わたしの本箱

コメント集(5)

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凡例

(辞書・参考書類を除く)

題名 * 著者または訳者 * 出版社 / 読んだ年と月

(再) = 以前に読んだことのある本

 = 図書館あるいは人から借りて読んだ本

色別区分 三回以上読まずにいられない本 二回読んでみたくなる本 資料として重要な本


2001年・つづき

野火 * 大岡昇平 * 角川文庫 08/01/01

野火太平洋戦争末期のフィリピンのどこかの島で、主人公は軽い喀血のために、軍を出されて病院に向かうが、極端な食糧不足のため、どこでも受け入れて貰えない。

仕方なく、島の突端に集結せよという命令のもと、多くの敗残兵と共に食糧もなく、ふらふらになりながら目的地を目指す。だが行く手にはアメリカ兵や、現地ゲリラが待ちかまえていて、思うように前進できない。

幸運にも現地人の畑を見つけ、芋を多数手に入れるが、遠くに見える十字架を目指していって見たところ、そこには日本兵士の腐乱死体が散乱しているのであった。

しかもたまたま通りかかった現地人の男女のうち、女の方をおもわず彼は撃ち殺してしまう。幸い、不足していた塩を手に入れたので、彼はほかの仲間と合流して、再び目的地に向かう。

だが、食糧不足は深刻になり、途中に多くの兵士が倒れていった。たまたまとなりあわせた仲間は、なぜか肉を豊富に持っていたのだが、それはサルの肉ではなく、死体から切り取った「人肉」だったのだ。

主人公は、人肉を切り取る現場を見つけ、その男を撃ち殺す。だがそのあと現地人のゲリラに後頭部を強打され、意識不明となりアメリカ軍の捕虜を経て、日本に帰る。

だが、人肉の思い出や人を殺したことが、記憶喪失と重なって、ついに妻とも離婚して精神病院に入れられてしまう。そこで著者は、ゆっくりとこの手記を書いているところなのだ。

当時の帰還した兵士であれば、誰でも体験したであろう出来事を克明に描いている。歴史小説でもあり、反戦小説でもあり、人肉を食うという極限状態がこの話のハイライトになっている。

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高みの見物 * 北杜夫 * 新潮社 08/18/01 (再)2011/11

高みの見物北杜夫による「ドクトルマンボウ航海記」は若かりし頃に、水産庁の調査船に乗り組んで世界中を回った話をもとに作っているが、この本もその一部を使って書いてある。

ただし、これは別名「我が輩はゴキブリである」と言っていいように、ナレーションは、横浜に根拠地を持つ、人の襟などにくっついて世界中をまわることの得意なゴキブリ一族の出身である一匹のオスゴキブリによって語られる。

調査船に乗り組んでいる医者は、眼科が専門だが、作者の化身だ。ぐうたらで、診察もろくにしない。特に帰港が近づいているのでなおさらだ。鼻毛をちり紙の上に立てるのが趣味なのである。

やっと半年にわたる航海を終えて日本へ帰ってくるが、独身で兄の家庭に居候している。一向に身を固めようとしないので、おばあさんをはじめとしてみんながお見合いをさせようとして躍起になっているのだ。

彼の友人に、何でも書く作家がいる。だが、「火星人の逆襲」など SF を書くのが本職のつもりだが、それもなかなか売れない。作家というものは結構いろいろな体験をする機会に恵まれているものらしく、将棋を観戦したりするが、たまたま映画化の話が持ち上がり、その収入を見込んで奥さんと香港に出かけることになる。

ナレーターのゴキブリも、メスゴキブリの伴侶を得て、香港へ同行する。行きは客船に乗り込んだので、さまざまな客に遭遇する。ゴキブリの目から見ても人間はさまざまで、実に興味を引く存在なのだ。

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はばかりながらー「トイレと文化」考 * スチュアート・ヘンリ * 文春文庫 08/25/01            

はばかりながら「トイレと文化」考ここに新しい角度から、文化を見つめた本がある。トイレ、ウンコ、オシッコという、誰でも目を背けたくなるようなテーマながら、そこから、まともで偏見に捕らわれない文化に対する考えを引き出しているのだ。

台湾で犬を食う、インドでは豚が出たての人のウンコを喜んで食べる、漢方薬ではオシッコを飲んで薬にする、このような世界の「多様さ」を西欧の尺度で測ってはいけないということだ。

西欧「文明」の繁栄は今だけであり、決してこれは世界に人類の普遍的な判断基準であるはずはないのだが、これをまじめに信奉し世界の文化をすべてこれを基準にして、良いとか悪いとか決めるから、多大な不幸が生じてきた。

すべての文化は相対的であり、例えば下水道の普及率で「文化度」を計るなどとはもってのほかである。都会に密集して人々の屎尿が多すぎて、処理しきれなくなったために下水道に強烈な水圧でウンコを流すことを思いついただけであって、これは今のところ対症療法に過ぎない。

同様に世界的に優れた、江戸時代の日本の循環システム「下肥」は、石油なき時代における人類のホープになるのである。ウンコで育った野菜が食えないようであれば、豚に食われてしまうがよい。

排泄に関する歴史と、各国、各地方での特色を研究することは、西欧文化偏重に対する、最も好適な警告となっているのである。現在の「自然循環」を無視した一方通行の物質の流れをただし、ゴミのない世界を作るには、排泄物を今後どのように有効利用するかにかかっているのである。

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西丸式山遊記 * 西丸震哉 * 中公文庫 09/10/01 

西丸式山遊記著者の若かりし頃からの日本中の、名もなき山、山里に隠れた温泉を歩き回った思い出話をちりばめる。

かつては登山といっても、ほとんど数えるほどしか愛好者はおらず、近代的装備もなくひたすら汗まみれになってヤブこぎをしたり、スキーにシールを貼り付けて頂上を目指したものだったのだ。

だがその方がかえって、さまざまな思い出を作ってくれることを本書は語ってくれる。しかもあのユーレイのような挿し絵つきで。さらに著者の油絵の趣味、合唱団の編成、妻との山行、地図にない池の探索なども加えて語られる。

今はホテル建設や道路網の整備によってすっかり失われてしまった、日本各地の多様性が、かくも生き生きとかつてはその個性を輝かしていたとは、著者も良い時代に生きたものだ。

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続・梅干と日本刀 * 樋口清之 * 祥伝社NON BOOK 09/19/01 

続・梅干と日本刀以前に読んだ、「正編」の続きである。前回は梅干しの独創性、日本の食文化に示すユニークな地位に開眼させられ感心したものだ。その他、城の石垣の積み方など、全体的に日本独自の技術的な面について詳しく述べられている。

これに対して続編は、社会学的、心理的、文化的考察に重点が置かれている。最初の部分は、東京・江戸のちょっとしたガイドブックだ。例えば「池袋」の袋の意味が初めて分かった。この本を持って、かつての江戸を巡ってみるのも楽しい。

あまりに江戸の都市計画が優れていたので、明治維新の時も、この町には敢えて幕府を倒そうという者があまり出てこなかった。討幕派はほとんどが地方での困窮大名がほとんどだった。

識字率の高さ、寺子屋の普及は、日本が明治維新より前から教育熱心であったことを示している。これが、維新後の急速な学校教育の普及のもとになったらしい。

樋口氏のユニークさは、従来から言われてきた「タテ社会」に対して「ヨコ社会」が厳然と日本社会には存在したという主張である。共食や、「1パイやろう」という風潮はそれをよく表しているという。

さらに、日本人の柔軟さ、これは言い換えればいい加減さとも何とでも表現できることであるが、これによって、仏教も神道も一緒くたにして矛盾を感じることなく、西洋からの食べ物を、日本古来の味付けですっかり新しいものを作り出してしまうような、いわゆる「建て増し構造」について説明している。

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夜つくられた日本の歴史 * 須藤公博 * 祥伝社黄金文庫 09/26/01

夜作られた日本の歴史「人気予備校講師」の作による、下半身の話を中心にして日本の歴史をたどった本。ただ、しっかりと周辺の歴史的流れは記述されているので、すでにかつて覚えた歴史の知識を忘れかけている人にも、刺激となる本。

日本の古文書や浮世絵だけでなく、俳句や短歌も含めてくわしく見ると、いかにシモネタが豊富にそろっているか驚かされる。と言うよりは人間の生々しい関係は時間の流れに関係なく、常に一定だともいえる。

古墳時代から話は始まり、最後は昭和の終わりぐらいまでがカバーされている。これだけの記述のために実に多くの資料を必要としたことだろう。最後の近代、現代作家たちの話に少しまとまりがなかったのが残念。

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なぜ美人ばかりが得をするのか Survival of The Prettiest; The Sciency of Beauty * Nancy Etcoff 木村博江・訳 * 草思社 09/29/01

なぜ美人ばかりが得をするのかこの本の原題は「最も美しいものの生存」とあり、ダーウィンの「適者生存 Survival of the Fittest 」をもじっている。たしかに美しいことは、この社会に生きる女性にとっては特に、得なことだ。この「美」についてあらゆる方面からメスを入れる。

美を感じるのは、文化的な差異は大きいが、生まれたての赤ん坊が綺麗な顔を長く見つめるという実験から、まず生得的なものから出発するらしい。美の根本は、釣り合いのとれた全体構造が「平均」的なレベルに達しながら、さらにそれに何か魅力的な点を付け加えた全体像だろう。

だから、美を言葉で的確に表現はできないけれども、部屋に「美」が入ってきたときに、人間は(おそらく本能的に)直ちにそれだとわかるのである。そして美が実生活で最も大きく影響力を持つのは異性間の引きつけ合いであろう。

どうやら、美しい異性というのは、例えば髪と肌が綺麗だということは、健康で生殖能力に富むということで、進化の見地からすれば、歓迎すべきことの一つなのだ。たとえばからだが左右対称だということは、寄生虫に侵されておらず免疫能力が高いということを示す強力なヒントとなる。

しかし、音楽も絵画も彫刻も、いずれも今述べたような特徴を持つ限り、「美」として人々を引きつけ、又その美しさに対する傾向も、それほど多くの個人差があるわけではない。

かくして人間社会では、「美」の特徴を備えた者たちの立場が有利に展開することになり、逆に醜いものは、辛い目にaうという、不平等が生ずることになる。

だが、不平等であるという点では金、名誉、権力と同質であり、これらを持っていることは、得になることの方が多いが、だからといってそのおかげで必ずしも幸せになるというわけではない。

全体として、デズモンド・モリスの「裸のサル」の亜流である。だからこれといってオリジナルな持論が展開されるわけではないが、美に関する膨大な資料を丹念に集めた点では敬意に値する。

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国家民営化論 * 笠井潔 * 光文社カッパ・サイエンス 10/12/01

国家民営化論警察を民営化せよ!相続は禁止!子供はみんな無国籍!、ときいたら誰でもショックを受けるだろう。この著者の主張は、ちょうどマルクス主義による共産主義化社会が、すべての面で国家の管理に置かれる極端にあるとすれば、又一方の極端に位置する説なのである。

だが、その話に説得力があり、オリジナリティーを感じるのは、世間の波に迎合しない独自な思想が入っているからだ。ベルリンの壁によって崩壊した国家管理の地獄に反省に立って、今度は個人の自由を徹底的に追及したあとに生まれたものなのだ。

サブタイトルに<「完全自由社会」を目指すアナルコ・キャピタリズム>、とある。もちろんこの世界では、理想は決して実現することはなく、最終的には極端と極端の間にある妥協点に落ち着くのはわかっているが、両端を知らなければ、中間点がわかるわけはない。

民営化するということは、国家の権力や干渉を排して、「市場の原理」に任せることである。グローバリゼーションが、この市場の原理が暴走したために貧富の格差の拡大や、中小文化の破壊や環境破壊を引き起こしたことが問題になっているが、別の利用法もあるのだ。

それは巨大な官僚機構似つきものの、腐敗や不透明性を一掃できるということだ。情報公開が叫ばれて久しいが、実際の現場ではその歩みは牛歩の如きだ。自由競争に曝されないために、どれだけ多くの不正が隠され、資源の浪費が行われていることだろう。

わかりやすい例として、警察、裁判所、刑務所が「私立」となれば、自由競争によってより効率的で、万人の納得のゆく素早く正確な「捜査、逮捕、訴訟、投獄」などが行われる可能性がある。なぜなら非効率なものや、不透明なもの、不正なものは、自由競争によって「淘汰」されてしまうからだ。

そこまで自由競争にコントロール作用があるかどうかは、断言できないかもしれないが、実際試してみる価値はあるかもしれない。少なくとも本書では「外交」以外は、どの分野でも民営化の恩恵があるといっている。

国家を市場に解体する実験が、世界中同時に少しずつ行われるようになれば、これまでの国家による個人の押さえつけをなくすことができるかもしれない。たしかに国家は「合法的な強盗団」と言っても決して誇張ではないのだから。

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ドリトル先生の英国 * 南條竹則 * 文藝春秋・文春新書 10/18/01

ドリトル先生の英国魅力たっぷりなものだから、多数のファンが、時代を超えて根強く存在する本、例えばシャーロック・ホームズのシリーズなどは、実にたくさんの「研究書」がある。

ドリトル先生のシリーズは、童話という範疇に入っているが、大人にも楽しく読め、いや大人になってから作者の意図を、また別の角度から知ることから、年代にかかわらず幅広いファンをもっている。「研究書」を読むのもこれで2冊目だ。

だから、小さい頃にこれらを読んだ人が大人になって、その当時はわからなかった細々したことを今になって調べてみようという人が出てきても不思議ではない。

私のように、ドリトル先生シリーズを、寝食を忘れて読んだ者にとっては、実に待望の書だ。あれは小学校5、6年ぐらいの頃。小学校の図書室で見つけたこの本の出会いは、一生の考え方の方向を作ってしまった。

小学校の図書室には全巻がそろっていなかったらしくて、遠くの市立図書館まで、わざわざ自転車で借りに行ったのを覚えている。それでもこのシリーズは頻繁に借り出されていて、書棚のその部分があいているのを見たときの口惜しさといったら!

さて、そのころの自分のl語彙力ではわからなかった表現や、ものの名前も、この本で大部分が氷解した。作者も小さい頃、夢中になって読んだらしく、大人になるまで疑問に思っている部分が非常によく似ているのがおもしろい。

井伏鱒二という人は、もともと作家だったわけだが、その才能をこの童話の翻訳に向けてくれたのは幸いだった。この人独特な表現が、すっかり日本語になじんでいるからである。本書では、英語の現代から、いかに気の利いた訳をひねり出したかも詳しく述べてくれている。

ドリトル先生と、食事、女性、興行、博物学、階級社会、などとさまざまな方面からの関わりを、実際の本文を引用しながら、説明している。あまりにこの作品にのめり込むあまり、これこれのように物語の構成にすればよかったなどと、主観が出過ぎている部分もなくはないが。

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オラン・バリ * 小原孝博 * ダイヤモンド社 10/25/01

オラン・バリ写真集である。観光地で有名なバリ島の、住民を撮影したものだ。ただし、いわゆる観光客にうけるような風景はほとんど写っていない。しかも白黒である。古本屋で売られていた。

この本を買ったのは、そこに写っている人々の表情のためである。現代文明社会ではすっかり失われた、「楽園」の表情をしている。もちろんバリ島は楽園ではない。だが、有り余る物質に汚染される以前の姿が映っている。

グローバリズムによって、世界の隅々までコカコーラが出回る時代になって、人々の表情は、けだるく生気のない、疲れたような、それでいて医学は発達しているから、表向きは「健康」な顔が増えている。

だが、この写真集の顔は、自分が小さい頃に日本の田舎でも大勢いた、ある懐かしさを持った雰囲気を持っている。井戸端にたたずむ少女、小さな雑貨店のおやじさん、道端に休む老人、家の手伝いをして何かを担いでいる男の子など。

地味でシンプルな写真ばかりだ。だが、これからの人間社会にはいずれ消えてしまうかもしれない映像が、この写真集には残されていた。この本に登場する人々の顔を見てほっとする人は、現代文明社会が大きな誤謬をおかしていることに気づくだろうか。

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アレクサンダー大王99の謎 * 井本英一・岡本健一・金澤良樹 * サンポウジャーナル 11/01/01

アレクサンダー大王99の謎アレクサンダー大王は敦賀に上陸した!この度肝を抜かれるテーマでこの本は始まる。あの世界史上最大の帝国を広げた大王は、学校の歴史の時間では、東洋と西洋を結びつけてヘレニズム文明の旗手だといわれている。

その通りだが、彼の天才的な王としてのふるまいは、彼の軍隊が通り抜けた各地で人々の噂になり、想像力をかき立て、無数の物語や伝説を作り上げたのだった。いわゆる伝奇と呼ばれる荒唐無稽な話が至るところで生まれたのだ。

それがなんと、東へ進むうち、ついに日本の地にまで伝わってしまった。奈良の正倉院がペルシャあたりの美術品を治めていることは有名だが、同時に物語りも東進を続けてついには太平洋岸にまで達してしまったのだ。

この本は、ペルシャでの戦争を中心としてそこから生まれたさまざまな物語を紹介している。だが、このような見事な物語を生み出した中をよく探ってみると、作り話の中に、真の大王の姿がかいま見えてくる。

女性に対して欲を見せず礼儀正しかった大王、東に進んで世界の果てまでその領土を広げたいという、尋常ではない征服欲。その生きた時代があまりに古かったためにその真の姿について述べた記録が散逸してしまったが、それでもなお現代人にも果てしない想像力をいまだにかき立てているのだ。

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山とお化けと自然界山とお化けと自然界 * 西丸震哉 * 中公文庫 11/14/01

この本を読んでいると、眉が唾でべったりしてしまうだろうという。それはそうだろう。著者の若い頃から体験した、ユーレイやお化け、前世のお告げ、巫女の読心術などが満載されているからだ。

この本はすでに出た、3冊ほどの本の内容と一部重複しているところもあるが、山の体験を中心に編集されている。はじめは、昆虫の話や、激流を渡った話、酒を飲んで心臓が止まりかけた話などで、普通に読んでいける。

ところが、第4章、兄との交信あたりから、なんかうさん臭くなってくる。そのくせそれが事実だとか冗談だとか一切言わずに話を進めてゆくものだから、読むほうもほんま過異な?と思いつつ読んでいるのだが、そのストーリー運びのおもしろさについ引き込まれてしまう。

巫女が、山頂で神様にはタコを食べさせてやりたいと言っているのを聞き流していたところ、里に下りて配給所を見たら、何と珍しくタコが入荷していたとか、釜石で、謎の若い女のユーレイにつきまとわれ、その地を逃れてほっとしていたところ、霊と交信できる婆さんに、あなたのうしろにいるあの若い女の人は誰か?と尋ねられ、やっと退散してもらった話など、実におもしろい。

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パパラギ * 岡崎照男・訳 * 立風書房 11/22/01

私の本箱・ベストセレクションに掲載

山小舎を造ろうヨ山小舎を造ろうヨ * 西丸震哉 * 中公文庫 12/1/01

山小屋ではない。山小舎とは、まるで一人用のテントみたいな面積から始まる、自分だけの城だ。この消費とストレスに満ちあふれた社会に生まれ落ちた不幸を背負う我々は、自然の中で、自動車の警笛も携帯電話の呼び出し音も聞こえない、真の静けさの中に時には身を置くべき、いや身を置きたいと思っている人のためのヒント集である。

土地の選び方、それも2万分の1の地形図をみて斜面の様子や方角を考え、さらに小屋の素材や、狭いながらも間取りの点で、懇切丁寧に教えてくれる。

自分の体をやっと横たえることができるような、まるで寝袋に屋根がついたような小さななものから、12畳ぐらいの大きさで、何人か人を呼んでも平気なくらいの大きさに至るまで、様々なプランが紹介される。

お仕着せの別荘を造って、都会と同じくらいの快適さを望む人には縁のない話だ。わざと不便な生活様式にして、その分だけ自然の中にどっぷり浸かろうという考えだ。

まあ、この本をわざわざ買うような人であれば、きっと心の隅にそのようなドリームハウスを描いているのであろう。そのプランの具体化にはとても参考になる本だ。

なるべく自作して、材料は廃物をできるだけ利用して、まわりの自然にインパクトを与えることなく、しかもそんなに山奥でなくとも人が滅多に訪れることのない場所を探すのはなかなか難しい相談だが、自分の人生を変えるチャンスをねらっている人には、一つの指針となるだろう。

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世界がわかる宗教社会学入門世界がわかる宗教社会学入門 * 橋爪大三郎 * 筑摩書房 12/24/01

いささか長い名前だが、それまであまりこの分野に興味も知識もなかった人のためにわかりやすく解説した、世界の主な宗教の概要である。歴史と違い、社会学では、社会の中でも比較的変化の少ない分野、つまり社会構造に宗教が及ぼした影響を中心に話を進めている。

ただ、あまりにわかりやすい内容を心がけたおかげで、解説があまりに断定的になってしまい、たしかに著者の話の捉え方はうまいが、誰でもがこれらの宗教を「一言で」とらえてしまい、わかったつもりになる危険がある。もちろんなにも知らない状態よりはましだろうが。

どんな思想でもそうだが、キリスト教も、仏教も、その創始者の考えから遠く隔たって勝手な方向に一人歩きしてしまっている。これは致し方ないことかもしれないが、特に日本に伝来してのち、葬式宗教になってしまった仏教の現状がもっとも目に余る。他国では、仏教が葬式を担当しないのがふつうなのだ。

宗教とは、死後の世界のことではなく、生きている間の問題であることは、著者は繰り返し言っているが、無宗教が多いと言われている日本では、大きな誤解がまかりとおり、自分の人生に対するビジョンの欠如がとりわけ気になるところだ。

トルコなどでは、宗教を信じていない人はヒトと見なされないぐらいで、日本のようにすぐに現世御利益を提供するような宗派がはびこるところでは、自分の人生を客観的に見つめたり哲学的に考えたりする思考が少しも育たないようだ。自殺率が高いのもそれと関係があるのかもしれない。

宗教を非科学的だという人がいるが、人生に関わる部分のうち、科学では扱えないか解決できない分野を宗教が担当するのだから、その考えは的外れだし、進歩的どころか、むしろその部分でその人は大きな空洞を抱えているのだと言ってもよい。宗教が科学に、逆に科学が宗教に100パーセント肩代わりできると考えることがおかしいのだ。

この本では、世界中の風土の異なるところにそれぞれ適した宗教が発達したことが述べられている。それらは貴重な文化遺産であり、人々のよりどころであり、いずれ消滅してゆくようなものでないことがよくわかる。

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