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2003年・つづき @知価革命 * 堺屋太一 * PHP研究所 2003年9月4日 日本の昭和30年代頃からの高度成長は、世界に例を見ないほどの急激な上昇をたどったが、これはちょうど世界的に石油価格が下がり、エネルギー調達が楽になったところで、軍備に金をかけず持ち前の技術力と資源がないために貿易に依存する体制がちょうどこの順調な成長を助けてくれたのだ。 こんなにありとあらゆる環境に恵まれた例はそうざらにあるものではない。だが一方ではこの成長にも終わりが近づき(この本は1980年代半ばに刊行されている)新しい社会の変革が具体的に求められ出した。 著者の豊富な歴史的知識で振り返ってみると、人類社会は物質主義の時代(たとえば古代の大帝国)と物質主義を廃し精神を重んじる時代(たとえばヨーロッパ中世)とが交互に繰り返されてきたことがわかる。 そして今、つまり18世紀末の産業革命によって発達した物質中心主義はいよいよ終わりに近づき、そろそろ新しく精神中心の社会ができあがろうとしていると著者は見る。もちろんこのことは中世のようないわゆる「暗黒」時代の再来のことではない。 今までの技術的革新の成果をふまえた上で、物質生産一辺倒ではなく精神的な価値を持つもの、つまり「知価」が新たに見直されようとしているという。これは単に中学校で教わったような第2次産業から第3次産業への移行というだけにとどまらず、消耗品としての文化、つまりファッションのように次々と消費されていく「製品」が社会にあふれることを言う。 「知価」によって売られる製品には工業製品のような安定した価値がない。流行や人々の好みの変化によりあるときはきわめて高価に取り引きされ、ある時は価値がゼロに近くなる。また大量生産を目指すのではなく、発達したメディアの中を流れていくのだから、実に様々な種類が誕生し、大規模化による価格の低下というものはない。 日本はこれまでの工業中心主義から脱し新しい方向を模索していかなければならないが、この「知価」に重点を置く社会のあり方にもっとも向いた構造を持っているのかもしれない。と言うよりはいち早くこの方面において離陸を成し遂げなければ、他国に追い越されてしまうだろう。 @小室直樹の資本主義原論 * 小室直樹 * 東洋経済新聞社 2003年9月9日 どこの大学でも、経済学の原論の講義が用意されているが、それを受講した大学生たちの意見を聞くと、今まで飲んだどんな睡眠薬よりも強力だったと口をそろえて言う。 そこまでこき下ろすのはかわいそうだが、資本主義のポイントをこれほど的確についた本を他に知らない。経済学の根幹であり、現代社会を動かしている資本主義について、その最小限のモデルを知らなかったら話にならないはずだ。これまでいい加減な知識で間に合わせてきた人は赤面するだろう。 資本主義は、人間が人工的に作ったものではない。自然発生的に生まれたものだ。そしてその自立性が自らの「法則」を生み出し、それに従って動く。だから権力者がいくら力任せに動かそうとしてもいうことを聞かないし、下手するとひどいしっぺ返しを受けてきた。 資本主義の活躍する場は「自由市場」である。これについての経済理論は決して抽象的なものではなく、コンピューターネットワークのおかげで、取引時間の短縮、情報公開、独占への目配りが実現し、急速にその理想とする姿に近づいている。 資本主義での「所有」は絶対であり、権力者があとでそれを覆すなどということはあってはならないことになっている。昔は、所有が絶対的なものでなかったために、効率的な商業活動が生まれなかった。今では「所有」さえしていれば、それをどうにでもできる。 資本主義が生まれたのは、マックス・ウェーバーが言っていたとおり、プロテスタントの倫理である。そしてその元になっているキリスト教には、人はあらかじめ救われるか救われないか決まっているという「予定説」が根底にある。ここから「所有権」や「主権」の概念が生まれた。 資本主義が誕生する以前の人間社会では、金をもうけるために手段を選ばなかった。別に公正な競争を経なくても、一財産築くことができればそれでよかった。そのため海賊や山賊が横行したりしてきちんとしたシステムが整備されることはなく、資本主義形態とははっきり区別される。 そして現代日本の経済状況は資本主義の形からほど遠く、江戸時代から持ち越された封建的社会制度がいまだに幅を利かせ、戦後の官僚統制が経済をがんじがらめにしている。 今までは世界の経済環境が日本に味方していたために高度経済成長を遂げることができたが、それも頂点に達した今、腐りきった官僚制度が足を引っ張り、これからの日本をにっちもさっちもいかなくしている。 資本主義の本山と言えばアメリカだといわれているが、これも他の要素が混じった「混合経済」であり、貧富の差をはじめとして様々な問題を抱えている。純粋な意味での資本主義はこの地球上に存在しない。 そもそも資本主義は、それ以前の無法状態から、秩序と公正を目指して作られたものである。理想型であるから、実際に運営していく場合には、浪費、環境破壊、独占や過当競争を避けるため、政府の規制や、情報公開の徹底、それぞれの国の持つ文化に応じた多様性が生じるのは当然である。 @アメリカは巨大な嘘をついた * 太田龍・監訳 * 成甲書房 * Our New World : Dr.John Coleman * 2003年9月17日 いわゆる暴略本、陰謀論である。歴史的な大事件の背後には秘密結社が暗躍していて、歴史を操り、自分たちの思いのままに人類の行く末を決めてしまう。このように意図的に歴史をねじ曲げる考え方を「ヘーゲル思想」と呼んでいる。 太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃にしても、これはルーズベルト大統領が、日本が攻撃するように「し向けた」のであり、ナポレオンが失脚したのも、イギリスに本拠をおく秘密結社がたくらんだことだという。 ケネディ大統領が暗殺されたのは、秘密結社の意向に背いたからだという。第1次世界邸戦時の、アメリカ参戦は、アメリカ人乗客の多くが乗っていたルシタニア号をわざとドイツに撃沈させたからだという。 秘密結社で特に有名なのは、「フリーメーソン」であり、これは93年に読んだ「赤い楯上下(広瀬隆著・集英社)」に詳しく出ており、この本も、内容的に非常によく似ている。現代では、イギリスの諜報部(映画の007が活躍したところ)とイスラエルの諜報機関モサドが代表的だろう。この本では、イギリスに巣くう「300人委員会」が重大な役割を果たしていると言っている。 そうなると現代では9.11の同時テロの真犯人が気になるところだ。アフガニスタンの山奥にいるビン・ラディンがニューヨークの貿易センタービルの周りで、航空機を急旋回させるという、ベテラン飛行士でもとてもやれそうもない曲芸を命令したということ自体が、おとぎ話のようではないか。 ビン・ラディンは、単に人々の注意を向けるために利用されているだけで、いっこうに捕まらないのは捕まえる気がないからだ。本人は自分が一躍世界中で有名になってしまい、照れ笑いをしているだけかもしれない。 謀略・陰謀論は世界中に絶えることはない。だがこれを決定づける証拠がない。本当だとも嘘だとも証明する材料がきわめて乏しいのである。ただ、火のないところに煙は立たず、という。歴史のすくなくとも一部がそのようによって形作られたことはまちがいはない。 陰謀の張本人は誰であれ、問題はこの先だ。実際に同時テロが起こったし、その結果については、著者はまじめに議論しているし、このことについては、人類の将来とも特に深い結びつきを持っているので、特に注目すべき点である。 それは、すでに報道されているように、同時テロ以後、アフガニスタン、イラクと次々とアメリカ政府は海外に「テロ撃滅」の名目で侵略を開始し、アフガニスタンでは山賊をやっつけただけに過ぎず、イラクでは石油ほしさが見え見えであると言うことが明らかになった。 そしてアメリカ国内では、テロ防止の名目で、大々的に市民の自由が制限されている。まず何よりもイスラム系住民に対する監視と権利制限、不当逮捕、社会的差別が激増したこと。もはやアメリカは「自由の国」ではなくなったのだ。 人々のテロに対する恐怖心を利用すると、長年営々と気づいてきた民主主義の伝統もあっけなく崩れ去ってしまうことを現代アメリカの現実が示している。建国の父である、ワシントンやジェファーソンは、行政府がそのように暴走することを、ヨーロッパの歴史から十分に学んでいて、それをアメリカ憲法条文に反映させた。 彼らのアイディアによって作られた政府は三権分立をはじめとして、チェックとバランスに基づくものだ。ここには、権力者はひとたび自らの権力を使うときの味をしめると、何をしでかすかわからないという「健全な不信感」がある。 だが、同時テロでは、第1次や第2次世界大戦、共産主義者の脅威、などと同じく人々の恐怖心をあおって冷静な判断を奪い、中央集権の独裁制に持っていこうとする政府の意図が丸見えだ。 国民は愚かだ。アメリカも選挙の投票率の低下が著しいのだ。普段軽薄なメディアにならされているから、政府にによるメディア支配によると簡単にマインド・コントロールされてしまう。テレビやラジオのなかった時代でもそうなのだから、今のように100%の家庭にテレビがある時代にはなおさらだ。かつてイギリスのベテラン政治家が言ったように、愚かな政府は愚かな国民が作るのだ。 しかも、現代アメリカ人の多くは日本が中国の一部であるとか、キューバはソ連と隣り合わせだったというようなあいた口がふさがらないような無知な状態におかれている(きわめて少数者はそうではないが)。彼らに建国に父たちの理想を説いても理解できるはずはない。 そして、彼らが選ぶ大統領となれば、テレビ受けのする、弁論がたち、「自由」と「アメリカの夢」を連呼する虚像だけである。残念ながらブッシュにしてもゴアにしても秘密結社ではないにしても、背後の世界戦略をねらう企業や圧力団体に完全に縛られているから、彼らの是認する範囲内でしか行動できないのだ。 著者は、この同時テロをきっかけにアメリカの民主主義は完全に崩壊したと見る。残念ながらこのまま進むと「テロの脅威」をタネにアメリカ憲法は全く無視され、最新テクノロジーに裏打ちされた、スターリンやヒトラーも震え上がるような、独裁体制ができあがると警告している。 人類の将来を悲観的に見ることは必ずしも利益ではないが、オーウェルの「1980年」やハックスリーの「素晴らしき新世界」の小説のように、人々に警告しておくだけの価値はあるのだ。同時テロを理解する最適な寓話といえば同じくオーウェルの「動物農場」だろう。ぜひ一読をおすすめする。もちろんこのページを読むような諸君はすでにこの本を読んではいると思うが。 まちがい栄養学 * 川島四郎 * 新潮文庫 2003年9月27日 著者の川島氏の戦前の経歴がおもしろい。ひたすら兵隊の体力強化を願って、栄養学からのさまざまな可能性を探った。おかげで日本兵の携帯食料は世界でも誇るべき高品質のものとなった。 当時と今とでは、たとえば卵や豚肉のコレステロールについての考え方は変わっているが、栄養全体に対する見方はまったく今でも通用するものばかりである。たとえば、「売薬的栄養学」と「処方箋的栄養学」。 現代ではサプリメントが大流行だが、30キロのトリガラ女性からお相撲さんにまで効果のある薬などというのはあり得ない。つまりなんにも効かないと思っていい。これが売薬だ。 これに対し、医者がそれぞれの患者の体重、体質、病歴、その他多くの要素を考えて決めたのが処方箋。これなら手間はかかってもそれぞれ違う個人に効く量や配合が違っても効果が期待できる。 栄養学を考える場合にはその点に注意しなければならない。相手は一人一人の人間というだけでなく、食べる人々全体でもあるのだ。これをはき違えると、特定の食べ物が特効薬のようにもてはやされるというようなゆがんだ現象が生じる。 砂糖をたくさんとって健康の害に苦しむよりむしろチクロを勧める。純粋な物質は体に悪いだけでなく複雑な味わいを奪うとして、精製食塩や白砂糖を非難する。今ではどうしようもないほど深刻になっている欧米の肥満にはやくから警鐘を鳴らしていた。 栄養学は確かに科学に基づきながらも、すぐれた栄養学者の「哲学」も必要なようだ。川島氏が、戦前「天皇の赤子たち」のために選りすぐれた食料を開発したのは、まさにその哲学から生まれたものだ。 栄養の点から、蠅でも何でも試食してしまい、兵隊は実験に使い、今でいう総合ビタミン剤を考案し、健康食を求めて遠くマラリアの危険を冒しても90歳近い身でケニアまで出かけていった。そこには「知の冒険」を探求する姿がある。これには「続・まちがい栄養学」が続く。 @日本人のためのイスラム原論 * 小室直樹 * 集英社インターナショナル * 2003年10月5日 日本人にとってあまりに疎遠だったために、ほとんど内容を知らないイスラム文化についての入門編。危険なのは欧米人の考え方の受け売りである。世界史を正しく眺めて、現在のイスラムと西欧との対立の図式を正確に読みとる必要がある。 世界の主要な宗教を展望したあとで、経典の点で多くの共通点がある、キリスト教とイスラム教とを比較する。キリスト教は、特にカトリック教会では本来イエスやパウロの言っていたこととは全く関係ないもの(宗教とはいえない呪術・カルト的なもの)が次々と追加され、驚くべき変貌を遂げてしまった。 だが、キリスト教において、近代社会の最も大きな変革のもとになったのは、神が救う人間をすでに決めてしまっているという「予定説」である。これにより自分の救いに不安を持つ人々が救済を求めて「行動的禁欲」に走り、ひたすら勤勉になることによって近代資本主義が誕生した。 キリスト教の場合には本来信仰がすべてであり、「内面」を重視するのであるから、金儲けに「どん欲」を含むことは許されないが、一生懸命働くこと自体には問題はなく、これが資本主義発達や近代科学の進歩のきっかけとなったのだ。つまり「宗教の合理化」が起こりえたのである。 これに対し、イスラム教は、宗教としてはキリスト教よりあとに生まれ宗教としての性格はより一層人々の考えにしっくり合うようにできている。商売を奨励し、人間の平等を主張し、信徒としてやるべきことを明確化しているので、急速に大勢の人々に受け入れられた。従って次々と大帝国が生まれた。 だが、一方ではアラーによる宿命的な予定説に基づくイスラム教では、毎日の生活で信徒のつとめをきちんと果たすことにより救済の見込みがあることから、勤勉になる必要はなく、もちろん行動的禁欲も生まれなかった。つまり、より宗教的に完成された形である故に、そこからの脱却が起こらなかったのである。 このようにして現在では、西欧の近代化にも「乗り遅れ」、たとえば「契約の履行」という考え方も徹底しないため、投資の進展もなかなか実現しないでいる。トルコなどはいち早く世俗的な政府を作ろうとしたが、近代化をするためにはイスラム教を捨てねばならず、それはとうていできないことであるから、今重大な岐路に立っているのだ。 しかも、イスラム教徒の中には、近代化による腐敗や貧富の差の増大を見て、マホメットの唱えた原点に復帰すべきだという人が増えている。この考えは西欧人には気に入らず、1000年来のイスラム教との持つ「十字軍コンプレックス」も加わってイスラム排斥の流れを作り出してもいるのだ。 そして今日にいたり、ひたすら石油の利権を得たいのに、イスラム諸国にじゃまされた西欧人の無理解が、今までの対立に一層拍車をかけ、これが中東問題を解決することをさらに困難にしているのだ。ここで「同時テロ」が起こり、イスラムと西欧の対立は決定的なものとなった。 @小室直樹の中国原論 * 小室直樹 * 徳間書店 * 2003年10月9日 急速に経済成長を遂げる中国だが、依然として進出失敗に終わる海外企業は少なくない。なぜかと言えば中国の経済・社会体制に対する理解が不足しており、文化的ギャップを克服できていないからである。 中国では契約をしてもそれは絶対ではなく、向こうが「事情が変わったため」というような理由で急にその変更を要求してしきたりする。このため巨額の投資がフイになったりして、頭を抱える海外からの経営者が後を絶たないのだ。 中国に投資しようというのなら、まず「三国志」を中心とした物語を熟読し、中国人の間には、人間関係のレベルがいくつかに歴然と別れているということを知らねばならない。最も親密で水も漏らさぬ関係が「帮ほう」である。そのあと順次関係は薄いものとなり、単なる「知り合い」になる。 外国からの投資者は、単なる知り合いであるから中国人から見れば、きちんとしたつきあいをする必要がないのである。もし関係のレベルを引き上げたければ、じっくり時間をかけて人間関係を育てていかなければならない。 横のつながりが「帮ほう」だとすれば、縦の関係が「宗族」である。それぞれの苗字を名乗る集団の内部では、それこそ実の兄弟関係よりも密接なつながりがあり、そこでは金の貸し借りにしても証文すらいらない。ここはもちろん外国人が入っていけない世界である。 さらに中国の各王朝は道徳を重視する儒教の教えの裏に法による支配を重視する「韓非子」の思想が根を張っている。法家の思想は西洋の法律思想とまるで違う。主権の概念、国民を守る、汚職というような考え方はまるでない。海外投資家が中国国内でトラブルを起こしても法律が自分に味方してくれる保証はないのだ。 また、中国人は「歴史」を最大のよりどころにしてきた。彼らにとっての最大の宗教は歴史による救済である。どんな犠牲を払おうと自分の命が踏みにじられようと、自分の名が歴史に載ることだけを目的に暗殺、政府の転覆などを行う。ユダヤ人のように歴史は神との契約次第でどうにでもなると考えるのと違い、中国人は歴史に法則があると信じており、歴史の書物に載った事柄は後世の人々の行動指針となるのである。 だから人々は行動の指針になるためなら何でもする。中国は「持続の帝国」であり、何回も王朝が変わりながら本質は何も変わってこなかった。共産革命すら根本の変化はなかったのだ。これが中国人の行動様式にも深く根付いている。 三国志の時代から続くこのような中国の人間関係は、現在でもその生活の中に連綿として息づいており、結局これは彼らのつきあいかたがダブル、いやトリプル・スタンダードに基づくものになる。これを無視してはとうてい商売などできないのである。 だが、もう一つ重大な問題がある。それは共産中国がまだ、市場経済に変わってからほんのわずかしか時間がたっていないことだ。政治家たちが大慌てで政策変換をしたところで、中国の一般大衆はこれまでの社会体制にがっちりと組み込まれていた。そう簡単には変わらない。 このため、世界の他の多くの途上国と同様、資本主義の基本的なルールが認識されていない。完全競争の意味、所有の絶対、契約の絶対、複式簿記、定価の概念などは、やっと人々の間に定着しかけたところなのだ。それは著作権の問題についての中国政府の対応を見てもよくわかる。 変わった例を挙げれば「賄賂」が有効かということ。賄賂はいけないものとして世間一般で言われているが、それでも普通の資本主義国では賄賂を払えば必ず見返りがあるということになっている。たとえ違法でも金とサービスのやりとりはきちんと成立しているのである。もし賄賂を払っても効果がないとすれば、賄賂すらその社会では成立しなくなってしまう。中国では相手を間違えると賄賂は全く効き目はなくどぶに捨てたのと同じになる。 「殺し屋」もそうだ。相応の金を払って望む相手を殺してくれるのならビジネスが成立するが、これも相手を間違えるとどんなに金を積んでもやってくれない。アメリカなどではやっていけるはずの殺し屋の商売が成立しないことになる。 中国で商売を屋って行くには、もう少し時間をかけて、じっくり見守って行くしかないのか。最近の中国経済は過熱しきっているから、もしかして大恐慌が巻き起こるかもしれない。そんなことが起これば、経済は出直しになるが、かつてのアメリカの大恐慌のように資本主義の体制が大きく変わることになるかもしれない。 たべもの心得帖 * 川島四郎 * 新潮文庫 * 2003年10月15日 本書では、主な食品についての解説が詳しく載っている。特に、川島料理哲学の見地から優秀だと思われる食品といえば、凍豆腐、麦飯、カボチャ、漬け物などがあげられる。いずれも日本人の知恵が加わったもので、西洋料理に特徴的なギトギトのものがない。 大豆を柔らかく煮るコツは昔からいろいろ言われてきた。その中の主なものをまとめてある。また、来るべき飢饉に備えて、いざとなったら野山の草を食べることになるが、その際まごつかないように、食用になる種類を紹介している。 主食といえばどうしても米が思い浮かぶが、米に変わる食物といえばなんだろう。トウモロコシにサツマイモ、そしてジャガイモだろう。それぞれの長所、短所をあげて説明している。 雑誌の連載をまとめただけに、話題はあちこち飛ぶが、日本の基本的な食材についての知識を広めるには絶好の書。 豊かさとは何か * 暉峻淑子(てるおかいつこ) * 岩波新書 2003年10月21日 バブルの真っ最中に書かれたこの本は、物質的繁栄に酔う日本を振り返り、当時の西ドイツと比較して、いかに「貧しい」かを様々な例を挙げて紹介した。その主な論点は、奴隷状態の労働者、社会資本の不足による、福祉、公共的サービスの欠如、コミュニティー意識の不足である。 ルイ・ヴィトンのバッグが飛ぶように売れる一方で、残業でへとへとになったサラリーマンの群。アメリカのまねをして貧富の差をますます大きくしても経済的利潤を追求する態度。このような方向は、バブルがはじけ、経済が下向きになった今も少しも変わっていない。 おいしいものを食べて、豪華な物質に囲まれることが豊かさだと錯覚する人たち。そのくせ、ウサギ小屋どころか鶏小屋だといわれるような貧しい住宅事情と気の遠くなるような長い通勤時間。このようなアンバランスが大手を振って歩いているのが現代ニッポンだ。 一つには江戸時代以来の国民性もあるのだろうが、その生活にゆとりのなさ、個性を無視した画一的生活態度にも原因があるのだろう。そして政治的無関心。と言うよりは政治が今の状態を改善してくれるだろうという希望がまるで存在しないのだ。 ではどうすればよいのか。(旧)西ドイツのまねをすればよいのだろうか。残念ながらその先の方法論が見えてこない。むしろバブルのはじけたあとは、不況という名の大義名分のもと、社会資本の充実はますます遠のいてしまった。 バブルの時には、金はあったから、たとえば公園を増やすこともその気になれば可能だったが、未曾有の財政危機にある国家や地方自治体では、手も足も出なくなっている。国民一人一人が本当の豊かさを自分の言葉で語れる時はいつ来るのだろうか。 奇厳城(ルパン傑作集Ⅲ) * 堀口大學・訳 * 新潮文庫 L'Aiguiile creuse; Maurice Leblanc 2003年10月29日 パリの腕利き警部ガニマール、イギリスのシャーロックホームズも、アルセーヌ・ルパンの敵ではなかった。だがパリの北の町で起きた殺人と盗難事件に顔を出した高校生イジドール少年はルパンをたじたじとさせるほどの才能の持ち主だった。 何が盗まれたのか。なぜ秘書は殺されたのか。屋敷の主の姪であるレイモンドが銃で撃ち、傷ついたルパンはどこへ?イジドールの鋭い推理力によって、この事件は次々と解決していくように見えた。 だが、現場に残され、ルパンの手下によって無理矢理もぎ取られた古文書の中にあった不思議な暗号。エギュイ・クルーズ(空洞の針)とは何か。イジドールは、必死になってこの謎を追う。逆襲に出たルパンに振り回され、謎の解明は一向に進まない。だが彼の頭にひらめくものがあった。イジドールはついに自力で発見した。 フランス北部、イギリスとの海峡に面する港町ルアーブル近郊の絶壁の続く海岸地帯の海中にそびえ立つ針のような岩山。古代から受け継がれた秘密をルパンが解明し、根拠地にしていたのだ。だが、思いがけない悲劇によって、この物語は終わりを告げる。 最初に児童向けの翻訳で読んだのが40年前。再び読んでも、そのストーリーがぐんぐん読者を引っ張っていく力は少しも変わらない。しかもこの訳者の文体のすばらしさ。すっかり夢中になって電車では乗り過ごしてしまいそうだった。 もっとカルシウムもっと青野菜 * 川島四郎 * 新潮文庫 * 2003年10月31日 日本は火山国だ。そのため土壌中にカルシウムが少ない。おまけに現代人はコーラやらジュースやら、リンを多く含む成分を体内に取り入れてただでさえ少ないカルシウムを外に排出している。さらに肉食がはやり小魚や昆布の消費量は減っている。 日本人にとってカルシウム聞きを引き起こす要因がそろいすぎている。だから年をとれば、いや小学生でも骨折が頻繁に起こり、骨粗相症も老人病ではなくなりつつある。人々はいつもイライラしている。ヨーロッパ特にイギリスのようにカルシウムが豊富な国土ではないのだ。 世の中はサラダブームだ。若い女の子はサラダを食べていれば体重も増えないし、体にいいと信じている。だが、レタスやキャベツのような青白い野菜では葉緑素が足りない。水分とわずかなビタミンCが含まれているだけだ。 かくして貧血が大流行。献血をしようとしても断られる。血は薄いし、体力や耐久力が著しく下がっている。そのかわり肉がエネルギーのもとだと信じ込んで、体は酸性に傾き血はドロドロで、肌の色は汚くなる。 西洋風の食事に流されず、日本人にあった日本食を、好き嫌いなく食べる必要があるのだ。カルシウムと青野菜こそ川島栄養学の神髄である。 外国語を身につけるための日本語レッスン * 三森ゆかり * 白水社 * 2003年11月4日・・・私の本箱・語学編へ The Story of Dr.Dolittle * 2003年11月10日・・・ベストセレクションへ大国フランスの不思議 * 山口昌子 * 角川書店 * 2003年11月16日 なぜ、日本は敗戦後、今になってもアメリカ軍の基地が国中に厳然と存在するのか。なぜ日本の与党と歴代総理大臣は、アメリカにペコペコしなければならないのか。国民は何で、そのような状況を見て見ぬ振りをするのか。イラク戦争によって一層明らかになったアメリカに対する追随についておかしいと感じる人は、アメリカの「同盟国」であるフランスのやり方を学ぶべきだろう。 筆者は産経新聞のパリ特派員。新聞の連載記事であるためにストーリーの一貫性はないが、フランスという国の美術やモードやグルメのイメージ以外の点を追求した点が興味を引く。 今回のイラク戦争でも、参加と協力を見合わせたフランスは、第2次世界大戦が終わってから現在に至るまで、西側の一員でありながら、一貫して独立独歩の道をたどってきた。その最初の英雄といえば、ドゴールである。彼のもとで第5共和制が発足した。 ドイツ占領からレジスタンス運動を展開し、終戦直後にはフランス国内にあった米軍基地を追い出し、NATOの部分的脱退を行い、国際世論の反対を押し切って核実験を行い、さらにはドイツなどと組んで、欧州統合への道を進む。 その間、経済の停滞と失業者の急増、アルジェリアやインドシナなどの元植民地での紛争、移民との軋轢、国際社会における相対的地位の低下など、困難な戦後を切り抜けてきたが、その外交と国防方針には、よいにつけ悪いにつけはっきりとした一貫性が見られるのだ。 フランスが国家として成立して以来、ヨーロッパでは宗教や領土に関して無数の戦いが行われた。そしてこの中で生き延びていくために、このような巧みな外交方針ができあがっていったものと思われる。 すぐれた官僚を育てるために、エリート育成の学校を設立した。国民に対しては国家が面倒を見るべきだという考えに立ち、しっかりした福祉制度がもたらされた。農業に関しては、食文化の国にふさわしく、自給自足を貫き、品質を脅かすような貿易協定には断固として反対する。中東からの移民を、「平等と博愛」のもとに積極的に迎え入れ、新しいフランス文化を創ろうとしている。 そして今、ソ連亡き後に唯一の超大国になっておごり高ぶるアメリカを向こうに回して自分たちの意見をはっきりと主張することをやめない。フランスがイラク戦争に反対の立場を表明したとき、アメリカ軍の食堂ではフランス名のメニューが姿を消したそうだ。そのあまりに子供っぽい姿勢がアメリカらしい。 人口でも経済規模でも技術力でも日本と比べて勝っているわけでもないフランスが大国であり国際社会でもそうみなされているのに、日本はかつて国連の常任理事国になると主張したこともあったが、バカにされて立ち消えになってしまった。 フランスの国内では、愛国者、ナショナリストが大手を振って歩く。意見の相違や政策の相違があっても共和制に対する忠誠は変わらない。そこに強烈なアイデンティティが見いだされる。これがアメリカ文化に汚染されることを防ぎ、独自の文化を維持する原動力であった。 日本では、戦前は天皇の持つ求心力によって国がまとまっていた。だが敗戦による天皇人間宣言と自信喪失は、その代わりになるものを見いだせないまま日本人から、アイデンティティを含めてあらゆるものを奪ってしまった。フランスでは当たり前の愛国心が、戦前のファシズムを連想させるとアレルギーがおこるような雰囲気をつくってしまい、物質的にのみ豊かな時代はさらに無気力な若者を増大させた。 国家としての明確な方向性を持たないと、結局今のようにアメリカに取りすがって生きるしかなくなるのである。国としての誇りや民族としての独自性を文化や政治的主張によって表現することのできない国は滅ぶしかない。グローバリズムが世界の画一化を進める中、多極的な世界における多様性の主張こそ未来を創るのである。 フランスが大国といわれるのは、何の不思議もない。問題は経済力ではない、世界の中での良い意味でも悪い意味での独自性の維持なのである。 Dr.Dolittle's Circus * 2003年11月27日・・・ベストセレクションへ フランス学入門 * 小林善彦 * 白水社 * 2003年12月1日 フランス学とは、今までアメリカの方ばかり向き、アメリカの画一的文化にどっぷり浸かってきた日本人にとっては、まったく新しい地平であろう。世界の人々の暮らしが、金銭的価値を第一目的におき、一斉につまらない単一な文化に向かおうとしているとき、フランスの持つ独自の多様性は、大いに参考になる。 まずは百科辞典的解説から。フランスの地理、言語、政治、宗教、簡単な歴史、そして現在の文化の構成について、ルソーの「告白」をはじめとする一連の書物を訳した著者が、実に興味深くフランス論を展開する。 フランスの歴代王も、現代の大統領たちも歴史的記念物を残すのが好きだ。そして国民全体がその傾向にあり、パリは歴史的念物だらけ。だがそれらを目にするたびに、この国のたどってきた道筋を老若男女が思い起こすのである。なぜならこの国の国民は、人種から思想からみな個人主義だらけで、何か結びつける努力を常にしていないと、たちまちバラバラになってしまうからだ。 この国の文化は、外国人を積極的に取り入れることによって豊かになってきた。その点ではアメリカに似ているが、歴史的な過程と、他のヨーロッパ諸国との関係、金儲けを軽蔑するような風潮が、まったく違った文化を生み出してきたのである。 戦後の日本が、愛国主義や国家や国旗に対する敬礼がタブーになってしまったのとは対照的に、フランスではこれが大々的に奨励される。しかしだからといってこれがファシズムに結びつくなどという話はまったく聞かない。国際化とナショナリズムが同時進行しているのだ。 フランスの多様性の中でもとりわけ多くの人の口に上るのはなんと言っても首都、パリだろう。そこはまるで独立国のようであり、それぞれに個性を持つ他の地方とはまるで違った、そして本当の意味での国際都市になっている。 パリ * 木村尚三郎 * 文春文庫 2003年12月6日 「世界の都市の物語」シリーズのうちの一つ。パリの現代を、過去にさかのぼって語る。そこにはさまざまな歴史的な事件があらゆる街角に刻まれているのだ。観光客は到着したその日からパリ市民になるが、カフェやレストランを巡り歩き、パリの町が人との交流のためにあるということを痛感するだろう。 18世紀のパリにさかのぼってみる。16世紀からパリは美しくなり出した。ナポレオン3世の時には大胆な都市計画が実行に移され、パリはまさに国際都市にふさわしい顔を作りだしたのである。 さらに時代をさかのぼれば、中世にパリの原風景が見いだされる。敵の侵入から守るために堅固な城壁がつくられ、曲がりくねる道が網の目のように巡らされた狭い中に密集して暮らした住民たちは、アパートの上から排泄物を道路にぶちまける毎日であった。 19世紀は、エッフェル塔の建設に象徴されるように、現代のパリのおおもとがつくられた。鉄道駅の建設がすすみ、シャンゼリゼ大通りが立派になった。パリの良さはそのままに、放射状に広がる道路や広場、そしてそこには位置された銅像などの記念物が次々とつくられた。 パリの変化はとどまることを知らない。歴代大統領のもとでまた次々と新しい建築物が作り出される。それは過去の建築物とはそぐわないと言われたりしながらもいつの間にかパリの風景の中にとけ込み、新しいパリが作り出されていく。 この本のおかげで多くのインスピレーションを得、このあと出かけて実際のパリを有意義に過ごすことができた。地図やガイドブックも大切かもしれないが、歴史的な流れや全体像を前もって得ることもいかに旅を有意義にするか身にしみてわかった。 菜園家族レボリューション * 小貫雅生 * 社会思想社・現代教養文庫 2003年12月28日 いわゆる「自給自足」に基づく新しい体勢を目指す運動の一つである。著者の小貫氏はかつてモンゴルで暮らし、社会主義体制の崩壊と共に新たな歩みを始めた遊牧民たちの生活を7時間以上に渡るドキュメンタリーを制作し、全国で上映している。 モンゴルの人々は、アメリカ型のグローバリゼーションや競争原理ではなく、自分たち独自の生き方、そして地球を壊さない循環型社会の建設を目指す。小貫氏はその点に注目し、この生き方を日本にも持ってこようとこの映画を作ったという。 上映するのにこんなに時間がかかるものだから、観客は、昼と夕の2食分の弁当を持ってきてくださいといわれる。それでも多くの人々が見に来ている。タイトルは「四季・遊牧ーツェルゲルの人々」という。 菜園家族とは、現在の「兼業農家」の人々のイメージに最も近いかもしれない。100パーセント賃金に頼り切っている現代人の生き方をやめるのだが、現金がまったくない状態では現実世界では暮らせないことから、週のうち2日だけを賃金労働にあてる。 この考え方は、フリーターに似ているが、実はむしろリストラや人員削減による現代の失業問題を解決するのにも効果的である。つまりワークシェアリングが実際にこれで実現できるからだ。残りの5日間は、大地に結びついた農耕に従事し、また本当に自分のやりたいことを追求する時間を作っていく。 もちろんこのような考え方は今までも多数現れたが、現金収入をゼロにしないという天で、かなり現実性がある。著者は自分の主張を実践しながら今、滋賀県の鈴鹿山脈の山奥に住んでいるという。 |