わたしの本箱

コメント集(13)

  1. 前ページ
  2. アラビアのロレンス
  3. 世間の目
  4. 職業としての政治
  5. 空想より科学へ
  6. 続々ムツゴロウの博物志
  7. 鴎外随筆集
  8. 日本のゆくえアジアのゆくえ
  9. もう一つの食料超大国フランス
  10. 子どもの味覚を育てる
  11. 身近な科学ゼミナール
  12. 美味しんぼ塾
  13. SUVが世界を轢きつぶす
  14. 反社会学講座
  15. プルタコス英雄伝・上
  16. 定年になったら農業をやろう
  17. パリの亡命者たち
  18. 有機農業が国を変えた
  19. 素顔のフランス通信
  20. 吉永小百合・街ものがたり
  21. 日本国民に告ぐ
  22. 地球は売り物じゃない
  23. マンボウ夢遊郷
  24. 200万都市が有機野菜で自給できるわけ
  25. 日本人の清潔がアブナイ!
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2004年つづき

アラビアのロレンス * 中野好夫 * 岩波新書 * 2004/08/13

アラビアのロレンスすでに映画化もされ、第1次世界大戦の時にアラブ民族を率いて活躍したイギリス人ロレンスの小伝である。中野氏といえば、イギリス文学者でシェークスピアの見事な翻訳などを思い出してしまうが、どうしてこの人物に興味を持ったのだろうか。

ロレンスは、その出生からして伝説じみている。父親はすでに女の子数人をもうけた家庭を作っておきながら、娘たちの家庭教師と駆け落ちしてしまい、今度は4人の男の子をもうけ、その次男がロレンスということだ。

小さい頃から考古学に興味を持ち、ヨーロッパの城塞などを詳しく調査する一方、十字軍などの歴史を通じてアラブの世界にも惹かれてゆく。第1次世界大戦前における、トルコによる中東の占領は当時揺らぎつつあった。アラブ人たちは自分たちの民族意識に目覚めていた。

だがヨーロッパ列強はその望みを許さない。石油をはじめとする資源を何とか自分たちのものとしてしまおうと熾烈な勢力を争いを続けているのだった。だがロレンスはその持ち前の体力と異国に順応してしまう不思議な才覚によってアラブ人たちの信望を得て、トルコ軍を追い出すもっともめざましい戦いを開始した。イギリスもその点では国益に合うということでロレンスを援助した。

主に鉄道をダイナマイトで爆破することによってアラビア半島の主な港湾を手中に収め、ベドウィン族をはじめとするアラビアの民族を独立国へと導こうとした。だが第1次世界大戦が終わってみると、ベルサイユ条約にせよ、カイロ会議にせよ、その結果はアラブ民族の自立とはほど遠く、ロレンスの意図とはまったくはずれたものだった。ある意味では本国イギリスにしてやられたのだ。

失意のうちにイギリス本国に帰り、自らの体験を語り「知恵の7柱」などの著作によって一躍有名人になるが、植民地政策と帝国主義丸出しのその政府に愛想を尽かした。個人の努力が所詮国家の政策に対抗できるものではないにしても、彼の中東における戦いの結果は歴史を少なからず動かしたのだが、その後のロレンスの行動は矛盾と奇行に満ちたものになった。

ここに一人の天才の悲劇を見ることができる。ナポレオンに匹敵するような軍事的才能を持っていたにしても、正式に軍隊に属していたわけではなく、命令系統に束縛されることなく行動できた点はアラブでの活躍を可能にしたのだが、国際的な流れの中ではどうすることもできなかった。

終生独身で男性に興味を示し、若いときはサッカーなどの団体競技を毛嫌いし、きわめて皮肉屋でなぞめいた発言や文章を多数残して構成の研究かを悩ませたが、めざましい活躍をするように自己顕示欲が非常に強い一方で、きわめて内気であるという2重の性格が絶えず絡み合い、不思議な魅力を与えてやまないのである。このため現在事実と伝説とを判別することが大変難しくなっているのだ。

47歳でバイクを運転中に事故で死亡したというまことにドラマチックな一生であったが、そのとき彼はヒットラーと対談できる唯一の人物として関係者に連絡をつけるために電報局に向かう途中であったという。歴史に「もし」は禁物だといわれているが、もしヒットラーと会談していたら第2次世界大戦のヨーロッパでの戦いはなかったかもしれないのだ。

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世間の目 * 佐藤直樹 * 光文社 * 2004/09/08

世間の目ルース・ベネディクトに端を発する日本人論の一つ。著者は刑法を研究するかたわら、法律では中心的な概念である人権や個人が日本社会ではまったく無視されている事実が気になっていた。その理由を追及するうち日本特有の「世間」の存在に気づき始める。

「人間」と「世間」。ともに日本語では「間・あいだ」という語が入る。これはまるで実質的なヒトや社会ではなくその関係だけに目が注がれているような造語だ。まず、日本特有の人間関係の現れをお歳暮やお中元のやりとりに象徴されるような、「お返し」の習慣に注目するといい。

そして一見平等社会に見えるこの国で、実は目に見えない網の目のような上下関係が行き渡っていて人々はお互いに名刺交換でもしなければ上下関係の確認や敬語の使い方ができないほど複雑に入り組んでいることが見えてくる。「失礼がない」ように人々は細心の注意を払う。

これはヨーロッパにおけるキリスト教の普及と、カトリック教会における懺悔の制度によって「個人」の存在が神との対比ではっきりと打ち出されている場合と比較される。実はかつて世界のどこの原始民族も「人にしてあげるとその返礼を必ずする」という習慣があり、それが集団の維持と安定に寄与していた。

キリスト教のような宗教は、そういう古いしがらみをうち破り、ここから民主主義や個人、権利、義務の考えが生まれてきた。ところが日本にはそのような精神的大変革の契機がなかったために人々の精神構造はある意味で2000年以上も前から「野蛮」なままなのである。明治維新も太平洋戦争での敗戦も一般庶民の「世間」を一切変えることはなかった。

おかげで現代社会における日本人は、昔のしがらみを引きずっているだけでなく情報社会に特有な匿名性によりますますそれが強化される方向にある。日本人は「調和を尊ぶ」などという評判とは裏腹に、「世間」の持つ負の特性には、「同調性」「個性の埋没」「匿名性」「無責任」「ウチに優しくソトに冷淡」「プライバシーの無視」など精神性の低さを裏付ける要素がいっぱいだ。

確かに戦後の制度変革により世界の標準に達した法律が作られたが、実際にはいざとなると「世間の目」が遙かに強い力を発揮する。オウム真理教の信者が入学合格を取り消されたり、罪が確定したわけでもないのに警察に拘束されると職を失ったり取引先から絶縁されたりする。

「世間」のもう一つの特性は「匿名性をかぶった卑怯さ」である。社会でだれかが目立ったことをする、あるいは大きな事件を起こすとそれにたくさんの非難、陰口、無言電話が殺到する。そういう連中は決して自分の身を明かさない。ほかの人間と同調し「みんなでやれば怖くない」という雰囲気が蔓延している。

これらは学校、職場、交友関係、政治、あらゆる面に現れている。いじめの原因は「目立つこと」「異質性が強くでていること」である。だから人々の行動指針は「迷惑をかけない」「必ず受けたのに等しい返礼をする」「大きな流れに逆らわない」ことへと向かっていく。

古典「菊と刀」における「恥の文化」の考えもやはり世間という大きな圧力のもとに日本人が生きていることの現れであろう。人々の行動指針は「善悪」の判断ではなく、「世間様に顔向けができない」ということから発しているのである。

「ケータイとパソコンを使いこなす野蛮人」の国日本では、陰険、陰湿、陰惨が特徴のこの「世間」は携帯電話の普及によって弱まるどころか若い世代をも巻き込んでますます強まっていく傾向にあるようだ。これは未来社会にとっては実に暗いニュースだ。このため著者はさらなる研究のために「世間学」という学問分野を始めることを提唱している。

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職業としての政治 Politik als beruf * Max Weber * 脇圭平 訳 * 岩波文庫 2004/09/21

職業としての政治政治について、思想や党派に基づいてではなく純粋に社会学的見地から述べた力作。「プロテスタントと資本主義の倫理」の作者が、講演会でしゃべったことを記録した100ページにすぎない小冊子である。

国家とは暴力装置を後ろ盾にして、人々の上に権力を振るう。暴力装置とは、わかりやすく言えば国内で人を殺せば殺人罪に問われるが、戦争で敵国の人間を殺せば賞賛されるというダブル・スタンダードが大手を振って存在することに現れている。

政治はその権力の分け前をどのようにして分配するかの取引であると見てもよい。さて、政治を行うものは、二種類に分けられる。一つは、官僚であり彼らは生計を立てるために働いている。

一方、いわゆる「政治家」はその動機はいろいろあろうが、生計を立てることよりも、ある政治的目的を遂げることを優先させている。彼らはもともとは無報酬であることが多かった。だが現代ではその大部分は複雑な社会の中にあって一つの職業として確立している。

いわゆる民主主義の国と言われているところではイギリスに習って政党政治が行われ、首相があるいは党首が全体を牛耳っているが、実際のところその党員たちはほとんどがイエスマンにすぎない。実際の議会運営などを見ても分かるように与党と野党の間の議論は激しく行われるが、党内でのなれ合いは目に余る。

もう一つの問題は、アメリカに見られるように大統領制を取っているところは人民投票が行われていることだ。これは選ぶ側の「人民」がルックスやイメージだけで安易な判断をしない賢明な人々の場合だけなら問題はないが、実際にはまるでその逆が行われ効果的な宣伝で世論はどうにでもなるようだ。

選挙となると、各地区での集票マシンが動き始め、そこのボスが中央から金をもらって自分の受け持ち地区の投票をとりまとめる。このようにして巨大な選挙区全体の組織化が進んで大統領が生み出されることになる。そこには将来の政策を詳しく論じるといった雰囲気はない。だがこれでも民主政治だということになっている。

世界には宗教団体を後ろ盾にする政党も多い。だが「山上の垂訓」に代表されるような宗教の理想と、政治の現実が一致するはずはない。それぞれ別の道を歩むのだと明言すればいいものを、まるで両方をうまく統合したように見せかけるから政治の世界に欺瞞が絶えない。

マックス・ウェーバーはあくまで社会学の学問的立場からこの本を書いたのだが、読む方にとっては現代政治の痛烈な批判をよぶ強力な誘い水だ。アメリカ大統領選挙のための資金集めや党大会などの「茶番」もこの本を読むと明瞭な姿が見えてくる。

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空想より科学へ Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft *Friedrich Engels * 大内兵衛 * 岩波文庫

空想より科学へ社会主義を知るための何よりも先に読むべき入門書。誰にでも分かるように平易に解説が施してある。原始時代の生産体制から説き起こし、現代における工場における大量生産によって生じた諸問題をまず説明する。

かつては多くが自営農民だったが、牧草地が囲い込まれ行き場所を失った人々は大都市に流入した。これが無産階級の発生である。そもそもこのような人々が生じなければ悲惨な問題は生まれなかったのだが、資本家による生産を続けるためにはこのような「消耗品」が必要であったのだ。

まさにこの消耗品扱いが労働者たちのひどい労働条件、低賃金を生み出した。しかし著者は王制からブルジョワジーへ、そして無産階級へとその主権は移動するのが歴史の戻すことのできない流れだと主張する。

最終的に「月給取り」が人間らしく生きるためには生産手段を彼ら自身が獲得しなければならないのだ。いつまでも資本家に牛耳られているようであればその悲惨な状態は続く。ここの社会主義の誕生がある。この考えは早くからイギリス、フランス、ドイツの各国で様々なかたちを模索しながら成長してきた。

時今に至れりである。マルクスという協力者を得たエンゲルスは、ここで初めて世界中の労働者たちに受け入れられるような思想をまとまった形で発表する準備が整ったのだ。

もちろん21世紀から見れば、エンゲルスたちの主張からは見通すことのできない展開があったことは認めなければいけないだろうが、人類の歴史の中で、この18,19,20世紀に至る社会変革の流れをとらえるにはどうしても知っておかなければいけない見方であろう。

巻末に「英語版への序文」という序文らしくないやたら長い文章が添えられている。これは大陸と違い、貴族制度を温存したまま資本主義の発展を遂げたイギリスと、一気に革命によって封建制度をひっくり返したフランスを代表とする発展とは異なる特徴を念頭に置いて書き加えたものである。

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続々・ムツゴロウの博物志 * 畑正憲 * 文春文庫 * 2004/10/02

続々ムツゴロウの博物志現在、寄生虫を見たことのない人がほとんどであるが、サナダムシというのは、ほんの30年前には多くの日本人のおなかに住んでいたらしい。著者の父親が近所の人の肛門から見事7メートルほどの「同居者」を取り出したという<さなだ軍記>。

映画「グラン・ブルー」で日本でようやく知られるようになったフランスの潜水家、ジャックマイヨールは素潜りで100メートル以上潜ってしまう。人間の体は、我々が想像する以上に頑丈にできているのだという<人間讃歌>。

ゴキブリはなるほど雑菌の固まりである。人々はこの虫を忌み嫌うが、それでは無菌状態にすればそれでいいのか?生命の歴史が始まって以来続いてきた雑菌との同居生活は、生物の世界では当たり前でありこれをすべて駆逐しようという試みは人間にとって有害どころか絶滅させてしまうであろう。<月とゴキブリ>

なぜ卵は楕円形をしているのか?巣の中でむやみに転がらないようにするためか?<卵の秘密>では、実はそうではなく卵がまだ鶏の体内でぶよぶよしているときに重力のおかげで下に垂れただけなのだ。

いったんは絶滅を心配されたアホウドリは一体どうなっているのか。大きな群れが生息としていると言われる著者は何とか南の孤島、鳥島に行こうと何度も試みる。季節が巡ってくるとどうしても出かけたくなってくるのだ。<鳥島病始末記>

このシリーズも第3巻に達した。しかし自然の出来事を都会で書くには限界がある。あのルナールの「博物誌」を目指す著者にとって新しい試みが必要だ。このあと畑氏は北海道へ移住することになる。自然の中での体験を新たに書くことになる。

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鴎外随筆集 * 千葉俊二・編 * 岩波文庫 2004/10/11

鴎外随筆集小説家としての森鴎外が、さまざまな機会に書いた比較的短い随筆を集めたもの。漢文の素養が豊かだったが、それよりもましてヨーロッパ留学の成果、ドイツ語、フランス語の単語が(原語、時にカタカナで)至る所にちりばめられている。カタカナの場合、現代の表記とかなり違うので、従って注を見ないとその単語の意味をとることはほぼ不可能だ。

「サフラン」のように個人的な体験から思いついたままのものもあれば、夏目漱石を含む何人かの画家、作家について述べたものもある。また、九州の地方新聞のために書いた、「我をして九州の富人たらしめば」は漢文の読み下しのようだ。

世間の評判に反駁したもの、自分なりの歴史論、夜中にふと思いついて書いたものなど、小説からは思いもつかぬ視点がおもしろい。「礼儀小言」では西洋ではみなきちんとして礼儀が確立しているのに、日本が維新のどさくさの中で、かつての礼儀正しさを忘れ人間関係がおざなりになっていると指摘する。これは現代の日本人にも通じる主張だ。

「当流比較言語学」では、ある言語にほかの言語にある単語が欠けている場合、それはそれに該当する概念がそもそも存在しないからだという。たとえばドイツ語のStreber は<がんばり屋>という意味だけでなく、他人をあざけるニュアンスも含んでいるという。日本語にはこの語にあたる単語がないそうだ。日本では勉強家や努力家はいつも尊敬される方に回るのだから。

それにしてもその時代に活躍した作家の随筆は同時代の風潮や事件と密接な関わりを持っているものだから、そのような背景を十分に知っておかないと何について述べているのかさっぱりわからない。このためこの文庫本では全体246ページのうち、3分の1強が<注>に使われている。

最近の報道によると、鴎外が自分の娘に教えるために自ら作った歴史の参考書が発見されたそうだ。きっと興味深い内容に違いない。(朝日新聞2004年11月5日付朝刊)

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日本のゆくえアジアのゆくえ * 広瀬隆 * 日本実業出版社 * 2004/10/27

日本のゆくえアジアのゆくえ原子力問題、ロスチャイルド家の内幕など、多数の著書で知られる広瀬氏が、再び本を出した。しかし世界の状況はもはや止めようのないスピードで破局に向かっており、この還暦を迎えた評論家の将来への希望が果たして少しでも実現するかは疑わしい。「明けない夜」もあるのだ。

話はさまざまなテーマにふれる。まずは中国とアジアの全貌だが、中国のあまりに急激な成長と開発は、その人口がアメリカの4倍以上という恐ろしい数であり世界中が資源の不足と汚染に見舞われる未来が間近に迫っている。

そしてアメリカは依然として対外的には愚かな戦争と国内での浪費をやめようとしない。そのアメリカがあと4つもできたらどうなるのか・・・そして日本はこのかつての占領国に頭が上がらない。外貨準備として保有しているアメリカ国債を売りまくればよいのだ。

一方日本に目を移すと年金の破綻、天文学的数字の国家の抱える負債、いまだにアメリカに依存する一方の経済や貿易があり、そこから少しも行動を起こすことのできない無能な政治家たちの姿がある。郵政民営化は国民に大変な不便を強いる可能性があるのにこれはごり押しされようとしている。そしておとなしすぎる日本人。他の国であればとっくに暴動が起こっているはずなのに・・・

植民地主義の別名であるグローバル化とか、自由貿易主義という名前に浮かれれているうちに日本は世界でも珍しいわずか30%の食糧自給率を誇る?ことになった。特に外食産業はその安値を維持するために材料のほとんどは輸入品だ。狂牛病と鳥インフルエンザは、将来待ち受けているもっと大きな食料に関する災厄の前触れである。

日本の長時間労働は少しも改善されず、フリーターの増加、熟練技術者の減少、自由競争の名のもとに老舗が次々と姿を消し、自給率の減少の最大の原因である農業や漁業の後継者不足など労働と社会の条件は少しも改善されていない。

何もかも行き詰まりを見せる日本とそれをとりまくアジア、それでも少しは希望の光はあるのか。著者は燃料電池の実用化を大変期待しているようだ。確かにこれが普及すれば大きな経済革命が生まれることは間違いないだろう。しかし果たして予想通りゆくのだろうか。どうも今のところ燃料電池の開発とその普及速度はあまりに遅く、人類滅亡を止めるのには間に合わないかもしれない。

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@もう一つの食料超大国 * 実重重実(さねしげ・しげざね) * 家の光協会 * 2004/12/07

もう一つの食料超大国フランスすでにある食料超大国とはアメリカである。ところがこの国と食糧自給率がほとんど同じなのがフランスなのだ。ドゴール元大統領は「食糧自給ができていなければ独立国といえない」と言った。あれほど考え方が多様なフランス人だが、こと食糧の重要性に関しては全員一致の方針がある。国中どこへ行っても豊かな農産物があふれている。そして農民の発言力は過激といえるほど強力だ。

食糧に対する国民の一致した考え方が、この国の食糧政策をきちんと進め、真の意味での豊かな国の基本を作ってきたのである。食糧生産の盛んなところは同時に自然保護を行き届かせなければならない。世界に誇るフランスの味を維持するため有機農業をはじめとして品質のすぐれた食品を生まなければならない。

そのために現地生産品を「原産地呼称証明 AOC 」制度によってすぐれた食品の品質の維持とブランドの確立をはかっている。おかげでもともと豊かな多様性を誇っていた各地のワイン、肉、チーズの類が安心して変わることない味を持つことができるようになった。

確かにこの国にもハンバーガーのようなアメリカの食品による文化汚染は押し寄せているが、常に受けて立つ人々がおり、小学校では一流のシェフによる「味覚の授業」などがあってそのレベルが落ちないように努めている。

1990年代にはガットのウルグアイラウンドの交渉でアメリカと農産品の貿易品目としての扱いで鋭い対立があった。しかしあくまで自国の農業を守ろうとする国内での一致団結のおかげで自分たちの主張を最大限に通し、EC全体としての利益も確保したのである。

彼らは食糧の不足に陥るくらいなら「過剰」の方を選ぶ。たとえ「チーズの山とワインの湖」ができてもそれが財政負担を招くとしても食糧生産をあくまでも国の基本政策の一つとして頑固一徹に維持しているのである。

振り返って日本を見ると、輸出産業である自動車や電気製品などの利益を考えるばかりで、農業は見捨てられ軽視されその食料自給率はおよそ国家の存亡を危うくするほどに下がってしまっている。何という違いであろうか。

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@子どもの味覚を育てる Le goût chez l'enfant  * Jaques Puisais * 三國清三・監修、鳥取絹子・訳 * 紀伊国屋書店 * 2004/12/01

子どもの味覚を育てるこれまであまりにも「味覚」について軽く見られてきた、いや無視されてきたのではないだろうか。音楽の世界では非常に耳の鋭い指揮者が、何十人というオーケストラの団員の中からミスをした者をするどく聞き分けるという驚くべき「聴覚」が紹介されたりしてしているが、シェフや料理評論家の中にはそれに劣らぬ鋭さを持っているものが大勢いるのである。

これに対して一般人や子どもたちの味覚はますます退歩する一方だ。安易な食生活は健康に悪いだけでなく、情操面でも著しく貧困になってきている。独身サラリーマンは今や男も女も、外食の「早食い」が特技だ。小学生たちは塾に行く前に油にまみれたポテトチップスを口に放り込む。母親たちのきわめて幅の狭い料理のレパートリーのため、花粉症のようなアレルギーに悩む子どもたちの存在が当たり前になってしまった。今味覚の世界でも2極化が、そしてペット・フード化が進行中なのである。

フランスはそのすぐれた料理文化で知られているが、料理のすばらしさを維持するためには農業がしっかりしていなければならず、どこかの国のように食卓にあがるものの70%近くが海外からの輸入であるというのであれば、料理の存立すらおぼつかない。

さらに農業が成立するためには、安全な食糧を供給できるような体制と厳格な環境保全が行われていなければならない。そしてもし国民がこれまたどこかの国のように伝統食を捨ててファストフードやインスタント食品に飛びつくようであれば、きちんとした料理人たちの職場がなくなる。

そのためには小さい頃から食品の「味」についてしっかりした感覚を鍛えておかなければならないという考えがフランスに生まれた。まさに絵や音楽の場合と同じであって、幼児期から親しんでおくことが必要なのだ。子どもにもいろいろいて、もともと味覚が鋭い者、鈍い者さまざまなのである。これにだらしない親の食生活の習慣が加わり、大企業による消費支配がその上を覆っている。

味覚といっても舌で感じる部分は大して多くない。大部分は嗅覚によって、そして触覚、視覚、さらには聴覚さえも協力して食べ物のおいしさを演出するのである。犬猫のような食生活を送っている人々は単一の味、例えば甘みを多くしたものとか脂肪分を強めたもので構成されている「ファストフード」の奴隷となる。これは企業にとっては格好の収入源となるので、テレビでは連日連夜コマーシャルを流しているのだ。

このような状況の下で、この本の著者はしっかりした「味覚教育」のプログラムが必要だと痛感するに至った。漫画「美味しんぼ」シリーズの第1巻に、新聞社に入ってきた新入社員に「水」を飲ませて味覚の鋭さを判定させる場面がある。味についての企画を担当する記者を決めるためである。これと同じようなテストや子どもの味覚を鍛えるプログラムが紹介されている。

日本の小中学校でも、音楽や美術のほかに味覚を加えて大人になって豊かな世界を楽しめるようにカリキュラムを組み直すべきではないか。この本の日本語版のための監修者、三國氏はボランティアで全国の学校を回り「味覚教育」のために尽力されているそうだが、このような動きがもっと広がってほしいものだ。

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身近な科学ゼミナール * 橋本尚 * 講談社ブルーバックスB540 2004/12/29

身近な科学ゼミナール我々はふだん、次から次へと開発される電気製品の便利さをわかっていながらその中身がどうなっているかほとんど関心を持とうとしない。例えば携帯電話であるが、ほんの昔屋根の上に串刺しのような大きなアンテナを張っていたときからわずかしかたっていないのに、あの小さな機器の中にそれよりもはるかに鋭敏な受信装置があるのだが、それを使っている人にとってはこれは実に見事な「ブラックボックス」となっている。

このように果てなく続く科学技術の発展とは裏腹に人々のそれらに対する知識や関心はむしろ後退し、「理系離れ」などという言葉で表されるように両者の距離はどんどん広がってしまっている。知識が共有されず一部の人々の手に偏ってしまっているのだ。

せめて電流の流れ方とか、電圧の仕組みとか、CDを作る原理ぐらいは知っていてもいいのではないだろうか。我々は別に万能の知識を持つ必要はないが、どの分野に対してもまんべんなく浅くてもいいから一応の姿ぐらいはわかっているべきだ。さもないといずれずるがしこい支配者によって、愚民政治を行われる羽目になる。いや、もうそうなっているのかも。

そのような気持ちを持つ人々にとってごく身近な質問に答えてくれるのがこの種の本だ。別に難しい数式を理解する必要はない。ただ全体の原理ぐらいは押さえておけば、自然界の不思議や科学技術の巧妙さについて幾ばくでも知ることができるのだ。

目次を見ると、「電子の向きと電流の向きが違うわけ」とか、「スイッチを切ったら、それまで流れていた電流はどこへ行く?」などと基礎的であるがぜひ知っておくべき疑問も並んでいるのだ。大人になってこのような疑問があっても解決されることがなかった。現在の学校教育では人々の素朴な疑問に少しも答えていないやり方が多いことがよくわかる。

あれほどの情報を垂れ流しているテレビだが、このような疑問に答えてくれるような番組は、ほんの一握りしかない。情報社会の中の驚くべき知識の貧困。この事態に危機感を持つ人は少ないようだ。

この本の最初の出版が昭和58年とかなり古いが、それでも当時すでに技術の発展は一般人にはとても追いつかないほどに進んでいた。これが21世紀初頭になった今はるかに進んだ知識が蓄積されているわけだから、毎年のように改訂版というか、追補を出さなくてはならないほどのなのだ。

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美味しんぼ塾 * 雁屋哲 * 小学館 * 2005/01/10

「美味しんぼ」の原作担当者が、自らのプライベートな話を通じて食についての講義を載せている。漫画のストーリーとはなれて取材や制作のときの苦労話、自分の家族のこともいれて楽しく食べ物談義を行っている。

そのほとんどは自分が毎日食べる日本食についてである。たとえ最初は外国から取り入れられたとしても日本人が見事に日本料理にしてしまったトンカツやラーメンについても漫画に出てきた挿絵を使いながら説明してくれる。また漫画のバックナンバーの中でそれぞれのテーマを扱ったところも集めてあるので、再び漫画を読み直すのにも便利だ。

ストーリー中心の漫画とはまったく違ったアプローチで食の話に耳を傾けるのもまた面白い。一方で漫画の登場人物はみなこの著者の分身なのだ。なおこの本は漫画の第81巻が刊行された時点で出された。

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SUV が世界を轢きつぶす High and Mighty * Keith Bradsher * 片岡夏実・訳 * 築地書館 * 2005/01/23

SUV が世界を轢きつぶす「他人を犠牲にしても自分たちを守る」、これは銃社会アメリカのお気に入りの考え方だ。興味深いことにこれがそっくりそのまま SUV (sport utility vehicle)の所有に関しても当てはまる。自己中心的で暴力的、マッチョ( macho )的なことが何よりも好きなアメリカならではの工業製品なのだ。生殖と生存という最も原始的な本能に訴えるような製品なのだ。

第2次世界大戦後に余ったジープが、都会で事務労働につき大自然での冒険をあこがれる人々の目に留まった。ジープを所有していると四輪駆動を必要とするオフロード走行を一生することがなくとも何となく自然児になったような気がするのだ。アウトドア志向だとまわりの人々から言われるのがうれしいのだ。

アメリカ人には名うての他人指向者が多い。何よりも周りの人の評価を気にする。また周りの人が同じものを持ち始めるとその品物の品質の善し悪しに関わらず買ってしまう傾向(ネットワーク外部性)が実にうまく働いている。このような土壌から SUV は生まれた。

はじめは売れるはずがないと思っていた自動車会社は思わぬ人気にびっくりし、すでにあった小型トラックのフレームを基礎にして急遽、都会人好みの、車高の高い、タイヤの大きい車を作ってみた。そして何よりもアメリカ人気質に訴えかける巧みな宣伝が功を奏した。

売り上げは年々増大し、これまで小型車と燃費の良さで勝負してきた日本の自動車メーカーも方針を変換して SUV の生産を始めたくらいである。値段が高いのでこれまでは富裕層しか買わなかったのだが、すでに生産が始まって10年近くたち中古車も多く出回り、低所得者層や若者たちにも手が届くようになってきた。

SUVの売り上げのおかげで自動車会社は潤い、ひいてはアメリカ経済を牽引してきた。その金額は今をときめく IE の比ではないのだ。アメリカ国民の個人消費が依然として高い水準にあるのは、自動車購入と住宅購入にあるためなのだ。そのためもあって環境団体の声はあまり高くない。

だが、トラックから生まれた SUV はすさまじい重量を持ち、燃費はきわめて悪く、車高が高いために重心が高くなって横転の危険は多く、さらになかなか気づかれにくいことだが万一他の車と衝突事故を起こした場合にはそのボンネットの上に乗ってしまい相手の乗員を大きく殺傷してしまう可能性が高いのだ。

この3つ目の問題、つまり他の道路交通で使われている乗り物に及ぼす害(これを compatibility と言うが)がSUVの場合には非常に大きな問題となっている。これはエゴイストにとっては自分が戦車に乗っているから他の乗り物から自分が守られているという自己中心的な考えと強く結びついている。しかもこのことはすでに自動車会社のマーケティング担当者はよく知っていることなのだ。

この告発ルポの著者はニューヨークタイムズの記者で、2002年にこの本が出て多くの賛否両論が出たが、SUV の人気は衰えていないし、効果的な規制も出ていない。保険会社がSUVに高い保険料を高く請求すればいいのだがその動きも鈍い。それどころか世界中でそのまねをする人々が増えてきた。

イラク戦争はこうやってみると SUV の燃料を確保するための長期的戦略の一環なのかもしれない。そして残念なことにブッシュ大統領が京都議定書に反対の立場をとり、アラスカの石油掘削にゴーサインを出し、アメリカ国内のに酸化炭素放出量が野放しにしていても、彼の政策に賛成する人の方が圧倒的に多いのである。

温暖化がひどくなってにっちもさっちもいかなくなるか、規制がきちんと施行されるのが先か、もう時間はほとんど残っていない。

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反社会学講座 * Paolo Mazzarino * イースト・プレス 2005/01/25

反社会学講座統計やグラフを読みとるとき、ちょっとした見方で大きく結論が違ってしまう。それが社会現象についてであると、調査の仕方、アンケートの選択肢の書き方、聞き取るときのちょっとした態度ですっかり違った数字が出る。社会学はこのようにきわめて誤差の大きい「学問」なのだ。

さらに理系ではとても考えられないようなおおざっぱさと、理論をまとめる学者のいい加減さと、一般の人々の何事にも信じ込みやすい性格が加わると、とんでもない結論が出ても驚くにあたらない。著者は、そのようなでたらめがのさばる「エセ」社会学を痛烈にこき下ろしているのである。

これはマスコミの言動にすぐに影響されやすい一般の我々に実に重要な見方を与えてくれる。今までにない見方で話を進めている著者は日系イタリア人だが、このように日本文化の外から見た傑作にイザヤ・ペンダサンの書いた「日本人とユダヤ人」がある。

本書で取り上げた話題として、「最近の少年犯罪が増えているかどうか」がある。増加グラフを終戦直後までさかのぼれば、昭和30年代が最も多いことがわかる。同時に犯罪の低年齢化も別に最近に始まったことではないことがわかる。安易にマスコミに乗って思いこみをしてはいけない例だ。

そのほかに「親元から独立しようとしない若者」「財産を使い尽くすバカ息子(娘)」「勤勉な日本人」「不安定なフリーター」「ふれあい天国」など、マスコミの人々がしたり顔で攻撃対象にするときの論理がいかにでたらめかを返す刀で切ってみせる。

「フリーター」は日本国内では風当たりが強いが、ヨーロッパやアメリカではフリーターの数は日本よりずっと多い。ところがフランスなどでは、たった一日のアルバイトでも社会保険の対象となり、日本式に言えば国民総正社員なので単純に比較するわけにはいかない。

また欧米崇拝の日本人が思っているのと実状は違っていることを紹介して見せ、いかに普段の思いこみが勝手な欧米人像をつくられるかがわかるのだ。さらに続けて「英才教育は必要だ」「読書は大切」「少子化は国の存亡に関わる」というような普通の人が大まじめに考えていることにもメスをふるう。

全体を通じて適当な論拠で、いやまったく話しにならない理屈をこね上げて新聞や学者たちが主張していることがよくわかる。普通の人はそれが正しいと思いこまされている、いや洗脳されているといってもいいのだ。もっとこれからは用心して彼らの話を聞くことにしよう。

この著者の一貫して持っている人間像は、「いい加減人間」である。歴史全体を通じて人間はずっとそうだったし日本人もそうなのだ。がむしゃらに働いたり、正義の味方だったりという見方はいずれもどこかの利権団体が勝手に考え出したものであって実際の姿はもっと生活に根付いてしたたかだったのだという。

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プルタコス英雄伝・上 * 村川堅太郎・編 * ちくま学芸文庫 * 2005/02/16

プルタコス英雄伝・上プルタコスという伝記作者のおかげで、かつての人々の暮らしや歴史などが生々しく伝えられることになった。昔の人は家系にこだわるようで、それぞれの英雄はその両親や親戚に特筆すべき人がいると必ず記録をとどめずにはいられないらしい。

ただし、その文体や描写の重点は現代人とは違うので、やや読みにくいことがある。また当然のことであるが、人名がやたらいっぱい出てきて、それを記憶するだけでも一苦労である。またそれぞれの人物の描写は詳細になされていても、ギリシャ・ローマの歴史全体との関連がなかなか見えてこない。

読む前に十分に背景となる政治、文化、戦争などの流れをしっかり押さえておく必要がある。この本が、一般の文庫ではなく、「学芸文庫」にはいることになったのも、やはりかなりの予備知識を必要とするためであろう。

  1. テセウス:ヘラクレスの後継者ともいえる人。半ば神話化している。数多くの怪物や悪人退治に活躍した。
  2. リュクルゴス:スパルタの政治家。スパルタを質実剛健で強力な軍事国家にしたが、贅沢を禁止したために国民の不評を買った。
  3. ソロン:アテネの政治家。細かく日常生活のトラブルを調整する法律を数多く作り国家の秩序ある発展のもとを作った。
  4. テミストクレス:ペルシャとの海戦で総司令官を務め一時アテナイでは尊敬を受けたが、のちに「陶片追放」をくらい、落ちぶれた晩年を迎えた。
  5. アリステイデス:テミストクレスのライバル。テラミスをはじめとするペルシャとの戦いで活躍し、個人的には清貧をつらぬいたことで知られる。
  6. ペリクレス:アテナイ民主制の大物指導者。そのスケールの大きさによって死後大いに称えられた。
  7. アルキビアデス:ペリクレスの後継者。私生活では放蕩をきわめたが、政治面では実に巧みに立ち回った。最後には恨む者たちによって暗殺されてしまったが、アテネの人々は後でこの優秀な将軍を失ったことを後悔することになる。
  8. デモステネス:小さいときから弁論の腕を磨き、アテネの人々を動かすほどに影響力を持ったが、賄賂に弱く、最後の行き詰まりで毒を盛って自害したと言われている。

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定年になったら農業をやろう * 吉津耕一 * インデックス・コミュニケーションズ * 2005/02/19

定年になったら農業をやろう著者は新規に農具業を始めたい人のために紹介をしていたし、現在では只見町で古本屋で有名なたかもくを開業している。多くの都会に住むサラリーマンがいつかは農業を始めたいと思いつつも、子どもの教育や住宅を建設するといった「生活」のために実現が延び延びになっている。

だが、定年を迎え子どもから手が離れ、貯金や退職金、そして年金にゆとりがあれば、いつかは農業をやってみようと考えている人は多いし、実際その数は徐々にであるが増えてきている。農業には都会の仕事が失ってしまった本来の生き方のようなものがある。それは「自給」に基づいているからだ。

問題はどの程度にまで事業を広げるかだ。著者は大規模経営はやめたほうがよいと繰り返し言っている。それこそ朝から晩まで仕事に追いまくられ、機械化と相場の変動によって借金漬けになるのが落ちだと。農林水産省が勧める単一栽培、産地集中政策は破綻しているのだ。

豊かな老後を送るには、小規模兼業体制がよい。と言うよりは現金収入を農業に期待してはいけないのであって、食糧自給によって現金「支出」をいかに減らすかを考えるべきなのだ。くれぐれも農産物を純粋な商品として見なす、現代資本主義体制に巻き込まれるべきではないと。

そんなことより収穫の時に孫を呼んで楽しく食事ができることをまず第一に考えるべきである。一番大切なことは、自分で好きなように作物を選び、好きなように作り、儲けなど考えないことだ。自分で食べる分だけ作り、もし余ったらその時はだれかにプレゼントするか、直販所なり何かを利用して出荷すればいいのだ。

面積は野菜の自給だけだったら300坪、米も作るのならプラス300坪、そして小さな小屋。まだ仕事をしているうちから土地を取得し、週に1回ぐらい、あるいは別荘感覚で作物を作り、いざ定年になったら本格的に移り住む。有料老人ホームなどよりはるかに積極的な生き方だ。

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パリの亡命者たち * 山本耕二 * 草の根出版会 * 2005/02/21

パリの亡命者たち日本では、亡命者といってもさっぱり実感がわかないだろう。これがこの国がまさに島国であることの最も典型的な理由である。地面に勝手に線を引いただけの国境を越えて隣からより強い軍隊がやってきて自分たちを追い出したり、自分の国の支配者が独裁制に走り、自分の命すら危なくなったときに亡命者が出てくる。

フランスがこの場合の受け入れ先として紹介されているのは、ヨーロッパの長い戦乱の歴史の中で最も多く亡命者が向かう場所であったからだ。アメリカではない。アメリカはただ物理的に広い土地があるからお互いの距離が離れていて好き勝手なことができるからに過ぎない。

これに対しパリは、1789年の革命以来、自国の中でも激しい社会変動を経験し、その教訓の中から、人権思想や実際に役立てることのできる民主主義を育ててきた。フランスが、亡命者に対して最も門戸を開いているのはこんな理由による。もちろん日本は(政治的)亡命者など一人も入れないという極端な政策をいまだに続けていることも言い添えておかなければなるまい。

亡命者の受け入れはただ単に入国管理事務所で許可証をくれれば済むものではない。担当者が亡命者がやってきた国の事情に詳しくなければならない(日本では絶対と言っていいほどあり得ない)。またそのまま街に追っぽり出すわけにはいかず、外国人に対して理解のあるアパートの管理人がいて、そしてなによりも亡命者を世話する団体があって、さらに国家が勉強のための奨学金もきちんと面倒を見てくれる必要がある。幅広い社会全体からの支援が必要なのだ。

わずか135ページしかない薄い本であるが、後半はさまざまな理由からフランスに亡命してきてパリを中心に住み着いている人々の証言である。「事実は小説より奇なり」というが、まさにこれを実地に行ったのがこれらの証言だ。隣のスペインから、カンボジア、コロンビアに至るまで、淡々と述べられる驚くべき、そして悲惨な体験は地球市民なら必ず知っておかなければならない。

誰でも生まれたところを気軽に出て移り住みたいとは思わないし、それでも国外に出ることになったのはよくよくの事情があったからだ。ここで出てくる証人の多くは、家族や親戚、知人をすべて殺されたり、長期間刑務所に入れられたり飢え死にの一歩手前まで行ったりと、平和なニッポンではおよそ想像のつかない体験が語られる。それでもようやくこうしてパリに住むことができるようになった人々はそれもできなかった人々と比べればよほど幸運だったのだ。

この本は「草の根出版会」という世界の人々の暮らしや現状について考える本を出しているところで、「母と子で見る愛と平和の図書館」(子が楽に読めるほど易しい文体ではないが)シリーズの第41巻である。著者は写真家であるが、亡命者というのはもともと自分の過去を語りたがらない者であろうから、これだけの証人を集めて語ってもらった苦労は想像を絶するであろう。

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有機農業が国を変えた;小さなキューバの大きな実験 * 吉田太郎 * コモンズ * 2005/02/23

有機農業が国を変えたキューバは実に運がよかった。どういう点かといえば、20世紀の終わり近くにソ連が崩壊したからだ。それで石油の輸入や砂糖貿易がストップしたからだ。これは何か逆説的に聞こえるが、実はそうではない。

ソ連崩壊まで、キューバはソ連が高値で買い付けてくれる砂糖をせっせと作り、言われるままにひたすら輸出のために国家体制を整えていた。大規模農業を推進し、化学肥料、農薬を大量に投入し、機械化を推し進め、いわゆる「国際分業」に乗っ取って邁進したからソ連にとっては東ドイツと並ぶ優等生となった。

ソ連が崩壊したとたんに、キューバの国内経済は大打撃を受けて崩壊寸前までいった。アメリカによる経済封鎖もあったからなおさらであった。昨日までの石油が入らなくなり、これまでの農業は一切不可能になった。政府と農業担当者は、有機農業に切り替える以外に生き延びる方法はなくなったのだ。

それから10年余り。砂糖以外の作物、例えば野菜でさえ輸入していた極端な生産体制から生まれ変わって、食糧自給は着々と進み、肥料はたい肥を使って、それもミミズによる方法や、自然の循環をうまく利用して畑や田んぼを豊かにしている。

もともと亜熱帯性の気候であり、その土は肥沃ではない。化学肥料をどんどん投入しなければ生産は上がらないと信じられていた。除草剤や農薬は不可欠だと思われていたが。だがそれらに依存する単一大量生産をやめ、バイオロジーの成果を取り入れた他品種少量生産に切り替えたのだ。単に伝統農業に逆戻りしたわけではない。

しかも日本でも言われている「身土不二」の原則は世界共通であり、首都のハバナでもビルの裏側には畑の野菜がたわわになっている。だから都市そのものも野菜を自給しているのである。こうやって非能率な生産方式を脱出しただけでなく、世界の有機農業システムのお手本ともなった。

なるほど有機農業は手間がかかる。人手がたくさんいる。だがそれはある意味では失業対策にもなるのだ。大勢の都市労働者がこれを機会に農業に転業した。これまでの収入を大幅に上回った人もいる。アメリカの経済封鎖が続く限り世界の国々と大々的に貿易ができないにも関わらず、自立した国造りを勧めている。

ここでいう「自立」とは、貿易による分業体制によって自分の国の農業生産力を専門化させない、つまり様々な変動に対しても打たれ強い体制ができることだ。中国が急速な経済発展を進み、すぐ近い将来に列強による石油の奪い合いが起こる。世界中の国々がソ連崩壊直後のキューバと同じ状況に投げ込まれるだろう。

石油がなくなり、荒れた畑の隅に錆び付いたトラクターがうち捨てられている、とか食料輸入がストップして自給が間に合わず餓死者が出た、というようなことにならないように日本もこのモデルをよく研究して将来に備えておく必要がある。

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素顔のフランス通信 * 飛幡祐規 * 晶文社 * 2005/03/02

素顔のフランス通信19世紀のフランスは経済的にも文化的にもトップレベルの国だった。しかし2度の世界大戦の後にアメリカが事実上世界最強の国になってからは、凋落の一途を辿ってきた。植民地を失い、ヨーロッパ統合の中でのドイツとの主導権争い、そして世界のグローバル化。

この本が書かれたのは1990年代半ばなので、21世紀のフランスとは違うが、そこに至るまでの社会的、個人的な苦悩と模索が大きく出ている時代でもある。著者は18才にしてフランスに渡り、学生のあとフランス人と結婚した女性である。

経済的には、世界のグローバル化、というよりはアメリカの強引な金儲け主義によって、画一化が進み、フランスの田舎に残っていたチーズやソーセージなどの多様性が失われてゆく。安い大量生産の農産物ではフランス料理の素材としてはふさわしくない。また多国間貿易交渉(GATT)で自分たちの主張をよほど強めないと農産物はもとより映画作品までアメリカによって汚染されてしまう危機感。

アフリカなどに持っていた植民地が独立したあと、それらの国々からは移民が流れ込んだ。しかも90年代はフランスにとってますます不況が深刻化して失業者がものすごい勢いで増大した時期でもある。人権宣言を最初に作った国だけにそのような人々の扱いにも苦慮する。

しかし生活のアメリカ化が進む一方で、「自由・平等・博愛」の精神がなくなってしまったわけではない。「国境のない医師団」の活躍はその代表である。エイズの蔓延に立ち上がった人々の起こした運動も、政府を動かしている。

まだ90年代にはヨーロッパ統合といっても、自分たちのアイデンティティが失われるのではないかという恐怖感が、統合へのブレーキになっていたようだ。だから国民投票はどこの国でも賛成と反対が伯仲して、ぎりぎりのところで可決されたところが多い。しかしフランスにしてみれば18,19世紀の文化的な繁栄はヨーロッパ各地から移住、亡命してきた人々の才能に大きく依存していたわけだから、これからもヨーロッパ全体を視野に入れなければやっていけないのだ。

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吉永小百合 街ものがたり * 吉永小百合 * 講談社 * 2005/03/10

吉永小百合・街ものがたり俳優をしていると、ロケのために海外に行くことも多い。だが撮影に伴う忙しさのために、じっくりと現地を眺める暇はなかなかないものだ。それでも彼女は撮影の合間や終了後、そして自ら日にちを選んで積極的に世界のいろいろなところに出かけた。

彼女自身が語る、ラジオ番組の「街物語」が一冊の本になった。単なるガイドブックではなく、自分で感じたことを直接語っているのがよい。そしてなんと言っても現地の食事。よく日本人は海外旅行に出ても日本料理店に群がるなどときくが、彼女の場合はまるで逆で、現地の食べ物を何でも試してしまうのだ。

至る所で、「おなかいっぱい食べてしまいました」「美味しくて美味しくていっぱいお代わりをしてしまいました」という言葉が出る。海外をよく知るには、まず食べ物から前向きの姿勢であるべきだ。

映画の女優なだけにそれぞれ出かけたところにまつわった映画作品の話も混じる。これらの作品を書き抜いておいて後日ビデオで見てみよう。なるほどその国の人々の考え方や感じ方はその地の監督が最もよく知っているのだから。

本書に出てくる、それぞれの町を舞台にした映画、音楽、文学作品をあげてみると;ロンドン;メリーポピンズ・「マイフェア・レディー」、「哀愁」 パリ;「シベールの日曜日」「永遠の愛に生きて(Shadow Lands リチャード・アッテンボロー監督)」「アントニア(1996年)」 ラ・クンパルシータの曲:「歴史は夜作られる」のダンス・シーンと「お熱いのがお好き」にでてくる。

ベネチア;「ベニスに死す」この中に出てくる曲はマーラー交響曲第5番第4楽章アダージョ。ナポリ;「イル・ポスティーノ(郵便配達人)」プラハ;「存在の耐えられない軽さ」これに出演したジュリエットピノシェは「イングリッシュ・ペイシェント」にも出ている。ギリシャ;「旅芸人の記録」「霧の中の風景」「シテール島への船出」これらはアンゲロプロス監督作品。

ベトナム;「青いパパイヤの香り」インドのベナレス;「深い川」遠藤周作の作品。インド;「大地の歌」三部作と「インディラ」。ニューヨーク「ゴースト」「マンハッタン」「恋に落ちて」。サンフランシスコ;「ブリット」「ダーティ・ハリー」「ザ・ロック」アトランタ;「風と共に去りぬ」

現地のパーティや歓迎会に出るときも衣服やメーキャップもできるだけ人任せにしない。現地で着物を着たり、自分で布地を買ってスーツを仕立てたりする。旅のおもしろさは、案内人についていくのではなく自分で用意し計画し現地の食事、風俗、習慣に積極的に飛び込んでいくことにあるのだ。

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日本国民に告ぐ * 小室直樹 * クレスト社 * 2005/03/13

日本国民に告ぐ朝鮮における「従軍慰安婦」問題からはじめて、日本国民の現在におけるアノミー状態のひどさを警告した書。これまでの歴史を振り返り、なにが日本国の進路に深刻な害を与えているかを今までにない角度から説明している。

挙証(きょしょう)責任あるところに敗訴ありという。もし慰安婦が本当に強制連行されたかどうかに関して、韓国に謝罪して教科書にまで載せた日本政府はその事実が「なかったこと」を全面的に立証する義務を負う。しかし今から半世紀も前のことを立証するなんてとても無理だ。にもかかわらず日本は平身低頭の姿を世界にさらしてしまった。これほどまでのプライドと一貫した方針の欠如は何故なのか。

 日本の(初等)教育の進展は、明治維新後の不平等条約から解放されて一日も早く世界の列強に加わりたいという願いから生まれた。おかげで文盲率は世界最低水準となった。ところが、江戸時代以来の封建的要素が変わらぬまま続いていた。世界を驚かせた急速な資本主義化の過程で「伝統主義」から離れることができなかった。これは今にして変革を避け、しきたり通りに物事を進める諸官庁の中に根強く残り、変化の中に生き延びる体制がまるでできていない。

かくしてこれまでの封建的な精神構造とあたらしい資本主義的な流れとの間の分裂は深刻となり、フェティシズムの兆候としての戦争の自己目的化など、手段そのものを目的とする偏った行動が目につくようになったのだ。変革を恐れる政府の過保護が銀行にモラルハザードを引き起こし、業界再編成を著しく遅らせてしまったのもその現れの一端である。

明治維新で方向を見失った民衆をまとめ上げるため、大日本帝国体制を日清、日露以後に確立してそれまでバラバラだった日本人のアイデンティティを再確立することができた。これは、強力な宗教がなかったためにそれに代わる物として天皇がキリスト教的な神としてまつりあげ、教育勅語と共に立憲政治のバックボーンとなった。天皇はその非倫理性が追求されるとますます、神としての高い位置に登ってゆく。こうやって天皇は現人神(あらひとがみ)となった。

戦後、これまでの体制は一挙に崩れ、占領したアメリカが日本人が復讐戦争を企てることがないように徹底した洗脳計画をたてた。これは見事に成功し、現在の日本人は自分たちの起こした過去の戦争を完全に否定し、健全な愛国精神すら否定する至った。GHQによる検閲以前に自己検閲という形をとる日本のジャーナリズム。恥ずべき行為も経済的必要性の前には仕方がないという空気が、大新聞社すら事を荒立てないようにするという雰囲気に飲み込まれ現在に至っている。

戦後すぐに流されたNHKラジオによる、「真相はこうだ」などはGHQの宣伝がいかに巧妙であるかを物語る。南京虐殺や中国などへの侵略という歴史的事実はきちんと検証されないまま、歴史の中に葬られようとしている。そしてGHQによって戦後の日本人の精神構造は形作られそれが現在に至るまで続いている。

天皇を失い、GHQに洗脳された日本人は今は完全にアノミー状態(人々との連帯がない状態)に陥ってしまった。家庭内暴力からカルト教団まで進む方向も分からぬまま、暴走することになってしまったのだ。

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地球は売り物じゃない Le monde n'est pas une marchandise ジャンクフードと闘う農民たち * ジョゼボヴェ&フランソワ・デュフール José Bové et François dufour 新谷淳一・訳 * 紀伊国屋書店 2005/03/17 

地球は売り物じゃないフランスでは、ロックフォール・チーズ(羊の乳から作る)の輸入を巡ってアメリカと対立し、対抗処置の制裁を受けようとしたとき、農業の危機を感じて立ち上がったのが農民同盟であった。ボヴェは抗議行動の一環としてマクドナルドの「解体」を行った。これが世界的に有名になり、本人は裁判で有罪判決を受けたけれども、グローバリズムに対する象徴的な挑戦としてマスコミに取り上げられたのである。

ボヴェとの「共犯者」、デュフールは共にインタビューに答え、これまでの活動の履歴と、世界的な市場中心主義、規制緩和、生産至上主義のもたらす弊害について、ていねいな語り口で読者に説明してくれ、農業に関心ある人人に非常に重要な示唆を与えてくれる。。

当時問題になっていたのはアメリカ産牛肉ホルモン剤投入である。生育を早め肉質を柔らかくするために、ホルモン剤を与えていた。自然な発育を待てず少しでも太らせようというこの技術はまさに文化と農業の商品化の典型だ。

それだけではない。地域ごとの育てかたや独特の味など、アイデンティティの喪失をもたらし、食べ物に対する心理的な問題を無視している。(GM大豆やホルモン入り牛肉ときいてそれがが美味しいか?床に落ちた食べ物でもそのことを知らなければそれでいいのか?

このようにアメリカでは農業を「工業化」する流れが全盛だが、アメリカにも大企業に対抗する、小規模な農民の集まりもある。マクドナルドに群がる人々がいる一方で世界を変えるには「連帯」しかない。ボヴェたちも大西洋を越えて同じ志を持つ人々との連携を考えた。闘争だけでは目的を遂げることができない。「社会的つながり」から経済的な発展と改良が生まれるかもしれない。

ひたすら単一品種を一カ所に密集して植え、農薬と化学肥料を大量に投入して機械化を行い(その結果借金漬けになって)続ける集約農業の弊害。もちろんこんな形式は持続的農業ではなく、技術に頼った一時的な収奪に過ぎない。技術の発展は出産、農業、食べ物いかなる面でもその意味を抜き取って単にテクニカルなものに変えて行く。穀物のモノカルチャーを行う農民は自給用の野菜を作ることすらしない(なんと八百屋に買いに行く)。

欧州連合は、戦後の荒廃から増産努力で自給が達成されたあとで、もうそれ以上生産をあげるべきではなかった。ところが集約農業によってひたすら生産を続けさせ過剰に陥ってしまったものだから、それらを輸出に向けるようになってしまった。ところがアメリカやその他の食料輸出国との競争に勝つために生産物の値下げをしなければならない。そのために補助金(納税者の金による)までつけている。

大きな農業組織は大規模経営をすすめる。だがそれは農民の数をますます減らし、少数の人間が、企業の売りつける機械、農薬、肥料に頼り、単一生産の道を邁進することを意味する。借金に一生追い回され、市場価格の変動にもきわめて脆弱である。ところが多くの人々が、工業と同じく大量生産が最も効率的だと勘違いしているのだ。

これらの安い農産物は開発途上国になだれ込み、それぞれの脆弱な農業を破壊してしまった。途上国の農民を救ったどころか逆に自給努力を奪ってしまったのだ!その土地でしかできないあるいは非常の付加価値の高い産物を除いて(コーヒーやワインなど)、輸出向けの農産物をやめ、自国内向けだけの生産に少しずつ切り替えてゆくべきだ。

かつての農民はみな小規模で栽培、飼育、大工仕事、販売、と何でもできた。ところが農業技術の専門家、細分化、巨大化が進む。鶏を飼うにしてもひよこだけ、卵だけ、ブロイラー用だけと分かれてゆき、それぞれの農業者は全体が見えていない。多国籍企業の種苗会社が、特許を取った種を販売し、農民たちの自家採取をできないようにして種の販売利益をわがものとする。バイオテクノロジーの研究者たちには自分の専門ばかりに目を向け、哲学的ビジョンなど持たず、功利的な動機にのみ基づいて仕事を進めているものがあまりに多い。

農産物の生産高を一気に引き上げようという試みはちょうど永久機関を動かそうという試みに似ている。遺伝子組み替えによる作物を売りつける企業はその表示に強硬に反対する。誰でもおかしな育て方をした食べ物は心理的に受け付けないものなのだ。つまり我々の知らないうちに胃袋に入れてしまおうというのが彼らの魂胆なのだ。我々には何を食べているかを正確に知る権利がある。

品種の多様性を保つことによってのみ味のさまざまな要求に応えることができ、干ばつや悪天候にも生き延びることのできる品種を手に入れることもできる。それなのに大企業の政策は広域における単純な種類に限定した栽培だ。平気でまわりの競争相手をつぶすが、自分たちは喜んで補助を受ける、というのが業者の正体だ。かくして地域に密着した多様な品種が姿を消してしまいスーパーで通用する画一的な品種だけが残されてしまった。

農業の持つ多面的機能を忘れてはいけない。環境保全、都会人のストレス解消、など有形無形の恵みが農業によってもたらされる。だがそれは地平線まで続く小麦「工場」では決して得られないものだ。小規模の農民が集まって住みやすいコミュニティーを作り、ニワトリやブタが勝手に庭を歩き回っているようなところでこそそのような機能が実現する。

自由貿易主義の傲慢なやり方がが人間の食生活を通じての健康より優先するなどということは許せない。「輸入制限」こそ、公正な貿易には不可欠な条件である。自由貿易は経済の自然な法則なんかではない。単に経済的に優勢な側が貧しい人々から奪い取るための手段に過ぎない。自然な法則ならどうして人々はシアトルの WHO の会議に向けて抗議行動を起こしたりしただろうか?これは経済的勢力の専制に対して政治を復活させようというあらわれである。市場より政治が優位に立つべきだ。企業の横暴を押さえよ。できる限り多くの人々が小規模な農民になるべきなのだ。

付記;農的農業の十原則(1)できるだけ多くの人が農業を営んでいけるように、生産量を分配する(2)欧州全体や世界中の農民と連帯する(3)自然を尊重する(4)豊富な資源を有効活用し、希少な資源を節約する(5)農産物の購入、生産、加工、販売において透明性を追求する(6)味覚と衛生面での食品の品質を確保する(7)農業経営において最大限の自立性を確保する(8)農民以外の農村住民とのパートナーシップを模索する(9)飼育する動物と栽培する作物の多様性を維持する(10)つねに長期的な視野を持ち、グローバルに考察する

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マンボウ夢遊郷 * 北杜夫 * 文春文庫 * 2005/04/04

マンボウ夢遊郷「ドクトルマンボウ航海記」の北杜夫氏が、コンビを組んだ写真家と共に、中南米を訪れる。だが、すでに北氏は躁鬱病にかかっており、睡眠薬や十分な休息をとらないと、体調がおかしくなってしまう。

さいわい中南米に出かけたときは躁病の時期であったために、多くの人々と話をし、積極的に取材活動に取り組んだ。おかげで将来書く予定の南米への日本人移民を主題にした小説の材料は十分にたまったと思われる。

出かけたのが1977年、49歳の時だから、まだ中南米はグローバル化の波にも洗われておらず、昔からのインディオたちと新たに入り込んだラテン系の人々によってできあがっている社会を十分に堪能したことだろう。

訪れた国々は、メキシコ、コロンビア、ブラジル、ペルーの4カ国であり、メキシコを除く国々には大勢の日系人が住んでいる。彼らは現在の地位を築き、子孫が大勢生まれるまでには筆舌に尽くせない苦労を重ねたのだった。

マンボウ氏は水割りウィスキーが欠かせない。しかし現地の食物はよく食べる。かつて若い頃には船医として世界中の港に立ち寄り、カラコルム登山隊にも参加した北氏だが、もう寄る年波と躁鬱病のおかげで海外旅行もちょっと奥地に行くのも大変な冒険なのであった。

それでも、若い頃に親しんだ昆虫採集が、この南米で再び復活した。ここにはその美しさや大きさでは世界に誇る蝶々や蛾が豊富にいたからだ。北氏は昔取った杵柄といわんばかりに、捕虫網を振り回して、多くの標本を手に入れた。

本文を読むと、年のせいで息も絶え絶えという記述が見られるが、なんのなんの文筆活動はその後も続くのだ。「輝ける碧き空の下で」という大河小説が最も注目すべきものだ。

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200万都市が有機野菜で自給できるわけ<都市農業大国キューバ・リポート> * 吉田太郎 * 築地書館 * 2005/04/9

200万都市が有機野菜で自給できるわけ浪費に浪費を重ねることによって経済を維持しているアメリカのやり方は、人類の永続的存続のためにはとうてい採用できる文明形態ではない。しかし世界中の国々は今ちょうど石油をはじめとする資源の入手がたやすいという理由だけでその方式を採用し、取り返しのつかない環境破壊が進んでいる。

だが、いまのうちからオルターナティヴな(代わりになる)システムを考えておかないと、間近に迫った資源枯渇以後の人類に未来はない。さいわいキューバはそれまでのソ連による手厚い保護が、共産圏崩壊という大事件によって一気に何もなくなり、まったくのゼロから始めることになった。

カストロ首相という失敗はしてもそこから新たな改革の方法を考える、柔軟な頭の指導者を持っていたおかげで、キューバは立ち直ることができた。それは別に他の国と同じ「工業化」に成功したわけではない。もっとユニークで、未来につながる方法を考え出したのだ。

経済援助を断ち切られ、アメリカからの経済封鎖を受けていた1990年代、キューバは絶体絶命の状態にあった。これはちょうど将来における世界各国が石油資源を失った構図にそっくりである。ここからはい上がる方法がいろいろ検討されたがいずれも従来の考えに基づいたもので結局は失敗してしまった。

それまで砂糖輸出一辺倒だったキューバは、自らが食料を少しも生産していないことに気づいた。つまり食料をはじめとして、あらゆる製品の「自給」がゼロであったのである。この反省にたって、まずは自分たちの食べる食料の生産に集中した。小さな島でその人口の大部分が都市に集中しているキューバでは、農村部の生産だけではとても足りないのである。しかもそれを運んでくる移動手段が不備である。

そこで考え出されたのが、都市の中であらゆるスペースを開墾してそこで食料生産を営むという発想である。これはいわゆる家庭菜園の発想なのであるが、これが裏庭、屋上、空き地、道ばた、公園などと考えられる限りの農地での栽培が始まり、それがハバナの200万市民に十分食べさせられるほどに成長したのである。さらに家畜まで飼い始めた。

しかもこの話にはおまけまで付いている。当然小規模生産であるから、農薬や化学肥料はいらない。むしろ都市の中で出てくる生ゴミや排泄物を活用することができる。これが循環可能な有機農業として成立するもととなったのだ。そのノウハウは組織的に蓄えられ、世界中の有機農業に興味を持つNPO(たとえば FOOD FIRST など。)にとりあげられて知識が広がっていっている。

今世界中で最高の価値と思いこまれている自由市場の原理を否定し、社会主義によるセーフティーネットをしっかり張った上で、自国内の農業を育成し、ゼロ成長、ゼロエミッションの社会を建設しようという点でこの国は未来社会のあり方に関するきわめて有望な実験室となっているのである。

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日本人の清潔がアブナイ * 藤田紘一郎 * 小学館 * 2005/04/10

日本人の清潔がアブナイ!文明は人間を家畜化する。すなわち「便利」「安全」「省力」という人間の飽くなき欲望のために奉仕してきたために、人間はすっかりそのとりこになってしまった、つまり人間は文明に飼い慣らされてしまったのだ。

これは野生の状態で絶えず苦難と闘い知恵を働かせなければならない場合と正反対で、ぬるま湯に使った状態なため、本来持っていた人間の体力、気力、免疫力といったあらゆる面が次第に鈍っていって生命力全般の低下を引き起こす。

日本人の場合にこれが顕著なのは、なぜだろうか。それは昔からあった清潔好きの傾向がますます過激になってついには病的な域にまで達したからである。マスコミや宣伝が、人々が持っている健康に対する不安につけ込み、その不安を解消するために、さまざまな薬品や器具を売り出した。

その中には、「抗菌剤」「殺菌剤」から始まって、一日に何度も体を洗う習慣や、外界からのどんな有害なものも遮断してしまうという過保護な態度も手伝って、世界でもまれな「清潔大国」が生まれてしまった。

実は生物の体は、数多くの寄生虫、バクテリア、ビールスなどと長い間つきあってきたために、それらをうち負かして撃退するだけでなく、「共生」する方法に落ち着いたものもある。そういう場合はお互いにがいを与えることなく安定した関係を続けることができる。

具体的には昭和40年ぐらいまではどんな子供のお腹にもいた回虫などである。これらは害をなすこともなく、下肥によって循環した畑の栄養分と共に人間の体をぐるぐる巡っていた。これが実は余計なアレルギー反応を押さえてくれていたらしいことがわかったのはごく最近のことである。

いまや21世紀の日本人の体の中には寄生虫は一匹もいない。これまで寄生虫を相手にしていたからだの機能の一部が仕事もなくなっておかしくなってしまった。それが今度は花粉やごく普通の食べ物に含まれるタンパク質と激しく反応をするようになってしまったのである。

人間の体の遺伝的な部分は1万年前とさほど変わっていない。ましてや江戸時代の時の体質と現代人の体質が早急に変われるものではない。この結果現代の過保護生活により体が不適合を起こしているのである。

生活のあらゆる面にわたって進んだ「文明化」はいまや人間絶滅の危機さえ秘めている。日本はその中でもとりわけ極端なライフスタイルが蔓延しているため、最初におかしくなる国になるのではないか。

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