幸福とは何か?

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竹林

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幸福とは古代ギリシャの時代からずっと議論の的であった。誰もが納得するようにこの概念を定義して見せたものは今までにいない。だが幸福に関しての非常に基本的な考えについては漠然とした意見の一致があるように思える。次に述べるのはそれに関する4つの内容である。

(1)幸福とは不愉快な感情のない状態である。不愉快な感情とはアメーバから人間に至るまでの普遍的な現象であるが、生物から快適な気分を奪う。この定義は非常に初歩的であるが、それでも重要である。

(2)幸福とはきわめて個別的な現象である。ある人の幸福は他の人とはまったく異なる。ある人が気分がいいと思っているものは、好みや主義といった問題になると、必ずしもよいわけではない。もちろん、これは伝統(社会化)が誰でも同じように幸福に感じさせるような、強力な社会的圧力のもとにない場合の話であるが。

(3)幸福は相対的な現象である。何らかの不愉快な感情のあとでは幸福を感じることが多い。諺に、「苦は楽の種」というのがある。焼け付くような太陽の下で一日中辛い労働をして始めて、ビールを心ゆくまで楽しむことができる。

(4)幸福は二つの次元がある。生産的な次元と消費的次元である。ある目標に到達しようとするとき、一生懸命努力をする。この過程は目標そのものではないが、こうやっているだけで幸福に感じる人もいる。ある目標に到達すると、欲求も飽和点に達する。この瞬間と、少し度合いが減るがその後で、幸福を感じ、それまで蓄積したものを消費してゆくのである。

これらの4つの内容は何千年にわたって当然のことと思われてきた。これらはただ経験的に得られた結論であって、多くの哲学者たちはこれらに自分自身の価値判断を加えようと試みてきた。その中には積極的な側面を強調した者もいた。「生産的」「建設的」はそのような人たちのお気に入りの用語である。どうやら彼らは自分たちの属する社会の道徳規準に合わせているらしい。

私の意見では、幸福は進化の立場から再定義されねばならないと思う。他の感情とともに、幸福もまたまさに進化の産物なのだ。前のエッセイで書いたように、言語と思考をつなぐ「ブラックボックス」の過程はその起源をアメーバ様の生物に求められるのだ。

同様に、幸福は生命の始まりに見いだすことができる。幸福を社会的現象にのみ限定したくない。そうすることで幸福の本質を見失う危険を取り去れるからだ。まずは幸福が人間だけの独占物ではないという前提で始めよう。6つの範疇で幸福を分析してみたい。これらは大体、進化の序列で並べてある。次の図を見てもらいたい。

人間と他の脊椎動物 アメーバと他の無脊椎動物
-------------------- ------------------------ 1
-------------------- -------------------- 2
-------------------- ------------- 3
-------------------- ------ 4
-------------------- -- 5
------------------ 6

(1)幸福の最も原始的な形態は、単細胞生物にさえ見いだすことができる。それは十分な食物を取り、その結果、食べるのをやめたときである。これは満足の最も純粋な形であり、他の条件が同じであればすべての動物がこの飽和状態を経験している。この状態が奪われると、その生物はそれを取り戻そうとし、言い換えると、食物や栄養などを探し求める。この種類の幸福は純粋に生理学的な水準に位置する。別の言葉で言えば、最も基本的は幸福は安定したホメオスタシスによって達成される。

(2)次の段階は、危険がまわりにないこととして表される。生物が生存のための厳しい競争にさらされるときはいつも、食べられてしまうとか、事故に遭うとか、病気になるような危険のもとで絶えず格闘している。生物は常に困難からの避難所を求めているのだ。だからこれらの困難が存在しないことは気分的な安定感を与えてくれる。幸福は苦痛、恐怖、不安を生物から取り除いてくれるような条件の中に求めることができる。

(3)幸福のはじめの二つのタイプは、生存への本質的な動機であると定義できる。三番目の段階では、感覚的快感が幸福の中心を占めるようになる。例えば性的行動を例に取ってみよう。雄は発情期の間は雌に引きつけられる(人間は除く)。最終的な目標は相手と性交を行うことであり、それは強力な快感を与えてくれる。脳のどこかが「快感スポット」と呼ばれ、これが生物に幸福感を与えてくれる。この種の快楽は特に脊椎を通した複雑な神経系統に依存している。

同じ効果は麻薬やアルコールによっても得られる。これらの種類の快感は短命で、副作用に苦しむ危険を負うが、離れがたく時にそれらから決別することが非常に困難である。「麻薬にとりつかれた」ネズミはヘロイン注射をしてくれるレバーを終わることなく押し続け、間もなく疲労で死んでしまうだろう。感覚的快感を求めるあまり、寝食を忘れてしまうからだ。発情期が季節ごとだとか周期的なのもこの理由による。もしそうでないとあらゆる動物たちは一年中、性行動に夢中になり、最後には疲れ果てて死に絶えてしまうだろう。人間の発情は周期的ではないが、厳格な社会的規制によって過度な性交ができないようになっている。

(4)仲間意識は社交的な動物の間にのみ見いだされる。仲間は避難所や安全を与えてくれる。魚は群を作るおかげで食物をたやすく発見し、捕食動物からも守られる。安心感が常に仲間を求める気持ちへとつながってゆく。哺乳動物の場合、幼い子供にミルクを与え、そこから生じる体の接触が、愛ややさしさを生み出す。人間は高度に社交的な動物であるので、幸福の大部分を男女の結びつきや仲間とのつきあいに求め、困っている仲間の助けにさえはせ参じるようになる。

(5)動物園を訪れると、ゴリラが一日中あてもなく檻の中を歩き回っているのを見ることがある。退屈しているのだ。ただ座り込んでいるのにうんざりしているのだ。食物と安全は確保されているのだが。人間と類人猿、そして犬もよく退屈している。幸福の第五番目の範疇は、退屈をせずに何かおもしろいことに取り組むことにある。外部からの刺激なしには、我々の脳は働くのをやめてしまう。複雑な神経系統は、ある程度の刺激を絶えず必要としているのだ。何もしないでただ寝転がっているのは、健康的な人間や類人猿にとっては耐え難い。だから脳や体を働かせると、われわれはよろこびに満たされる。ひもから放されたばかりの犬を見よ!フルスピードでぐるぐる走り回り、走ることそれ自体のために走っているのだ。こういうことだから、人々は冒険を求め、辺境の地を探し、研究の仕事を始めるのだ。人は行動を自らとることによって刺激を招き入れる。

(6)パブロ・ピカソは90歳まで生きた。他の条件が同じなら、たいていの芸術家はいったん自分の名声が確立されると長生きする。その理由はただ経済的に安心できるというだけでなく、自分が考えたり創造したりすることを自由に表現できるからだ。自分のもてる能力を最大限にまで働かせ、さらに何かを表現したり作り出したりすることに大きな満足感を見いだす。幸福の第六番目のレベルは自分の頭から何ものかを作り出すことから得られる。幸福のこのレベルは人間にのみ見いだされる(類人猿や犬たちが何かを創り出すかどうかはわからないが、それはそのような研究がまだ真剣に行われたことがないからに過ぎない)。神は無からあらゆるものを作り出した。人間はすでに存在するものの組み合わせを変更するだけかもしれないが、それでもそうすることからよろこびを引き出すことができるのだ。この段階では神経系統が刺激されるというだけではなく、感情面での満足感が付け加えられる。自分の作品が多くの人々によって高く評価されるということも満足感の大きな厳選の一つとなっている。

要約

進化の歴史は動機づけの歴史だといっても過言ではあるまい。幸福それ自体が、個人や種全体の満足すべき状態への強力な動機として働いている。幸福がなければ生物の生活は色あせ、単調であろう。幸福は「生きている」ということを実感させてくれるものであるようだ。これらの六つの範疇は、進化の異なる段階で眺めたものだが、すべて幸福の源として役立っている。人間においてはそのうちの一つだけが幸福を生み出すことはありそうもなく、全体の構成要素が重層的な効果を生んでいる。幸福を含んでいる後半の範疇では、高い道徳的基準を多くの人々は期待するようだ。範疇の(1)か(2)は「原始的」だとか「動物的」だと、さげすまれる。範疇(3)にとりつかれることは「依存」というレッテルを貼られるかもしれない。仲間をつくることの好きな人々は範疇(4)の幸福を強調するだろうし、芸術家や科学者は範疇(6)の幸福を好むだろう。幸福に関して価値判断や道徳的判断を行うことはきわめて危険である。

1986年2月初稿・2000年9月改訂

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