わたしの本箱

田中克彦・著作

クレオール語と日本語

モンゴル語が専門で、世界の言語について、英語のような一方的な支配になることなく、各国文化の多様性を主張する研究者。そのユニークな視点は独創的な論文として数多く現れている。青字ー既読

  1. 名前と人間
  2. 言語から見た民族と国家
  3. ノモンハン戦争
  4. 漢字が日本語を滅ぼす

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クレオール語と日本語 * 岩波セミナー77・岩波書店

ことばと国家 * 岩波新書

言語学とは何か * 岩波新書

名前と人間 * 岩波新書 * 2015/01/23

文法の中で、扱いにくく最も敬遠されるのが名詞。その名詞も普通名詞と固有名詞とに分別されるが、これが文法規則の中に含まれることはめったにない。なぜならば、固有名詞とは世界に一つしかないもので、その目印に過ぎないからだ。

固有名詞は、その時代において、その環境においては特定の意味を持つかもしれないが、その徹底した恣意性のために取り扱いが難しい。なんでそんな名前がついたの?と疑問をもっても回答が与えられないからだ。

だからこれまで、固有名詞はまじめな研究対象になってこなかったし、現在もそうだ。著者はそのモンゴル語を中心とする博識の中から、興味深い例を挙げ、固有名詞の世界に読者を引き込む。例えば子供が生まれたとき、親はどんなことを考えて命名するのか、それは国によってどう違うのか。

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現代ヨーロッパの言語(共著) 岩波新書

言語と社会 岩波新書

言語から見た民族と国家 * 岩波書店同時代ライブラリー  * 2015/02/13

言語というものは、ふつう、(フランス語)とか(ドイツ語)のように、ある国家が制定したものであり、その国の中で通用する最も強制力のある、言葉の体系であると思われている。田舎化から出てきた若者は都会で恥をかき、いつの間にか”標準語”になじんでいく。

だが、言語というものが国家と結びついたのはごく最近のことであって、フランス革命のときでさえ、過半数のフランス人はフランス語以外の言語をしゃべっていた。こうやって見ると、言語をどんどん小さい単位にさかのぼってみると、個人の話す言とは、文字通り”母語”なのだと分かる。

母の話す言葉が、地域の話す言葉になり、村、町、市へと広がり、ようやく国家にたどり着いたのだ。したがって言語の本来の姿を見つめるとき、国家単位ではなく、もっと卑近な世界からの出発を図らなければならない。

これに関して、解体以前のソビエト連邦における、言語と諸民族とのかかわりが紹介されている。レーニンやスターリンは、社会主義共同体を作りたかった。だから諸民族はいずれも平等であり、それぞれの言語は尊重されるべきであった、

ところが中央集権体制というものは上からのコントロールは単一の優性言語(ここではロシア語)によらなければならない。社会主義の理想と実際の統治における必要性が激しくぶつかり、ソ連邦が崩壊した時には、ばらばらの国ができてしまったのだ。

このように言語を見る場合、個人的なレベルから、ソ連のような巨大な連邦国家のレベルまで様々な形が存在することを常に肝に銘じておかなければならないのだ。

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ノモンハン戦争 * 岩波新書1191 * 2015/02/27

第2次世界大戦の後半、モンゴル・ソ連連合軍と関東軍の間に起こったノモンハン戦争(事件)はどういう背景があったのか?結果的には前者が勝ったが、双方に多大な人的物的損害が出た。

モンゴルは、ソ連によってその勢力圏に取り込まれようとしていた。ソ連に逆らうモンゴルの指導者は次々と殺され、それは傀儡政権が出来上がるまで続いた。モンゴル民族は北に住むブリアート族、現在の外モンゴル、内モンゴルなどに、同じ言語文化を持つ民族でありながら分断されていた。

彼らにとって統一国家の樹立は悲願であった。ちょうどその時にできた満州国は、ソ連に対峙し中国を脅かす存在だった。モンゴル民族は満州国を利用して、戦争に乗じて一気に自分たちの自治独立を勝ち取ろうと考えたのだ。

実際の歴史では、モンゴルは独立できたが、ソ連解体まではその属国のようにされ、内モンゴルは”自治領”という名まで中国領になっている。本当の意味での民族独立の道は遠い。

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漢字が日本語を滅ぼす * 角川SSC新書 * 2015/05/22

漢字が文字のなかった日本に導入され、とてつもない役割を果たし、今でも果たしているというのが通説だが、著者はその考えに真っ向から反対している。ユーラシア大陸には、西はフィンランド、ハンガリー、そして東の端には日本へと続く、ある学者の呼び名によれば「ウラル=アルタイ語」(ドゥンガン語)の世界が広がっている。この中には中国語は含まれていない。

というのも、中国語は異なった言語体系に属するらしいからだ。そしてそこから生み出された「漢字」は、言葉ではなく、”意味”を伝える一種の絵という特殊な形を持っている。このため周りの民族は中国の影響力が大きかったにもかかわらず、日本を除いてみな、漢字を使わなかったか、使っていたのをやめてしまった。

ほかの民族は、表音文字でやっているのである。ところが日本ではせっかくの「やまとことば」を持ちながらも、漢字によってそれが埋もれてしまい、難しい漢字は特定の階級を利するだけのものになってしまった。それだけでない。現代世界が複雑化するにつれて、それに合わせて”意味”が増え、それがさらに多くの漢字を生み出させることになっているのだ。

この悪循環を止めるために、はやく漢字を日本の国から取り去り、これから日本語を学ぼうとする外国人にとっても、日本語をもっと外に開いた言語にするべきだと著者は主張している。

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チョムスキー * 岩波書店同時代ライブラリー

モンゴルー民族と自由 岩波書店同時代ライブラリー

言語の思想 NHKブックス

ことばの差別 農山漁村文化協会

ことばのエコロジー ちくま学芸文庫

国家語をこえて 筑摩書房

草原の革命家たち 中央公論社

法廷に立つ言語 恒文社

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『草原と革命――モンゴル革命50年』(晶文社 1971年/恒文社 1984 年)
『モンゴル革命史』(未來社 1971年)
『草原の革命家たち――モンゴル独立への道』(中公新書 1973年、増補版1990年)
『言語の思想――国家と民族のことば』(日本放送出版協会〈NHKブックス〉 1975年/岩波現代文庫 2003年)
『言語からみた民族と国家』(岩波書店「岩波現代選書」 1978年/岩波同時代ライブラリー1991年 /岩波現代文庫 2001年)
『ことばの差別』(農山漁村文化協会 1980年)
『ことばと国家』(岩波新書 1981年)
『チョムスキー』(岩波書店「20世紀思想家文庫」 1983年/岩波同時代ライブラリー 1990年/岩波現代文庫 2000年)
『法廷にたつ言語』(恒文社 1983年/岩波現代文庫 2002年)
『国家語をこえて――国際化のなかの日本語』(筑摩書房 1989年/ちくま学芸文庫 1993年)
『ことばの自由をもとめて』(福武文庫 1992年)
『モンゴル――民族と自由』(岩波同時代ライブラリー 1992年)
『言語学とは何か』(岩波新書 1993年)
『ことばのエコロジー 言語・ 民族・「国際化」』(農山漁村文化協会 1993年/ちくま学芸文庫 1999年)
『名前と人間』(岩波新書 1996年)
『クレオール語と日本語』(岩波書店 1999年)
『「スターリン言語学」精読』(岩波現代文庫 2000年)
『差別語からはいる言語学入門』(明石書店 2001年/ちくま学芸文庫 2012年) 
『ことばとは何か――言語学という冒険』(ちくま新書 2004年/講談社学術文庫 2009年)
『エスペラント-異端の言語』(岩波新書 2007年)
『ノモンハン戦争-モンゴルと満洲国』(岩波新書 2009年)
『漢字が日本語をほろぼす』(角川SSC新書 2011年)
『シベリアに独立を! 諸民族の祖国(パトリ)をとりもどす』(岩波書店〈岩波現代全書〉 2013年)
『従軍慰安婦と靖国神社 一言語学者の随想』(KADOKAWA(角川マガジンズ) 2014年)
『田中克彦自伝――あの時代、あの人びと』(平凡社 2016年)
共著[編集]

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© 西田茂博 NISHIDA shigehiro

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