ビートルズ

芸術とは何か?

English

竹林

HOME < Think for yourself > 小論集 > ビートルズ

ビートルズが解散して30年以上になる。多くの音楽家たちがこのグループの消滅と、ジョン・レノンの死を悼んだ。一つの時代が確実に過ぎ去ったことを思い知らされる。いうまでもなく、ビートルズは音楽だけではなく他のあらゆる分野に大きな影響を与えたのであった。

4人組彼らが音楽活動を行ったのは1960年代と1970年代においてであった。これはベトナム戦争といわゆる新左翼による政治運動による、世界的に不穏な時期と一致していた。この複合的な効果が彼らをますます有名にし、影響力を強めた。彼らの生活、政治的態度について多くのことが語られ、若い世代にはそれらが当然のことと受け止められた。「革命的」なことが時が過ぎ去るにつれて、「普通」のこととなったのだ。21世紀に入ろうとする我々はもはや彼らのメッセージには驚かないが、それは彼らの考えのほとんどすべてが、表面的であるにしても、若い人々の心にしみこんだからだ。良かれ悪しかれ、ビートルズは西洋文明の「一部」になってしまったのだ。

ビートルズが我々に遺した最も大きな特徴の一つは、「芸術」と「大衆娯楽」の間の区別がはっきりしなくなったことだろう。マスメディアのさまざまな手段が利用できるようになったため、かつてははっきりしていたその境界線を忘れてしまう傾向にある。「芸術」とは何なのか?「大衆娯楽」と何なのか?ビートルズの音楽はどちらに所属するのか?あるいはともかく、誰がそれらの間の区別をするのか?

the beatles20世紀になる前までは芸術と娯楽ははっきりと区別されていた。芸術は貴族や金持ちたちのものだったし、大衆娯楽は持たざる者たちのものだった。これは後者が前者に比べて洗練の度合いが劣っていたというわけではない。だが、第二次世界大戦より前に育った多くの人々はそんな風に見る傾向にあった。これは19世紀から続いている、凝り固まった考え方なのである。

我々は今、まさにビートルズの存在そのものによって芸術の再定義を行うべきところに来た。彼らが自ら作曲した120以上の曲の中には永続的な魅力と人気を持っているもののもある。中には大変精巧に作られたものもある。忘れられないほど美しいメロディを持つものもある。それらは「芸術作品」と呼ぶべきものなのか?ではテーブルの上にすべてを並べてみてみることにしよう。

美しいかどうか

多くの、伝統的な考え方をする人々は芸術作品を美しいものと見なす。美とは非常に主観的な概念であり、美しいものとそうでないものとを区別するのは不可能に近い。その上、美の概念は自然の美と混同されてしまう。たとえば山、川、細胞や結晶の微細な構造など。それらは最高の傑作に劣らず美しい。

精巧であるかどうか

芸術作品は単純すぎて鑑賞に耐えないということはない。中世におけるヨーロッパ建築の微細なモザイク模様は必ずしも永続的な印象を与えはしない。精巧なデザインや構造は大いなる努力の証拠と見なされることはあっても、必ずしも高い芸術的評価を受けるのに値するわけではないのだ。

肝をつぶすような表現

急進的な現代彫刻家として知られた故岡本太郎氏によれば、芸術とそうでないものを区別するのは、予測できない要素を持っていることだという。「ありゃあ何だ!初めて見たぞ!」と我々が驚いて言うとき、それは典型的な芸術作品なのだと彼は言った。実際、1970年の大阪万国博覧会の入り口に彼の作品である、「太陽の塔」が初めて出現したとき、人々はあっけにとられた。芸術家の中には自らの完成した作品を「ハプニング」だとか「非日常的状況」と呼ぶ者たちさえいる。だが単に奇をてらっているだけでは人々の注意を長い間引きつけておくことはない。人々は飽きてしまいやすい。実際、新奇さだけを追い求めた現代芸術の追従者たちの多くが忘却のかなたに消えてしまっている。

エリート主義

古代以来、芸術作品は王や貴族たちの手にあった。ミケランジェロも後援者の助けがなければ、壮大な大聖堂はおろか、あの見事な彫刻をも完成させることはできなかったろう。時間と金がなければ芸術は不可能なのか?裕福な人々だけが芸術の本質を享受できるのか?長年の間、普通の人々は芸術的発展の埒外に置かれてきた。だが、スペインのラスコーの壁に見ることができるように、未開人は壁に自分たちの芸術的欲求を表現する機会を持っていたようだ。彼らの作品は宗教的な儀式や加持祈祷と固く結びついていた。

人気度

人気の度合いによって芸術の基準を設けることはきわめて危険である。多くの傑作が巨大な賞賛者を抱えていることは事実だが、このマスメディアの時代には、芸術作品であることを示す指標としては、他と比べてはるかに頼りない。近視眼的な流行と、確立された名声とを、短期間には判別することはできないのだ。数世紀にわたって尊敬を集めてきた芸術作品でも、一夜明ければ泥にまみれているかもしれない。ある時代において、一つの作品が芸術として判定されるということは、他の時代にも当てはまるとは必ずしも言えないのだ。好みが変わるにつれ、芸術のスタイルも変化する。その時代の最も偉大な作品でさえ忘却から逃れることはできない。「芸術は永遠ではない」。

進化

進化の理論は生物学的変化の明確な方向を示し、これに大きく影響を受けて、人々はこの用語を芸術の世界にも当てはめている。進化の本質は、まざまな長所が過去に積み上げてきた、ひとつの展開形式である。人間は哺乳動物、爬虫類、魚類、アメーバなどの先駆者がいなければ存在できない。同じ考えが芸術の定義にも適用できるだろうか?芸術の歴史を振り返ってみると、これはもっともなことだと思われる。現代芸術は具象絵画の否定の結果生まれた。ルネッサンスは古代の遺跡の山から吹き出した。だが、芸術の歴史は人間の歴史によく似ている。歴史は繰り返すのだ!我々は良かれ、悪しかれ、単純であろうと複雑であろうと、未来へのいかなるはっきりした方向も見いだせない。芸術は人類が存在する限り、全く孤立した状況の下でも創り出されることができる。今日の芸術の途方もない多様性は進化が原因ではなく、世界中での不規則でお互いに無関係な創造活動が原因なのだ。

独創性

これまた非常に重要で議論を呼ぶ概念である。どんな模倣も芸術の名に値しない。だが、神の場合を除いて言葉の持つ真の意味での創造というものが存在しないのは明白である。我々のいう「創造」とはすでに存在するものの新しい組み合わせに過ぎないのだ。この事実が独創的なものとそうでないものとの間に境界線を引くことをきわめて困難にしている。にもかかわらず、独創性は芸術を定義するには欠かせない。

表現

芸術は言葉の持つもっと幅広い意味で定義した方がいいかもしれない。これら7つの議論のどれも芸術を定義するのに決定的なポイントがない。芸術とは表現なのだ。それも絵画、音、形その他の永続的な形式で・・・心の中にあるものが時に形を持つ。これが、目に見えようと耳に聞こえようと、触れるものであろうと芸術なのだ。芸術はまた伝達可能なものである。他者がそれを鑑賞して初めて芸術作品は存在理由を持つ。ことばのこのような意味において、ハンマーは芸術作品ではない。だがもしそのハンマーが人間の魂の、真の延長の形式の中で表現されたとすれば、芸術と呼びうる。美的な基準は芸術的な基準に一致しないが、その理由は感覚的快感を与えることは必ずしも心の状態を表現しているとは限らないからである。芸術であるかそうでないかについての最も重要な判断の基準は、その作品が本当にその芸術家の心から生まれたものかどうかにかかっている。芸術作品は「心の叫び」を持っていなければならないのだ。

*************

今日大部分の音楽や美術には「心の叫び」が欠けているようだ。これに照らしてみると、ビートルズの歌の多くが彼らの強力な魂のメッセージを持っているように思われる。ビートルズの登場以来、わかったことは、いわゆる大衆娯楽も少なからず芸術的な要素を含んでいるということだ。

初稿1986年3月
加筆2000年3月

HOME < Think for yourself > 小論集 > ビートルズ

© Champong

inserted by FC2 system