わたしの本箱

コメント集(3)

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凡例

(辞書・参考書類を除く)

題名 * 著者または訳者 * 出版社 / 読んだ年と月

(再) = 以前に読んだことのある本

 = 図書館あるいは人から借りて読んだ本

色別区分 三回以上読まずにいられない本 

二回読んでみたくなる本 資料として重要な本


2001年

世界の歴史がわかる本(3)ー帝国主義・・・現代 * 綿引弘 * 三笠書房  01/05/01

シリーズ第3弾になる。

列強諸国がいかに植民地支配に血道を上げたかが詳細の述べられる。たとえば、オランダの人間は元々ヨーロッパでは背が低かったそうだが、インドネシアを植民地にしてからは急に背が伸びたそうだ。いかに搾取が激しかったかを物語るエピソードだ。(河北新報社の社説より)

イギリスの分割統治、ほかのヨーロッパ諸国の尻馬に乗ったドイツのチンタオ占領、第2次世界大戦が終わると出ていった日本軍の代わりに素早く植民地を取り戻そうとしたフランスなど、国民性、倫理性に関わらず、いずれの国でも変わらぬ強欲さは人類共通のものなのだ。

日本のすさまじい戦後の経済発展も勤勉さなどのためではない。朝鮮戦争、ベトナム戦争特需のたまものなのだ。いったい「平和」とはどのように定義づけられるべきか考えさせられる問題である。

「すべての歴史は現代史である」と言われている。自分が生きている時代そのものも歴史の一部に違いはないのだが、あまりに身近なために、客観的に位置づけられないのだ。

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津軽 * 太宰治 * 新潮文庫 01/25/01

津軽太宰治が昭和19年、終戦の前の年に故郷の津軽に帰り、幼なじみや古い友人、生家の元使用人たちと再会した話。東京暮らしに疲れた、当時としては肩身の狭い小説家ながら、ふるさとではみんなから大歓迎を受ける。

それだけではない。自然の風物も彼にとって優しく、心和ませるものだ。久々に友と飲む酒もうまく、タイ、蟹、ハタハタなど、海の幸は高価なものでないだけに、新鮮さが心情の食卓を楽しんだ。

太宰の兄は金木町の富豪であり、その勢力は津軽一帯に及んでいる。小さな頃からおぼっちゃまとして育ったが、東京に出てしばらく音信不通だっただけに、誰もが大歓迎をしてくれた。特に小さい頃自分の面倒を見てくれた「たけ」に再会できたのがこの旅行の最大のクライマックスだった。

津軽についての最高の旅行記だし、太宰のいつもの暗い調子はどこにも見られない。あくまでも津軽の空気のように澄んで、ユーモアを持って眺めるだけのゆとりがふんだんに感じられる。

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ムツゴロウの自然を食べる * 畑正憲 * 文春文庫 02/06/01 ISBN4-16-710830-5 C0195

ムツゴロウの自然を食べる久しぶりにムツゴロウの本を読む。北海道東部の原野で暮らす中で、さまざまな自然の恵みを収穫、捕獲し、それをみんなの工夫で美味しく食べる方法を編み出した。その集大成。

あとがきにあるように、現代の登山隊は、高度に研究されたインスタント食品を携行するが、いったん自然の中に放り出されて、自然に生えているものや動物を手に入れることも、それを食べられるように料理する能力も、まったく無視されている。

大切なことは、誰の力も借りず、現代文明の技術も使わずに自然の食糧と使って生き延びる方法を、少しぐらい心得ておいてもいいのではないかという点だ。

北海道東部でとれるものといえば、鮭、昆布、蟹などが有名だが、それらにとどまらずキイチゴ、ふきのとう、あざみ、納豆までが登場する。伝統的な料理法、ムツゴロウ一族が工夫した新料理法、が実際に作れるように紹介されている。

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柩の列島 * 広瀬隆 * 光文社 02/16/01

棺の列島何ともゆうつな気分になる本だ。これが出版されたのは95年3月で、阪神大震災から2ヶ月もたっていない。だが、この大地震がもし原発施設を直撃したらどうなるか。それは考えるだけでも恐ろしい地獄絵図となり、日本国の真の意味での滅亡はおろか、世界全体が放射能汚染で包まれることになる。

それを引き起こしたのは先を見ない利権がらみの官僚と企業であり、その連中に安易な決定権を与えているこの政治制度だ。そして電力会社が原発立地をするにあたって断層の存在を隠し、工事を強行する常套手段。そのような恐ろしいことが現実に行われても気が付かないか、気づいても何もできないおとなしい国民。

次の大地震がいつ起こるのか誰もわからないが、日本が世界の中でも最も地震の頻度が高い場所にいることは確実だし、他の国々が原子力によるエネルギー供給を次々と放棄する中、いくつかのアジア諸国と共にあいも変わらず原発推進政策をとり続けていることも異常事態といわねばならない。

新幹線が大事故を起こすとか、東京の町が丸焼けになるとか、高速道路が全部通れなくなるというのであれば、「復興」は不可能ではない。だが、いったん高レベルの放射性物質がばらまかれれば、そこはウクライナのチェルノブイリのある地域と同じく、何万年という半減期を経なければ人間が住むことはできない。

日本列島が、チェルノブイリ発電所が「石棺」で覆われているように、全体が棺となる。そのような重大なことを、単なる村長や地元の利益の観点から次々と決定されていいのだろうか?単に暑い夏の冷房装置を動かすためだけにこんなに安易に原子炉を増設してもいいのだろうか?「便利」「快適」は国民の命と引き替えになるのか?

一番危険なのは六ヶ所村の高レベル放射性廃棄物保管所と、高速増殖炉「もんじゅ」だ。六ヶ所村は縦横に断層が走る危険な場所で、そこに大量のプルトニュウームが高熱を発しながら、地下に埋設され2万年の間冷えるのを待つという。あまりにもばかばかしい計画で、狂気以外の何ものでもない。

高速増殖炉は技術的な難点と暴走の危険性から他の国々がとっくに開発をあきらめている。ただ「もんじゅ」という名前も不気味だ。全日本国民が死に絶えたあとで、「文殊」がお経を唱えられるのかもしれない。人類にもっと「知恵」があればよかったと。

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インターネットの起源 The Origins of The Internet  * Katie Hafner and Matthew Lyon 著・加地永都子・道田豪訳 * アスキー 02/24/01 ISBN4-7561-3479-3 C3004

インターネットの起源20世紀の最後の最大の発明といえば、コンピュータを互いに接続して、情報の交換を世界中どこでも可能にしたことだろう。だが、その発明者といえば誰なのだろう。

電球といえばすかさずエジソンの名前がかえってくるが、インターネットの場合は、1960年代に活躍した秀才の若者たちのアイディアの集大成だといった方がいいのかもしれない。

最も大切ななことは、そのアイディアをはぐくみ、政府も口出しせず、潤沢な研究予算を手に入れることのできたその環境なのだ。中央統制による官僚主義からの拘束を受けることなく、彼らは自由に論議して、その無数に繰り返される実験から、すぐれた技術が ARPANET のなかにいつの間にか成熟していった。

だから発明者は?と聞かれたら、自由な研究環境だ、と言っていいだろう。バーバード、カリフォルニア、マサチューセッツ工科などからやってきた大学院レベルの若者たちが、力を合わせて、60年代の冷戦時代における、国防予算をうまいこと頂いて、当時まだ芽生えたばかりのコンピュータを接続しようと考えた。

その形式は一極集中管理ではなく、「網の目状」にして目的地にたどり着くという考えは、当時の米ソ対立時代に、いつどこが破壊されても別の経路で情報を伝える、という要請があったからだ。

主要な仕事をこなすコンピュータを互いに繋ぐためには、中間的な取り持ちを専門にする IMP( Interface Message Processor ) の開発が必要だった。しかも当時はさまざまな機種、プログラムが全国に散らばっていて、その間の通信を可能にするためには、徹底的な標準化が必要だった。

試行錯誤のあとでたどり着いたのが、それぞれのコンピュータの入り口、ゲートウェイのための目印、プロトコルとしての TP 、そしてネットワークの経路を扱うプロトコル IP による統一だった。さらに電子メールの簡単な基礎プロトコル、SMTP、これにドメイン名の作り方DNSが加わって、インターネットの基礎が完成したのである。

初期の創始者たちの中で、大金持ちになった人々はほとんどいないというのがいい。研究に没頭するタイプだが、会社を設立してそつなく事業化するタイプではないのだ。ビジネスで大儲けをした人々はその成果を利用した連中だ。

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よい野菜 * 中西昭雄・編 * 日本経済新聞社 03/01/01 ISBN4-532-16058-8 C0036

よい野菜日本各地にある野菜の生産地を巡って、生産者の声を直接聞いたルポルタージュ。いわゆる「指定産地」とは政府が決めた産地もそれに含まれ、不作や暴落に対してある程度守られているが、実際のところ野菜の工場とも言えるところで、大量生産を達成するためには、農薬散布も連作障害対策も、ホルモン剤投与も我慢して行わなければならない。

こういう状況では単品生産が奨励され、作物の特殊化が徹底的に推し進められる。そして共同出荷をするために、輸送料やら保存料やらを新たに支払わなければならない。そしてキャベツや白菜のように有名な野菜では、最大の問題、つまり「選別」がある。細かく等級が分けられ、それに沿って製品を農民自身が夜遅くまで選り分け作業をしなければならないのだ。守らない者は共同体からはずされる。

それほど特殊化していない作物にしても、品種改良が進んで、もはや自家採取はほとんどできなくなり、いわゆる FI 雑種では必ず種のメーカーから買い求めなければならない。そして何よりも「商品」になってしまったために、消費者の言いなりなのだ。「消費者」とは、中身や味よりも見かけを重視する人々が大部分を占める。

キュウリにふいた白い粉はいけない、レンコンは真っ白でなければいけない、傷の入ったリンゴはいけない、まっすぐにのびたものでなければいけない、等々。そして化学肥料や農薬づけの作物。たとえばリンゴの木は、農薬なしにはもはや生きられないようになってしまっている。

水耕栽培ははなばなしく登場したが、その後あまり聞かないのはごく一部の種類を除いてあまりにコストがかかりすぎるからだ。またこの本が書かれた当時はまだ遺伝子操作がつかわれていなかったが、ある望みの機能だけを異常に膨らますと、他に犠牲がゆくという生物の鉄則も無視したまま開発をおこなっても、その将来は明るくない。

高く売るため、農民が当たり前に収入を得るためには、これだけの犠牲を払わなければならない。したがって最後に後継者問題が前面に出てくるのだ。日本で「よい野菜」を実現するのは何と多難なことか。

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はだしのゲン 愛蔵版 第1巻 * 中沢啓治 * 汐文社 03/05/01

はだしのゲン戦争の悲劇を克明に描いた漫画。広島に住む両親には、4人の男の子と1人の女の子、母親のおなかにはもう1人の子供が身ごもっていた。ゲンは三男だが、父親譲りの正義感とやさしさをもつ。父親は戦争末期ながら、近所で戦争反対を公言し、まわりから非国民扱いを受ける。

だが、家族は、食糧不足にも、近所の冷たい仕打ちにも耐え抜く。長男は予科連を志願してしまった。次男は田舎へ疎開している。父親は絵を描く職人だ。母親は、父親が戦争反対の態度を示すと、一緒に家族を守ろうとする。

しかし、あの原爆が投下された。ゲンと母親は助かるが、父親、末の男、女の子の三人は家の残骸の中で息絶える。

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歴史の中の日本 * 司馬遼太郎 * 中公文庫 03/8/01

歴史の中の日本この本は、司馬遼太郎のまとまった作品ではなく、それぞれを書きおえたあとで感じた感想を集めたもの。自分で書いた書物から、新たに新しい独自の歴史観を得て、ユニークな人物論や文化論を形作っている。

例えば、吉田松陰、この人が淡々としゃべる思想を聞いて、長州の血気はやる若者たちが行動に走ったという、歴史の流れの不思議さ。京都は盆地だが、そのためにまわりから簡単に攻め込めるために防御する価値は全くなかったこと。またまわりから流入する人々のために多くの入り口があり、その中でも特にあの黒沢監督で有名な「羅生門」もそれに含まれていたこと。

日本人は、我慢強い民族であるらしい。少々の寒さや暑さは我慢してしまい、西洋人たちが暖房、冷房だと騒ぐのをよそに、黙ってしのいでしまう。だがこれが日本人の安直さにつながったという仮説。

司馬遼太郎が大阪外国語学校(今の大学)の出身であり、モンゴル語学科を選んだことはおもしろい結果を生んだ。この言語は、テオニハを覚えてしまえば日本語とほとんど同じ文法構造だそうだ。

最後に自分の奥さんや自分の身の回りなど、かなりプライベートな記述がみられる。生まれ育った現在の東大阪市周辺の様子の記述がおもしろい。

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イスラム・パワー * 宮田律 * 講談社 03/12/01 ISBN4-06-210066-5 C0036

イスラム・パワーこれからの時代に、世界の人口の3分の位置を占めようとしている一大宗教集団について十分知っておいて、知りすぎることはない。コーランを聖典とし、聖書と重複する部分もあるが、中近東、北アフリカ、中央アジア、東南アジアのマレーシアやインドネシアまで広がるこの宗教の魅力は何だろうか。

イスラム教とが守らなければならない「5行」というのがある。また他の宗教と同じく、神秘主義的傾向を持つグループが存在し、彼らが全体の流れを引っ張っているように見える。礼拝の回数が多く、ラマダンでの断食など、日常生活の中で宗教的活動の占める位置が非常に高い。(葬式宗教はもちろんのこと、日曜日だけの教会通いとも違う)

アメリカなどでは、イスラム教徒に対する偏見が強く、すぐにテロや過激派を思い浮かべてしまうようだが、実は穏健派が大部分であって、それどころかアメリカ国内でもアフリカ系アメリカ人を中心に信徒が増加しているのだ。イギリス、フランス、ドイツにはすでにたくさんのイスラム教とが労働者として移入している。

あまりに物質主義、金儲け主義に走りすぎたキリスト教文明諸国である欧米に対抗する力としても、イスラムの存在は非常に大切である。今後は中央アジアでの巨大イスラム国家の誕生があるかもしれないし、「聖戦」を掲げるグループの活動がますます盛んになるかもしれない。

イスラム圏での2大言語といえば、まずアラビア語であり、中国のシンチャン・ウィグル地区にまで使用範囲がのびているトルコ語である。そして彼らが各都市に造るモスクが集会所としてだけでなく、結束のためのシンボルとなっている。

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犬と犬の記憶 * 斎藤好史 * 東京新聞出版局 03/26/01

犬と犬の記憶著者は高校教師で、1949年生まれ。彼が飼い始めた犬は「鐵五郎」。小さなテリアだが、その短い足で日本中の山に登る。また北海道の北の端まで主人のお供をする。ちょっとした登山犬で旅行犬だ。

何気ない日常の中での犬との暮らしを描いた本。著者は藤沢市辻堂に住んでいる。本屋の店頭に目立つように並べられていたものだ。自費出版で出され、著者が社会科教師であるだけにところどころかなり詳細な社会論が展開される。

8歳になって肺リンパ腫にかかり、不治の病と診断され、そのあと半年の闘病の末、短い命を閉じる。ペットというものが人の生活の中でいかに大切な役割を占めているかがよくわかる。平凡だがペットブームで興味本位に買う人が多い中で、人と犬の結びつきが人生の一部を形作るのだ。

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