わたしの本箱

コメント集(6)

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  1. カオス
  2. 日本人のための宗教原論
  3. 痴人の愛
  4. 環境問題とは何か
  5. 男子厨房学入門
  6. ”自殺する遺伝子”
  7. 広重「東海道53次」の秘密

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凡例

(辞書・参考書類を除く)

題名 * 著者または訳者 * 出版社 / 読んだ年と月

(再) = 以前に読んだことのある本

 = 図書館あるいは人から借りて読んだ本

色別区分 三回以上読まずにいられない本 二回読んでみたくなる本 資料として重要な本


ここより2002年

カオスカオス * 大貫昌子・訳 * 新潮文庫 01/15/2002 ( James Gleick ; Chaos-Making a New Science )

かつて、複雑系とは何か という本を読んだことがあるが、やはり新しい科学の動向には興味を引かれる。

天気予報がさっぱり当たらない。週間天気予報といえば、はずれるのが当たり前だし、明日の天気もだいたいのところしか予測ができない。スーパー・コンピューターを使っても、観測地点を増やしてもこのありさまだ。

その理由は、これまでの学問のように綿密な条件を設定し、単純に分析を重ねていくだけでは、この大自然をとうてい捕らえることができないからだ。水の中に落とした一滴のインクが広がってゆく様のように、我々のまわりの自然は複雑さが複雑さをましてゆく。

日本の海岸線の長さは何千キロだろう?答えは無限大だ。その入り組んでいる海岸をみてもいかにも長そうだが、実は、無限に細かくみていっても、どこまでもギザギザ海岸は続く。だからどこかで妥協してここからここまではなめらかだと仮定しなければ長さを測ることはできない。

ふつうのグラフ(線形性)では書けないこのような状態は「非線形性」と呼ばれる。その変化は予想もつかない。最初のきっかけがほんのちょっとしたものであっても最後にはとんでもない結果を引き起こすこともある。しかもそのパターンははっきりしていて、「無秩序の中の秩序」が見えてくるのだ。

遺伝子から、あの複雑な生物が発生するからくりも、実は小さな遺伝子の中にそんなにたくさんの情報が詰まっているはずはなく、ただいくつかの簡単な規則(きっかけ)から出発して、カオスの持つある種の秩序に従って、体ができあがってゆくという見方もある。

つまり、生物というのも、その複雑化のあげくに発生したものかもしれない。雪の結晶のように、水から複雑な構造を造ろうとする性質が万物には内在していて、生命も必然的にできあがったとも考えられるのだ。

このようなことを学問のテーマにした人々は、20世紀の真ん中頃からボチボチ現れたが、はじめは無視と軽蔑のまなざしに耐えていかなければならなかった。もちろん現在でも、研究が進んで天気の予測ができるようになったわけではないので、まだ手探りの状態だといってよい。

だが、気象、脳の内部、細胞の内部、生態、流体から生ずる乱流など、それまであきらめられていたもしくは無視されていた現象の内部をのぞき込む準備ができてきたと言っていいだろう。

将来この科学がどのような方向に進むかはまだとてもわからないが、現在のように自然を細かく切り刻み、簡単なものに還元するやり方はもうじき袋小路に達することは目に見えている。未来の科学は、全く新しい観点から進むのか?それとも人間の頭脳では捕らえることは無理なのか?

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日本人のための宗教原論日本人のための宗教原論 * 小室直樹 * 徳間書店 01/2002 (再)2024/01/17

日本人にとって、宗教音痴と呼ばれることはあまりうれしくないだろうが、この本を読むと、それまでの宗教への認識がいかに甘いか、というよりは人生についてまじめな思索をおこなってこなかったかを痛感させられる。そもそも宗教とは「死後」のためのものではなく、「生存中」のためのものなのだ。葬式は本来宗教の扱う部門ではないはずなのに。

日本の文化では、外国の宗教に対する理解も不十分なのはもちろん、自国内での新興宗教に対しても何が正しく何が間違っているかを真摯に考える機会を持ってこなかった。この本では、世界史を振り返りながら、非常に有効な勉強をすることができる。日本人が宗教に対していかに関心が薄かったかを考えると、この本は格好の入門書である。この点では「世界がわかる宗教社会学入門」より遙かに考察が鋭い。

宗教とは、人々の行動様式である。ただそれでは意味が広すぎるから、永遠、絶対者といったものを想定して行動パターンを決めてゆく。ユダヤ教は、絶対唯一の神を掲げた最も典型的な宗教で、しっかりした戒律に従って安定した宗教生活が送れる。まさに民族の団結と安定の中心である。

そこから生まれたキリスト教では、イエスの語ったことばは、パウロによって大きく変質し、ニケアの宗教会議で決まった三位一体説は、非常に理解納得が困難である。また基本的に「予定説」に基づき、人間は神の思いのままである。しかもユダヤ教のような戒律がなく、内面と行動が切り離されているために、資本主義に代表される現代文明をいち早く取り入れた。

これに対し、イスラム教はもっとも宗教らしい宗教である。イエスと違いマホメットは歴然とした人間だし、内面と行動が完全に一致している。このためキリスト教のような大きな分派は現れなかったが、宗教生活がすっかり身にしみこんでいるので、現代文明に乗り遅れた(もっともその方が物質文明に溺れずに済み、結果的にはよかったかも・・・)。

仏教は上のいかなる宗教とも異なる。一見唯物論に見えるが、仏教で唱えているのは「無」ではなく、「空」の概念である。草は、まとめて束ねれば庵になるが、それをばらせば元の草に戻る。庵は存在しているようでもあり存在していないようでもある。因果律に基づき、輪廻の思想と結びついている。ただ、聖典が決まっていないから、仏陀の最初の思想は、驚くほどの多様化を許してしまった。

日本は、そのすっかり変質してしまった仏教や、キリスト教が生きている。原始宗教からの流れをつぐ神道の伝統が、外から入ってきたこれらの宗教を独特に「日本教」化し、最初の形とは似ても似つかない独自の文化を創り上げてしまった。天皇信仰もごく最近に、国家をまとめる必要によって、神道からでっち上げられたものだ。

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痴人の愛痴人の愛 * 谷崎潤一郎 * 新潮文庫 02/06/2002

カマキリのオスは、メスとの交尾を終わると直ちに食べられてしまう。なるほど悲惨であるが、人間の場合には、20年も30年もかけてじわじわと食べられてしまう例も少なくないから、もっと残酷だろう。カマキリの場合は瞬時だから苦痛もほとんどないはずだ。

この小説のナレーター、「私」は痴人である。自分でそういっているのだから仕方がない。ナオミという年端もいかない少女が女給をしていたのを引き取り、ちゃんとしつけをして、あわよくば自分の妻にしようと考えたのが発端だ。

このような展開は「マイ・フェアレディ」を思わせる。そしてこの原作でも女に逃げられて、男はがっくりするという点もよく似ているようだ。ただナオミの場合は、次々と男を作りそれを「私」がずっと後になるまで気づかないという展開だ。

しかも次々と好きなものを買ってやったために、ナオミは年齢が進むに連れて、ものすごい物欲の塊になってゆく。しかも彼女は「私」が自分に少しも抵抗できないことを本能的に知っており、好きなようにもてあそばれる。

この小説のすごいところは、ナオミという典型的な「近代的」女性像を作り上げたことだろう。いや、近代的というのは間違っているかもしれない。太古の昔から少数ながら存在したはずだ。

これが書かれた時代にはただセンセーショナルな小説に過ぎなくとも、いずれ時間がたつと、このタイプが世間に多く見かけられるようになるだろうというような,、予言性まで含んでいるから、偉大なのだ。

谷崎が、川端にわずかな差でノーベル文学賞に漏れたと聞く。もちろん川端はそれなりにすばらしいが、若い女性の心理分析を、これだけつぶさにおこなえる作家は、まずほかに見あたらない。

「痴人の愛」は、これから恋愛や結婚を目指す若い男性にとっての必読の書としたい。これは女性は危険だから近づくな、という意味ではもちろんない。なにも彼の妻や恋人がナオミだというのではなく、この物語を読むことによって、世の中にありがちな貴重な体験を間接的にでも享受できるからだ。

なお、オス・カマキリの中にはすばしっこいのもいて、食べられる寸前にさっと「やり逃げ」をしてしまうやつもいるということを申し添えておく。

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環境問題とは何か環境問題とは何か *富山和子 * PHP新書 02/25/02

今、環境問題について論じた本は、すさまじいほどの量になるが、この本の扱う環境は、少しほかとは趣が違っている。ふつう自然というと、原始林とか深海のように人間の足跡がない場所を思い浮かべがちだ。ところが実際のところ、いわゆる文明国では、そのような「自然」はほとんど存在しない。

特にヨーロッパでは、人間が住み着いてから何千年とたち、今でもその地に多くの住民が住んでいるのだから、本物の自然があるはずもない。同じことが日本の自然にもいえる。縄文時代から、日本人は営々とこの列島に暮らしてきたのだ。

そして長い年月のうちに、この高温多湿なモンスーン地帯に属する国土を自分たちの暮らしに最も適するように改造してきたのだといえる。稲作技術、山のてっぺんにまで至る棚田、里山、などはもっともよく知られている、日本人の知恵によって生み出された、独特の「環境保全」技術だといえる。

そこでは放っておけおけばよい原始のままの「極相」状態とは異なり、絶えず多くの人手によって管理運営されてこそ最大の効果が発揮されるように長年にわたって構築されてきたのだ。だから日本の自然の大部分は、今後も絶えざる手間をかけてこそ維持されなければならないのだ。

森林について言えば、植林、間栽、水田について言えば、貯水機能の維持、海について言えば、禁漁期間の設定や注ぐ川の上流の森林整備などだ。これらは実にこまめな監視が必要であり、まだ日本が過疎問題に悩んでいなかった頃は、地元の人々によってその仕事が見事に担われていた。

だが現在のような都市中心に産業が動いてゆく時代になると、地方に住む人々の流出によって、自然は荒れ、国土保全が難しい状態になってきた。都市住民の利益を優先するあまり、道路や第2次産業以外の地方への予算が削られ、年々深刻な状況になってきているのだ。

自然保護運動といえば、ダムに反対したり、よけいな道路を造ることに反対するのも結構だ。絶滅しかけた動物を保護するのに奔走するのも大切だろう。だが、それらの背後にある、豊かな水をもたらし土壌を維持してくれる列島全体の自然をきちんと整備することがまず先決なのだ。

石油や石炭のような資源の一方的な搾取ではなく、永続的に自然のもたらす恵みを享受しようと思ったら、日本人が古来から築いてきた保全と管理の方式を維持してゆかないと、すでに砂漠に埋もれた文明と同じく、この国の将来も危うい。

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男子厨房学入門男子厨房学入門 * 玉村豊男 * 文春文庫 03/06/02

映画「クレイマー・クレイマー」では、妻に去られた主人公のクレイマー氏が、最初はおぼつかない手つきで料理を作っていたが、悪戦苦闘するうち、次第にうまくなり、映画の終わりごろには慣れた手つきで料理を作るようになった。

料理ができることは、自立の第1歩である。女の自立が叫ばれて久しいが、現実は包丁を持ったことのない若い女の子が増えているのだ。爪を1センチも伸ばしてマニキュアをしたら、それで食べ物がつかめるはずもないが。

男たちの自立も遅い。なぜならコンビニやお総菜売場や、安易な食品が巷にあふれて、手間をかけるな、面倒なことをするなと日夜連呼しているからだ。にもかかわらず、食物の獲得と、自分の胃袋のあいだをつなぐ「過程」に無関心ではいられない諸兄も多いはずだ。

和食の概念についての説明がおもしろい。和食とは、リキッドAと、リキッドBによってできているのだという。利キットAとは、鰹や昆布のダシの溶けた液体のこと。リキッドBとは、醤油とみりん(または酒と砂糖)の溶けた液体のこと。すべての和食は、この液体をさまざまな割合に混ぜ合わせて作ったものなのだと。

旅行ガイドで有名な著者が、本当に基礎から、それも包丁のにぎり方から教えてくれる。そして、男の書いたものに特有な「哲学」も含まれているのだ。和食、中華、西洋のそれぞれの料理の特長を生かした、「例題」付きである。

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自殺する遺伝子”自殺する遺伝子” * 河野和男 * 新思索社 03/20/02

自殺するとは物騒なタイトルだが、遺伝子の特許を他人に奪われないように、種子の中に仕組まれた仕掛けだ。人間は金儲けになるとどんな知恵でも働くものらしい。

著者は、国際機関を通じて、主として貧しい、小規模な熱帯に住む農民たちの多くが栽培する「キャッサバ」の品種改良に取り組んできた人である。キャッサバは、米や小麦と違って、「緑の革命」の立て役者ではなく地味な存在だが、それだけに世界の貧富の差をますます強烈に感じさせられることになる。

バイオテクノロジー万能のように言われている昨今だが、しっかりと目的になじんだ品種は、原産地の遺伝的な変異の大きい種がたくさん存在するところで地道に長年かけて育て上げなければならない。「アイルランド大飢饉」を例に、変異の少ない単一栽培がいかに危険かを教えてくれる。

過保護な環境で、ただ収量が多いというだけでは、貧しい人々が使う品種としては失格である。病害虫に強い、乾燥に強い、やせた土地でも平気、などと、それぞれ特色を持ってそれぞれの風土にあった品種を多数作り出す必要があるのだ。

すぐれた品種は総合的な判断によって作られる。バイオテクノロジーの技術は、そこのところを機械的に必要な機能を持つ遺伝新を張り付けたりすげ替えたりするだけのまだ未熟な技術だ。

そこから、肥料や農薬をたっぷりやれる農民と、やせた土地で、灌漑も何もおこなう余裕のない貧しい農民との格差がどんどん開いてゆく。著者はそこから、世界中の不平等性、飢餓の発生へとつながる問題点を指摘してゆく。

それにしても、このグローバリズムの時代には、とにかく金をもうけたい一心から、遺伝資源にがんじがらめの特許の網をかぶせようとする多国籍企業が貧民から吸い上げようと狙っている。これではテロが多発するのも無理はない。

遺伝情報は、建物の設計図と違う。大昔から先祖たちが営々と積み重ねてきた「文化遺産」なのである。それをちょっと小手先で改良しただけで、何が特許なものか。

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広重「東海道53次の世界」の秘密広重「東海道53次」の秘密 * 對中如雲 * 祥伝社 04/09/02

あの有名な広重の版画は、実はすぐれたモデルがあったのだという。それは司馬江漢という、江戸時代のレオナルド・ダ・ビンチとでもいえる人である。司馬が実際に東海道を写生旅行に出て、そのすぐれて写実的で西洋の絵の技術を駆使して描いた53次の原画を、広重が師匠のつきあいの中から手に入れて、そこから広重独自の絵の世界を創り出したというのだ。

確かにその大部分は構成といい、実に驚くほどよく似ている。だが、よく見ればまったく異種の世界を展開していることがわかる。単なるまねではないのだ。盗作でもない。まったく別の方向に進んだ二人の芸術家の姿がここにある。

著者は伊豆高原美術館の館長でもある。この革命的だが、おそらく事実としかいいようのない新発見に対して、これまでの美術研究者たちが口を閉ざし、事なかれ主義に逃げ込もうとしていることを嘆いている。

それにしても、一見洋画家風の絵を描いた司馬に対し、天性の抽象画家として、いや最初のグラフィック・デザイナーとしての広重が紹介されている。ここではどちらがすぐれているかの問題ではない。絵を描くときの「独創性」と「表現する世界」が違うというだけなのだ。

また、当時、このような才能に恵まれた芸術家たちを輩出した、江戸中期という文化の豊穣な時期についても目を向けている。明治維新以後のように西洋崇拝だけで、貧しく不毛な日本美術界に対し、鎖国ということが逆に独自の多様性に富んだ文化を生み出した事実に注目したい。

なお、この本に対する再反論も盛んに行われているので、興味のある方はごらんになるとよい。

この問題はさらに続く。2004年1月23日付の朝日新聞夕刊(3版)では、「広重、東海道旅せず?」の記事が第1面に載っている。全55枚のうち少なくとも26枚がすでに刊行されていた3種類(東海道名所図会・続膝栗毛・伊勢参宮名所図会)の本からの転用だという。しかし、広重が京都に行こうと行くまいと、何かを模写したにせよ、作品のすばらしさ、楽しさは別に変わらないから問題ないが。

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