自由意思

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定義の竹林

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どんな目的で神は人間を創造したのか?これは宗教が人間の心の中に生まれて以来、人間が存在する限り、永遠の疑問であった。たとえばキリスト教では、これに関してはきわめて多くの見方があり、論争は血が流れるほどになった。確かに、20世紀が始まって初めてやっと、人間が神と人間の性質について自由に発言できるようになったのである。

まず第一に神が存在するか否かについての疑問は客観的に論議できるものではない。われわれはこの問題をどちらかというと直感的に解決してきた。私の考えの筋道は次の通りだ。人間が存在する。これは揺るがすことのできない事実だ。人間は巨大な可能性と潜在的能力を備えている。人間はこの宇宙にすでに存在しているから、人間をこの世に生み出す原因となった何かは人間を上回り、越えているに違いない。この「何か」を神と呼び、その性質は宇宙のあらゆるものを超越する。

あらゆる宗教には、さまざまな「創世記」が存在する。それらには洗練されたものも、原始的なものもあろう。神が男と女を創造したというのは、ほとんど共通のテーマだ。聖書では創世記はあまりにも有名で、常に論争の中心となってきたが、我々にさまざまな解釈を提供している。ファンダメンタリストは、プロテスタント・グループの一つだが、聖書に書いてあるがままの意味をそのまま受け入れる。だから彼らは執拗に進化論を否定し、学校で教えることを禁止すべきだと主張する。一方の極端な見方では、創世記を古代ユダヤ人によってでっちあげられた神話だと片づける教派もある。

私の印象では、聖書の創世記は進化論の要約版ではないかと思う。神が宇宙、太陽、地球、海洋、動植物を創造した順番は地質学や生物学による歴史とだいたい一致する。創世記の筆者たちは教育のない者たちのために、宇宙の歴史全体を書き直したように思われる。禁じられた果実の物語は、人類の歴史におけるある劇的な変化の象徴に違いない。果実は性的な悦びの秘密をあらわしているという者もいる。この考え方は興味をそそられるが、性行動そのものが罪ではなく、むしろ人間を含んだすべての動物によって日常的に行われるという点で、あまりにも浅薄な見方だといえよう。この考えは色情狂によって思いつかれたものに違いない!私が思うには、この果実は自分たちの死ぬ運命に対する意識の目覚めを象徴しているのだ。

アダムとイヴは(そして他の人類も)いつか死ぬ運命にあることを意識していなかった。彼らは生と死の秘密を最初に知った者たちなのだ。エデンの園は、時に地上における楽園といわれており、チグリス川とユーフラテス川に挟まれた小さな土地にすぎなかった。楽園ということばの真の意味は、彼らの心の中にあったのだ。アダムとイヴはこの世の現実を知ることを選択した最初の人類だったのだ。それまでは他の動物たちに劣らず幸福であった。この意味で彼らは神の目に入った最初の人類であったのだ。

最も重要なことは彼らが、死の重荷と共に生きることを選択したことである。人間以外の動物たちは死が訪れるその時まで幸福だ。そしてわれわれは好むと好まざるとにかかわらず、このアダムとイヴの事件の及ぼした影響を背負っていかねばならない。だがイエスによれば、いつでもわれわれはアダムやイヴと同じ出発点に立っているのである。つまり我々もまた2つの選択をすることができる。神に賛同するか、否定するか。

もしわれわれが神か悪魔の手に完全にゆだねられているとするならば、自由意志というものは存在せず、我々の人生は、前もって定められた生活を送るしかないという点で無意味なものになる。みんな運命論者になるしかない。我々にできることは何もなく、どんな個人の生活も神の計画によって敷かれたレールの上を正確にたどるだけである。私の意見では、これは神の目的ではあり得ない。もしそうだとすれば、なぜ神は禁断の木の実を設けたりする必要があろうか?なぜわれわれはこれほど多くの苦難や試練に直面しなければならないのか?もし神が自分に盲目的に従う者を望んだとすれば、ことは簡単だ。神の命ずることを忠実に実行する知性のあるロボットか何かを創造するだけでよい。ものごとは完璧な調和を保ち、誰も敢えて神に反抗する者はいない。だがそれでは神によって完全に管理された世界であろうし、死んだエデンの園と呼んでもいいだろう。

神はこんなイエスマンを望んだりはしないだろう。全能であるから、完全な自由意志を持っているに違いないし、何ものにも服従することがない。そして部下たちも自らの自由意志を持っていなければならないし、自ら選択して、つまり自発的に、喜んで服従するわけだ。神に賛成でないものは去って行くだろう。人間を創造した神の真の目的はこれだ。つまり人間自身の自由意志に基づいて、神とそれ以外のものとの間を選ぶことを許すこと。

もし現実の世界にわれわれが目を向ければ、その複雑さそのものが、我々に未来は人間がとりおこなう選択に依存していることを痛感させる。われわれは常に分岐点にいる。世界の混乱のまっただ中で、神と共に歩みたいと真に願う者は従ってゆくだろう。

もちろん人間の自由意志は完全なものではない。常に、物質的な世界、社会環境、先天的な傾向などのもつ限界に左右される。だが即座に決定がなされないとしても、長い人生の間には、その人が神に従うか、そうでないかがその生きている間に明らかになるものなのだ・・・

若死にしたり、神の存在を理解できないほどの知能が遅れた者たちはわれわれが考えているほど不幸ではない。彼らはエデンの園の中に住んでいるのであり、死というものを知らない。善良で心の優しい人間は早死にすると言われることが多い。神はすでに彼らが自分に従うものであることを知っているから、彼らが長く生きて、この世の苦しみを受けるのは望まないのかもしれない。

人は死ぬと神の膝元に連れて行かれると言われる。これは神の完全な意思のもとに行われるのか、それともまったくの偶然なのか?すべてが神の手の中にあるのだ、と言うことは、人間の自由意思の考えに矛盾する。私が思うには、むしろ神は意図的にものごとが偶然にことが進むようにさせているのではないだろうか。神は万能なのだから。ビッグバン(宇宙の最初に起こった途方もない規模の大爆発)だけが神の意志によって起こされたのだ。そのあとは「乱数表」に従って、事が起こっていった。一方で宇宙における物質は創造主のおかげで何らかの物理的規則性を備えており、そのためほとんど自動的に生命に展開してゆき、ついに人間にたどり着いたのである。ある哲学者が述べているように、宇宙は「偶然と必然」によってできているのである。

全体としてみると、宗教は世界的な規模で衰退の道をたどっている。人々はその代わりになるものを探している。人間は誰も、霊的にまたは精神的によりどころとするものなしには生きてゆくことができないのは明白である。物質主義は空虚であることが判明した。新しい宗教はその創立者たちの大部分が金目あてか詐欺師であることが明らかになった。19世紀仕込みの哲学者は死に絶えつつある。オカルトや迷信は花盛りだ。豊かな社会では、人々は消費することに追い立てられている。人間精神の自由は今ほど消滅の瀬戸際に立っていたことはないように思える。

我々には巨大な岩石のようにしっかりと信頼感を与えてくれるようなものが必要だ。キリスト教(イスラム教やユダヤ教も加えて)この問題を解決してくれるように思われる。これらには共通な点が多くある。唯一の神と、神と人間との間の建設的な関係だ。人間が神に深い信仰を持つとき、この世のどんなものからも完全に自由になれる。たとえば迷信から自由になれる。

今や、われわれは自分たちの個々の自由を確立しなければならない時点に達した。これに対しては宗教が何らかのヒントを与えてくれるように思われる。もしわれわれがそのことを怠れば、われわれはオーウェルの小説「1984年」を思わせるような、コンピュータに支配され不自然にあやつられた社会の中に、容易に迷い込んでしまうだろう。われわれは未来社会における宗教とその果たす役割をしっかりと考えるべき時に来た。宗教なしの未来は実に危うい。

1986年4月初稿・2001年4月改訂

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