の国”の話もある。そこでは馬が主人で、人間はヤフー(どこかで聞いたことのある名前だろう?)とよばれ、奴隷状態だが、同時に意識が非常に低いのだ。

老人というのはラッシュアワーの電車で、みんなが列車に乗り込もうとしているのに、ドアのところにがんばっていて下りようとしない乗客に似ている。電車は大幅に遅れ、そのような乗客が大勢いたら、もはや運行不能になってしまう。今の政治はそこのところが見通せないのだろうか?

今の老人たち、たとえば2008年度において85歳ぐらいの人間はほぼ特攻隊世代にあたる。彼らは18歳になる前に海や空に消えた。一方では薬を飲みながら、最新の治療を受けながら、老人たちは悠々と暮らしている。なんと人生は不公平であろうか!

老人は長生きする過程で、次々と友人や家族と死別する。ある種の人間はそういう時自分だけが”助かった!”と思うらしい。それは”もっと長生きしてやる”という、人間のさまざまな欲の中でも究極のものに到達する。そうなると恥も外聞もなく、「生きたい、生きたい」と思うようになるのだ。

今しなければいけないのはたとえば75歳以降の医療行為を極力カットすることだ。ただし、裕福な老人が金を出して自分だけ助かろうとする行為は厳しく監視しなければならない。全世代に共通することではあるが、、貧しい老人との格差は目を覆いたくなるほどひどい。カットによりこの年齢層の老人の数は、以前のような自然な割合に低下する。

町には若者があふれ、老人はたまにしか見かけなくなり、非常に風通しがよくなる。人口構成グラフは健全なピラミッド型を示すようになる。医療費の支出が大幅にカットされ、その分だけ幼児や子供の医療に十分なケアを行き届かせることができるようになる。ストックされていた遺産が”開放”され、世の中に出回って経済を活性化させる。

開発途上国にいくと、平均寿命が50歳代である。辺りを見回しても老人の姿は非常に少ない。一方乳児死亡率が大きく低下したので、子供たちの姿が非常に多い。その光景に慣れてから成田空港に帰り着くと、なんという違った風景であろうか。辺りは杖をつき腰が曲がった老人ばかり、こちらのとおりもあちらの横丁もみな引きずるように歩く老人に占領されている。

もちろん75歳以降でも医療を必要としない老人たちもいるし、その人たちは、かつてそうだったように本当の意味で「敬老」に値するのである。どうだろうか?政治の場面ではこの意見は誰も受け入れないだろう。なぜなら「敬老」は日本では一種のイディオロギーのようになっており、”政治的に公正( politically correct )”であるから、それに反対する人間は白い目で見られるのである。

現在、この国では、じぶんの延命のことだけ気になって、高齢化社会がいったいどんな未来をもたらすかをきちんと考えている人々がほとんど皆無なのである。高齢者が大きな政治勢力になっているのなら、ひとつここで出産年齢を迎えた若い女性たちが動き出すべきなのだ。自分たちの生み出す未来世代のために。また将来における親や義理の親たちへの介護が少しでも減るように。

2008年6月初稿

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