暴論

かつてスペインの僧侶ブルーノは、当時の教会に対して「暴論」をはいたために、火あぶりの刑になった。いつの世でも異端は迫害される。だがその中で少なからず先見の明があった例には事欠かないのだ。

所有権の制限を

Giordano Bruno

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所有権を制限すべきときがきた

1789年のフランス人権宣言で、はっきりと明記された権利のなかに”所有権”も記されている。これが改めて宣言されるにいたった理由は、それまでの特権階級がほしいままに自分たちの財産を繰り、一方では力のない人々は収奪をされ続けたからである。

財産の保全ということは、それまでのほとんど無法といってよい状態からの大きな進歩であった。これによってはじめて欧米諸国では所有権の概念が一般に広く知れ渡り、他人の財産を正当な理由なくして獲得することができなくなったのだ。

これは所有権の概念が一般の間に理解される国々においては、社会生活や経済活動を続ける上で、なくてはならないものになったことはいうまでもない。またこれによって、現代に至る大きな経済成長や国民生活の安定に寄与してきた。

だが、各国の経済規模がどんどん拡大し、グローバル化が進展すると、所有権は一部の富裕層によって悪用されることがおこってきたのだ。おそらくこれは最初に所有権の概念を唱えた人々にとっては想定外の事態だとも言えよう。素朴な時代には、法の定めによって人々が秩序正しく経済活動をする限り、所有権の利点は最大限に発揮されると信じられていたからだ。

まず問題は所有権の概念がいきわたっていないか、それどころかまったく認識されていない地域へ、強大国が進出したことによって明らかになった。辺境地の住民は、日本でも”入会権”などと呼ばれるようになった、共同管理の制度が大昔から自然に出来上がっている。ところが”文明”国からやってきた開拓民たちは、自分たちの権利をかさにそれを現地でも押し付けようとした。あるいはガラクタ同様のおもちゃでもって広大な土地と引き換えたように見せかけて収奪を行った。

アメリカ大陸におけるインディアンからの収奪の悲惨な歴史はこれを語って余りある。相手の所有権についての無知につけこんで、巧みな戦略をうち、弁護士や役人や政治家たちを動員して、いつのまにか土地を手に入れていたのだ。現代の数多くの大地主の農場や牧場はそのようにして作られてきた。これに対して裁判所は打つ手はない。すべて”時効”ということで片付けられる。

不動産だけではない。所有権の中でも「著作権」は、すぐれた作品を次々と生み出しながら、それが勝手にマネされて作者が生活の糧を失うことがないようにと作り出された。フランス革命以前のヨーロッパにはパトロン以外に生活保障はなかったのだ。あれほどの大作を次々と生み出したモーツァルトも最後には貧困のうちに死んだ。

だがこの著作権も現代ではその本来の精神を失ってしまったのだ。その代わり、巨大企業の収入源や、スーパースターのための蓄財手段と成り果ててしまった。著作権の期間が、作者の死後何年になるのかを見ると、次第にそれが延長されてきているのがわかる。それは本来作者の遺族の生活手段を保障するものであったのだが、現代では単なる”金のなる木”としての存在なのだ。

著作権によって利益を得る者たちは、立法府でのロビー活動を活発にして次々と自分たちに都合のよい法律を成立させていく。気がついたときにはかつては公(オオヤケ)のものだと当然に考えられていたものでさえ、特権の網が張られている。特許権や商標権がそのいい例だ。

日本でも改正著作権法によって、映画などでは公開後、60年などと決まった。とんでもないことで、いったいそれまでいきている作者がどこにいるというのか?その子供、そしてその孫にまで著作権を認めるというのか?チャップリンの作品などは管理会社が保有している。いったいどこへその利益は行くのだろう?実に許せない状況が横行している。不動産を所有するのと、著作権を所有するのを同等のものとみなし、まったくの金儲けの種にしている態度は、まさに文化破壊というしかない。

生化学分野でも金儲けの種は尽きない。種苗会社はどこかで発見した種を直ちに特許として申請し、他の者が使えないようにする。製薬会社は他国のジャングルに見つけた特効薬成分をいち早く登録して、現地の人々さえ採取できないようにしてしまう。人間の欲望が現在、もっとも生々しい形で発揮されている中国では、日本の地名でさえが次々と登録されている有様だ。

このように人々を保護する目的で考えられた所有権は、現代社会ではいつのまにか金儲けの手段となり、格差拡大のもっとも大きな原因となっている。この状態がますます激化することにより、人々の怒りは次第に高まり、新しい社会制度の誕生を望む声が出てくるのは当然であろう。

すでに壁をぶち破ろうという動きは DVD や CD における”海賊版”の横行に現れている。海賊版は本当に海賊行為なのか?持てる権利をたてに不当な利益をあげている企業は海賊ではないのか?去年作られたばかりの新作映画に著作権を保証するのは必要かもしれない。しかし20年以上たっている作品にも権利を主張し、それにしがみついて、利用料を請求するのは強欲以外の何者でもないのではないだろうか?

すぐれた作品は”公共の利益”に沿うものだ。できるだけそれは早い時期に公共に戻すべきだ。すぐれた薬品もすぐれた品種もそうだ。それらをひとりじめして私利をむさぼる状況を放置すべきではない。不動産も同様だ。

なぜ単一の個人や企業が途方もなく広大な農地を独り占めできるのか?すでに「協同組合」というすぐれた方式が考え出されている。これに転換すべきだ。観光地では、あらゆる人々が感嘆する素晴らしい海岸や山岳地帯の風景が、一握りの金持ちによって買い占められていて、そこは私有地であり、一般の人々はそこに立ち入ることができない。これに対しては公有地、国有地、ナショナル・トラスト( national trust )といった方法が考えられている。

人々の私有できる部分と、公共に戻すべき部分の新たな”線引き”が必要だ。自分の利益に固執しすぎると、結局は思わぬ反動を招くことになろう。映画や音楽の場合は、コピー技術の急速な発展により、著作権の維持がますます難しくなってきている。取締りをするよりもコピーする人間の増加のほうが早い。

もてるものと持たざるものとの格差が広がれば、最後には悲劇的な事件が必ず起こることは過去の歴史が示してくれている。しかしこれまでの闘争は、資本家と労働者との間であり、共産主義や社会主義が思想や戦略の中心を作ってきた。だが現代ではそれが想像をはるかに超えて拡大し、特権者と無権者との間の対立の様相を帯びている。これがますます問題の解決を難しくし、両者の断絶をいっそう激しいものにしているのだ。

2009年8月初稿

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