わたしの本箱

コメント集(17)

  1. 前ページ
  2. 長崎のチンチン電車
  3. 世に棲む日日(1)
  4. 現代葬儀考
  5. 世に棲む日日(2)
  6. 世に棲む日日(3)
  7. 世に棲む日日(4)
  8. 何も起こりはしなかった
  9. 英語戦争
  10. アメリカ・インディアン悲史
  11. ウェブ社会をどう生きるか
  12. 少数言語をめぐる10の旅
  13. 空想より科学へ
  14. 中流という階級
  15. 蟹工船
  16. 党生活者
  17. はじめてみよう言語学
  18. 緊急救命室
  19. 英語の感覚・日本語の感覚
  20. 書を捨てよ町へ出よう
  21. かもめのジョナサン
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2007年

長崎のチンチン電車 * 田栗優一・宮川浩一 * 2007/03/11

数多くの路面電車が日本では、モータリゼーションの中で廃止されたが、ここ長崎では、中心的人物の先見の明もあり、立派に黒字を達成ししかも1回100円という安さで市民に役立っている。

意外なことに、この電車は市営や県営ではなく、れっきとした民間企業だ。主な通りの両側が急な山で、住宅地に自動車の出入りがしにくいという地形が電車の存続に役立った。

しかも徹底した合理化、他の町からの車輌の譲り受け、車体全面広告の実施、短い間隔の電停など、昇降客が利用しやすい改良などがこの会社を支えてきた。そしてヨーロッパに始まるLRTの見直しがその追い風になったといえる。

観光地として有名なこの町もほとんどは市電を利用すれば見て回れるし、その移動費用も安価で渋滞に巻き込まれる心配もない。そして何よりも商店街が空洞化しにくい。人々は郊外の大モールに行って買い物をしなくとも、気軽に電車に飛び乗って町の中心に向かえる。

これこそが人間サイズの町づくりの見本であり、広大な駐車場から、どこでも同じデザインの画一的巨大モールなんかより、はるかに楽しい時間を過ごすことができる。そしてなんと言っても環境に多大な影響を与えない。

今まで日本の地方行政担当者たちは、まさに愚劣な政策にしがみつき、道路を広げれば渋滞がなくなり、町が栄えると本気で思いこんでいたらしい。空洞化と、ますますひどくなる渋滞、公共交通機関の慢性的赤字はみな彼らがわざわざ作り出したものだ。

物流はともかく、人の流れをマイカーで運ぶこと自体が誤った方向であったことを今になっても悟らない担当者があまりに多すぎる。マイカーに乗っている人間を見よ。長さ3メートル以上の乗り物にたった一人で乗っている。これでいていったいどのくらい道幅を広げ駐車場を作れと言うのか?

東京のような超大都市は地下鉄が必要だろうが、人口密度の低い中小都市には、建設費も維持費も安い路面電車が最も向いている。中には無理して地下鉄を作ろうとしている地方(痴呆?)都市もあるが、その都市ではこれから何十年もその借入金の返済と膨大な維持費に押しつぶされることになる。

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世に棲む日日(1) * 司馬遼太郎 * 文春文庫 * 2007/03/15

吉田松陰は長州藩、萩の生まれ。家が代々兵学を教授する役目を藩から仰せつかっていたので、彼も小さいときから家庭教師をつけられて関連科目をみっちり仕込まれた。

しかしその優秀さと、総合的なものの見方をする傾向からもっと広く世界をみたいと思い、平戸に留学する。ついでに九州を歩き回り多くの友人を作り大いに成長して帰郷した。

彼の旅好きはその後も続き、彼の本名「寅次郎」がもしかしたら「男はつらいよ」に使われたのではないかとふと思う。次には藩を説得して江戸にも留学することになる。ここでも広く見聞を求め、東北旅行を目指す。ところが藩の許可を待つのが友人との日取りが合わず、彼は脱藩して旅に出る。

前代未聞の行動に明治維新の志士たちの先駆けを見ることになるが、これにより藩から10年間の追放を命じられ、松陰は、江戸の佐久間象山の門下になって勉強を続ける。

そこへ青天の霹靂、ペリーの黒船が浦賀に入港したのだ。国中は大騒ぎ。そして松陰も興奮して今後の日本の行く先を論じたレポートを作成し、藩に提出をしたのだった。

このあたりから象山が持て余すような彼の過激な行動が始まる。それだけでは済まず長崎に停泊していたロシア船に密航することすら考えるが、船は彼が到着する前に出航してしまっていた。

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現代葬儀考 * 柿田睦夫 * 新日本出版社 * 2007/03/19

だれも考えたくなくて、いつも先送りしていること・・・それが人生最後の日のことである。特に日本人は自分の生活と死とを切り離してそれを考えないようにしてきた。

そのため遺族はその日が来るとパニックを起こし、どうしたらいいかわからない。一方市場経済の自由競争は葬儀屋の世界にも押し寄せてきた。親しい人を失ってきちんとした判断力を失った人々は、悪徳業者の餌食になっている。

葬式、告別式、火葬、墓の建立、墓の守り、いずれの点でも人生の締めくくりとしてとても大切なことなのに、現代社会は地域コミュニティーが崩壊し、家族が独身や離婚といった形でどんどん孤立化してきたために、みんな業者任せになってしまった。

この本はまずその実態を取材してその混迷ぶりを浮き彫りにする。大切なことは、普段から死というものを避けて通らず自分はどのような最後を迎えたいのかしっかりと明確なイメージを持っておくべきなのだ。

それは本人がまず率先して行うべきなのだ。遺族になる人が葬式の費用を前もって計算するのは抵抗があろう。それぞれ自分の死がそんなに遠い将来ではないと思ったら、まずあとの人にどのような葬式をしてもらいたいかをしっかり示すべきなのだ。

残された遺族は(たいていは)愛する人を失ったショックでパニックに陥っているから葬儀屋からたとえばどんなレベルの葬儀を望んでいるか尋ねられてもまともに返事ができるはずがないのだ。

一方、これまでの佛教中心の葬式の仕方を離れて新しい葬儀の方法を模索する人々も増えてきている。遺骨の納め方一つにしても骨壺に入れて保管するだけでなく、海にまいたり樹木の間にまいたり、自宅に保存したり様々な方法が提案されている。

その中で最も自分の生き方に適したものを選ぶべきなのだ。最後の締めくくりの方法は自分の今の生き方を問い直すきっかけにもなる。死を自分に関係ないものとして切り離さずしっかりと直面することが今の生き様を問い直すことにもなるのだ。

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世に棲む日日(2) * 司馬遼太郎 * 文春文庫 * 2007/03/25

外国に行きたい一心の松陰は、ついに下田に停泊中のペリーの軍艦に、小舟を使って弟子とともに乗り込むが、当然のことながら捕まってしまう。その後江戸に送られさらに故郷の萩へと護送された。

禁を破ったために、死を覚悟していたが、孔子の「朝に学べば夕に死すとも可なり」のことば通り、死を目前にして牢獄の中で学問に熱中した。役に立つとか立たないとかいう思いなしに学問に専念できることを喜びと感じているのだった。

彼の開いた塾は無料であった。「教師無報酬論」を持っていたからである。そしてその純粋な考え方や、生を捨て無の境地を思わせる思考法は、ソクラテスを思わせる。さらにそれはすぐに行動に結びつくのだった。

行動への思い入れは「自ら慙(は)ず、少壮老いて為すことなきを」という言葉によく現れている。また、国木田独歩の「富岡先生」には、松陰とともに塾の教師をした男の話が入っているという。いつの日かこれも読んでみたい。

しかし井伊直弼の暴政が始まると、江戸へ再び喚問され、自分の思うことを正直に言うものだから、直ちに牢獄に入れられ刑死してしまった。松陰の跡を継いだと言われるのが高杉晋作である。

彼は松陰のものの見方に心酔し、排外的な攘夷論はその後の世の中の変化により開国論、そして倒幕へと形を変えていったものの、その信念のようなものは忠実に受け継いでいた。

江戸に行き長州の桂小五郎らと交わり、長崎から上海に渡った。この海外体験は、彼の思想や行動に多大な影響をもたらした。彼は外国に戦争を仕掛けることによって江戸幕府をつぶしてしまおうとさえ思った。

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世に棲む日日(3) * 司馬遼太郎 * 文春文庫 * 2007/04/12

獄死した松陰の遺体は、どうしによって引き取られたり幕府によって取り返されたりしたが、現在東京都世田谷区には松陰神社がある。そして彼の塾の門下生が中心になって新しい時代を切り開いていった。

歴史的に振り返ってみると攘夷は単に外国を退けるのではなくて(アメリカも独立当時は攘夷だった!)倒幕の結束材料になった。それが過激派の台頭を生んだのである。長州藩は、幕府の権威に対して勅命を利用することによって自分たちの立場を優位に立たせようとした。これが明治維新へつながるきっかけである。

晋作は奇兵隊を組織してすぐそこから離脱したり、藩の重要な役目を負ったり、砲台事件での外国との講和に飛び回ったりしたものの、失踪したりしてまわりの人々を煙に巻いた。

やがて蛤御門の変によって、幕府の巻き返しが始まると長州藩内でも再び佐幕派が台頭し、身の危険を感じた晋作はいったんは九州へ亡命するが、一大逆転を賭けて再び長州に戻るのだった。

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世に棲む日日(4) * 司馬遼太郎 * 文春文庫 * 2007/04/21

ここにきて晋作の攘夷論は戦略に過ぎないことがはっきりした。彼にとってまずは長州からしてクーデターを開始することが第一目標であり、志士たちの結束を図るために攘夷論を振りかざしたのだ。時代は変転し、日本のどんな藩もこれからは開国によって貿易を振興させる以外に道はない。

九州から戻った晋作は、藩外から来た連中から始めて奇兵隊その他の諸隊を説き伏せ、自分は下関に陣取り萩にいる佐幕派と対決する。少人数ながら夜襲・奇襲作戦は成功し晋作は再び藩の中で重要な位置を占めるようになった。

だが迫り来る幕府の攻撃を前に、戦闘準備をしなければならない。そして同時に藩内の攘夷の連中を大きく転換させなければならない。彼らによって命の危険を感じた晋作はしばらく関西、四国地方におうのをつれて身を隠す。晋作や長州の進む方向に好意を持つ人々に助けられ、また同時にこの国が大きく動こうとしているのを感じて再び長州に戻った。

幕府は瀬戸内海に軍艦を派遣し、また小倉藩に司令部を置きいよいよ戦闘開始となったが、ここでも指揮を執る晋作は紀州、夜襲を仕掛けて軍艦を追い払い、小倉からも幕府勢力を追い払うのに成功した。こうして薩長同盟の密約のもと、幕府を倒す下準備ができあがったのである。

だが、酒を飲み宴会で歌いまくり女を近づけた晋作は、結核に冒されていた。それもこの超人的活動のために末期に至っていた。戦闘がはっきりと成功したのが明らかになったとき、彼は息を引き取ったのだった。

坂本龍馬、西郷隆盛、その他幕末には魅力あふれる人間たちが出現したが、どうやら高杉晋作が最も私の好きなタイプであるようだ。それは権力者にならなかったからである。信長や秀吉、家康のような晩年を拒絶したことが何よりもすがすがしい。

そして破滅的生活を突っ走って太く短く生きた人生は、平々凡々に長生きする人間が多い中で実に光り輝く存在ではないか。「すべての優秀な人間はすべて1868年までに死に、凡庸な人間だけが明治の社会を牛耳った」ということばをこれほど証明している人間は他にいない。

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何も起こりはしなかった Art, Truth and Politics : The Collection of Harold Pinter's Voices * ハロルド・ピンター Harold Pinter * 喜志哲雄・編訳 * 集英社新書 * 2007/05/23

「フランス軍中尉の女」「帰郷」の映画のもとになったシナリオや劇作家、ピンターの講演を集めた本。現代の諸悪の根元はアメリカであり、その巧妙で残忍なやり方が数え切れないほどの民間人を殺し、自分たちは大儲けをしていると主張する。

彼らの外交政策を要約するなら「おれのケツにキスしろ、それがいやならおまえを蹴って痛めつけてやる」(74ページ)となる。アメリカの最終目標は世界の支配であり、これに対して人々は果敢に戦っていかねばならないと説く。

彼の劇作家としての感覚が、特に言葉の信頼性の低下について強調している。「自由のため」「民主主義の名の下に」などという表現を使いながら実際には全く逆のことをする政治家たちと、それに追随するマス・メディアの連中のおかげで、言葉の持つ本来の意味に対する信頼性がすっかり失われてしまった。

つまりだれも「自由」とか「民主主義」と聞いてもまともに取り合わなくなりそんなものが実際には世界から消えてしまったとして冷笑的な態度をとるようになってしまったのだ。アメリカに代表されるような政治家たちはこれからもどんどん言葉を破壊し続けるであろう。現代社会を理解するための必読の一冊。

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英語戦争 長谷川恵洋 文理閣 2007/06/19

戦後の日本での英語教育は、アメリカ主導型英語といって、コミュニカティヴ・アプローチを中心にして、即物的な表現を教え込むに重点を置いてきた。これは筆者によればアメリカによる文化的支配を狙うものであって、これを学校で教えられても買い物や旅行はできるようになっても内容のある議論をするためには役立たない、つまり自分の頭でものを考えない「奴隷英語」のための教育法なのだと主張する。

一方学校英語、またの名を受験英語とされてきた英語は、これまでの豊かな日本文化を背景にして、さらに明治時代の先人たちの苦労のおかげで日本語で自前の抽象概念を表現できる、日本主導型英語であるとする。これから先グローバリズムの波に飲み込まれないようにするためには一見時代遅れに見えるこの文法中心で訳読を重視する後者によって続けられるべきであり、決してファッション英語であってはならないとする。

ただしこれまでの英語教育には問題点があって、英語と日本語があまりにも構造的に遠い関係にあるという事実をだれもきちんと認識してこなかったことにある。今後は、両者の文法構造をそれぞれしっかり把握した上で学習を進める方法を考えていかなければなるまい。

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アメリカ・インディアン悲史 * 藤永茂 * 朝日選書21 * 朝日新聞社 * 2007/06/26

歴史というものは多面体だが、その面の一つでも書き忘れたり省いたりするとその正しい姿は見えなくなってしまう。さらに「忘却」という問題がある。残虐な想い出も世代が変わると忘れ去られ何事もなかったように思われる。この本はアメリカの「本性」を正しくつかむための必読の書である。

ベトナム戦争やイラク戦争を詳しく調べることはいい。だがそのわずか数世代前の軍人たちがインディアンの頭の皮をはいで祝宴をあげていたことを決して忘れてはいけない。軍人たちは家庭に帰り自分たちの”戦果”について自慢話をする。かれらのの息子たちは父親の”偉業”に敬服し、自分も優秀な軍人になろうと考える。娘たちは、父親と同じタイプの男と結婚することに抵抗はない。

代々同じような雰囲気で育った新たな虐殺者たちが再生産される。それが今のイラクのアメリカ兵たちだ。虐殺の歴史はつながっている。とぎれることのない「文化」となっている。

かつて「インディアンうそつかない」というテレビ・コマーシャルがあった。誇り高き北アメリカのインディアンたちは自然の中で自らの生き方を確立していた。彼らの間にはブッダもイエスもソクラテスも記録されていないが、結局彼らと同じことを言っている。つまり真理は世界どこでも賢い人には同じ真理が訪れるようだ。そして必ずそれらは少数派であり、勢力としては弱小である。

そこへヨーロッパから食い詰めた白人たちが押し寄せてきた。「食い詰めた」とは強欲、どん欲さしか頭にないということだ。インディアンたちの最初の失敗はニューイングランドに上陸して飢えのため全滅寸前になった清教徒たちに救いの手をさしのべたことである。「清教徒」たちはほかのヨーロッパ人と同じく、強欲でうそつきだった。「緋文字」にも描かれているように徹底的な偽善者でもあった。

優秀な武器と土地から最大の収奪をする技術を持つ白人たちに対して、インディアンたちはなすすべを知らなかった。徹底的に簒奪された北アメリカのインディアンたちの惨状は、南アメリカのインディオたちと比較してみるとよい。

この本を読みすすむと重く暗い気持ちにならざるを得ない。なぜならベトナム、イラクとまったく同じ歴史展開が示されているからだ。しかも淡々と出来事が述べられている。特にアングロ・サクソン系というのはどうしてこれまで偽善的、収奪的、どん欲になれるのか?これは人類の本質なのか?

少なくとも、彼らはラテン民族にはあまりない、統治能力と組織力を持っているから、世界で類を見ない略奪と虐殺をほしいままにしてきた。しかもそれは「自由・平等」という名の下に隠蔽されてきた。インディアンたちがじゃまになるとあからさまに追い出す。言うことをきかなければ軍隊を動員して殲滅をはかる。殺しが体裁が悪いとなると紙切れをつくって私的所有権を主張する。いったんは条約を結んでおきながら直ちにその約束を平気で破る。

彼らの多くはキリスト教徒だというが、彼らのやってきたことは見事なほどにイエスの行ったこととは正反対のことなのだから驚き入る。セルビア紛争で「民族浄化 racial cleansing 」という言葉が広く知られるようになったが、アメリカ合衆国では100年ほど続き、南北戦争が終わったあたりでこのことが完了した。

国内に行き場を失った強欲は今度はハワイ、フィリピンに向かう。そしてインドシナ半島へ、アフガニスタンへ、イラクへと広がる。その圧制と虐殺の規模はナチスのユダヤ人虐殺を小さく見せる。しかももっと恐ろしいことに国際的な糾弾をほとんど免れていることだ。将来共にアメリカ合衆国がこの地球上に存在することを許されるならば、これは地球規模での人類破滅を意味してしまうだろう。

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ウェブ社会をどう生きるか * 西垣通 * 岩波新書1074 * 2007/07/08

インターネットの世界では、いわゆるウェブ2.0と呼ばれ、グーグルによる検索が定着するようになった。これは大変便利で瞬時にして知識を世界の隅々から取り寄せることができるようになった。

だが、この便利さに感嘆してしてはいけない。グーグルの生まれは米国であり悪名高き金儲け主義が跋扈(ばっこ)するお国柄だ。彼らの作戦は利用者が知らないうちに宣伝に取り込もうとすることだ。

IT革命によって人類は少しも智恵が増したわけでない。単に手に入る断片的な知識が短い時間で大量にやってくるようになっただけだ。これを「進歩」と勘違いしている人々が多く、彼らはグーグルの仕掛けた罠に軽々とはまろうとしている。

人間が生きるための智恵と称するものは人類発生以来営々と体験したさまざまな蓄積であり、多くは目に見えない形で存在しているものであり、パソコンのキー一発で出てくるようなものではない。これから21世紀のウェブの世界を生きる人はインターネットの世界は単に「検索」が便利になっただけで、「思索」は相変わらず今まで通り汗水垂らして行わなければならないことを忘れるな。

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少数言語をめぐる10の旅 * 大角翠(おおすみみどり)・編著 * 三省堂 * 2007/07/24

言語帝国主義が幅を利かせ、世界の共通語は英語と決まり、それぞれの地域では国家権力によって公用語が急速に広まってゆく。かつては何万と会った言語は次々と消滅し、その記録も残らないままに人類の歴史から消えて行くのである。

各編の著者たちにはその悲壮感がありありと出ている。この本の編集者をはじめとして10人の言語学者は誰にも省みられることのない少数言語の解明に取り組み地域のインフォーマントを探し求め、丹念に記録を残した人々である。

ある言語を話す人々が急速にその数を減らし最後の古老が亡くなったときその言語は消滅する。その事態は動植物の絶滅と同じく加速度的に進んでいる。言語学の訓練を受けた人々はそれぞれの言語の特異性に驚嘆すると同時に人類の言語の実によく似通っていることにも驚きを隠せない。

アイヌ語、アフリカ奥地の言語、オーストラリア原住民の言語などさまざまな興味深い例が示される。言語には文化が密着している。世界中で進む均一化の流れの中で、人類が今までいかに多様性を生み出してきたかをこれらの研究が如実に示しているのだ。

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空想より科学へ * エンゲルス著・大内兵衛訳 * 岩波文庫 * 2007/08/02

あまりに有名な本であるが、学問的に難しい理論ではなく歴史的にたどりヨーロッパの労働と生産の姿がどのようになっているかをわかりやすく解説している。そしてそれまでの空想的かつ抽象的な社会主義理論に代わり歴紙変化を見極めた新しい理論とその実現に向かおうという意気込みが感じられる。

考えてみれば中世からの手工業が変わらず続いておりギルド制が残っておればこのような本は必要なかった。しかし産業革命とフランス革命を中心とするヨーロッパ社会の激動は新しい経済状況を生みだし新たに人間はそれに対処しなければならなくなった。

ある意味ではこの変動は人類にとって新しい悲劇を生みだしたのかもしれない。というのもそれまでののんびりして競争とはあまり縁のない生活をしていた人々がむりやり大都市に引っぱり出され新しい半奴隷状態に投げ込まれたのである。これを放置していたのでは金持ちはますます金持ちに、貧乏人はますますほんものの奴隷に近づき、人間性は完全に破壊されることになってしまう。

そしてこの本の現代的意味は、第二次世界大戦後 ILO などの尽力により労働状態がいくらか改善されたのに、サッチャーやレーガンたちの始めた「新自由主義」的政策が再び人々を19世紀の凄惨な状態に引き戻そうとしていることだ。その意味でソ連崩壊、中国の資本主義への移行の後、この本は新たな現代的使命を担って再登場することになった。

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中流という階級 Fear of Falling * Barbara Ehrenreich 中江桂子・訳 * 晶文社 * 2007/09/17

原題は「落ちるのが怖い」である。アメリカの中流階級はかつてはその専門性と独自の世界観により、それなりの尊敬を集めていた。だが合衆国がますます金儲けに邁進してその社会構造は変化し、少数の富豪と、大多数の貧困層に挟まれてその地位は揺らぎ収入は不安定になってしまった。

中には企業エリートに転身したものはいただろうが、それはごく少数で大部分はいつ自分がクビになり貧困層に転落するのかを恐れている。こんな不安定な状態では人々の尊敬を得るような地位の確率は望むべくもない。それまでは左よりの社会福祉を目指した者たちもひとり減りふたり減りして逆に振り子はレーガン政権の金ピカ時代を境に右へと振れていった。

しかも中流階級はある程度の金を持っているから消費時代には格好のターゲットでもある。巧みな宣伝と誘惑により彼らは自分の身丈にあわない買い物をし、不必要なものを買わされ、途方もないローンを抱え込まされている。自らの浪費もあって結婚したら望むと望まざるとにかかわらず共稼ぎをしなければそのステイタスを保つことができない。彼らはいつ転落するかの不安におびえながら日々を過ごしているのである。

当然のことながらそのような状況では社会を変革しようという意気込みが生まれるはずはない。大多数は保守化し現状維持を望む。何とかして上流の富裕層に目をつけてもらいたっぷりと報酬をもらいたいといつも望んでいる。下を見れば下層階級の格差のひどさが絶望的な状況をうんでおり明日は我が身かもしれず貧民に対して手をさしのべる余裕すらない。むしろ芥川の「蜘蛛の糸」のごとく下に落ちないためには同胞を蹴落とすしかないのである。

へたをすると中流は一層進む社会の断絶によりすべて貧困層に取り込まれてやがては消滅するかもしれない。著者は中流階級の持つ良識や忍耐強さ、見識の高さに期待して将来を楽観したいようだがどうなることだろうか。そして日本でも同じく中流階級は危機に瀕し、すでに消滅過程が始まったと断言する人もいる。

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蟹工船 * 小林多喜二 * 新潮文庫 * 2007/09/27

函館の港を蟹工船が出港した。この船は正式な船舶ではなく、いわば海に浮かぶ工場だ。そのわけは中で働く労働者を何ら規制を受けずにこき使うことができるからだ。

浅川監督のもと、東北や北海道各地からかり集められてきた食い詰めた元農民や炭坑夫らがこれから想像を絶する重労働につくことになる。もっと年若いのは雑夫となる。総勢400人あまり。

まだ冬になる前のオホーツク海へ出た船は、カニの大漁に恵まれる。連日の徹夜に次ぐ重労働。「糞壷」とよばれる臭くて狭くてびしょぬれの寝床。監督は体が弱った者や少しでも反抗の意思を示すものをピストルを持って脅し、殴りつける。

波の中に行方不明になった者、脚気で死亡する者が出てきた。労働者たちの不満が一気に高まる。この豊漁でこの船に投資した資本家は大儲けだ。彼らはわずかな給料、場合によってはほとんどピンハネしたあとの給料を渡すだけで年々肥え太ってゆく。

日本国を守ってくれると言う駆逐艦の兵士たちは、実は資本家の手先だった。船内で不穏な動きがあると即座にその指導者はとらえられ、艦に移されて拷問を受けた。折からロシアの「赤化」の波は日本にどんどん押し寄せており、大金持ちたちは早くから手を打っていたのだ。

監督に向けた第1回目のストライキの試みは失敗に終わる。だが函館に戻ればこのストライキを経験した者たちが陸に上がり、各地で新たな闘争を開始するのだ。

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党生活者 * 小林多喜二 * 新潮文庫 *2007/10/03

主人公の佐々木は、共産党の「細胞」の指揮者として活躍している。太平洋戦争も終わりに近づき、日本の敗色が濃くなってきた頃、多くの化学、鉄鋼産業は、軍需物資の生産を引き受けてどこも大変な活況をていしていた。

パラシュートを作っている倉田工業もそうで、本工の他に臨時工を600人も雇っている。だが会社は生産が一段落すれば彼らを解雇する気でいる。これは党の活動にとっては従業員の取り込みには絶好のチャンスである。

女性の党員や若い党員は従業員の中にとけ込み会社への不満を組織化していく。だが佐々木自身は警察に目を付けられついに表を堂々と歩くことができなくなってしまった。彼は転居をしてカモフラージュをするため女と暮らし、活動家から連絡を受け、中央に出入りし裏から組織行動を指揮してゆく。

労働者の気持ちを引きつけるには綿密な計画と非常な気配りが必要である。私服刑事がいつもうろうろしているし、会社の幹部はビラを没収しようと従業員を絶えず身体検査している。従業員は資本の残忍さをきちんと理解できていない。しかも「大衆党」などという政党も同じくこのような会社で活動している。

いよいよ労働者たちを解雇する時期が迫ってきた。佐々木らはビラをまき一大行動を起こそうとするが、会社の策略の方が上手であった。決起の前日大多数がよけいに日給をもらって解雇されストライキは不発に終わった。でもあきらめてはいけない。佐々木たちの訓練を受けた新たな戦士が会社内に残り、団結する事の大切さを知った労働者が社会に再び広がってゆくのだから。

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はじめてみよう 言語学 * 佐久間淳一 * 研究社 * 2007/11/12

言語学の基礎的な話が、言語学者のおじいさんとその孫娘、フィンランド人の青年の3人で興味深く会話が進められている。主に日本語のさまざまな面を扱っているが、世界の言語のことにも言及し、人類がどうして言語を獲得するにいたったかという究極的な問題を問いかけるところで終わっている。

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緊急救命室 Emergency Room * ダン・サックス Dan Sachs 編 * 玉木亨ほか訳 * 朝日新聞社 * 2007/11/22

アメリカの救急医療の現場に働く、医者たちの手記である。いずれも文才のある人たちが寄稿したものばかりだからその内容は真に迫り人生の極限状態が実に生き生きと描かれている。それにしてもこのような現場に働く医者というのは普通のサラリーマンの時間外労働とは比較にならないほど激しい場合がある。それこそ過労死ぎりぎりの線で、睡眠不足と戦いながら毎日を仕事に追われているのである。

なるほど人を救うことができてその使命感を貫くことはすばらしいことだが、手遅れになる場合や自分のちょっとしたミスで死なせてしまう場合も少なくない。そのような場合の周りからの責任追及の声や、自責の念とも戦わなければならない。

彼らの職業は明日からすぐできるというタイプの仕事ではない。一人前になるには何年もかかりしかもようやく使い物になると思ったときには毎日が激務の連続なのだ。はっきりいって現代社会の損得勘定では到底把握することのできない労働条件なのである。それでも毎日この仕事を続けている人々は世界中に散らばっているわけだが、一般の人々もこの際こんな世界がこの地球上に存在することを徹底的に知ってもらいたいものだ。

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英語の感覚・日本語の感覚 * 池上嘉彦 * NHKbooks * 2007/11/28

この本では英語や日本語の文法構造や構文のさらに奥にある、意味について論じている。まずは「二重音節」の話から説き起こす。人類の発明したこのシステムにより、ほとんど無限の音の連なりができるようになり、それぞれに「意味」を付与し始めたのだ。

言葉はさらに発展し、「多義語」「同意語」「反意語」「比喩」、現代に至っては「PC」のような分野まで広がってきている。話は単語の範疇を超え、構文の決定に当たっての意味の役割を考える。特にその中での動詞の役割、たとえば「動作」「状態」などそれぞれに特徴的な性質について考察している。

中でも、第5文型と接続詞that節のそれぞれの形をとるfind, think などについての話が面白い。話はさらに文と文との関係、つまりコンテクストの話にも広がる。文法や語法が正しくても受け入れることのできない奇妙な表現が存在するのはなぜかについて論じている。ほかに対人関係を表す「丁寧さ」などにも触れている。

話は、再び単語に戻って、その歴史的展開について考えている。最初にあった意味がどう変化してきたのか、どういう条件で変化するのか。話し手はどういうストラテジーで文章を作っていくのか。

ひとつの「事柄」についていろいろな表現方法が考えられる。日本語と英語のように、きわめて異なる言語ではその自称に対する扱い方がまるで違う。一方はくどいほどに忠実に事象をなぞろうとするし、一方は少しでも省略できる要素があるとためらいもなくそのような部分を捨て去ってしまう。また、現代の言語は身体性の強いものから、コミュニケーションの道具として便利な方向への向かっているようだ。

最後に言語の限界について考える。言語は何でも好きなことを表せる道具であるかもしれないが一方では人々の思考をある一定の枠に閉じ込めてしまう「牢獄」でもあろう。詩人をはじめとする人々はそのような限界を打ち破ろうと日々努力しているのだ。

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書を捨てよ町へ出よう * 寺山修司 * 芳賀書店 2007/10/20 

続・書を捨てよ町へ出よう * 寺山修司 * 芳賀書店 2007/12/05

この2冊は20世紀の中葉、1960年代に発表された。「中葉」という言葉がそろそろ似合い始めるほど、あの時代は過去のかなたに遠ざかってしまった。時間の過ぎ去る速さは光速度、という説が本当だと感じられる。

この時代には音楽も美術も文学もいっせいに花開いた。この時期がかつてのヨーロッパにおけるルネッサンスに肩を並べるほど実り多かったと主張するのは言いすぎだろうか?その中で詩人寺山修司は、その思想やそれからの活動のもとを示すような随筆の数々をこの2冊にまとめたのだった。

彼の文体は、多くの難解な詩人や思想家の影響を受けていながら大変明快で直接的な影響を人々に与える。なるほどあれから半世紀以上たった今、その時代的背景は激変したが、個人の生き方に関する疑問はあい変わらず続いている。

彼の励ましは無気力で怠惰な生活をする人々に訴えかける。この目に見えない巨大な権力が支配する世界で安逸な眠りにつくことはたやすい。テレビも、そして今ではゲームも人々の生活にしっかり入り込んで、日々洗脳をあたえている。

人々がいったん夢をあきらめ、現実への働きかけを失ったとき、その人の実人生は終わってしまっているといってよい。ではどうすればいいのか?革命を起こすだけが突破口ではないだろう。寺山の主張は日常生活における小さなきっかけである。そのひとつに「一点豪華主義」がある。ひとつの夢を実現するためにほかのことを極端に犠牲にするやり方、平均的な生活ではなく生活の小さなことから自分の生活の変革を目指す生き方である。

当時は日本は戦後の高度成長が大多数の人々の生活をこれまでに考えられなかったほどに豊かにした。ともすればそれで満足して現状維持になるのが中心的な流れであった。それをあえてはねのけて「マイホーム主義」の蔓延やそれに伴う夢の喪失を何とかしなければならないというのが彼の考えだ。

それは単に生き方だけではない。詩を中心とする情感に対する感受性を鍛えることも含む。鈍化した感覚は日常生活への埋没から生じる。この本に紹介されている数々の詩や伝記はそれまで関心がなかった、あるいは”決定的な霊感に欠け”ていた生活を見直すのに役立つだろう。

彼のたとえによれば体制に組み込まれて満足した生活は「トム・ソーヤー型」であり、不満を持ちつつも日常の変革を目指すのは「ハックルベリー・フィン型」である。カレーライスは前者の象徴でありラーメンは後者の象徴である。

この本を第1回目に読んでからもう30年たつ。2回目に1回目と同じくらいの親近感を感じる本はそう多くない。今かつて読んだ本の中からそういうものを選んで読み直しているが、この本の持つ価値がほとんど色あせていないのは自分が30年前と変わっていないせいだろうか?

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かもめのジョナサン Jonahtan Livingstone Seagull * Richard Bach 五木寛之訳 * 新潮文庫 * 2007/12/19

こんなにシンプルで短いストーリーが1970年代にどうして爆発的なベストセラーになったのだろうか?当時は60年代から70年代にかけての世界的な文化革命の時代。政治の季節だった。多くの人々が自分たちの置かれている不合理な立場を自覚した時代。ほかの時代では一冊も売れなかったかもしれない。特に21世紀前半では・・・

主人公のジョナサンは群れの掟に背き、「離れかもめ」になってひたすらスピードへの挑戦をおこなう。やがてそれは現実の世界では信じられないほどのレベルに達し、同じく「悟った」カモメたちの世界へ移り住むのであるが、かつての群れたちのことが懐かしく故郷に舞い戻り後進の指導に励むというものだ。

この寓話は当時の、そして21世紀になってはますます深刻化する集団の成員への厳しい管理と、個人の無力化に焦点を当てているのだろうか。画一化が進み人間が蜜バチのような状態に成り下がるさまを見て、ジョナサンの物語は何か無言のうちに警告になっているのかもしれない。

また、ジョナサンの属していた群れとその長老たちの態度に注目することもできる。権威主義的な長老たちの発言はまさに「体制維持側」であり「サイレント・マジョリティ silent majority 」であって、「反体制」をことごとく追放しようというのは、人間社会に日常的に見られることだ。

ただ、「星の王子様」もそうであるように、このタイプの物語は個人に自由自在な想像と解釈を許す。もちろんそれでいいのかもしれないが、現代の人間がおかれた危機的状況を考えると、個人個人が「自分でものを考える」ことの必要性は誰が読んでも痛感するのではないだろうか。

それにしても寓話に選ばれた動物がかもめだということはやはり人々がこの鳥を「自由の象徴」と思っていることと偶然の一致ではあるまい。犬や猫のような家畜は論外として、蟻や蜜蜂のような生活では、ますます圧制を連想させてしまうし、ライオンや熊では自然環境にがんじがらめになっているイメージを与えてしまう。

かもめを主題にまたは歌詞の一部に取り入れた歌がなんと多いことか。特に日本では周りが海に囲まれて川沿いに内陸部にやってくるかもめあるいはウミネコも多いから、彼らが自由に空を飛び、スズメのようにぬかみそくさくなることもなく、ツバメのように徹底的に家族思いということもなく、鳩のようにずうずうしくなることもなく、カラスのように泥棒に徹することもなく、さわやかで実に題材にしやすい存在なのだろう。

なお、この本に添えられた Russell Munson によるかもめの写真がすばらしい。別に本文を読まなくてもさまざまな空中での姿を披露してくれる彼らの生き様を眺めているだけでも終末に近づく人類という種の一員を元気づけてくれるのだ。

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