映画の世界

映画よもやま話

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東京物語

  1. 映画への興味
  2. 良い映画と悪い映画 
  3. なぜコメントを書くのか
  4. 映画が理解できない?
  5. コンピュータ・グラフィックについて
  6. プロジェクターが一番
  7. 映画はどんな分類をすべきか
  8. 映画から?原作から?
映画への興味  目次へ

私が映画に興味を持ち始めたのは高校時代。そのころは、若さのせいもあって、主に恋愛映画を中心に見ていた。ところが、「寅さんシリーズ」に親しむにつれて、映画の持つ、小説とおなじ魅力にとりつかれるようになった。それは、映画もわれわれに「人生」を語ってくれるということである。無数の B級映画の中にも、時々いつまでも印象に残るようなストーリーがある。

評論家や人気投票は確かに参考になるが、そうでないものでも、時々隠れたすばらしさを持つ場合が少なくないのだ。いまもそのような作品に出会えることを願って最低2週間に一度は映画を見るように心がけている。映画は見れば見るほど、目が肥えてきて、善し悪しが分かるようになる。結局どの分野、絵、小説、詩、歌、器楽曲、何でもそうだけれども、すべて二つにしか分類し得ないのだ。「よいもの」と「クズ」のどちらかである。

MOVIE & VIDEO GUIDE最近特に感じるのはテレビドラマのひどさである。映画で、すばらしい作品を見たすぐ後で、それらを見るともうたまらない。その演技力の低さ。プロデューサーたちのいかにも大量生産でございという構成、視聴者の同情を買うために、ヒロインは大声で泣き叫ぶ。マンネリの極致。これでは小学校の学芸会だ。

昔はそんなではなかった。何でもはじめの頃はみんな張り切って作るものだ。「コンバット」「幌馬車隊」「カートライト兄弟」などの秀作が1960年代にはアメリカで生み出されたし、日本でも「俺たちの旅」「俺たちの朝」などという、今の若者が見たらきっと素朴なあまり笑い出してしまうだろうが、一途で真剣な若者の姿が描写されたものだ。だが、そんなのはごく一部に過ぎない。

もちろん優れた作品がないといったら嘘になるが、その比率はどう贔屓目に見ても0.05パーセントといったところか。このような低俗な番組を作って平気なのは、なぜか詳しくはわからないけれども、やはりスポンサーが金を出してくれるから、身銭を切るという映画界の厳しさがないためだろう。「視聴率」で厳しい競争をしているけれども、それは大衆の大部分が喜ぶように方向づけられるだけで、その点とあとはスポンサーさえ満足すれば、はっきり言って内容などどうでもいいのだ。

映画の作品だってみるに耐えないものはいくらでもある。もちろんそれらは淘汰されてゆくわけだが、失業や、配給停止といった大きな犠牲を払った上でである。何事も幾ばくかでも精神的緊張のもとにないといい作品はできにくいものらしい。私はもはや、ニュースと天気予報以外はテレビは見ないことにしているが、このまま安易な作りの作品が来る日も来る日も垂れ流されると、見る人々の感受性もかなり落ちてくるのではないかと思う。

最近とてもよい映画評を読んだ。「この作品が素晴らしいのは、観客にあまり説明 ( explain ) をしないが、多くを暗示して ( suggest ) いるからだ」、これに対して、ひどい作品については、「この作品は観客に、大変多くを説明しているが、何も言ってない ( say nothing ) 」と語っている。映画は饒舌になってはいけないのだ。散文ではなく、詩を目指すべきで、観客は離乳食を匙で与えてもらうのではなく、自らの想像力を働かせて、監督の真意をくみ取るべきなのだろう。

確かにその考えからすると、音楽と絵画、彫刻は、ほとんど聞いた瞬間、ほとんど見た瞬間にその善し悪しが分かることが多いが、映画と小説の関しては、すぐには評価を下すことはできない。ましてや映画製作に携わっているわけではないから、技術的なことは何も言えない。だが、たとえ下手な作品だとしても何か訴えかけるものがあれば、何度でも見てしまう。だから映画批評に関してはできるだけテクニック面は押さえ目に、その代わり自分の人生にどれだけのインパクトを与えたかに重点が置かれるべきだ。その点からするとスリル満点のアクション映画などは、あとに何も残らない場合が多い。これに対して単調で平凡な家庭ドラマが不思議に真に迫るものを持っている場合もある。

ラマンチャの男昨日・今日・明日いちばん好きな女優のひとりはソフィア・ローレン。高校生の時以来だ。その理由は、肉付きがいいとかグラマーだという(事もあるが)もっと重要なのは、彼女が似合う雰囲気にある。今まではそれがなんだか、あまりうまく言葉で言えなかったが、最近やっとこの年になってわかった。最近見た、「ダグラス・カークランド Douglus Kirkland 展」で、俳優ばかり写真を撮る作者による、彼女の肖像を見たときだ。エリザベス・テイラーなどのハリウッドの人気女優と違い、ソフィアはボロを着ていてその人間性が映えるのだ。そこで写っていた写真は、アンペラ、というかジャガイモ袋の汚らしい布をまとっているだけ。どんな映画の出演の時だろうか、そのボロの中から野性的な目が輝いているのだ。着飾らず、もちろん化粧もなく、それでいて美しい。

もうひとりはソフィー・マルソー。彼女については「 Fanfan 恋人たちのアパルトマン」を一度見れば納得がいくだろう。いかにもパリジェンヌらしい(パリ生まれでないかもしれないが)小柄で細い、だがやせていない肢体は、驚くほどの表情の豊かさを伴っている。彼女の優れた演技力は、顔をアップで写していながら、次々と変わる感情をじかに観客に訴える。

膨大な古今の映画作品を前にして、いったい何を見たらいいのか、誰でもガイドブックは持っているだろう。わたしの場合は、LEONARDO MARLTIN'S MOVIE & VIDEO GUIDE ( SIGNET REFERENCE AE8888 ) である。毎年その年の版が出るが、イギリス、アメリカ映画に限れば、ほとんど全部が網羅されている。フランス、ドイツ、日本の著名な作品も一部紹介されている。

星マークで記し、4つ星は最高、星が減るに従って質が落ち、最悪のものは BOMB (爆弾?)という名で示されている。テレビ作品も一部紹介されているが、概していい評価はない。せいぜい Above Average (平均以上?)などと、そっけない。これらは、必ずしも私の評価とは一致しないけれども、悲しいかな、評論家の意見は私のような一般視聴者に大きな影響を与えることは間違いない。

映画の資料と画像は外国映画については「インターネットムービーデータベース(IMDB)」、日本映画全般については「日本映画データベース」によっている。日本映画のうち、松竹が作品を最もよく整理している。また、戦前の日本映画の黄金時代を飾った女優たちのプロマイドは「銀幕の女神たち」でみることができる。


良い映画と悪い映画 目次へ

数多くの映画を見ていくと、次第によいものと悪いものの違いがはっきりしてくる。音楽だって絵画だって料理だって、その善し悪しがあるように、映画だってある程度の基準があってもいい。但しジャンルによって差別はしない。コメディだから質が落ちるとか、アクションはくだらないというのは偏見の極致である。

本のベストセラーと同じく、いわゆる巷で人気のある映画というのが必ずしも優れた作品ではないことは、時間が証明してくれる。だいたい3年たてばその真価が見えてくる。だが新作でもある程度の鑑識眼があれば、即座に判断することは不可能ではない。

不思議なことに多くの優れた作品は前半の進行がのろく、人によっては退屈だと思わせるものが少なくない。これは後半になってから前半で蓄積した事件をバネに、話を急展開させるからではないだろうか。一種のコントラスト効果で、一層後半がさえて見える場合がある。

Fried Green Tomatoes傑作はみなホームドラマだ、と誰かが言っていた。平凡な状況にこそ人生の神髄が潜んでいるのだと。これは「鉄道員」「フライド・グリーン・トマト」「東京物語」などを例に挙げると、うなづける点がある。淡々と生活を描写する中に、父親、母親、息子や娘の姿に、見る人が自らその中からなにものかを引き出してしまうのだ。

その点で、見る人の想像力をかき立てる作品は必要最小限しか映像に映し出すことなく、一見不親切に見えるが、映画を見たあとで何らかの世界を作り上げるようにし向けてしまうのだ。ラジオドラマを思い出すといい。今時テレビドラマに押されてすっかり影を潜めてしまったが、このジャンルほど人の想像力を要求するものはない(もちろん昔の炉端のお話でも同じことだが)。また、俳句は想像力を最高に刺激する詩の形式といえるが、その対極はすべてを見せてしまう丸出しポルノ映画だろう。

だからアクションものとか、SFもの、時に史劇も、たいてい懇切丁寧に映像を作り上げているため、見る側は十分に楽しめ、娯楽作品としては申し分ないが終わったあとはそれっきりということが少なくない。だからこれらのジャンルではあまり凝った作りや簡潔性の強いものには優れた作品が少ないようだ。文学で言う「余韻」が必要なわけだ。

演技はどうか。私はいつも映画を見るときはヒロインの振る舞いに注目している。彼女が金切り声を上げたり(ただし、「サイコ」のような殺人場面を除く)、大声で泣いたりするような場面があると、こりゃダメだ、と思ってしまう。最近のテレビドラマを見ない理由はここにもある。

別に泣きわめかなくともそのヒロインが深く悲しんでいることを表す方法を、監督はいくらでも持っているはずだ。安易に絶叫を利用することは、芝居がかった演技に彼女を落とし込んでしまう。むしろ原節子やメリル・ストリープのような表情豊かな女優を使って、沈黙と顔の表情だけで悲しみを表現するほうがはるかに効果的なのだ。

Doctor Zhivagoまた、大変な金をかけた超大作も考えてしまう。確かに「ベン・ハー」や「ドクトルジバゴ」はそれなりに良かったが、実は「風と共に去りぬ」や「タイタニック」などは、いつか見ようと思いつつも、なぜか食指が出ないのだ。これらが優れたものだということは頭ではわかっていながら、これでもか、という見せ物的なところが気になってしまう。でもいつか見てみよう。こんな思いが杞憂であればいいが。

映画の世界では、一度素晴らしい作品が作られると、そのリメイクが行われることがある。残念ながらこれまでリメイクが最初の作品を上回った例がほとんどない。白黒がカラーになり、コンピュータグラフィックが発達しても、だ。そんなことは問題ではないのだ。

同じことは、「続・・・」「続々・・・」にも言える。2匹目のドジョウを捕りたいという魂胆がそうさせるのか、アイディアが枯渇するのか、どんなにひいき目に見ても最初の作品より質が落ちている。「猿の惑星」シリーズがいい例だろう。あれは結局5作も作ったが、1作目は「なぜ人類は自由の女神を破壊するような愚行を行ったか」という、それだけで見事な問題提起だ。しかもそれに解答を出さないからいい。気の毒だが、2作目以降はクズでしかない(娯楽作品としては良くできているが)。

Fantasiaこういう点、芸術、特にジャズと同じなんだな、と思ってしまう。ジャズは即興演奏が命だが、しびれるほどの演奏をしたあとは、その演奏者はそのすばらしさの持つプレッシャーに負けて、あるいは才能を使い果たして、その次は凡庸な演奏に堕してしまう。または横綱になったばかりの相撲取りが負け続けるのとも似ている。

いずれにせよ、芸術は繰り返せない一回限りのものなのだから、インスピレーションがわいてくるまで、無理せず待ち受けているほうが得策だろう。芸術は進化なんかしない。世界のあちこちで散発的に優れたものが朝霧のように突如出現するものなのだ。

ディズニーの「ファンタジア」は30年以上も前に作られたのにその創造力の見事さには脱帽する。アニメだが子供向けではない。れっきとした音楽好きが見るべき映画だ。オーケストラの演奏に合わせて草木や動物たちが踊るわけだが、まるでダリの絵のような、かなり象徴的な部分があって、見ている子供は退屈するだろうと思われる部分がある。

だがこれがあまりに評判が高いので、ディズニーは古いこの作品を店頭から引き上げて、新しい「ファンタジア2000」を発表した。これが大評判になったかというとそうでもない。コンピュータグラフィックで美しくはなっているが、それはテクニカルな問題であって、30年前のひらめきはそのままか、ひょっとして失われているのである。

The Apartmentハリウッドは金をかけ、技術主義に走る傾向が強いが、結局それだけに熱中すると、芸術的センスへのエネルギーがそがれてそれだけ生気のない作品を作る危険にあることを忘れるべきではないだろう。結局何でも芸術の名のつくものはすべて、個人のインスピレーションにかかっている。

アメリカ映画は、どうもこの国の観客の質の低さにもかなり影響されているようだ。わくわくさせるが、また見ようとか、あとが気になる映画は実に少ない。たいていがハッピィエンド志向だからだろう。

こうやってみると、フランスとイタリアに小品ながら名画が多いのは納得できる。規模や技術に頼らず監督の持つ勘と俳優の持ち味とが見事に融合した作品が実に多いではないか。日本もテレビが普及する前の状況はそれに似ていた。

Mr.Deeds Goes to Townアメリカでさえ、ハリウッドが絶対的な地位を得る前には、実におもしろい作品が多かった。「アパートの鍵貸します(The Apartment)」とか「オペラハット(Mr.Deeds Goes to Town)」などはアメリカ市民の臭いが濃厚だけれども、実にしんみりさせられる作品だ。そしてウディ・アレンのニューヨークもの。人情と人生の機敏にふれたかったら彼の作品をぜひ見るべきだ。そして「夕陽に向かって走れ」や「イージー・ライダー」に代表されるようなパターンにはまらない作品がある。

結局のところ、アメリカ式の商業主義がやり玉に挙げられる訳なのだが、いきすぎた資本主義は、がちがちの検閲と同じくらい文化を毒することは間違いない。どちらも極端なのである。まず制作者は劇場でのチケットの売り上げだけを念頭に入れるのではなく、10年後、いや50年後にも愛される作品を考えるべきなのだ。また、大量生産される安物ハンバーガーのような、テレビによる文化破壊を教訓にして、そのようなやり方とは一線を画してやってゆくべきなのだ。

各国の映画業界にも頑張ってもらいたい。中国、インド、イランなどの国々は検閲や貧困な予算にもめげず、次々といい小品を作っている。それぞれの国の文化をもっとよく表すような作品が望まれている。上海やカルカッタの場末の映画館でハリウットものは見たくない。

2000年4月2003年6月追加


なぜコメントを書くのか 目次へ

高校生の時以来、今まで漫然と映画を見てきた。だが、年を取るにつれて記憶力が落ち、しかも見る本数は逆に増えてゆくものだから、とてもすべての内容を覚えきれなくなってしまった。しかも良い作品をもう一回、見直そうにも何が良かったのか記録がない。こうなったら元々雑文を書くのが好きだったこともあって、少しずつメモを書き留めることにした。

学校では「感想文を書きなさい」とよく言われる。これは実際には、「文を書くのを嫌いになれ」といっているのと同じだ。子供たちはそう簡単に感想なんか浮かぶものではない、と言うよりはこんな感想を発表したら先生の機嫌を損ねるのではないかとか、ありとあらゆるブレーキがかかってしまうのだ。かくして子供たちは作文嫌いになり、同時にものを考えることもなくなって、ただ呆然とテレビの前に寝っころがる大人(カウチ・ポテト)になってゆく。

Pretty Woman私にはそんな制約はなかった。というより、だれが読もうが批判しようが勝手にしてくれという居直りがあった。そのため今でも少しも文を書くことに抵抗を覚えない。それどころか書かないとストレスがたまり、はけ口がないかと探し回る。

映画も読書もまず、とにかく思い出せる限り「あらすじ」を書いてみるべきだ。これで自分がどれだけその作品が心の中に入ったか、どれだけ理解しているかがよくわかる。今でも思い出す。小学校か中学校の国語の時間に、先生から「ダメねえ、感想を書くんですよ、これじゃあ、あらすじになっていますよ」なんて。いきなり感想を書けなんて、10階のビルから飛び降りろというくらい無理な相談だ。

あらすじによって、自分がその作品をよく思っているか、くだらないと思っているかがはっきりする。そこからだ、自分の感想が始まるのは。技術的な点や、俳優の四方山話はいらない。そんなものは資料を探せばいくらでも手にはいるし、書き写しは退屈そのものだからだ。そうではなくて、自分の思いを書き連ねればいい。

ここで一番こわいのは、人の意見の2番煎じだ。だからもしその作品についての批評を読むつもりなら、必ず自分のを書いた「あとで」読むことにしている。これで人の影響を受けずにすむ。感想はオリジナルなものだ。どんなにへたくそであろうと、偏っていようと、そんなことは問題ではない。映画の内容を間違って理解し、噴飯ものの結論が出てきても気にすることはない。

とにかくたくさん書いているうちに、映画もずいぶん奥が深いものと、ひどいものといろいろあることがわかってきた。当たり前のことだが。そのうち目が肥えてきたらしく、テレビドラマの出来のひどさや、技術だけに頼った映画、監督の想像力のまるで感じられない映画などがあることが何となくわかってきたようだ。もっとも、そういうひどいのに出会って時間を無駄にしないように、あらかじめガイドブックの「選定」は受けてはいる。人生は短い。

それらを見抜く力も、コメントを書き続けることによって養われてきただろう事は、過去の分を振り返ってみるとよくわかる。分量は少しでいい、4行程度あらすじでも書けば十分だ、と当初はそう思っていた。ところがどうだ、今では四百字詰め原稿用紙3枚ぐらい書かないと気が済まなくなってしまった。量が多ければよいというものでもないが、1本の映画全体を記憶する力が増すにつれ、自然と書くことが多くなってしまったのだ。

2000年7月初稿

映画が理解できない? 目次へ 

最近気づいたことだが、映画を見てもそのストーリーが理解できない、筋を追えない、という人がかなりいることがわかった。これは今に始まったことではないだろうが、昔のように勧善懲悪の単純なストーリーや娯楽作品に徹している限りはこんな問題は起こらない。

ところが、音楽でも絵画でもよくあるように、実験的作品や、その方向を少しでも向いた監督たちがつくる流れは、慣れていない人にはとまどうところが少なくないようだ。しかも、今の映画は120分前後が主流だから、テレビのお手軽番組にどっぷり浸かっている人には、かなりの精神集中を強要することになり、60分ぐらいで頭が疲れてしまうのだろう。

よく多くの人がとまどうのは、主人公の回想である。現実の出来事が進行している最中に、突然その人が過去に体験したことが思い起こされて映像に現れるのだから、筋立てが狂ってしまうのも無理はない。

また映像効果を上げるために、著しい近接撮影を試みたり、俳優の顔が画面いっぱいに広がったりもする。せりふの効果を上げるために、ほとんどの部分で会話のない状態が続いたりもする。

だが、小説や詩や絵画がそうであるように、映画でも見る人の「想像力」で物語を作り上げてゆくのが本筋なのだ。かみ砕いてわかりやすい内容は、確かに多くの人々が喜ぶだろうが、それ以上の深みに入ってゆくことができない。

もろ出しのポルノがいい例だ。大きく開いた股に、はじめは舌なめずりしている諸兄も、そのうち飽きてくる。ただ見るだけだからだ。初心者向けならそれでいいだろうが、真にエロティックなのは、隠微に隠し、見ようと寄ってくればさっとうしろへ下がる肢体なのである。

映画が映像で、即物的にそれを見ればわかる、というのは場末のB級映画の話であって、少しでも表現の地平を広げたいと思っている監督ならば、誰でも観客の想像力の協力を動員しようとするはずだ。

どうしても内容を理解する自信がないというなら、誰か批評家の書いた解説を「見る前」に読んでおくことだ。批評家やコメンテーターはそのためにある。あらかじめ粗筋がわかっていれば、細部に注意を向ける余裕ができるというものだ。

2000年11月初稿

コンピューター・グラフィックスについて 目次へ

1999年の「タイタニック」は大変な人気だった。だが、まだ見ていない。たぶん今後も見ないだろう。なぜか。それは他の映画について、どう見ても私とは見解を異にする人々がえらくこの映画を気に入っているからだ。ついでにいうと「風と共に去りぬ」も見ないかもしれない。これはなにか「勘」が見るなといっているみたいだからだ。

最近の映画は、コンピュータ・グラフィックの発達のおかげで、昔のようなちゃちなシーンがずっと少なくなった。これ自体は大変結構なことだ。だが、アメリカ人が特に陥りやすい欠点として、「技術至上主義」がある。彼らは再び、いや依然としてこの病にかかっているのではないか。

確かにグラフィックの技術のおかげで、大がかりなセットや危険な演技は少なくなった。コストも大幅に減ったことだろう(もっとも大型コンピュータを稼働するのに、セットと同じくらい巨額の金がいるという説もあるが)。もともと映画作りは、大道具、小道具と昔から「作り物」に頼ることが少なくなかったのだ。

Midnight Run問題なのは、グラフィックが映画の中心主題となり、それがなければ映画が死んでしまうほどに重要な位置におかれていることだ。これは演劇と比較してみるとよくわかる。舞台の上ではどんなに派手な演出をやっても大波を起こしたり、竜巻に巻き込まれたりすることはできない。観客の想像力がそれを補うことになっているからだ。

映画だって、想像力を多少とも働かせたほうが実際のマル写しよりずっと良い作品ができる。心理描写がよい例だろう。役者の顔つき一つで、観客はその人間が心の中で思っていることを勝手に思いこむことができる。それが監督の意図したとおりであれば、監督も作った甲斐があっただろう。

グラフィックは、そのあまりに精巧な作りのために、すっかり想像力を働かせる場を奪ってしまった。丸見えのポルノと同じで、少しもおもしろくない。いや見たその時は興味が引かれるのだが、また見てみたいとは思わなくなる。ましてや繰り返されることによって、心の飽和状態がひどくなる。

今グラフィック技術はまだ始まったばかりだ。観客も物珍しいから、30メートルの大波が実際そっくりに見える、と聞けばぜひ見てみたいと思うだろう。だが、この先何本もそのようなリアルな映像を何回もみせられたら、喜んでいくだろうか。

今技術至上主義、力任せの文明は地球上のありとあらゆるところで猛威を振るっているが、映像の分野でもその影響は顕著に現れているのだ。日本放送協会は、最近「ハイヴィジョン」とやらの普及に躍起になっているのもその現れだ。

何しろその販売には巨大な利権がかかっているのだから無理もないが、「きれいで鮮明な画像」が放送の向上を意味するのだと、大衆を一生懸命説得しているのがこっけいだ。不況の間はのびないだろうが、いったん好況にでもなれば、爆発的に普及するだろう。人々は退屈している。何か話の種が欲しい。お金の余裕があれば、それが満たされるのだから。

Paper Moonしかしどうだろう。日本放送協会の流す番組で、見る価値のあるものは一体いくつあるのか?私見によればどんなにがんばっても2パーセントほどである。さらにいいなと思った、いくつかの番組は外国から輸入したものだった。少なくとも優れた番組をたくさん流しているとは言い難い。

その時点で高度な技術だけを先行させてもますますいびつな構造が深まるだけではないのか。サイレントからトーキーへ、白黒からカラーへ、小型から大型へ、大型から高品質へ、技術がどれだけ進歩しても、優れた作品ができるのとは全く別問題のはずなのに、こんな当たり前のことが、幹部たちにはわかっていない。あるいはわかっているが知らないふりをしている。

チャップリンの「モダン・タイムス」がサイレントであることを思い出し、本来の芸術のために、金とエネルギーを正当なところに注ぐ努力をそろそろ始めた方がいいのではないか。

2000年7月初稿

プロジェクターが一番! 目次へ

ソニープロジェクター借りてきたビデオや DVD を家庭で見るなら、プロジェクターが一番だ。確かに最近のテレビの画面はどんどん大きくなる傾向にあるが、ブラウン管方式だと、とてつもなく奥行きが深くなり、液晶やプラズマ方式だと、途方もなく値段が高くなる。

プロジェクターも会社でプレゼンテーションに使うようなタイプは200万円と目玉が飛び出る値段だが、家庭で、1メートル四方ぐらいで見るぶんには10万円以下の手軽な値段で買える。

写真は私の持っている、1995年製のソニーのプロジェクターである。今はもう生産されていないがその後継機はあるし、他社でも適当な性能を備えたものがそろっている。

プロジェクターのよさは、暗くして見ることによって、映画の世界に没入できることだ。今はなき「銀幕」が再現される。私のスクリーンは模造紙に過ぎないが、そこに映し出される画像は、お茶の間テレビの軽薄さとは違って、間違いなく映画館の雰囲気だ。

このタイプは冷却用ファンの音が少々うるさいが、今度買う予定の新製品はもっと静かになっているだろう。家族で楽しむアクションものならステレオ装置につないで、大音響を楽しむのもよし、恋愛ものならヘッドホンを使ってひそやかに観るのがいい。

最近映画の2時間に耐えられない人が増えているという。テレビのアホな番組が、数秒の集中で済むものだから、息の長い筋を追うことが、長編小説を読むことと同じように困難になっているらしい。そういう人にとっても、真っ暗にしてまわりの気を散らすものから隔絶された空間では、最後まで映画を見ることができるかもしれない。

朗報!最近発表されたエプソンのドリーミオは、この願いを叶えてくれるものだ。値段は安いし(16万円以下)、DVD やデジタルにも対応しているし、昔に比べてはるかに性能が上がっている。 別に宣伝を頼まれたわけではないが、今のプロジェクターの好景気にぜひしようと思っている。

2003年2月初稿2003年12月追加

映画はどんな分類をすべきか 目次へ

映画の作品とはどのように分けていくべきだろうか。ビデオ屋でもその点は実にまちまちだ。文芸、スリラー、推理、エロ、アクション、戦争、恋愛などと分けられるのが一番困る。中には、これらの分野にまたがっているものが少なくないからだ。たとえば三国蓮太郎の「飢餓海峡」は、推理映画といえようが、それを越えて重要な文芸作品になってしまった。ましてや「ドラマ」などというのは一体どのような特徴で決めているのだろう。

中には俳優別というのもある。確かにある俳優がいなかったらその映画は成立しないほどのものもある。たとえば「プレティ・ウーマン」などはジュリア・ロバーツあってものものだろう。だが、間違いなく「恋愛」映画ではないか。彼女の名前で作品を集めてもほかの俳優、ストーリー内容がどうしても優先するものが出てきてしまう。

黒衣の花嫁そこで映画は監督だというわけで、監督別に作品を集めてみることがなかなか理にかなった方法だといわれている。監督は制作上の頂点に立ち、一本の映画は、画家にとっての一枚の絵に等しいという考え方だ。なるほど個性の強い映画監督たちの中にはちょっと見ただけですぐにこの人のものだ!とわかるものがある。ゴダールやヒッチコックはその例だろう。だが、世の中にはたった一本しか出さなかったがそれが非常にすぐれた作品だ、という監督もいるのだ。

大物監督の名前で分類するうちはいいが、このような中小監督を入れ始めるとそこにアンバランスが生じ始める。というより一般にそのような監督の名前はほとんど知る者がおらず、その名によって作品を選び取ることが難しくなる。ただしこれは絵や音楽、文学作品にもいえることであるが。

そこで最も平凡でつまらない分け方だが、結局「国別」ということになろう。言い換えると文化圏別である。ただし自国の作品というものは、どこでも特別扱いである。日本のように自国の作品が最盛期を過ぎてしまった場合は別として、映画製作の盛んな国々ではさらに自国の作品を上記のような分類をおこなっていかなければなるまい。

しかも「合作」という問題がある。しかも近頃では俳優も監督も国際交流が盛んになり、日本でも三船敏郎のように各国の作品に顔を出した人もいる。フランスの監督、リュック・ベッソンのようにまったく国籍不明の人もいる。フランス、イタリア、スペイン、ドイツなどは非常に盛んに合作を行っている。やはりEU統合による文化交流の容易さが原因となっているのであろう。

グランブルー国別にも、中小国の問題が出てくる。ポーランド、イラン、インドなど、これまで世界の注目を浴びていなかったのに、天才的な監督が現れて注目を浴びるようになると、急に国別リストが必要になる。それにしても映画生産国と、そうでない国とはあまりにも量的にも質的にも落差が大きい。

このホームページではまず私が辺り構わず見た映画を順番に紹介し、そのあとこれらを使って興味を引く新たな基準によって再編成をすることにした。主な新基準は「フランス映画」「小津安二郎作品」「男はつらいよシリーズ」である。このうちフランス映画はもう少し作品数が増えれば、監督別の分類も可能になろう。

ただ、大切なことはこのような分類のこだわらずどん欲に何でも見てみることだ。これはほかの芸術分野にもいえることだが、ジャンルにこだわるとすばらしい作品に出会うチャンスを失う。決して「大衆ランキング」を参考にしてはいけない。あれを見ると判断力を鈍らされる。バカになる。他人志向的な日本人は自分で判断できないからいつだってまずランキングを見るのだ。見るなら誰か骨のある批評家のリストを見よう。

人生は短い。一本見るたびに感覚をとぎすまして見る目を肥やし、人生の肥やしになる作品に出会える幸運を祈ろう。

2004年10月初稿

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画から見るべきか、原作から読むべきか?

そもそもどうして監督は映画化を考えたか?単にベストセラーだから、その勢いに乗って映画でも高収入が期待できると考えたからか?もちろんそう思わざるを得ない監督も大勢いる。だが、一方では映像の世界でそのストーリーを独自に展開したいという野望を持った監督もいるだろう。

特にすぐれた原作であっても欠点や回り道が多く、その部分は全体の本質とは関わりがないと監督が思う場合には、それこそそのエッセンスを映像化することに取りかかるはずだ。それもまたきわめてエキサイティングな創造行為だといえる。

やはり観客は原作から読んでおいた方がいいだろう。原作の方が当然の事ながら長く、細部に渡っている。映画監督は、それを自分の感性によってまとめ上げるのだ。すぐれた独創的まとめ方もあるが、むしろ原作の良さを損なってしまう場合もある。

一方、われわれ読者は、原作を読めば、それなりのイメージでもってとらえ、自分なりの解釈と態度を持つことになろう。先に映画を見てしまうと、その過程を経ずにいきなり監督の作り出した世界に入り込んでしまうことになる。それが先入観になると、あとで原作を読んでもじゃまになるかもしれない。

むしろ、自分のとらえた原作の世界と、監督のとらえた世界と比べ、その違いを味わうことができることを考えれば、どちらを先にしたほうがよいか自ずと決まるところだ。監督のお手並み拝見をしたい。

これに対し、監督が自分でストーリーを考え、脚本を作り自らの世界を構築してしまった場合には、われわれは脱帽するしかない。これは音楽で言うとシンガー・ソングライターにあたるのだといえようか。最初から最後まで目の離せない「全体世界」の映画作りを期待できる。

2005年5月初稿

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