暴論

かつてスペインの僧侶ブルーノは、当時の教会に対して「暴論」をはいたために、火あぶりの刑になった。いつの世でも異端は迫害される。だがその中で少なからず先見の明があった例には事欠かないのだ。

自動車の所有を禁止せよ

Giordano Bruno

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自動車の所有が地球温暖化の大きな原因になっていることは周知の通りだ。そして各国は二酸化炭素排出や資源の利用について共同の削減案を作ろうとしているが、なかなかまとまらない。

それもそのはず、先進国がこれまで湯水のようにエネルギーと資源を使っておいて、ついに現在のような温暖化を引き起こしたのに、開発途上国はそのような”浪費”が許されないとあれば、こんな不公平なことはない。

誰もが削減案に賛成しなければ、決裂したまま各国とも勝手に経済成長を推し進め、21世紀の半ばには手のつけられない環境崩壊が起きていることになる。誰もが手をこまねいて待っているだけで破滅への道を一直線となる。

特に人口がすさまじく多い中国とインドが、今のアメリカとは言わないまでも、日本の自動車所有率、つまり1世帯に約一台にまで自動車の数を増やしたら、地球がその環境復元力を大幅に超えてしまうことは中学生の計算でもわかることだ。

方法は一つしかない。”世界基準”を作ることである。アメリカも中国も守らなければならない、世界中で通用する”浪費限度”である。科学者たちに計算をお願いして、この地球には何台までの車の存在が許されるか、大体の結論を出してもらう。

一つは燃料にまつわる消費限度、さらには車体を組み立てるのに使われる鋼材などの量、耐用年数、などを考えに入れていったい世界中にはどの程度まで車を増やせるのかを調べてもらう。もちろん現在の車の台数はその”基準”を超えている。そうでなければすさまじい台風や、猛暑などが起こるわけがない。

また、ほかのエネルギーや資源の消費、たとえば発電とか、鉄鋼生産とか、大規模農業のもたらす地球へ対する環境破壊の程度も考えに入れなければならない。こうして自動車の台数が決定され、人口に応じて各国に可能な台数が平等に割り振られることになる。

このような見地からすれば、地球市民の誰一人として自動車の所有を許されないことは明白である。仮に特定の誰かに認めるとすれば、その台数の増加に歯止めを打つことはきわめて困難である。結局のところ、車の台数は国家管理、あるいは国際機関の管理にゆだねられなければならないのだ。

この方法によってのみ、世界中での車の台数の不公平は解消される。もはやアメリカの大富豪が、何億円もする豪華な車を所有することはできないし、貧乏人はたとえ軽自動車といえども、勝手にその台数を増やすことはできない。

これを実行に移すには、効果的な政策を伴わなければならないだろう。基本的に、社会における自動車は、バス、タクシー、宅配便の車の3種に限定されなければならない。これ以外の車については、ちょうど日本の拳銃の所有の場合と同じように、厳重な登録制を強いて所有を厳しく制限する。

従来のような長距離運送のトラック便も許可しない。特に、日本の場合にはすぐれた鉄道網がすでにあり、500キロ以上というようなまとまった距離の場合には、すべて貨物列車による輸送とする。これによって長距離高速道路の運転も同時に禁止する。トラック便はすべていくつかの競合しあう宅配便会社のコントロールの下に置かれる。

商用トラックが行きは荷物を満載して帰りは空荷で運転するということは、以前から浪費の問題になっていた。このような無駄を防ぐには、綿密な計画に基づく中央コントロールセンターが必要である。中小の運送会社がわずかな料金の切り下げを競って荷物を取り合うから、無駄が生じる。

全体の流れをきちんと管理すれば、どのトラックも行き帰り共、荷物を満載して運行することができるのだ。この点宅配便の会社は全国津々浦々までネットワークが出来上がっており、効率的な運送のノウハウもしっかりたまっている。鉄道によるコンテナ輸送もかなり進んでいる。

こうなれば、宅配便は個人の荷物の配達にとどまらず、すでにもう行われていることだが、畑の作物が収穫されたら、その畑まで宅配便を直接乗りつけてもらって、直ちに積み込み、目的地へと運ぶ。大工場も自前の運送システムをやめて、すべて宅配便会社にゆだねる。

”自由競争”が、意外に無駄を呼ぶことは昔から言われてきた。パイは小さいのに、そこへ無数の業者が群がって、取り合いを生じるのである。個々の業者は自分が勝ち組になると信じて疑わないが、客観的には必ず負け組が生じることになる。それによって無駄な製品の生産、空き店舗、労働力の不必要な流動化が起こる。

運送業界ではそんなことがあってはならない。道路も鉄道も空間的な制約があり、スムーズさこそが、社会全体の利益につながるからだ。このことは郵便にも電話にもいえることであって、これまで愚かな民営化がもたらした消費者への不便を思い出していただきたい。

バスについては鉄道と同様、都市部では一層の強化と充実が求められる。タクシーは、バスの損益分岐点が満たされないところに重点的に使われる必要がある。各地域では、タクシー会社共同の運行管理システムを作り上げ、どんな辺鄙(ヘンピ)なところでもスムーズな輸送が可能なように準備されるべきだ。

また、タクシーのサイズも多様化をはかり、すでに現在可能になっているように、ワゴン車による10人乗りのような、いわゆる”ミニバス”をどんどん活用して、大型バスが主流の路線バスの補完をすることになる。エジプトなどでは、このミニバスが大活躍しているが、料金は安いし、地域の人々が顔を合わせる機会は増えるし、気軽に路線変更ができ、乗り降り自由で、過疎の地方では特に便利だ。

こうなれば、自家用車の所有は上記の3種の交通機関がまったく行き届かないところでこそ、許可されることになる。となれば、100キロ四方が砂漠であるとか、氷原であるような場合に限られる。中国南部のような人口密集地帯では自家用車を普及させて何のメリットがあろうか。

自動車台数の制限は、自動車生産を今までの何分の一にまで減少させる。従来のように、自動車産業が経済の牽引役であってはならない。労働者の犠牲はあっても、新たな経済システムに転換を図らなければならない。もちろんこれまでの利権にしがみつく保守的な人間たちには退場してもらわなければならない。

余った労働者は、とりあえずタクシーや宅配便の運転手になるか、荷物の積み込みに回ってもらう。日本では、これまで自家用車によって済ませてきたこまごました用が、いきなりタクシーや宅配便に課せられるわけだから、労働力はたくさんいる。特に小口の扱いには多くの人手が必要なのだ。

それでもなお、金持ちたちは自分たちの富裕状態を人々に見せびらかしたいためにステータス・シンボルとしての自動車を所有したがっている。これはこれで新たに制度を改め、彼ら全員をギロチンに処するように法改正が必要だろう。地球環境の保全は、すべての人間のエゴに優先するのである。

;ギロチンにかけるというのは常軌を逸した言い方だと思う人もあろうが、テロリズムとは異なる。誤解の内容に言っておくが、ここでは<法制化→逮捕→拘束→裁判→判決→刑執行>の過程をきちんと踏んだものをいう。

2009年9月初稿

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