人間の協調志向

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定義の竹林

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進化論の立場からすれば、人間は協力というものを、おおいに重視してきた。荒れ狂う自然や獣たちの攻撃に対して、人間は弱く傷つきやすいから、組織化された行動をとることによって自分たちを守らなければならなかった。この伝統のおかげで人間は現在の姿になったのだ。だが、20世紀に入ったあたりから、我々の社会的状況は非常に複雑化し、この協力志向を人間生活のあらゆる分野に無差別に適用することが大変危険になってきた。

現代ほど、われわれがなんらかの決定をするにあたって、自分の良心に大きく依存する時代は今までにないことなのだが、それでもこのとらえがたい怪物である、協力志向に大いに影響されてしまっているのである。1853年のクリミア戦争以来、現代の戦争になってからは、国家が徴兵制度を考え出す必要に迫られた。傭兵、奴隷、忠誠を誓った騎士たちとは異なり、いわゆる民主主義国家における人々に、戦争に参加することを納得してもらわなければならない。

人々を戦争に送り出す最も効果的な方法は、脅しや死刑、重税などに加えて、彼らの「愛国心」に訴えることだった。戦争をすることを拒絶する人々は「裏切り者」と呼ばれ、屈辱を与えられた。このように大きな精神的圧迫を受けてこれに耐え、自分の選んだ道を歩める人は少ない。その上、戦争中に殺戮を行った人々は彼らの「愛国的行為」によって賞賛されるが、単独で殺人を犯した人は法律違反ということで有罪に処せられる。この二つの間にどんな相違があるというのだろう?それでも人々はこの矛盾を見て見ぬ振りをする。

この相対的な態度の蔓延は、ますますひどくなっている。この他人志向の社会の中では、人々の協調志向は戦争や政治家によって利用されているだけではない。広告業者や利益追求団体によっても利用されている。たとえば、電力会社は、原子力発電所建設のためにキャンペーンを開始する。彼らはバラ色の未来を強調するが、原子炉が持つ危険性を最小限におさえているふりをする。またこのような計画に反対する勇敢な人々は「地元の人々の福祉」を促進することに協力的ではないとか何とか言って、厳しく批判される。

クエーカー教徒のことを思い出してもらうのも、時間やエネルギーの無駄にはなるまい。彼らはこのような矛盾を最期まで否定し、決して後に引かなかった。彼らはプロテスタント集団の一員だが、神の名によって喜んで戦争をおこなう他のキリスト教徒たちと異なり、聖書も、牧師も、飾り立てた教会もない。彼らは「内なる光」によって導かれた、シンプルで良心に基づく、生活を送るとされている。アーミッシュもまた、良心的兵役拒否者として記憶されるべきだ。

現代社会の複雑な状況のもとでは、人々は「見えない力」に絶えず振り回されている。スペースシャトルの打ち上げは、たとえある欠陥が前もって検知されていても、誰もその打ち上げを止めることができなかった。それはほとんどすべてのNASAの職員はスペースシャトルは欠陥が生ずることはないと信じ込まされていたからである。1950年に、マッカーシー上院議員による赤狩り旋風がアメリカを荒れ狂っていたころ、大部分のアメリカ人は沈黙し、この教条主義が誤りのない真理となり、共産主義者たちが裏切り者で非愛国者としてのレッテルを貼られて、時には死刑にあたることも暗黙のうちに許していた。密告がはびこり、この魔女狩りに協力する以外に選択の余地がなかったように思われる。

民主主義は一つの理想かもしれないが、この過去300年の間によちよちしながらも、ほんのわずかずつ前進してきた。ルイ16世は斬首され、第3帝国は解体した。自由主義が、60年代のアメリカに広まった。だが、悲しいことに人々は決して歴史の教訓から学ぶことはなく、たとえ学んでもきわめて忘れっぽい。そして新しい危険が忍び寄っている。自由な思考の目に見えない形で浸食されていること・・・今や民主主義そのものの内部から始まっているのだ。

簡単に言えば、民主主義を考慮するにあたって、「多数決」の原則は不可欠のように思われる。だが、相対性や多様性へ向かっての現代的傾向が強まるにつれ、交渉、譲歩、妥協、調停をおこなうのに必要な時間やエネルギー量は、耐え難いほどに増加している。

こんなわけで、票を数えることだけが民主主義の唯一の目的であるようにみなされるようになってしまった。全員一致は言うまでもなく、過半数の票が賛成する限り、どんなことでも大手を振って実行に移すことができるといえよう。これによって、徹底的な議論よりもむしろ、脅し、賄賂、圧力団体の存在が想定される。誰でもが「多数支配」のもとに従うことを余儀なくされる。反対動議を発するものは誰でも「非協力的」だとみなされる。

そうだ、ナチスの誕生はワイマール共和国において合法的に認められたのだ。この共和国は世界で最も民主的だとされる憲法を誇っていたが、それでもこの恐るべき政党が独裁制の見本になることを止められなかった。

意思決定過程を効率的にしようと、官僚たちは、長時間にわたりうんざりさせるような議論を避けて通ろうとする。この考えに照らせば、いわゆる民主主義国家においてさえ、言論の自由は、深刻な制限を受けているのだ。巨大な官僚制度と、その迷路のように複雑な意思決定は、民主主義の最も重要な理想を消滅の瀬戸際まで追いやっている。

絶対的な真理に到達することは不可能なのだから、この怪物のような世界で生き延びようとしたら、個々の意見を辛抱強く述べる以外に方法はない。盲目的に協調することほど有害なものはない。「文明人」なら、もはや愚かな指導者たちのなすがままになるべきではないのである。

1986年6月初稿、2001年5月改訂

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