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今年見た映画(2000年) The Miracle Worker 奇跡の人 08/26/00 「奇跡を起こした人」と言うべきか。その名は、誰でも学校時代にその名を聞いたことのあるヘレン・ケラーを新生させたサリバン。ヘレンは生まれてしばらくして熱病にかかり、盲目、聾唖の3重苦を受けることになるのだが、サリバン先生という家庭教師のおかげで奇跡的に「ことばの本質」をつかみ、自立の人生の第1歩を踏み出すことになる。 サリバン先生は、まだ若いが、実は彼女自身ついこの前まで目の見えなかった弱視であり、しかも弟とともに孤児院に入れられ、そのひどい状況の中で弟を失った辛い人生を送ってきたのである。だから障害者にとって必要なのは同情や保護ではなく、自立できる人間に育つことだというとはよくわかっている。 ケラー家に招かれて最初にわかったのは、へレンの両親たちの甘やかしの態度だった。サリバン先生にとって一番の難関は、この両親をいかに変え、へレンに接する態度を普通に戻すかということだった。ほとんどクビになりそうな状況の中で、へレンへの教育はやり直され、やっと服従し、着替えやテーブルマナーなど、日常生活に余り支障をきたさないほどになった。 この映画の場面では、壮絶な二人の「戦い」が食堂や、森の中の狩猟小屋の中で繰り広げられる。サリバン先生の強硬なやり方に、両親はもちろん、へレン自身も嫌って逃げ出す始末だが、次第にしつけが身についてゆく。だが、サリバン先生は、最も大事なことをまだ実現できないでいる。それはコミュニケーションに不可欠な、単語の「シンボリズム」の理解だ。 それまで何度もサリバン先生は、サイン言語の一つである、指文字を使ってさまざまな物体について、その綴りをヘレンに伝えてきたが、指文字の形は覚えても、一向に実物と単語が結びつくことはなかった。この「結合」は決してゆっくりやってくるものではなく、ある日突然突拍子もない瞬間に現れるのだということをこの映画は教えている。 あの有名な、井戸水を汲むシーンである。ヘレンは、自分の手にかかる冷たい何かが、「 W-A-T-E-R 」であることに突如気がつくのだ。ここで彼女の人生は変わり、それまでの両親に依存した生活から、自立への道を歩み始めることになる。(1962年、白黒) Directed by Arthur Penn / Writing credits William Gibson (I) (play) William Gibson Complete credited cast: Anne Bancroft .... Annie Sullivan / Victor Jory (I) .... Captain Keller / Inga Swenson .... Kate Keller / Andrew Prine .... James Keller / Kathleen Comegys .... Aunt Ev / Patty Duke .... Helen Keller ヒアリングーサリバン先生とヘレンの「格闘」シーンは聞き取りにくいだろうが、それ以外は特に問題なし。 上へBram Stoker's Dracula ドラキュラ 08/29/00 ドラキュラの物語は、たくさん映画化されていて、これは Bram Stokerという人の書いた小説を、コッポラが監督したものだ。中世にキリストのために戦った、ルーマニア奥地のトランシルヴァニア地方の戦士ドラキュラは、戦いに出かけるが、留守中に誤った伝言で彼が死んだと思いこんだ妻エリザベータは、崖から身投げしてしまう。キリストのために一生懸命働いたのに、自殺はキリストに呪われると僧侶から言われたドラキュラは腹を立てキリストを呪い、永遠に血を吸って生きるのだと誓う。 時は経って19世紀、ロンドンの不動産会社に勤める青年ジョナサンは、トランシルヴァニア地方への出張を命じられる。婚約者ミーナとの結婚をひかえていたのに、彼は後ろ髪を引かれる思いで当地に出かける。そこはドラキュラ伯爵の住む城で、彼はロンドンに邸宅を買い、そこを吸血鬼たちの根城にしようともくろんでいたのだ。 一方ミーナは金持ちの友人ルーシーのもとに滞在していたが、ルーシーはロンドンでの吸血鬼の犠牲者第1号になってしまう。ミーナ自身は街の真ん中でドラキュラ伯爵と出会うが、なぜか不思議に懐かしい思いにとらわれる。それもそのはず、ミーナは前世の妻エリザベータの生まれ変わりだったからだ。ミーナはジョナサンと再会できて結婚式を挙げるのだが、どうしてもドラキュラを忘れられない。 ルーシーなど、一連の吸血鬼事件に興味を抱いた、形而上学研究家ヘルシング博士は、ルーシーの恋人たちやジョナサンと共に吸血鬼退治に乗り出す。一行はトランシルヴァニアへ向かい、ドラキュラを追いつめ、最後にミーナが心臓に剣を突き立て、首を切断して、愛するドラキュラを呪いから解放する。 荒唐無稽な伝説だといえばそれまでだが、最後まで手に汗を握る観客を引っ張ってゆく力はどうだ。登場人物自身が読み上げる日記風のナレーション。「羊たちの沈黙」のホプキンズ演じる、ドラキュラにも劣らない怖い顔をしたヘルシング博士の活躍。はみ出す乳房を抱えた妖艶な女たち。第1級の恐怖映画だ。(1992年) Directed by Francis Ford Coppola / Writing credits James V. Hart Cast : Gary Oldman .... Prince Vlad Dracula / Winona Ryder .... Mina Murray * Elisabeta / Anthony Hopkins .... Professor Abraham Van Helsing * Chesare / Keanu Reeves .... Jonathan Harker ヒアリングーはじめの中世の場面と、ドラキュラ伯爵のしゃべることばは、何かドイツ訛り(あるいは中世英語訛り?)でとても聞きづらい。19世紀イギリス英語はそれに比べればましだが、アメリカ英語に慣れた人には違和感があるだろう。 上へ生まれてはみたけれど 09/9/00 (再)2024/04/17 小津監督の昭和7年の作品だが、日本のサラリーマンの哀切が画面ににじみ出ている。小学生の兄弟とその両親は、念願の郊外の家に引っ越してくる。目の前を通勤電車(単線で一両編成!)が行き交う、典型的な東京の町外れだ。昔はどこにでもあった、純日本風の家が建ち並ぶ駅の周辺はまだ自然や原っぱが残り、もちろんガキ大将も健在である。 子供たちは精力を付けると称して、すずめの卵を丸飲みする環境である。 引っ越してきたばかりの兄弟は地元のガキ大将に殴られるのを恐れて、学校に行こうとしない。だが、酒屋の小僧を味方につけてまわりの子供たちをことごとく家来にしてしまった。その中には、課長に昇進したばかりの父親が雇われている会社を持つ、専務の息子も含まれていた。 専務の家での映写会で、自分の父親がゴマスリを演じている場面を見て、子供たちは世界で一番偉いはずの父親に絶望し、反抗したあげく、翌朝はハンストにはいる。心配する母親、やりきれない思いの父親。生まれてはみたけれど、一生押さえつけられて生きるのか? やっと機嫌を直した兄弟は学校へ向かうが、そこへ専務の自動車がやってきていた。一緒に駅へ向かう父親に向かって言う。「お父さん、専務さんにお辞儀しなくていいの?」子供たちは理解したのだ。単純な力関係でガキ大将になれる子供の世界と違い、おとなの世界は我慢しなければいけないことがいっぱいあるということを。(1932年) 監督:小津安二郎 脚本:伏見晃 原作:ジェームス槇 撮影:茂原英朗 活弁:松田春翠 出演:斉藤達雄ー父 吉川満子ー母 菅原秀雄ー長男 突貫小僧ー次男 上へQuo Vadis? クオ・ヴァディス 09/11/00 ノーベル文学賞を受賞したポーランドの作家シェンキービッチの作品を映画化したもの。暴君ネロの治世は妻殺しと母殺し、ローマ市に放火したことなどで名高いが、当時のブリテン(イギリス)征服から帰ったばかりのマーカスはキリスト教徒の若い女リディアに恋してしまう。だが好色な王妃の誘惑をはねつけて怒りを買ったマーカスはローマに放火したというぬれぎぬを他のキリスト教徒と共に着せられる。 はじめは懐疑的であったマーカスもパウロやペトロの集会に参加し、リディアの感化もあってキリストを信じ、二人は結婚する。あわやライオンや雄牛の餌食になるのを免れた二人はネロが放火の張本人であったことを告げ、怒り狂った暴徒たちによりネロの治世は終わりを告げるのだった。 ハッピーエンドを常とするハリウッド映画は、原作にあるような主人公たちの殉教による終わり方を選ばなかったが、原始キリスト教への迫害ぶりは忠実に描かれている。使徒パウロはカタコンベで人々を集め、使徒ペトロは「主よいずこへ行きたもう(クオ・ヴァディス)」と叫んで神の指示により、キリスト教徒を励ますためいったん離れたローマへ再び向かい、そこで殉教する。 またネロの側近で、ギリシャの哲学者であるペトロニウスの生き方も同時に描かれる。微笑みと歌で敢然と殺されるキリスト教徒たちと、芸術家ぶるネロに愛想を尽かし毒によって愛人と共に静かにこの世に別れを告げるペトロニウスとは対照的である。(1951年) Directed by Mervyn LeRoy Writing credits S.N. Behrman Sonya Levien Cast : Robert Taylor .... Marcus Vinicius / Deborah Kerr .... Lygia / Leo Genn .... Petronius / Peter Ustinov .... Nero ヒアリングーペトロニウスやネロは芸術論を戦わせ、なかなか高度なことを言う。 上へL'amant ラマン(愛人) 09/18/00 自分は娼婦なのか?それとも本当に相手を愛しているのか?旧仏領インドシナのサイゴン近くに住む、フランス人の少女はまだ15歳だが、実家からの帰り道に大金持ちの中国人に誘われ、学校の寮まで送ってもらう。 母と二人の兄のいる貧しい実家のことが頭にあって、彼女はその男に体をゆだね、サイゴンの喧噪のただ中にある彼の居室の中で毎日情欲におぼれる。男は無職で父親の財産を使い放題なので、女と寝ることが天職みたいになっていたのだ。 彼女のいちばん上の兄は阿片にとりつかれ乱暴で手のつけようもなく、彼女もそうこうするうちに学校で男との関係が噂になり、家族は全員フランス本国へ戻ることになる。 実家への財政援助までしてもらい、彼女は自分がただ金のためにこの男と関係しているのだと割り切る。一方男の方は父の決めた結婚をしても、彼女を真剣に愛するようになってしまった。彼女が自分を愛していないことを感じ男は阿片を吸うようになる。 本国へ向かう船の中で誰かの弾くショパンのピアノ曲を聴きつつ、彼女は自分は実はこの男を愛していたことに気づき、泣きじゃくるのだがすでにもう遅い。ベトナムの平野、田園地帯が美しい。パリとは全くのべつ世界であり、ここでの男と女はその外では全く通用しないものなのだ。マルグリット・デュラスの自伝的小説の映画化。(1991年) Directed by Jean-Jacques Annaud Writing credits Jean-Jacques Annaud Gerard Brach Cast : Jane March .... The Young Girl / Tony Leung Ka Fai .... The Chinaman / Narrated by Jeanne Moreau(フランス語) 上へThis Boy's Life ボーイズライフ 09/25/00 アメリカ・フロリダ州からユタ州へ向かう車の中には、結婚に敗れてさらに同棲した男ともうまくいかない母親キャロラインとその息子トビーが乗っていた。追ってくる男をかわしつつ、親子は西海岸ワシントン州のシアトルに落ち着く。ここでキャロラインはコンクリートという田舎町で3人の子供たちと暮らしている男ドワイトと知り合い、そのダンディな迫り方に惚れ込んでしまう。 トビーは離婚騒動や兄との別居もあってすっかりぐれてしまい、悪い友だちと遊び歩き、万引きなどでたびたび学校から注意を受ける。手が付けられないことに悩んだキャロラインは、ドワイトに頼み、彼の町で鍛え直してもらうことにする。早朝の新聞配達、ボーイスカウトの訓練、とはじめはトビーにとって生活の立て直しには役だったように見えたが、ドワイトとキャロラインが結婚したころから、義理の父親の横暴さ、押しつけ、自分勝手な生活ぶりが姿を現してきた。これまで男運がついていなかった母親は今度こそ結婚を成功させようと、波風を立てないことばかり考えて自分の味方になってくれない。 田舎町の同年の子供たちは、みな都会の暮らしにあこがれて一刻も早くこの町を立ち去りたいと思っている。それまで余り積極的でなかったトビーも、義理の父親の専制ぶりやくらしの退屈さから逃れるために、どこか私立の学校に奨学金付きで入学することを考えるようになる。幾多の志願書を出し、友だちに成績表の偽造まで手伝ってもらい、ついにある学校の入学を許可される。 だがドワイトはそれがおもしろくない。自分ができなかったことを義理の息子がやろうとしているのが我慢できなかった。トビーが新聞配達をしてためた金をドワイトが勝手に使ってしまったことが判明して、二人は殴り合いの大喧嘩となる。それを見たキャロラインもついに我慢の限界を超え、ドワイトを置いて二人は直ちに家を出る。母親は新しい生活を求めて。トビーも新しい学校へ行くために。 これは今は作家、大学教授として活躍している人の自伝の映画化だという。デ・ニーロ演じるドワイトの性格が実に見事に演じられている。「タイタニック」で一躍有名になったデカプリオもまだここでは幼い少年だが、これも熱演している。少年はもともとそれほど野心家ではなかったのだが、義理の父親の専制がバネになって外の世界に飛び出す気持ちを持ったのだともいえる。少年の選んだ一つのあゆみ方として実におもしろい。(1993年) Directed by Michael Caton-Jones Writing credits Robert Getchell Cast : Robert De Niro .... Dwight Hansen / Ellen Barkin .... Caroline Wolff / Leonardo DiCaprio .... Toby / Jonah Blechman .... Arthur Gayle ヒアリングー舞台は1957年頃。田舎町のちんぴらたちのことばは、かなり聞き取りにくい。母親や学校の先生の話し方はわかりやすい。 上へJacknife ジャックナイフ 09/28/00 ベトナム帰還兵は、その戦場での悲惨な体験が深い心の傷となり、無事帰国できても、身体に障害を持たなくとも、その後の社会復帰がうまくいかない場合が多い。特に一人でいるとますます無辺地獄に陥るだけだから、帰還兵同士のサークルを作り、お互いの体験をみんなの前でさらけ出して、少しでも心の重荷を軽くしようとする。 主人公のデニーロ演じるメグスは戦場では、デイブとボビーと仲がよくいつも三人で助け合っていたが、ボビーはけがをしたメグスを助けようとしたときに戦死し、生き残った二人はそのことがアメリカに戻っても辛い思い出となっていた。 生前のボビーと約束していたのは、故郷で鱒釣りの解禁日に一緒に出かけることだった。メグスは早朝、デイブの家を訪れ、その妹マーサと共に、3人で川へ出かける。 メグスは自動車修理工として生活しているが、暴れん坊で有名で、トラックを急停車させたり( Jacknife :これがあだ名)、素手でガラスをぶち破るなど精神不安定なところがあったが、不思議と高校の生物教師であるマーサと気が合い、二人は愛し合うようになる。 一方デイブは長距離トラックのドライバーながら、戦争の暗い思い出を引きずり、世話をしてくれる妹にも感謝しなければ、メグスのベトナム時代の話にも耳を傾けようとしない。毎日酒浸りである。それどころかマーサにメグスとつきあうなと命令さえする。 マーサの学校の卒業パーティの晩、学校にあるボビーの写真を叩き割ったデイブだが、はじめて自分の身勝手さに気づき、3人は和解する。メグスもマーサという自分のことをよく分かってくれる女を見いだし、新しい人生へと向かう。 話の出発点は、「ディア・ハンター」と共通するところがある。実に数多くのベトナム戦争を題材にした映画が作られたが、普通の帰還兵をテーマにした作品として記憶されるべきだろう。 デニーロは「 This Boy's Life 」ではどうしようもない身勝手な男として演じていたが、こちらは一転して戦争による心の傷を負いながらも思いやりがあり、仲間を気遣う人間として演じている。(1989年) Directed by David Hugh Jones / Writing credits Stephen Metcalfe (play) Stephen Metcalfe / Cast : Robert De Niro .... Megs / Kathy Baker .... Martha / Ed Harris .... Dave ヒアリングーきわめて聞き取りやすい。 上へその男、凶暴につき 2000/9/30 (再)2006/06/25 (再)2013/02/03 (再)2021/03/27 (再)2024/01/07 凶暴なのは吾妻刑事だ。彼のやり方は、浮浪者をいじめた中学生の家の中まで乗り込んで殴りつけ自白を強要したり、逃げ回る「凶暴な」容疑者を車で2回も轢いたりして、そのたびに始末書を書かされたり注意を受けたりしている。精神病院から退院したばかりの妹と同居しているが、それを目当てによってくる男どもにも容赦しない。 港で麻薬がらみの殺人事件が起こると、吾妻刑事はその麻薬グループに自分の同僚が麻薬を横流ししていることを知る。またまた吾妻刑事の拷問的なやり方で、麻薬グループのメンバーを一人一人吐かせてゆくが、その間にその同僚は消され、取調中に特に「凶暴な」殺し屋を別件逮捕、そして拷問にかけ、ついに刑事をクビになる。 でも吾妻はただ凶暴だというのではない。妹おもいだし、失職して間もなく、展覧会で、シャガールの絵を見たりしている。多くを語らないが、内面的にはすごく繊細なのかもしれない。なんで刑事になったのかと問われて“友人の紹介で”と受け流す。 妹がそれとなく口ずさむ歌は当時流行していた。もはや辞職した彼の凶暴さを止めるものは何もない。麻薬グループのボスであるレストラン主を至近距離から射殺し、さらにアジトに乗り込んで、すさまじい撃ち合いの後、殺し屋を射殺するが、妹がメンバーの間で慰み物にされていたことから彼女も射殺するが、その直後、ナンバー2のメンバーにうしろから撃たれて吾妻も死ぬ。 事件が終わってみると、ナンバー2がボスの座に座り、吾妻刑事の部下であった男が、消された同僚に成り代わって麻薬の横流しを引き受けているのだった。殺しても殺しても次々と悪人は新しく生まれ、途絶えることはない!最後はそこで働く秘書のこわい顔で終わる。 北野武監督の最初の作品。「俺達に明日はない」のようなアンチ・ヒーローが北野自身が演じる吾妻刑事だ。単なる血みどろシーンとか、発砲音だけでなく、最後まで緊張感が濃厚で、観客の注意をはずさない。そして社会の不条理への視線が鋭い。 こんな乱暴者が実際の社会に通用しないことはわかっていても、彼が悪人たちを殴りつけるときに一種の爽快感を感じさせるのは、浮浪者いじめといい、理不尽な犯罪といい、腐れ切った現代社会への怒りをかき立てるからだろうか。 最後の場面で、警察の中での腐敗をそれとなく示しているが、このあと実際に全国の警察での不祥事が続々と明るみに出たことと考え合わせると興味深い。神奈川県警の事件が麻薬の横流しだということを考えると、ぞっとするほど現実に迫っている。 ただそれについて、監督はお説教じみたメッセージで伝えていないところがいい。物語はまさにハードボイルド風に、観客に余韻を許さず、一直線に終末へ進んでゆく。無駄のない場面展開だけで十分な説得力を持つ。(1989年)・・・資料 出演者 :ビートたけし、白竜 川上麻衣子、佐野史郎 芦川 誠、岸辺一徳 音無美紀子ほか 上へ旅の重さ 10/05/00 (再)2013/01/04 (再)2021/03/16 四国の新居浜に住む文学少女は16歳だ。母親は画家だが、自分のことなんか構っておらず、絵を描くことと男を追い求めることしか眼中にない。少女は家出をするが、四国の霊場めぐりをすることにする。学校や日常のしがらみから解放された彼女は、ほかの旅人と一緒になったり、野宿をしたり、若さの特権を心ゆくまで満喫する。 土佐の海岸にたどり着いた頃、旅芸人の一座に遭遇する。彼らは食べて飲んで男女の交わりをするだけのシンプルな生活なのだ。食物の調達係をかってでた彼女はしばらく彼らと一緒に暮らすが、生々しい人間関係を見ていたままれずそこを飛び出す。 次第に栄養不足と蓄積した疲労によって、「旅の重さ」がこたえてくる。でも家に帰りたいとは思わない。力の限り進もうとするがついに力つきて倒れ意識不明になってしまう。 気づくと、魚の行商をしている一人暮らしの中年男に拾われ、看病を受けていた。栄養失調は回復し、彼女は何とかして男に感謝の気持ちを伝えたいと思うが、なかなかうまくいかない。だが「おじさん」のつもりでいた男はすこしづつ「夫」みたいになり、彼女は一緒に暮らし、しばらく行商を手伝って生きていこうとする。 まだ文明にけがされていない四国の風景が実に美しい。しわくちゃの老婆、田んぼや川、切り立った海岸、自動車のほとんど走っていない道路など、今では永久に失われてしまった風物がスクリーンの中に生きている。家に残してきた母親に心の中で語りかけて、彼女は16歳の危うい青春から、少しでも成長しようとする。吉田拓朗の歌う主題歌「今日までそして明日から」の歌詞がまさにその気持ちを語っている。その感受性は1960年代そのものだ。この映画を現代の16歳が見て、理解できるだろうか。50年の断絶はあまりに大きい。 一種のメルヘンだともいえる。家出少女は多いが、こんなに「実り多い」旅があるだろうか。旅のつらさによって、彼女は確実に成長してゆく。はじめは放縦な母親に対する単なる当てつけのつもりだったとしても、時が経ってみれば自分の道を自力で歩む出発点になっているのだ。四国の街角で彼女は女子高校生の一群に出会うが、彼女らが自分と同年代とはとても思えないほど彼女は大人になっていたのだ。(1972年)・・・資料 監督:斎藤耕一 原作:素九鬼子 脚本:石森史郎 出演:高橋洋子/高橋悦史/秋吉久美子/岸田今日子/三國連太郎 上へあの夏、一番静かな海 10/07/00 (再)2013/03/13 (再)2024/04/15 こんな映画の表現方法もあるのだ!思わずうなってしまう映画作り。北野武監督の第3作だ。主人公はろうあ者である青年。そして同じく聾唖者である恋人。したがって二人のセリフはない。まわりの人々の会話も断片的でごくわずかだ。 青年は清掃会社に勤め、毎日ゴミを積み込む仕事をしているが、ある日壊れたサーフボードを拾い、病みつきになる。はじめはバカにしていた浜辺のサーフィン連中も次第に青年のひたむきさに感心し、応援するようになる。恋人もいつも青年に付き添い、じっと浜辺から彼の練習を見つめている。 給料をもらってボードを買ったが、高く売りつけたことを後悔した店の主人が彼にウェットスーツを贈り、しかも千葉県の海岸で行われる大会に参加するよう勧める。最初の年には、耳の聞こえない青年にだれも出場時間を知らせてくれなかったので、出場できじまいだったが、翌年は練習のかいもあって決勝に残るほどになる。 サッカー仲間までサーフィンにとりつかれ、青年もますます練習に身が入るようになる。だがある雨の日、恋人が浜辺に行ってみると主のいないボードが浜辺に打ち上げられていたのだった・・・ はじめ、セリフがないのは新しい試みだと思ってみていたが、そのうち周りの人の会話の中から、青年の耳が聞こえないことがわかった。驚くべきことに、青年と恋人との間には一言も言葉が交わされていないのに、お互いの気持ちがやりとりされていることが観客にはわかるのだ。特にサーフボードをバスに乗せることを断られて、歩いてゆく青年を、恋人がバスを途中で降りて走って迎えにゆくところなどは、とても印象に残る場面だ。 それだけではない。場面と場面の間が飛んでいるが、そこのところは観客が想像力をちょっと働かせるだけで十分にわかるようになっている。だから全体の構成はとてもシンプルで、青い海と砂浜を移し、そこを無言で人が歩くだけでストーリーが成立するという、実に新鮮な撮り方をしている。フェリー乗り場の構図など、まるで小津の映画を見ているようなところもあった。(1991年) 出演者 :真木蔵人、大島弘子 川原さぶ、藤原稔三 寺島 進ほか ・・・資料 上へ3-4×10月 Boiling Point 10/15/00 (再)2013/03/12 2番目の北野武監督作品。まったく訳の分からないタイトルだが、内容はよくわかる。ある東京の草野球チームは、やくざから足を洗ったスナックの主人が監督だ。まったく弱いイーグルスは、今日も、ドジな青年の代打で、会えなく負けてしまう。 青年はガソリンスタンドに勤めているが、因縁を付けてきたやくざを殴って、スタンドは執拗な金の取り立てに直面する。監督が、昔の縁で何とかやくざをやっつけてくれるように見えたけれども、仕返しを受けて監督は、体をボコボコにされる。 ピストルでやくざたちを射殺したい監督は、青年ともう一人の選手に頼んで沖縄へ行ってもらう。向こうへ着いて、街をうろついていると、ビートたけし演じる、やくざの親分がたった一人の舎弟を連れて、大きなグループに脅されているところだった。二人は親分と懇意になり、あちこち遊び歩く。 アメリカ軍兵士との裏取引で機関銃を手に入れた親分は(兵士はその場で射殺されるが)、さっそく敵の事務所に乗り込み、幹部を皆殺しにする。だが、すぐそのあと那覇空港で、残党たちにあえなく射殺されるのだが。 青年たちは余った機関銃とピストルをそれぞれ一挺手に入れて、東京へ戻る。機関銃は運べなかったけれど、検査の目を逃れたピストルは、早速恨みの組事務所への攻撃に使われる。 だが銃による攻撃に失敗し、青年は恋人と共にガソリンを満載したタンクローリーに乗って、組事務所につっこみ、建物は猛火に包まれる。すべては焼き尽くされてしまう。だが、最後の場面で、彼は…ということがわかる。 言ってみればナンセンス劇とも言えるが、現代人の日頃のうっぷんを晴らしたい気持ちをこの青年も、沖縄の親分も十分に代弁しているようだ。英語のタイトルは「沸騰点」。怒り心頭に達したという雰囲気を、海外の体験家はそのまま題名にしたのだ。 沖縄の親分のほうは、「その男、凶暴にして」の亜流だろうが、一方で何を考えているかわからない、殆ど口もきかないこの主人公の青年の描き方がおもしろい。新しいタイプの描き方である。 話の最初と最後に、真っ暗な中に、彼の顔が殆ど見えないぐらいかすかにニューッと出る場面がある。これはこの青年の生き方をズバリ象徴している映像なのだ。(1990年) 出演者 :小野昌彦(柳ユーレイ) 石田ゆり子、井川比佐志 ベンガル、渡嘉敷勝男 井口 薫仁(ガダルカナル・タカ) ジョニー大倉、ビートたけしほか・・・資料 上へH O M E > 体験編 > 映画の世界 > コメント集(9) © 西田茂博 NISHIDA shigehiro |