一般書・ベスト(2) |
||
わら一本の革命 ドリトル先生物語 知的生産の技術 森は海の恋人 食べ物さん、ありがとう 自動車絶望工場 PAGE 2 堀江謙一著 ポケット文春509(絶版)***現在は、福武文庫 ほ0301(福武書店)に収録 本文の目次
解説 この本を読むと、日本と日本人は、現在なんと衰弱してしまったのだろうかと身にしみて感じてしまう。青春の持つ「はつらつさ」というものがいつ頃から死語になったのだろうか。この話は、まるで違う国の全く別の種類の人間がやったことのように思えてしまう。 確かに彼のあとに、数え切れないほどの探検家、冒険家が日本から輩出した。だが堀江「青年」は「・・・家」の気負いはまるでなかった。ただ、ヨットが好きだ、アメリカに渡ってみたい、という当時の若者なら誰でもあこがれそうなことを本当に実行に移してしまったに過ぎない。 彼が戦後日本の自信喪失から救ってくれる明るいニュースを与えてくれたというだけではなく、まだ貧しかった社会の中の希望や活気を代表してくれたことに大きな意味があるような気がする。 このような心意気は政治や制度の世界をも動かす力を持っている。当時の国会で、保守的な議員たちが、世論の圧倒的支持を受けて、彼に対する不法出国の扱いをあわてふためいて取りやめたことは実に痛快だ。 わたしもこの本を中学時代に読み、その後のヨットやウインド・サーフィンとのつきあいが始まったわけだが、現代日本人の海との疎遠な関係を考えると、ベストセラーになったおかげで、きっと多くの人々を「潮っ気」にさらしたに違いない。 彼はその後の冒険でもわかるように決してスーパーマンではない。かなり強運の人であろうが、この本の中で、「何でも控えめに見積もる」という、期待を低めにとる態度が、精神的安定をもたらし、それが強さのもとになったのかもしれない。 また、「その他大勢」はつまらない、自分独自の道を行きたいという願望が強い。こういう独自性にこだわる点が、何でも人と同じことをしなければ不安でいられない現代の子供たちには耳のいたい話だろう。いや、彼らには別世界の話に思えるかもしれない。 わずか200ページの本ではそのつらさはわからないが、3ヶ月かかったこの横断を今では飛行機がひとっとびで、サンフランシスコまで居眠りして行けてしまう。現代人の傲慢さはここから来るのだろう。カルフォルニアのブロッコリーを、さもなんともないように食べる感覚は自分が太平洋をまたげるという「思い上がり」以上のなにものでもない。 海の大きさ、それに対する人間の卑小さ、それでも頑張る人間がいることを知るには絶好の本だろう。海を愛する人間はさらに読みたくなる。たとえば、「素晴らしいヨット旅行」柏村勲(ポケット文春)「オンボロ号の冒険」望月昇(ポケット文春」「コラーサ号の冒険」鹿島郁夫(朝日新聞社)などが、心躍る日本人の記録であろう。 1999年12月作成 上へCharles A. Reich著 邦高忠二訳 早川書房 本文の目次
解説 1960,70年代のアメリカにおける新しい思想傾向を知るときに見逃せないのがこの本だ。大学生の頃、初めてこの本を読んだときはショックを覚えた。その内容が、当時私の考えていたこととまったく同じだったからだ。 第2次世界大戦、朝鮮戦争、そしてベトナム戦争の泥沼の中を通り抜けてゆくとき、アメリカは苦悩した。折からフランスに始まった学生たちの社会におけるあらゆる面での「改革」を求める運動は、マルクス主義、新左翼、環境保全とさまざまな方向に羽を広げてアメリカに伝わっていったのだ。 さまざまな思想の離散集合が行われるうち、学生たちは今までとは異なったライフスタイルを持つ世代を形成していった。それは特定の信条でもなく、イデオロギーでもない。新しい生活態度、いわゆる「意識」の変化が見られたのである。 著者のライクは、自らエール大学で教鞭を執る傍ら、学生たちのこの変化に注目し、観察してこの本を書き上げた。それは哲学書でもなければ、啓蒙書でもなく、むしろ当時のアメリカの観察日記とでも言ったほうが適切かもしれない。さらにアメリカが到達した、高度に企業的でありながら、人間の本性を押しつぶすような社会についての分析は、実に明快で切り口が鋭い。 開拓者の伝統を受け継ぎ、自由競争に自分たちの物質的向上を賭ける「意識1」、現代の高度に組織化された社会で生きるために「過剰」適応した「意識2」は共に過去のアメリカを支えてきたが、後者については、現代の「企業的アメリカ」を支えるためにはあまりにも自分を犠牲にしなければならず、人間のゆがみがベトナム戦争の頃から特に激しく現れるようになったのである。 この状況に反発し、それを乗り越えようとして現れてきたのが、「意識3」を持った人々である。それまでの富や名誉や地位を追求することから「卒業」し、機械に使われるのでなく、使いこなすことができるようになった。そして愛と連帯を重視し、常に生き方を実験してやまない人々である。 このような人々が増えれば、新しい社会に適応した生き方として、アメリカに大いにプラスになると期待する。だが、著者に共感するのはここまでである。私はそんなに楽観的にはなれない。現に、21世紀を迎えようとしている今のアメリカは、完全に「意識1」のライフスタイル、つまり弱肉強食、強者必滅、強烈な競争の世の中、「ジャングルの掟」の時代に逆戻りしている。 確かに1999年の暮れに起こった、シアトルでの WTO に反発する集会で、まだ「意識3」は絶滅せずにアメリカ国内に残っているなという気はするが、真の生き方をつかんだ人は、いつの時代でもか細い流れでしかないのである。 上へ 西丸震哉著 経済往来社昭和45年4月20日初版・昭和48年9月20日6版 本文の目次
著者は食糧庁の研究所で食物の研究をしただけでなく、登山家、探検家でもあり、この本はそれらの経験をもとに書いた、食物についての集大成だ。目次にあるように、まず嗜好の面から解き起こし、お袋の味や小さい頃になじんだ故郷の味がいかに一生にわたって続くかを語る。 さらにそのことから発展させて第8章に至るまで、ゲテモノ食いや現代の子供たちの食生活の問題に及ぶ。今の子供たちのひ弱さ、肥満、栄養的偏りは、短命化の原因として、こんな早くから予測されていたのである。この話はもっと具体的になり、「41歳寿命説」(情報センター出版局)という本になって1990年に出版された。 9章より先は、ボルネオ島などの探検の経験をもとに、古代の日本人が何を食べていたかを探る。そこから適切な一日の食事回数や、長寿食の特徴、味覚の発達について述べている。長い間にすっかり変わったもの、少しも変化しないものを取り上げて、食物に対する正しい態度とはどういうものかを考える。 この本で強調されなければいけないのは、あまりに過保護になった現代の環境のせいで人間の体力、気力ともどんどん駄目になってゆく中で、いかに昔の食事や運動が大切かという問題である。昭和45年の出版当時でも「ブクブクの肥満児」や「テレビでごろごろ」が話題になっているのである。 団地の坂がつらくて自転車を止めてバスに乗る人、階段がいやで、エスカレータの長い列を待つ人、暑いからといって一日中エアコンをつけっぱなしにしている人、いずれもこの本では強く戒めていることである。著者は医者や栄養学者ではないが、自らニューギニアのスタンレー山脈を歩いて単独横断をするような人だから、体験に裏付けられた説得力があるのだ。 この本の魅力は他の著書にも及んでいる。「41歳寿命説」(情報センター出版局)のほかに、「イバルナ人間」「山歩き山暮らし」「食物の生態誌」「動物紳士録」(いずれも中公文庫)、「山だ原始人だ幽霊だ」(角川文庫)「野外ハンドブック」(カッパブックス)を所蔵している。 どくとるマンボウ航海記北杜夫著・新潮文庫 昭和40年2月23日印刷 本文の目次
解説 <第1回解説> なんといっても旅は、若くて感受性があるにもかかわらず未経験な人間にとって大変なインパクトを与えているはずだ。これを楽しく表現できる人は少ないが、当時作家の作家の卵であった、北杜夫はこれを成し遂げた。 しかも、彼の専門が精神科であっても一応医師の免許を持っていたがために、船医として、マグロの海洋調査船に、1958年という、まだ日本人が海外旅行の大挙して出かけることのできる時代以前に、行けたことも幸運だった。 インド洋から、スエズ運河を通って地中海へ、ジブラルタル海峡をくぐり抜けて、アフリカ西海岸を南下、そのあと北上して、オランダやドイツの港町、さらに地中海に戻ってスエズ運河を経て帰途についたという、「航海記」としては理想的なルートを取ることができた。 若さと青春のあふれた本というのは、そう数は多くないが、この作品はそれがあふれているようでならない。北杜夫はこのあと長い鬱病の時期に苦しむが、当時はそんな形跡は全くなく、大いに人生をエンジョイしているようだ。 たしかに現在のように猫も杓子も海外旅行に出かける時代には、この種の書物はあふれているように見えるかもしれない。だが、まだ海外へ出かけることの少なかった時代に書かれたこの本は新しいもの、物珍しいものに対する新鮮な観察があふれかえっているのだ。 しかも航空機を使っていないことが何よりもいい。旅は、陸路、さもなければ海路でゆっくりとかみしめるのが理想だが、現代ではそんなことのできる人は僅かだ。ところが北杜夫は、作家と船医という一見奇妙の組み合わせながら、これを実現できたのだ。 船の進行は遅い、だが港によってその街をじっくり見る機会に恵まれている。次の港へ到着する時間は非常に長いから、駆け足旅行で印象が薄くなる心配がない。船の旅の良さはここにあるのだろう。 ドイツ語をはじめとして英語も多少話せることから、地元の人との接触もさまざまな結果を生む。これもこの本をおもしろくしている原因だろう。「深夜特急」のような放浪ものとは、またひと味違った、だが現代人には望むべくもない旅の本である。 <第2回解説> February 17, 2003 航海記というタイトルは、何か胸がときめくものだ。まだ交通の不便だった時代に、はるばる海路を越えて見知らぬ国々へ向かうロマンと期待にあふれた気持ちで本を開く。船は地球の本当の距離を感じさせてくれる。 それが、1959年で、若くして水産庁の漁業調査船の船医となれば、寄港する先々でどんな冒険が待っているのか胸が躍るのは当然だろう。日本を出てシンガポール、インド洋を越えて紅海、スエズ運河、ジブラルタル海峡を抜けてアフリカ西海岸を南下、再び北上して、ヨーロッパの北海岸の諸都市を巡って再び地中海に戻って日本に帰る。 一つには若さが未知のものと出会えるスリルがある。著者はもともと神経科医だが、しかも帰国後には神経を使いすぎたのか十二指腸潰瘍になる有様だが、ものを書く才能を存分に活かしてこの小編を書いた。また、この航海記を利用してゴキブリの目から見た作品、「高みの見物」もおもしろい。 1960年代に出版された当時、この本を読んで、船乗りになりたいとか、旅行家になりたいと思った若者が多数現れた。それもそのはず、敗戦の内向き志向を背負っていた日本人にとって、堀江健一のヨットでの太平洋横断のように、海外に目を向けるきっかけになったからだ。 しかも、今ではあたりまえになっているパック旅行やリゾート志向ではなく、本物の「旅」を含んでいる。スムーズにものごとが進まず、間違いだらけの旅行。見知らぬ街の雑踏の中に自分をうずめていく体験。言葉が通じないままに、訳の分からない食べ物を口にするスリル。そしてなんと言っても現代社会のように画一化が進んでいない、各国の多様な文化と人々に出会える体験。 残念ながら、21世紀は、旅の喜びが急速に消滅している。どの街に行ってもコンビニがあり、交通渋滞があり、アメリカ映画を上映する映画館があり、ファストフードの店が軒を並べるようになってきた。皮肉にも「便利」と「快適」が旅を殺している。急がないと、記念碑や銅像や建造物しか見るものがなくなってしまう。 フィクションなら「ドリトル先生航海記」があるが、「マンボウ」以外に、日本人の旅ではなんと言っても沢木耕太郎の「深夜特急」、小田実の「何でも見てやろう」、堀江健一の「太平洋ひとりぼっち」と本当の旅を感じさせてくれる作品は少ない。みんな若者の新鮮な目で満た世界だ。しかもどれもグローバル化がまだ進んでいない時代に書かれた。もう多様性は進む一方なので、このような作品ができることはもはやない。 上へ岡崎照男・訳 立風書房 本文の目次
解説 ある日、TBSラジオを聴いていると、評論家である秋山ちえこさんの声が聞こえてきた。毎日彼女は、短いエッセイ風のお話をする。その日の話題がこの「パパラギ(白人)」だった。ちょうどこのときに、この本のことを知ることができたのは幸運だった。 さらに幸運が重なった。きちんとメモを取っておかなかったために「パパ・・・?」とうしろの名前を忘れてしまったのだが、江ノ島の境川河口を自転車で走っているときに、ちょうど通りかかった船の名前が、なんとこの PAPALAGI だったのだ。だが、この船の持ち主はどういう気持ちで命名したのやら・・・ 原題で見るように、この本を書き留めたのはドイツ人である。だが、その話のもとは、サモア島からヨーロッパに「留学」したツイアビ酋長の講演の記録なのだ。かつて日本でも文明開化の頃に福沢諭吉をはじめとして、多数の留学生や視察団をヨーロッパに送り出したように、サモアの文明開化では第1次世界大戦が起こるすこし前に、何人かがヨーロッパへ渡ったのである。 だが、日本の留学生たちと違い、ツイアビさんはヨーロッパから持ち帰った西洋文明を手放しでほめたたえたりしなかった。それどころか、この本を読むと、ヨーロッパに住む白人たちに対して、徹底的な軽蔑を抱いている。 第1章では、装飾過剰で、自然から切り離された生活を余儀なくさせる衣服について、第2章では都市生活の息苦しさについて、第3章では拝金主義について、第4章では物質主義について、第5章ではビジネスに追われたゆとりのない生活について、第6章ではキリスト教を偽善的に信仰しているふりをしている連中について、第7章では便利さを追い求めるだけの技術至上主義について、第8章では分業で細分化された仕事について、第9章では新聞をはじめとするマスコミの思想統制について、そして第10章では現実から遊離した抽象的思想の不毛について述べている。 これらのテーマを検証すると、ツイアビ酋長の驚くべき観察眼と知恵の深さが見えてくる。どの国にも賢人はいるものだが、サモアでは幸いにして、その賢人が留学して、自国の文化と比較することができた。彼は西洋文明が宣教師などを通じてサモアを汚染する前に、自分たちの同胞にあらかじめ警告したかったのであろう。 残念ながら、彼のこのすぐれた知見はサモアでは行き渡らなかった。現在、サモアは、肥満者と糖尿病が異常に増えている。タロイモを食う旧来の食習慣に、西洋式の肉食が入り込んだから、心臓疾患などの成人病は当たり前になっている。悲しい現実だが、これはアフリカでも、ニューギニアでも、アマゾンでも全く同じ事が起こっている。 真理の糸は、常に細く長いが、今にも切れそうなのだ。正しいことを見極められることのできる人はきわめて少ない。ほとんどの人々はテレビ、マクドナルド、コカコーラ、と素直に西洋文明の表向きの魅力に従ってゆく。 しかもこの本が出版された1920年代は、ヨーロッパの植民地主義の時代がまだ続いていたが、現在はアメリカ・グローバル文明という、より邪悪なパパラギが跋扈する時代になってしまった。 ツイアビ酋長が警告したこれらのテーマは、一つ残らず、現代の大問題として浮かび上がっている。100年も前にこれをすでに予言した彼の慧眼には驚かざるを得ない。 振り返ってみると、日本文明は現在、自国の文化はすっかり形骸化し、パパラギの、つまり西洋文明にどっぷり浸かっている。パソコンや車のコマーシャルに出てくる人間が金髪の西洋人ばかりだという事実一つとっても、こののめりこみ方が尋常ではないことに気づくだろう。日本の場合は鎖国時代からすでに、パパラギ的な生活様式が存在していたせいかもしれない。 なお、この本に、前書きの一つとして寄稿しているのが「素晴らしいヨット旅行」を書いた、画家の柏村勲氏である。このような文を書きそうだなと思える人である。 2001年11月22日作成 小田実・河出書房新社1969年5月31日初版 1972年8月30日13版発行 本文の目次
小田実は、フルブライト留学生試験に合格し、1958年から2年ほどアメリカに留学することができた。そしてなけなしの金をはたいて、飛行機の「各駅停車」を利用しつつ、ヨーロッパ、中東、インドと回り道をして日本に帰ってきたのである。 お金がほとんどなくて最低の宿にしか泊まれないこと、若かったこと、観光には興味なかったこと、各地に留学生仲間が迎えてくれたこと、などが幸いして、その後の物見遊山に飽き足りない、日本人の世界旅行の先駆けとなる貴重な体験をすることができた。 このあと、ノンフィクション作家の沢木耕太郎をはじめとして、数多くの放浪的旅が続いたし、私もカルカッタやベナレスで、著者と同じような体験ができた。ツアー旅行と食べ物や美しい風景を求めるリゾート型全盛の現在の旅行を好む人々には、興味はないだろうが、「旅(たび)」にあくまでこだわる人にとってはバイブル的な存在といえるだろう。 このような旅をすれば、「貧困」という単語の意味が、辞書ではなく実際の姿として身にしみてわかるし、「腐敗」した政府や国家とはどういうものか実際に巻き込まれて、いやと言うほど思い知らされるだろう。また著者が(古代)ギリシャ語専攻で、実際にギリシャへ行って(現代)ギリシャ語がある程度通じたという体験は、自分のしゃべる言語がどんなにへたでもいかに現地の人と外国人との結びつきを深めてくれるかを教えてくれる。 この本を読んでわかることは、当時のアメリカ(1958年)が、もうすでに画一主義の牙城だったことだ。今世界を席巻している、マクドナルドに代表されるファストフード文化、清潔なディズニー式エンタテインメントはすでにこのころから芽生えていたのだ。アメリカ人のライフスタイルは、この50年近くほとんど変わっていない。変わったとすれば、よりエネルギー消費が増大したというだけか。 旅行を楽しむのであれば、伊豆の温泉で十分だ。だが、「旅」をするのなら、この体験のように世界の底部に潜り込んでゆく必要があろう。これからは世界がどんどんグローバル化して、多様性が消えてゆくから、こんなさまざまな事件にあふれた体験記は、もはや生まれることはなかろう。 上へ日高敏隆・訳 Desmond Morris 河出書房新社 本文の目次
解説 この本を初めて目にしたのは大学に入ってはじめての年だった。まだ学生生活にも慣れない頃、学生アパートの隣に住む先輩の部屋を訪ねると、壁一面に並ぶ本棚の中にこの赤く目立つ本があり、そのタイトルが普通ではない。まだ高校生気分の抜けなかった私は、先輩に勧められるままに自分の部屋に持ち帰った。 この本を読まなかったら、私のものの考え方はもっと保守的になっていただろう。この本のおかげで社会的存在としてだけではなく、人間を「動物」をして眺め、そこから生ずるさまざまな欠点を客観的に眺めることができるようになったのだから。 ローレンツに代表されるような比較行動学の成果を取り入れ、自らの動物園での経験も含めて、絶えず日常の人間たちの行動を観察することによってこのユニークな本は生まれた。このあとさまざまな類書が出たが、いかに多くが付け加わろうともオリジナルの持つ力は衰えていない。 なぜ人間の肌は毛がないのか。そこから疑問が始まる。最も有力なのは、水生生活によって、水の抵抗を防ぐために、毛がなくなり身体が流線型になり、水の冷たさから身体を守るために皮下脂肪が厚くなったという説だ。 もっともセックスの時にお互いに触れ合う密度を高め、それが子孫繁栄につながるように、隆起した乳房とともになめらかな肌が発達したのだという説もある。人間がきわめて性的な動物であり、その行動の多くがそこに起因していることを考えればなるほどとうなづける。 子供を育てるにあたっては、他の動物に比べて非常に長い時間母親のもとで暮らす。そうしないと必要な文化を伝達できないためだが、同時に幼児期の延長により、好奇心や柔軟性が歳をとっても持続するのが特徴だ。 そして人間の好奇心はとどまることを知らない。確かに子猫やチンパンジーの子供はよく遊ぶが、人間の遊び好きにはかなわない。これがまわりの新しい世界への探索行動となってますます行動範囲が広がっていくのだ。 人間の雑食性にかなう動物はほとんどいない。何でも食べる。おかげで世界中どこにでも進出することができた。他の動物は肉食や草食として自分の食性を専門化してしまい、自分の暮らす気候風土のもとに閉じこめられてしまった。これでは環境が激変したときにはひとたまりもない。 しかしこのようにしてどんどん繁栄してきた裸のサルは、その途方もない人口増加により、他の動物を次々と絶滅に追いやっている。それに伴う自然破壊によって、自然界の本質である多様性は近いうちにすっかり失われ、地球は少数の種によって独占されることになるだろう。 そして絶え間なく続く戦争。人間の中に潜み、これまでは他の種との生存競争で有利に働いてきた攻撃性も、狩猟生活から生まれた協同精神と結びついて同じサル同士で殺し合うことが常となってしまった。 大切なことはこの戦争も含めて人間がどんなに高度に発達した文明、文化を誇ろうともその根本には裸のサルとしての動物性がいつまでも消えることなく残り、これが結局は自らを滅ぼす原因になるのではないかというおそれである。 この本の最も大切な点は、人間は他の動物と切り離された孤高の存在では決してなく、動物の多様性から生まれた連続する線上にあるに過ぎないという認識だ。 上へ吉田ルイ子 講談社文庫 本文の目次
解説 筆者は1960年代という20世紀でも最も思想や芸術の盛んだった時代にニューヨークのハーレムに居合わせた。しかも彼女はまだ若かったこともあり、社会や文化の変動をきわめて強烈に受け止めたといえる。それがこのような力作を生んだ。 彼女は、ジャーナリズムを勉強するために、ニューヨークのコロンビア大学に学びに来ていた。アメリカ共産党員の白人と恋に落ち、結婚したが大学の勧めもあってハーレムのど真ん中にある高層アパートに安い家賃で入居できた。これがハーレム住まいの始まりである。 これは当時きわめて好奇の目を引くだけでなく、社会的摩擦も覚悟しなければならないことで、黒人の住む中に、白人と東洋人の夫婦が住むこと自体大変なことだったのだ。しかし案ずるより生むが安しで、入居すると、まわりの人情あふれる黒人たちの生活に彼女はすっかり惚れ込んでしまった。 麻薬や暴力などの犯罪が頻繁に起こる中で、貧しいながらも互いに助け合って生きていく人々の姿は、かつては日本の大都市の下町にもあったものなのだ。しかもカメラの才能に目覚めた著者は本格的に撮影に没頭しその被写体としてハーレムの人々を選んだのだった。 暮らしていくうちにアメリカ白人、特にリベラルとよばれる人々の偽善性が気になりだしてくる。何しろ南北戦争が終わってからいくらも立っていない国だ。ついこの間まで奴隷制度が堂々と通用していた国である。人種差別が完全に国民の中にしみこんでいるのだ。 しかしその中でも黒人たちは、低賃金になきさげすまれながらもそれに耐えて生きてきた。しかし60年代における改革と革命の波はハーレムにも激しく打ち寄せてきた。まず黒人暴動がすさまじくなり、いったん別の場所に夫婦は引っ越さなければならなくなってしまった。 不幸にも夫とは黒人に対する態度をはじめとするさまざまな行き違いから離婚することになったが、筆者はたとえ荒れていてもまたハーレムに戻りたくなり、本当に新しく生活を始めるのだった。 そのころ黒人たちの間に、ニグロとよばれただ我慢するだけの生き方に対し、胸を張り白人と対等にプライドを持っていきるべきだという考えが台頭してきた。ブラックパンサー運動がそれである。彼らはストイックな暮らしを選び自らを律することによって新たなアイデンティティを作り出そうとした。 その最盛期には多くの若者が入団を希望し、自らをブラックと名乗り、白人やその文化に媚びない生き方が大いに求められた。これはアメリカ黒人の歴史の中でも画期的なことであり、ブラックパンサーに関わる事件やアンジェラ・ディビスの逮捕、キング牧師の暗殺をはさんで、彼らの精神が大きく変わったと言っていいだろう。 筆者はその記録としてたくさんの写真を残している。日本に帰ったあとでもハーレムの中に生きた歴史の証人として多くのことを教えてくれるし、あれから40年以上たった今でも、たとえ法整備はされていてもまだまだアメリカにおける有色人種の地位は理想からほど遠いことを思い知らされるのである。 今後の予定 書を捨てよ町に出よう・深夜特急・動物農場・地球の上に生きる |