わたしの本箱

George Orwell 著作

George Orwell

現代ほど George Orwell の著作が現実味を持って迫ってくる時代はないだろう。特に同時多発テロ以来、ますます情報が管理される中、ファシストたちが何を狙っているかしっかり知るためには彼の数々の小説、ルポルタージュを読んでおく必要があると思う。

  1. 動物農場
  2. 1984年
  3. パリ・ロンドン放浪記
  4. ウィガン波止場への道
  5. カタロニア賛歌

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Animal Farm 動物農場 * George Orwell * 高畠文夫・訳 * 角川文庫

イギリスの田舎の農場で、農場主のやり方に不満を持った動物たちが反乱を起こして人間たちを追い出し、自分たちで経営する農場を建設しようとする。もっともリーダーシップに富んでいたのは豚たちで、子犬を訓練して強力なボディーガードに仕立てた後、絶大な権力を握る。「二本足はわるい、四本足はよい」がスローガンだった。

ほかの動物たちは頭があまりよくないし、自分でものを考える能力もほとんどないので、豚たちのなすがままである。最初にみんなで守る憲法を作ったのだが、その内容はみんなの知らない間に少しずつ改ざんされてゆく。ロバや馬の中には豚の支配を懐疑的に思うものもいたのだが、正面きって反対することはなかった。

指導者として有望だった豚が追放され、代わりにナポレオンが最高権力を握る。いつの間にか最初のころの事実は捻じ曲げられ、豚たちに都合のいいように歴史が作り変えられていく。農場の真ん中に壮大な風車を作る計画が立てられ、豚は監督になり、ほかの動物たちはつらい建設に励む。

風車は人間たちの妨害によって2度もつぶされるが、苦労の果てにようやく完成をみた。そのころ豚たちの行動がますますほかの動物たちにとって不可解なものになっていった。酒を飲んで酔っ払っているようなのだ。そしてある日彼らは人間と同じように2本足で立ち始めたのだ。人間たちを招いて宴会を開く彼らの顔は普通の人間と何の見分けもつかなかった。

その他の所蔵作品;象を射つ イギリスの植民地となっていたビルマで警官として働く「私」は、逃げ出した象を撃ち殺す羽目になる。植民地のもとでは白人は原住民の期待通りに行動しなければ馬鹿にされてしまうのだ。そのためだけに生活にとって重要な動物を一頭無駄に殺すことになった。絞首刑;今朝も大勢の死刑囚の中から一人選ばれて死刑が執行される。だが手を下す側から見ても、今元気に生きている人間をどうして殺さなければならないのか、その理不尽さに心が乱れる。とはいえ上からの命令なので執行しなければならない。貧しい者たちの最期;筆者が入院したパリの貧民区にある病院は想像を絶する状態だった。不潔で、いつだってほったらかしにされるというだけではない。医者は、学生たちに”実物教育”を施す場所なのだ。患者は完全に実験動物の扱いであり、まさに19世紀のやり方そのままなのであった。

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Nineteen Eighty-Four 1984年 * ジョージ・オーウェル George Orwell * 新庄哲夫・訳 * 早川書房

ウィンストンは1984年にあって、オセアニア国の首都(”かつての”ロンドンらしい)で、文書の改変業務に従事していた。しかし彼は数年前からこの国の体制に疑問を持っており、それを無用心にも日記に書き表したり、現在のビデオ監視装置にあたる、テレスクリーンの前で不遜な態度を見せたりしていた。

オセアニア国は年中、地球上にある他の二つの国、ユーラシア国かイースタニア国のどちらかと絶えず戦争をしている。国の支配者は”偉大な兄弟 Big Brothers ”と呼ばれ、党による独裁体制がずっと続いている。党員の下には無数のプロレ(=プロレタリア)がいるが、彼らは貧困のもとに苦しみながらも、自分で考える能力を奪われているために政治的脅威にはなっていない。

問題なのは、”生半可な”知識を持った党員がいつ政府に対して反抗の意を示すかだ。ウィンストンはずっと前からマークされていた。彼の仕事は、過去の事実を改変することである。あの「動物農場」であったように、人々は記憶力があいまいで、強く言われれば、証拠を追求することはなくそんなものかと思い込んでしまう。

たとえば、「南京虐殺が起こった」というのが歴史的事実であるが、「南京虐殺は存在しなかった」と何度も繰り返して言うと、いつの間にか存在しないことになり、かつての証拠を見つけようにもすべて何者かによって隠滅されており、手の施しようがなくなっている。「沖縄の虐殺は日本軍が命令した」という事実も危うくこんな運命になるところだった。

言語もかつての英語をやめ、ニュースピークという新しい言語を作り出し、いずれはこれを古い言語に取って代わらせようとしている。ニュースピークでは語彙は極端に減らし、「自由」などということばは存在しない。ことばの制限を強力に行うことによって人々がものを考えないようにすることが狙いなのだ。

党の政治はなかなかうまくいかないときは、次々と施策を変更するが、そのたびに過去に出版された新聞、書物、その他あらゆる記録を変更しなければならない。人々が図書館に行って調べても、過去の事実はあらかた変わってしまうようにしておかなければならないのだ。彼の仕事はそんなものだった。

彼はある日、仕事場の食堂で自分を見つめる女に気づく。彼女はそれから何度も姿を現したが、ウィンストンはどうせ彼女が思想警察のスパイか何かだろうと思っていた。彼女はあるとき「あなたを愛しています」という紙切れをよこす。二人は密会を繰り返し、このセックスすら禁じられた世界でつかの間の喜びを味わう。

だが、アパートを借りて頻繁に会っている二人には当然の運命が待っていた。ある日突然警察が踏み込んできて二人は逮捕され、ウィンストンは反政府の一員だと信じていたオブライエンが実は洗脳の陣頭指揮をとっていることを知る。

途方もない拷問と洗脳の繰り返しの末、ウィンストンは根負けして釈放される。党に反抗した者は、逆に依存するようになるまで洗脳を繰り返され、それまで決して殺されることはない。”偉大な兄弟”を愛するようになって初めて、処刑を行うのである。そこが中世におけるキリスト教の異端者の処刑とは違うところだ。

このとおり、豚が主人公だった「動物農場」の舞台が、(書かれたときから見れば未来である)1984年に移っているが、「権力の本質」は同じままだ。現代の、アメリカ、中国、ロシアをみると、この本に書かれていることが実際に起こっていることがよくわかる。現代の人間にとっての必読書である。この本もいつ「焚書」にされるかわからない。

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Down and out in Paris and London パリ・ロンドン放浪記 * George Orwell * Penguin Books

「1984年」「動物農場」の著者、ジョージ・オーウェルは若いとき、ビルマでの警察の仕事から帰ったあと、このヨーロッパの2大都市で貧困の経験をしている。パリに来て最初のうちは、英語の教師をしたりしていたから、何とか食いつないでいくことができた。ところがその仕事がなくなり、いよいよ食べていけなくなると、家賃だけは先払いしておいて、新たな仕事を探しに出かける。

知り合いになっていたもとウェイターのロシア人のもとに駆け込むと、二人でパリ中のレストランやホテルで雇ってもらえるところを探す。だがなかなか思うようにいかず、衣類を質入したり、3日ぐらいも何も食べないこともあったりしたが、ようやくあるホテルの皿洗いに雇われることになる。

ホテル地下の猛烈に暑い一室で、皿洗いはもちろんのこと、客の注文に応じてコックが作る以外のもの、たとえば飲み物とかトーストなどを用意するのも仕事だった。連日の立ちっぱなしで12から14時間の仕事、安い給料、コックたちによるいじめ、などのひどい労働環境を体験する。それでも彼が雇われていたホテルはパリでも良心的なほうだった。

パリにはもっと安くてひどい仕事があるにしても、皿洗いは何の技量も身につくことなく、給料が安いから結婚などの人生への展望はなんら持つことができない。それでもほかに仕事がないから、食べていくためには若いときからこのような仕事についてひたすら耐え抜くしかないのである。

友人の知らせでパリの仕事をやめ、イギリスに渡った。だが、その友人が約束してくれた仕事は数ヶ月先になるとのことで、それまで彼は借りたわずかな金で生活を支えることになった。仕事につくこともなく節約生活を続けたために、泊まるホテルはどんどん格が下がり、ついには救世軍の施設やドヤに泊まることになった。

イギリスでは物乞いをすることは禁じられている。野宿をしてもいけない。また、最下級の施設は1ヶ月に1回以上泊まってはいけないことになっている。かくして浮浪者たちは、イギリス国内の収容施設を渡り歩くことになる。この浮浪者による大移動は途方もない無駄をうみだしている。

浮浪者たちは、もちろん未来への展望は何もない。それどころか宿泊所では、何もないところに夜間閉じ込められ、恐るべき退屈を耐え忍ぶことになる。昼間は次の宿泊施設への行進と、モク拾いに費やされる。宗教団体による慈善事業で、食べ物が配られることがあるが、浮浪者たちはその後に来る説教が大嫌いで、その間ひたすら我慢してほかの事を考えているか、なんとか脱出をはかる。オーウェルはその後仕事を得ることができたが、浮浪者たちはその生活から抜け出すことはまず不可能で、病気で死ぬまでその生活は続くのである。

これらはいずれも1930年代前半に体験したことの記録だ。貧困とはどういうものか?浮浪者やこじきの考えていることは?いずれもオーウェル自身が身をもって体験し、その真相を解き明かそうとしている。そしてこれは21世紀の格差社会にも同じく通用する現象なのだ。

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The Road to Wigan Pier ウィガン波止場への道 * George Orwell * Penguin Books / Social History

なぜ”波止場”なのかわからない。というのはこのはなしの舞台は炭鉱だからである。オーウェルは「パリ・ロンドン放浪記」の後に、今度は炭鉱夫の生活に入り込み、その状況を報告する。そこには労働者階級の厳しい生活があった。

イギリスが、貴族、中産、労働の3階級にはっきりと分けられていることは、有名である。彼らの間には、文化、言語、教育の深い亀裂があって、それを越えて階級間を移動することがほとんど不可能に近い。しかし、国民はそれでいてフランス人のように革命を起こすこともなく、今日に至っている。

ここに重要な単語がある。自分は自分より低い階級の人間よりすぐれていると固く思い込んでいる人々、つまり「俗物 snob 」の存在である。これはイギリス以外にもあるだろうが、この国がその元祖であることは間違いないだろう。植民地においても自国内においてもこのことばが常に思い起こされる状況が続いているのだ。これが階級差の維持に大いに貢献しているらしい。

第1部(1)自分も住んだ炭鉱夫の部屋の悲惨な内部(2)炭鉱内部の様子(3)塵にまみれた炭鉱夫の生活(4)炭鉱夫とその家族のの住む家(5)炭鉱での消えることのない失業の実態(6)炭鉱夫の家庭の家計(7)イギリス北部のいくつかの炭鉱町について 第2部(8)自分の生い立ちも入れた、イギリスの低所得階級について(9)自分がそのような階級の人々の生活を調べることになったいきさつ(10)ブルジョワとプロレタリアの区別が厳然と存在すること(11)ここで正式に「社会主義」のことばが登場する。(12)どうして社会主義が多くの人々によろこんで取り入れられないのか、ならびにファシズムの問題を考察する(13)こういったことを振り返って、われわれは何をするべきなのかを考える。

という具合に、実際の悲惨な取材から帰ったオーウェルは、社会主義の問題点、それをもたらすに至った機械文明の実態、当時急に広まってきたファシズムへと話を広げてゆく。これらはいずれは、「動物農場」や「1984年」の形で結実するのだ。

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Homage to Catalonia カタロニア賛歌 * George Orwell * Penguin Books / Social History

Homage to Catalonia筆者のジョージ・オーウェルはスペイン戦争が始まると、イギリスから志願して、反フランコ闘争(反ファシズム)にとびこんだ。当時は共産党をはじめ、さまざまな社会主義傾向の団体が乱立しており、彼はその中で P.O.U.M. というグループに属してバルセロナから前線に赴いた。

カタロニア地方はスペイン南東部に位置し、その中心都市バルセロナは革命的雰囲気の真っ只中にあった。労働者はみな団結してこれから平等な社会を作ろうという気分に満たされ、金持ちや支配階級は突然この町から姿を消したように見えた。

彼は数多くの外国人義勇兵とともに,、前線に派遣された。前線といっても激しい撃ち合いがあったわけではなく、広大で平らなスペインの丘陵地帯に塹壕を掘り、相手方の塹壕を狙ってときおり狙撃するぐらいであって、ほとんど膠着状態に陥っていた。それでも冬の寒さ、じめじめした中での睡眠、経験のない年端のいかない兵隊たちなど、苦労は絶えなかった。。

久しぶりにバルセロナに休暇をとって戻ると、すっかり革命的雰囲気は消え、その代わり寄り合い所帯の間で激しい内部抗争が展開されていた。一度は市街戦にまでいたり、P.O.U.M.がその張本人だといううわさが流れ、事件のスケープゴートにされた。

前線に戻ると、彼はうっかり敵の狙撃兵の銃弾を受けてしまい、のどを撃ち抜かれてしまう。幸運にも血管をそれたので、声はしばらくでなくなったものの、一命を取り留め、しばらく病院で静養することになった。

だが回復するまもなく、カタロニア地方での内部抗争は激しさを増し、P.O.U.M.はついに警察によって検挙され始める。スペインでいったん牢獄に入れられたら、解放される見込みはまったくわからない。彼と妻は大急ぎで荷物をまとめ、国外に脱出する。

その後も内部抗争が続き、せっかくカタロニアに集結した反ファシズム戦線も、効果的な打撃をフランコ政権に与えることができずに敗北への道を歩むのである。だが、オーウェルはひどい目にあいながらも、スペインにおける短かったがめまぐるしい経験を懐かしく思い出すのである。

ペンギン・ブックスでは「パリ・ロンドン放浪記」「ウィガン波止場への道」「カタロニア賛歌」は三部作として一つの本にまとめられている。オーウェルの有名な小説とは別に、若き頃のルポルタージュである。この本を買ったのが、1985年ごろ。そしてこれを読んだのが、2008年。それまで本棚の中で眠っていたわけで、へたすると一度も目を通されない運命になったかもしれない。紙は黄色くなり、ぼろぼろである。

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© 西田茂博 NISHIDA shigehiro

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