英語学習法について考える

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目 次

なぜ英語力がつかないのか

言語的構造の違いによる困難

具体的な方法論

幼児期の英語教育

英語は高校1年生から

マスコミによる偏見

なぜ英語力がつかないのか

TOEFLの点数 最近の新聞の報道によると、日本人のTOEFL(留学生の英語力をはかる試験)の点数はアジア各国の中では最低、もしくはほとんど最下位に属するという(もっとも、エリートだけを受けさせる国もあり、だれでも受けられる日本と比較するのは無理、という説もあるが)。留学生といえば、アメリカやイギリスに出かけて、大学の講義を聴き、理解し、教授と議論を闘わすことが期待されているはずだ。にもかかわらずこの低い点はどういうことだろう。原因は間違いなく、中学校から受けてきた英語教育にあろう。

時間量 日本人の英語力のなさは、いろいろな点から議論されてきた。まず時間不足である。島国である日本は外国人と直接話し合う機会も、外国の放送が入ってくることもない。外国語の学習の必要性を身近に感じないままに大人になってきた。しかもそれに拍車をかけたのは、「ゆとり授業」と称する、公立の中学校や高等学校における英語の授業時間の削減である。私立の学校は独自のカリキュラムをもうけ、外国人講師を雇い、公立のこのような欠点を補おうとした。だがその効果は散発的である。

教授法 次に問題とされるのが、やはり教室での教師の教え方であろう。今最も驚かされるのは、30年前の中学校の教室で教わった文法説明が今でも全く同じままだということだ。理科や数学においては、もちろんこの期間に大きな変革が行われ、内容的にもずいぶん変わった。ところが英語に関して言えば、百年一日のごとしである。「現在完了形や関係代名詞が変わりようがないではないか?」といぶかる向きもあろう。だが、30年にそれらの教え方における問題点はすでに明らかだった。ところが、怠慢にも誰もその教授方法に改革を加えないまま現在に至るまで「先送り」されてきたのだ。日本国の経済改革とそっくりである。

受験英語 中学校や高校の英語教授法についての報告を読むと、細かい些細な問題にのみ集中し、肝心の全体論については何も言及されていない。これはひとえに、受験英語という得体の知れないものに学校教育全体が向かっている証拠であろう。だが、受験英語はマスコミで言われているような問題点だけでなく、しっかり勉強すれば、実際の英語としても役立つはずなのだが、「受験英語以外」のものに目を向けないために、学生が狭い語学的環境の中に閉じこめられているのである。

集団教育 さらに、文部省もあわてて、リスニングやスピーキングの力が必要だという、マスコミ界の大合唱にあわせるかのように、うわべだけはその方面に力を入れようとしているみたいだが、実効があがっていないのが現実だ。なぜかと言えば、これらの訓練にはほとんど個人指導と言っていいほどの個別の注意が必要なのに、実際には40人クラスの中ですべて間に合わそうとするからだ。

栗駒・世界谷地絶対量の不足 また、中学校の教科書を見るとわかるが、実に薄くできている。一年間の限られた授業時間数に合わせたものだろうけれども、これで、英語のエッセンスでも吸収できたならその子は語学の天才だ。ではドリルをいっぱいやればいいというが、ドリルの実物を見ると、単に文法的な規則の確認と、例の「和訳」技術を磨く練習だけだ。読むもの、聞くもの、とにかく英語にふれる量が絶対的に不足している。

教育なのか 結局志望校合格の道具としてしか英語を見ていない人にとっては、この程度のままで30年続いても何も痛痒を感じないのだろう。すべてが中途半端で、小手先の教育しかやっていない。教育とは「引き出すもの」というギリシャ語の語源を肝に銘じている人なら、我慢できない状態なのである。このままでは英語を学んでも何も引き出されることはない。ただの、学校時代のつらい思い出になるだけである。

実用性 もし算術を学んだことにより、商売ができるというのであれば、生徒は算術の重要性を黙っていても認識しているはずだろう。同様に英語もそれを学んだために、実際にそれによって有用な情報を取り入れることができることがしっかりわかれば、もっと強い意識を持って英語に向かうであろう。しかしすべての人間が商売人になるわけでないのと同じように、英語を必要とする人間が圧倒的多数ではない。ならば、どうしても語学にアレルギーを示す者にまで無理矢理習わせる現行制度はどうしても現実には当てはまらないのだと言えよう。

改革への道 シンガポールや香港の人間と同じようにバイリンガルがふつうの環境に持ってゆくためには、30年以上のこのやり方根本的に改めなければならないのは明らかである。しかし実際問題として、これに代わる方法を持ち出したとして、今までの当たり障りのない方法によって「薄められて」しまうことが予想される。だから改革方法を考えるときは、今までの方法の上に新しく「増築」する方法でなければならないだろう。

言語的構造の違いによる困難

朝鮮人も苦しんでいる ソウルへ行って大きな書店にはいると、めがねをかけた学生たちが受験参考書を熱心に調べている。英語の文法書は、やはり日本とまるで同じ構成、同じ問題でできあがっている。やはり彼らも英語は不得意なのだろうか。日本語と朝鮮語は語彙の面ではともかく、文法的には恐ろしいほどよく似ている。ということは、ともに英語からはその文法構造面から見て縁遠いといえようか。

アルタイ語族 日本語、朝鮮語以外に、モンゴル語、チベット語、中央アジアの諸言語、そしてはるか西へ行くとトルコ語とハンガリー語などが互いに文法構造がよく似ており、ユーラシア大陸の真ん中あたりを横に一文字でつないでいるように見える。もしかしたら、アフリカで発生し枝分かれしたホモ・サピエンスのうち、トルコあたりに定住した人々が、どんどん東進して今に至ったのかもしれない。これらはごくおおざっぱにアルタイ語族と呼んでおこう。

が、は、も 日本語で言うところの「助詞」は便利な道具だ。これらがことばの最後に付くことにより、それが主語になったり、目的語になったり、場合によっては「理由」や「目的」を示すことができる。アルタイ語族の最大の特徴は、助詞に似たものが多かれ少なかれ使われていると言うことだ。助詞はヨーロッパ言語に使われている「前置詞」に対して、「後置詞」と呼んでもいいものだ。

結局は語尾変化? だが突き詰めて考えると、この「後置詞」というのは、一種の語尾変化だとも言える。同じものをただ呼び名を変えて使っているだけなのかもしれない。ヨーロッパ言語を学んだ人は、それに古い構造が残っている場合、さんざんこの変化の活用に悩まされる。結局人類の言語というのは、何か単語をつぶやいて、そのあとでその機能を示す音を「追加」するのが根本だったのだろうか?人間の遺伝子の中を分析すると、語尾変化を担当する部分が存在するという話を聞いたことがある。

形容詞の前置 我々の日本語では「赤い花」とはいうが、「花、赤い」とは滅多に言わない。また、「昨日会った田中さん」とはいうが、「田中さん、昨日会った」という人も少ない。決して通じないわけではないが、名詞を修飾する部分(連体詞とも)は、名詞より前に置くのが一般的な習慣である。これもアルタイ語族の共通点に挙げてもいいだろう。ヨーロッパ語なら、「赤い花」はともかく、少しでも長くなると、関係代名詞などを使って名詞の後ろに持ってきてしまう。これは英語を学んだ人なら誰でも知っていることだが、アラビア語でも、あの紐のような文字で書き、いかにもほかの言語から縁遠そうに見えながら、実は英語そっくりの用法で関係代名詞を使うのである。

「酒屋」はなんと読む? いつも「酒」と言っているのに、酒屋は何で「サケヤ」ではなく「サカヤ」なんだ、と欧米人の日本語学習者は腹を立てるだろう。この変化、日本人なら、小さいときから聞かされているから、別に意識しないだろうが、同じような変化を朝鮮語で聞かされるとうんざりしてしまう。トルコ語でもそうだ。これらは発音しやすいように、人間の口が自然に発明してしまった形式なのだが、音と音が別の単語であるときに起こる、やはりアルタイに共通してみられる現象のようだ。

庭8月バベリズム 人類の共通の母は、アフリカにいた「イブ」であり、すべての人類の細胞内にあるミトコンドリアはすべて彼女に行き着くのだそうだが、不思議なことに言語の進化は、あるところでかなり大きな断絶を生じてしまったようだ。旧約聖書にある「バベルの塔」の話では、奢った人々の天まで届く塔を建てる計画(全く現代にも通用するが)が神の怒りを買い、人々の言葉を乱し世界中に散りじりばらばらにされたとある。

方言の発生 だが、実際には人々が大都市に集まることなく、それぞれ孤立した生活を営むと、次第に同じだった言語もそれぞれ独自の変化を生じてきて、ついにはお互いに意志が通じなくなる。意志が通じるぎりぎりまで近似性を持ったものを方言と呼ぶ。さほど距離的には離れていない、四国の険しい山々の間に住む人々の間にも、谷ごとにかなりの方言の変化が認められることは、実際に行き来が長期間いかに少なかったかを示すものだ。

現代のコミュニケーション 現代は、これまで、行き来がないために細分化される一方だった言語が再び人類の最初に戻って統一化される方向に向かう時代だといえる。マスコミがこれに最も大きな影響を与えていることは論を待たない。従って人類の発生から、将来の絶滅?までの巨視的な見方をすれば、マスコミが存在する限り、たとえば、アルタイ語族とヨーロッパ語族とはいずれは統合される運命にあるのだろうか?効率の点から言えば結構なことだが、文化の多様性の点から見ると寂しい限りだ。

語族間の統合 そんなことが可能だろうか?これほど隔たった言語構造を再び一つに統合することができるというのか?答えは空想的に、イエスである。その証拠は子供たちにある。アフリカの部族の子供が日本で育てば日本語を、朝鮮人がエスキモー部落で暮らせばエスキモー語をはなすことができること。つまり人間の脳にある言語領域の構造はすべての人類に共通であり、その結果として、言語の最も根本的なものが、すべて世界の3000だか、10000だかの言語に共通であると言うことだ。

言語学の行方 今までの比較言語学は自然科学の実証的研究の影響を受けて、その差異のみを追求することに重点が置かれ過ぎた。だがこれからは、それだけでなく、言語現象を総合的に、演繹的に見直さなければならない。これには帰納的、実証的研究は不向きだ。多くの優秀な人がひらめきによって、言語全体に対するビジョンを出し合い、それをわかりやすい形で表現し、「人類言語総合文法」を作成する必要がある。今翻訳のコンピュータソフトで試みられているピポット方式というのも、すべての言語を自在に変換できる共通言語として新しい道が開かれつつある。

総まとめの試み 各国語の文法は一応完成している。英語の文法も、さまざまな紆余曲折、大学者の偉大な展望により、現代の形に落ち着いたかのように見える。だが、多くの人に受け入れられているからといって、その正当性が実証されたわけではない。現在における、英語という言語の捉え方の一つが定着しただけだ。それはモーツァルトのある曲に対する評価が固まったのに似ている。いつ誰がまたもっといい意見や批判を出すとも限らないのだ。そのような意味で人類の言語についての文法論が一日も早く試みられなければならない。完成しろとは言っていないが。

具体的な方法論

我々は幼児ではない 外国語を学ぶのは母国語を話せるようになるのとは根本的に違う。母国語を覚える家庭をそのまま外国語学習に当てはめても大人はうんざりするだけである。絵本を読んだり、退屈な発音訓練は最小限にしたい。何よりもほかに仕事があって、一日中その外国語をつぶやいているわけにはいかないのだ。無理のない方法を取らねばならないが、大人には基礎的な文法理論を「理解」できる頭と「文化」的背景があることを念頭において学習を進めなければならない。

スピーキングよりヒアリング 当然のことだろうが、まずインプットがあって、そのあとでアウトプットが可能になる。言語の訓練では、まず聞き取れるようになることが先決である。単語をおぼえるということは、まずその音声を暗記してしまうことだ。まずはその声を聞いたとたんにその持つ意味が思い浮かぶようになりたい。中には、まず話せるようになりたいと熱心に願っている人がいるようだが、本末転倒である。人の話も聞けないでどうして一方的に何を相手に話すというのだ。

母国語で話して外国語を聞く 田中克彦という言語学者の書いた「国家語をこえて」という本では、我々は自分の得意なほう、つまり母国語で相手にしゃべり、聞き取らせ、一方で相手も自分の母国語でべらべらしゃべり、我々はそれを聞き取ったらどうだろうと提案した。これで言語間の優位性は消え、たとえば我々英語を母国語としない側が、英語を母国語とする人の前で相手の多弁に圧倒されることもなくなるのだ。実にすばらしいアイディアだと思う。もっとも世界各国語の聞き取りに精通するのは並大抵ではないだろうが。

ライティングよりリーディング 同じ理由で、まず読めること。本や新聞や手紙が読めること。これは特に重要だ。日本国内においてはリーディングが最も行いやすい練習だからだ。最初の手ほどきさえうまくいけば、必ず誰でも読めるようになる。もちろん語彙という難問が立ちはだかっているが、これは個人の努力で何とかなる。たくさん呼んでいると、使えそうな表現が自然に身に付いてきて、積極的な人なら、自分の表現に加えたいと思うようになるだろう。

母国語で書いて外国語を読む 同様にして、自分の主張したいことは日本人は日本語でどんどん書いて世界中の人に読んでもらい、外国人はそれぞれの言語で書くから、我々はそれを読んでゆく。エスペラントをマスターするという方法もあるが、先のアイディアと併せて、真の平等なコミュニケーションを実現する一つの方法になるのではないだろうか。

文法は必修 ところで文法を受験英語と一緒にしてもらっては困る。文を正しく理解するには、外国人としてその言語を学ぶ上で不可欠のものだからだ。しかも、いったん身につけた言語を一生忘れないためにも、(語彙は忘れてしまっても)文法の規則は繰り返し復習してゆくことが大切なのである。文法こそ言語学習において最も効率的なマスターの方法だといえる。ただし事細かに規則を覚え込み、些細な問題にのめり込むことではない。「基礎」文法で十分である。つまり根本的な運用法について体で覚えてもらいたいのである。

広瀬川・河原日本語に訳すな 英語に限らずすべての外国語教育を阻害しているのが、日本語に訳してしまうことである。フランス人が英語を学んでフランス語に訳すのとは違い、全く異なる言語体系のものを無理に訳すわけであるから、翻訳の作業中に、英語と日本語の各言語の本質的な違いがすっかり忘れ去られ、ただ「移し替え」たことのみに満足感を覚える。最大の害悪は、各言語の語順の違いが全く考慮されないことだろう。従って節や句が2つ以上含まれる文の場合にその弊害が大きい。

意味の取れる単位 ではいったい訳さずしてどうやって意味をとるのか、といぶかる向きがあるかもしれない。それにはすべての言語に共通な働きをする部分で文を分割してしまうのである。それらは「動詞文」「形容詞修飾」「副詞修飾」と呼ばれる。これらの要素は世界の言語にほとんど共通してみられる働きである。この単位に分けた部分に関する限りは、訳するのでなく、「意味の置き換え」程度で理解が十分可能である。

文を区切ってよむ 理解に苦しむ長大な文もこのように区切ってしまえば、単なる単純な文から構成されているに過ぎない。内容はともかく、少なくとも語学的には分析可能となるのである。これを実行すると、それぞれの言語の語順がいかに違っているか痛感するし、その違いを通じてその言語の特性が見えてくる。そしてついにはその言語独特の流れに乗って「速読」が可能になるのである。

言語の性質に逆行するな 今の学校教育ではこれと全く逆のことが行われている。言語を意味の固まりととらえず、単語をバラバラにしてあとは各自の持つ想像力に任せて意味をとるように強いている。そのような作業を軽々と行える者にとっては特に問題とはならないだろうが(そういう人は将来古代文字の解読専門家に向いている!)一般の普通の語学能力しかないものにとっては暗号解きであり、苦痛以外の何ものでもない。

新しいカリキュラム 従って現在のような外国語教育では、一部の者の発達しか見込めない。万人がある一定のレベルに達することができるようにするためには、ただ外国人講師を増やすとか、聞き取りのための機械を導入するという小手先の手段ではとても実現は不可能だ。新しい学習法法が求められている。だが学習方法とは、科学の法則でなく、一種の哲学である。言語が人間の思考活動にかかわる限り、単純に実験と証明によって見事な学習方法を生み出すわけには行かないのだ。

1999年8月作成

幼児期の英語教育

日本では特に、都市部において英語を幼児期から始めようという傾向が強い。多くの母親たちが、英語塾に通わせている。その効用は、「発音がよくなる」「英語の感覚が身に付く」「国際的な雰囲気に慣れる」などと、かなり抽象的な主張が多いが、一体どうなのだろうか。

授業を見ると、少数の例外を除いて、ネイティブではなく日本人の若い女性が多い。たいていは留学帰りだという。内容は歌を歌ったり、絵のカードを子供たちの前に掲げて英語で言わせることが中心となっている。どちらかというと日本の小学校のように、先生主導型であり、子供は素直に先生の言う通りを繰り返したり、質問に答えたりしている。

先生はある程度の訓練やスクリーニングを受けているから、その発音については問題は少ないだろう。実際とても上手に th や r と l の区別をしてみせる子供たちを多くみかける。また長年通っている子供は驚くほどの英単語をものにしている。

こうやってみると一見うまくいっているようだが、大多数の母親の要求はきれいな発音ができることと、語彙が増すことだけなので、授業もそれ以上を目指すことはない。先生たちも、子供の年齢から考えてそれで十分だと思っているようである。

だが、「実用」という点から見ると達成度はかなり低いと言わねばなるまい。というものこれらの子供たちが町で英語を話すネイティブに出会ったときに、どれだけの言語能力を発揮できるか想像がつくからである。

How are you? と聞かれて I'm fine, thank you. ここで会話は止まってしまう。子供なら、「あのね、昨日おもしろいテレビを見たんだよ」とか、「今日は買い物なの」とぐらい言いたいだろうが、現状のレベルでは無理なのである。

一つには子供に対する「表現訓練」がなされていないせいなのかもしれない。ただこの問題は、絵や音楽にも関係するから、かんたんにまとめることはできないが、自分が心の中で思い、他人に伝えてもいいと判断したときの行動を起こすには、言語能力が不足しているのがほとんどだ。

だから頭の中に station, house, dog とか単語がいっぱい詰まっていても、それを実際に運用する能力がさっぱり身に付いていないことにある。口頭試問のように、先生に質問されたときのみ「正しい」答えを出せるような訓練が大部分なのである。

自分以外の5,6人の子供が英語を母国語として話し、そこに日本語しか話せない子が(一人だけ=これが大切)加わって毎日毎日一緒に遊んだ場合なら、その子は語彙も、運用能力も、発音も飛躍的にのびることだろう。

筆者は小学2年生の夏、アメリカのシアトルから横浜まで、「氷川丸」という客船で2週間、そのような環境に置かれた。毎日ビンゴやお遊戯をして遊んだ。これが二ヶ月続いたら、かなり違っていたことだろう。

では今のような幼児向けの英語塾は意味がないのだろうか?金の浪費か?小さい頃に英語塾へ行って、20歳になってから効果を調べた研究がないだけに軽率な結論は出せないが、「発音」以外は中学生ぐらいになって、自国語がほぼ理解できる段階になって勉強したほうが効果がありそうだ。

13歳ぐらいの年齢であれば、うまくやれば、「文法」を通じて、先に述べた運用能力を付けることは可能なのである。同時に記憶力の大変よい時期でもあるから、「理解しつつ」語彙を増やしてゆくこともできる。

美術、音楽、スポーツと違い、語学は教師が生徒に教える形式であるなら、何も急いで幼児期から始める必要もないと思う。語学以外では、才能のある幼児の場合、めきめきとまわりの子供からかけ離れてレベルが上がってゆくが、語学に関してそのような話は聞かないからである。

どうしても早期教育をしたいなら、香港やシンガポールのような多言語都市の街角で、大いに思いっきり遊ばせることだ。もちろんまわりに一人も日本語を話す人がいないような環境で。

2000年3月作成

英語は高校1年生から 

すでに私は英語の幼児教育については否定的な意見を持っているが、学校教育における英語は高校1年生、つまり16歳からで十分だと言えば、暴論に聞こえるであろう。だが本当にそうだろうか?

すでに一部の教育者の間には、日本人の「国際感覚」とやらを磨くために、小学校から英語を始めるべきだという意見が盛んに出ている。ピアノやバレーのように、頭の柔らかいうちに教え込むのが最も理にかなっていると考える人が多いようだ。

だが、果たしてそうか?音楽や芸術は、それに向いた子供であれば、開始時期が早ければはやいほど、ゆとりを持って身につけさせることができるだろう。同じことは母国語にもいえる。だが、外国語はまったく別の次元の話だ。

母国語のように自然に身に付くようには、外国語を決して教えることはできない。すでに幼児の頭の中には母国語が根幹として根付いてしまっているからだ。外国語はあくまでも「異物」として頭の中に侵入してくるのである。

従って、「自然に」身に付くことはあり得ない。バイリンガルといっても、実際はどれか一つが中心になって回転しているのであり、これに無理にもう一つの言語を母国語化しようとすると、そこに葛藤が生じて混同がしばしば起こる。

幼児の頭は、理論化する能力はまだ全く備わっていない。ただ耳がいいから、聞いたことを無理なく繰り返すことはできる。だから言語運用能力ではなく、単なるオウム返しなら他のどんな年代にも勝っているといえよう。

だが、そのような能力は年を経るにつれておのずと衰え、まわりの人間との母国語での会話が中心を占めるようになれば、すっかり使われなくなり、かすかな遺物としてしか残らない。

結局、幼い頃の口頭訓練は多くの場合無駄になることになる。利点といえば、大人になっても少々きれいな発音ができるというところか。実際の生活で外国語を使用しない人にとっては、まったくの徒労である。ピアノやバレーなら、あとで楽しむこともできるが、それもない。

外国語をもっと年を経てから学んだ方がいいということは、今の大学生が第2外国語を学ぶ際の「効率」を考えてみればよい。ただし誤解のないように言っておくが、圧倒的大多数の大学生の第2外国語がまったく役に立たないのは、学習法が悪いのではなく、まったく学ぼうという動機がないためである。

学ぼうという意欲が、ある程度はみとめられる学生に限ってみると、その学ぶ過程には、「理解して学ぶ」という部分が大きな役割を果たしていることがわかる。まず彼らにはかなり難解な文法用語や、活用の原理でもていねいに説明すれば何とか理解できる。

それは彼らが18歳以上になっており、自分の頭で抽象的な文法理論を構築できるからなのだ。したがって教えるほうもその点では非常に楽なのである。確かに幼児に比べれば単語や熟語の記憶力は衰えているかもしれない。

だが、「彼らに文法書と辞書を与えよ。1年間で原書が理解できるようになる」という説は決して荒唐無稽なものではない。それは年齢的な発達段階をふまえているからである。

中学生でははやすぎる。彼らは、理論的思考力にかけては小学生とあまり変わらない。もちろん一生のうちで最も旺盛な記憶力を備えている時期ではあるが、それを整理し、納得できる形で、自分の脳に収めることはまだできない。

だから、中学生の英語学習の実態を見てみよ。彼らの勉強する文は、「これはペンです」というようなこっけいで、白痴的な文ばかりだ。これは教科書の作成者が悪いのではなく、この程度の文でなければ、文の構造や修飾関係を説明できないためなのだ。

中学生は精神的に急速に延びる時期で、母国語でならかなりレベルの高い内容を理解することも可能なのに、英語を教えるための文の内容だけがこのように幼稚では、やる気をなくすのは当然であり、せっかくの外国語の持つ魅力も殺されてしまう。

母国語と違い、外国語の学習には、抽象的な理論(文法)を避けて通ることができない。これを無理なくこなすためには少なくとも16歳以上の年齢の積み重ねが必要なのだ。

大学はすべての人間が行くところではないが、高等学校は少なくとも日本では、全員入学に近い。この点から、高校1年生が社会的に見ても最も適切な時期だといえる。

これが高校1年生から英語学種を始めるべきだという考えの根拠である。彼らなら、文法理論を少々難しく説明しても耐えられる者が多いし、英文もすぐに内容の高いものへと移ってゆくことができる。

しかも何よりも、高校入学以前にいびつな英語を教わって英語嫌いになったり、自信をなくすことがない。中学校のカリキュラムは英語がなくたったおかげで、数学や社会など、時間と手間のかかる科目に時間を回すことができる。

中学校卒業までにアルファベットの書き方と読み方さえできておれば、すぐに高等学校で英語の教育に移ればよいのだ。同じ勢いで、フランス語や中国語などと同時に学ばせれば、言語間の違いが痛感されて、相乗効果が生み出されるだろう。

若くて体力のある高校生に、2つ以上の外国語を学ばせれば、一生の他のどんな時期にも勝って効率よく言語をものにすることができるはずだ。英語は、ラグビーと同じく、低年齢層に向かないのだ。

マスコミによる偏見 

一番困った問題は、日本のマスコミが安易に英語問題について論じる場合である。つまり専門家をまじえず、新聞のコラムや教育制度を述べるとき、いつも登場するのは「文法偏重」「受験体制」の二つである。

確固たる調査もないままに、この二つの言葉を言っておけば読者は納得するだろうという馬鹿にした態度は、戦後一貫して続いてきた。そしてこの二つさえ解決すれば日本人の英語力は飛躍的に伸びるのではないかという幻想を、現場をなにも知らない人たちに抱かせている。

これは許せないことで、むしろ日本人の英語力の貧困は「誤ったマスコミの思いこみ」にあると断定したいくらいだ。実際のところ、ゆとり教育の名の下に英語の授業時間が減る(表向き受験勉強の軽減?)ことによる深刻な学力低下の方がはるかに問題なのだ。

そして文法を軽視する風潮。まるで文法をやめて口語中心の会話にすれば語学力が向上するかのようだ。

2001年6月作成 

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