わたしの本箱

コメント集(4)

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凡例

(辞書・参考書類を除く)

題名 * 著者または訳者 * 出版社 / 読んだ年と月

(再) = 以前に読んだことのある本

 = 図書館あるいは人から借りて読んだ本

色別区分 三回以上読まずにいられない本 

二回読んでみたくなる本 資料として重要な本


2001年

極北に駆ける極北に駆ける * 植村直己 * 文春文庫 04/10/01

この探検家が、南極を犬ぞりで横断する計画を立てたあと、まず日本列島を徒歩で横断し、次にグリーンランドまで出かけて、地元のエスキモーたちに犬ぞりの扱い方の ABC を学ぶ。

周到な準備の中には、エスキモー語を日常会話に困らないほどに喋れることや、生肉を血の滴るまま食べることや、その他エスキモーたちの習慣にしっかりなじむことも含まれる。

そしてはじめはムチの振り方さえ満足にできなかったのに、次第に犬の扱い方にも上達し、ついに、グリーンランドの南の端まで行って帰る約3000キロの犬ぞり旅行を実行する。

ルートは真冬の零下40度以下になる時期に、海岸沿いの海上をゆく。途中に小さなエスキモーの部落が点在するが、その間隔は、東京と名古屋ぐらい離れている。

あらゆる話が想像を絶すると言っていい。おもしろいのは、エスキモーたちの暮らしが、ありとあらゆる点で現代人から見れば「野蛮」でどうしようもないほど「遅れて」いるのだが、この生活をもう数万年も続けてきており、その間滅びることなく継続してきたことだ。

これに対し、我々産業革命によって始まった「文明人」は、もうじき行き止まりに近づいて滅亡しようというのだから痛快だ。

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北極圏1万2千キロ北極圏一万二千キロ * 植村直己 * 文春文庫 04/24/01

この本は「北極に駆ける」の続編だ。エスキモーのもとで犬ぞりの操縦法や寒冷地での暮らし方を修行して2年後、再びグリーンランドに戻り、その南の部分から、カナダ北部の多島地帯を経て、アラスカに至る壮大な犬ぞり旅行だ。

途中の困難のため、多くの犬たちが倒れたが、出発点から到着点まで全線走り抜いた犬もいる。犬は当地では「家畜」扱いだが、まだ交通機関の十分に発達していないグリーンランドの犬たちは実にタフで、いかなる困難な環境でも耐え抜くが、カナダ、アラスカではすでに1970年代にはスノースクーターや雪上車が普及し、あまり使い道のなくなった犬たちは、実に弱い。ここにも文明のもたらす脆弱化がよく現れている。

それにしても植村という人の旅行記はこれで2冊目だが、何となく彼の人柄は謎に包まれている。この記録は日記風で実に旅行の様子が克明には描かれているものの、彼が何を感じ考えたかは、ある程度までゆくと、その先はわからない。

結婚したばかりの妻とのなれそめも、この大旅行の資金の調達にしても、日本にいる支援者たちのことにしてもほとんど記述がない。その点では、ヨットで単独太平洋横断をしてのけた、実に日本的な堀江謙一氏の「太平洋ひとりぼっち」とは実におもしろい対照をなしている。

だが、彼のした冒険は実に興味深い。彼の著作はすべて読んでおかねばなるまい。また、エスキモーの文化の独特な点が現代文明にうつつを抜かす大部分の人類にとって、一つの確固とした指標になっていることにも気づく。

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カナダ・エスキモーカナダ・エスキモー * 本多勝一 * 講談社文庫C11 *  05/05/01

せっかく植村直己の冒険紀行を読み終わったのだから、かつて新聞記者として活躍した本多氏のドキュメンタリーを続けて読むのは、価値のあることだ。偶然にも古本屋に並んでいた。

エスキモーの暮らし方については、両者には実に内容の一致がある。寸分違わないと言っていいほどだ。家の建て方、人間関係、狩りの仕方、性関係、あらゆる部分でこの本は植村氏のエスキモーの記述のちょうど良い復習になった。

それにしても厳しい自然の中で暮らす人間には、生き抜くためのあらゆる能力が要求される。部族のどの一員も最低限の技術を心得ていなければ、たちまち自然の中で凍死または餓死することになる。

それに引き替え、現代人の弱体化には目を覆うところがある。人類の種の存続という点から考えると、もはや絶望的なところまで体力も総合的能力も落ちていることが痛感される。

これに対し、エスキモーをはじめとするいわゆる「未開人」は、外界の特に、西洋文明の影響にひとたまりもなく潰されてゆく。結核、アルコール、スノースクーターのある暮らし、北極基地の使用人としての生活、などあらゆる点から彼らの尊厳が奪われ、これが民族の衰退につながってゆく。

カナダ政府の同化政策など、ますます彼らを追いつめてゆくだけだ。唯一の解決策は、西洋文明とは一切ふれさせない方法しかなかったのだ。キリスト教、安楽な生活の味、いずれもエスキモーたちにとっては滅びの前奏曲である。

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男と女の進化論男と女の進化論 * 竹内久美子 * 新潮文庫  05/10/01 ISBN4-10-123812-X C0105

かつて「そんなバカな!」という彼女の著書を読んだことがある。動物行動学に基づいた、利己的遺伝子のことがおもしろく書かれていた。今回もまた期待したのがいけなかった。

今回の本は、「風が吹けば桶屋が儲かる」式で、唸らせるような理論の展開はほとんどない。男と女の関係から、進化的なものをむりに作り上げようとしたのがまずかった。

ただ、一つの章「アルキメデス輩出の原理」だけは興味を引かれる。女が強い淘汰圧にさらされているような国、たとえば日本では、みな同じようなライフスタイルを選び、ドングリの背比べになってしまうが、女がそれほど強い社会的制約を受けないような国では、ひどい子供も出やすいが、同時に非常に優秀な人間も輩出する可能性も高いのだという。

従ってこの点からすると、一般に女性自身の変異の範囲は狭いので、彼女らには特別優秀であるとか、劣っている個体は少なく、大体同じレベルに落ち着く。これに対し、男性はその変異の幅が広いのだ。だからとんでもない天才も、とんでもなくひどい人間も「輩出」する。映画などでよく聞くセリフ、「女はみな同じさ」もあながち的外れではないわけだ。

同じ意味で、特権階級のように、集団の変異の幅を大きくしておけば、いろんなタイプの人間が生まれ、その中には真に優秀なものも出てくるかもしれないのだ。逆に特権階級のような自由に生きられる人間たちがいないと、その国は、現在の日本のようにどんどん衰退していってしまう。

なお、あの瀬戸物で有名なウェッジウッド家は、その自由な家風の中から、チャールス・ダーウィンを生み出したのだそうだ。環境の大切さを考えさせる例だ。

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山の博物誌山の博物誌 * 西丸震哉 * 中公文庫 05/17/01 ISBN4-12-201301-1 C1195

以前読んだものと一部、重複するところもあるが、毒舌豊かな著者の集大成のような本。ただし山に関する動植物から岩石、地形、気象に至るまで実に幅広く、図鑑的でなく自分の体験を交えた解説をしている。

実際、かつてはこのようなパワフルな登山家がいたのかと驚かされるくらい、日本のさまざまな山を試み、単に登頂を目指すというのではなく、歩く過程で見かけた、あらゆるものを注意深く観察していたのだ。

日本の自然がすっかり破壊され、車に乗ればどんな奥にある林道でも行けてしまう時代には、彼の味わったようなすがすがしさや、スリルや、悦びは、もう完全に過去のものとなったことを思い知らされる。

この著者のもつ、社会論、人生論、世界観が私とよく似ているので、これだけたくさん読んでしまったわけだが、実際、「猫と魚の出会い」以来、こういう考え方をする人が、世の中にいることでほっとする思いだ。

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日本語の論理日本語の論理 * 外山滋比古 * 中公文庫 06/08/01 ISBN4-12-201469-7 C1181

「日本語は西洋語に比べて論理性がない」という、実証もされない単なる迷信が、今まで人々の心の中に巣くっていたために、もともと日本人にある西洋崇拝の傾向とも結びついて、本当の意味での国語の研究が行われないままだった。

日本語を他の言語と対等な立場にあることを意識していれば進んでいたはずの外国語学習、外国旅行、外国文化の紹介、どれをとってもおかしな方向にゆがんでしまったのだ。

この本の著者は、とりわけ独創性に富んだ意見を述べているわけではないが、ごく当たり前の基本に戻って論を進めている。それが不思議に、上に述べたような日本語を取り巻くゆがんだ状態を明るく照らしてくれるのだ。

例えば、外国旅行をしてその紀行が、地元の人が書いた郷土の歴史よりおもしろいのは、これがアウトサイダーの視点から書かれているからだ。アウトサイダーは知識に乏しく、偏った見方しかできないかもしれないが、にもかかわらずその視点の新鮮さというだけで、地元の人の書いたものに勝るのだ。

この本は、日本語の論理からはずれてあまりに広く話題をすすめ、最後の映像に関する議論はその出発点としてはおもしろいが、生煮えの状態に終わってしまったのが悔やまれる。

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一泊二食三千円一泊二食三千円 * 永六輔 * 中公文庫 06/18/01 ISBN-12-200426-8 C11266

今はすっかり失われてしまったように見える、日本国内の旅を永氏は、長年にわたっておこなっているのだ。一泊二食三千円と、当時としては手頃な値段で全国を渡り歩き、パック旅行では決して味わうことのできないさまざまな面を紹介してくれている。

その「のり」で、外国へも行ってしまう。ラジオ出演(テレビ出演でないのがよい!)で、きわめて多忙なのに、それ以外の日々を旅に当てている。旅館より、ホテルについて述べた文章が多いが、ホテル側のサービス精神が乏しいことを嘆いてる。

彼が提案するサービス方法は、経営者たちはよく聞いてほしいものだ。特に昨今の不況では、ほんのわずかな心遣いが、また来よう、という気を起こさせるはずである。

ところどころに、詩がのっている。旅に関するものが中心だが、なかなか皮肉な作品も多い。

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深夜特急5深夜特急5 * 沢木耕太郎 * 新潮文庫 06/23/01 ISBN4-10-123509-0

この本は、トルコ・ギリシャ・地中海を旅した記録である。香港からユーラシア大陸を乗り合いバスで西へ進む著者の旅は、それ以前の本(1から4まで)で、1988年7,8月に読んでいるから、何と12年ぶりである。

著者が書くのを中断して、再び書き始めたとき、待ちに待った本をわざわざ買って読むとは珍しいことだろう。それほどまでにこの本は旅の原点をついている。パック旅行とは無縁、ガイドブックを持ち歩かない、バスを主要な交通手段として、地を這う・・・

さらにもとをたどれば、小田実の「何でも見てやろう」に着くだろう。どん欲な若い目で世界を吸収しようとする意気込みがこれらの本の中にむんむんしているのだ。

しかしこの本では、トルコのイスタンブールから、ヨーロッパ文明世界に入ったとたんに、それまでの筋書きのない混沌とした世界から、秩序のある世界に入ってしまったことに気づく。

それは、旅の終わりが近づいたという印でもあるのだ。また、長期間旅を続けている、つまり漂白に近い生活をしていると、本来、人間は定住性が強いから、目に見えない疲労が蓄積してくる。

最初は何でも物珍しかった外国も風物も、そのような疲労感が漂い始めると、好奇心も摩耗してくるのだ。旅は、適当に切り上げて何度も出かけるのがいいのかもしれない。

旅が非日常的なものだとすれば、これが長く続くと日常的なものに変質してしまうのだ。非日常性を保つためには、頻繁に日常性に立ち戻らなければならないのだ。ちょうど、熱い風呂に入るためには、外で冷やす時間が必要なように。

それにしても沢木耕太郎の文体は、注意を長時間引きつけることのできる性質を持っている。最近読んだエッセー風のものが、今ひとつ集中しなくてもかまわない気を起こさせるのに対し、彼の本はたいてい何か気になる部分を含んでいるのだ。

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深夜特急6深夜特急6 * 沢木耕太郎 * 新潮文庫 06/27/01 ISBN4-10-123510-4

いよいよシリーズの最終編。ギリシャのペロポネソス半島の田舎の港町からイタリア半島の先の港町までフェリーが出ていると聞いて、これにのって、一気にイタリアへ渡る。

だが、ローマ直行バスがなく、本当にローカルな乗り合いバスを利用しながら、ジグザグと少しずつこの国の首都へ目指した。そして、モナコ、南仏、スペイン、ポルトガルと進んだが、香港から始めたユーラシア横断の旅は、そろそろ終わりにしなければならない。

そこでポルトガルの西の果ての岬、サグレスへ行って、この旅の終わりを宣言する。このあとパリやロンドンでぶらぶらしたものの、最終的な終着点は、この岬になったようだ。

一度も日本に帰らずに、継続的に長旅をすると、終わりのけじめがなくなるという。そのためにも精神的な区切りを必要としたようだ。ガイドブックもないユニークな旅である。だが誰でも若いときにはこのような経験は一度はしておくべきだろう。

言葉や文化や食べ物や健康の問題はあろうが、そのいずれも乗り越えたとき、人とは違う大きな収穫があるような気がする。この調子で、南北アメリカ大陸や、アフリカ大陸も旅ができたらいいし、地中海一周とか、日本海一周、ユーラシアをインド当たりから縦断、などもおもしろいだろう。

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食は三代食は三代 * 出井宏和 * 新潮文庫 07/9/01 ISBN4-10-141401-7 C0177

実にユニークな食物文化論だ。単なる評論家のエッセイではない。作者は実際に銀座に日本料理店を開き、そこで料理の腕を振るっている。

それだけでなく若い頃、ヨーロッパの各国大使館や、各地での博覧会などでも料理人としての腕を振るい、そこからさまざまな日本料理に関する、賛辞や批判を受けてきた。

実際に活躍した経験をもとに書いているから、そのものの見方も決して抽象的ではなく、実に説得力がある。フランス料理と中国料理の普遍性。これに対する、日本料理のローカル性。「味は風土だ」と言っている。

アメリカ人はいったん美味しいと感じたら一生それだけを食べてゆける国民だそうな。それぞれの国民性がおもしろい。寒いロシアではぐつぐつ煮る料理が発達し、イタリアのような温暖なところではさっと火を使って作る料理が発達した。

著者が言うには、料理は芸術ではない。それはあっという間に食べられてしまうものであって、いかに食べる人を喜ばせるかだけに注意が注がれればよいと言う。たしかにいわゆる芸術と呼ばれるものと比べて、料理はまったく違った趣向を持っている。

ヨーロッパ、特にフランスのウェイターやウェイトレスのプロ意識の話は、日本での間に合わせで時間つぶしの低賃金である同種の仕事と、実に対象をなしている。メニューのすべて完璧に暗記し、店で出す料理のすべてについて博識で客を満足させるほどの商品知識を持っている彼らは、それこそ毎日が楽しいだろう。

「美味しんぼ」シリーズもそうだが、食の世界に生きる人はみな「哲学」を持っていることがよくわかる。

ドクトルマンボウ航海記 * 北杜夫 * 新潮文庫 07/26/01

私の本箱・ベストセレクションに掲載

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