物質文明に暮らす

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竹林

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大部分の日本人は豪奢な品物を手にしているにも関わらず、いわゆる「物質地獄」におびやかされている。我々の日常生活は我が国の科学と経済の驚くべき進歩のおかげで、さまざまな種類の品物、特に自動車や電子製品に取り巻かれている。一見われわれは空前の物質的繁栄へと進んでいるように見える。

だがそこに落とし穴がある。われわれは決して自分ならではのやり方で生活を送っているのではないのだ。広告会社、複合大企業、政府によってわれわれは厳重に統制され、調査され、監視されているのだ。前世紀の終わり以来、この傾向は心理学と精神コントロール技術の進歩によって強化されてきた。どうやら社会が進歩し複雑化すればするほど、自由は少なくなってゆくようだ。

昔からよく知られた例を挙げてみよう。ロサンゼルス市は巨大な人口を抱えているにも関わらず、最近までなぜ鉄道網を持っていなかったか知っているだろうか?今やロスは交通渋滞で有名であり、多くの市民が呼吸器系疾患に苦しんでいる。自動車専用道路は片側6車線、時には10車線のこともある。ロスの将来は明るくないことが感じ取られるだろう。スプロール化だけがますます広大な郊外地域に広がり、そのことがますます公共交通機関への依存をむずかしくしているのだ。人々は車だけを使うことを強要され、それ以外の手段がない。

竹林誰がこのような陰謀をたくらんだのか?50年以上も前にはロスの町にも市電や通勤電車があった。そのころ中小の自動車製造業者が合併して生まれたばかりのジェネラル・モータース( GM )が、その最初の戦略をロスの町に向けたのである。さまざまな圧力をかけて、その鉄道網は完全に廃止された!当然のことながら人々は仕方なく GMの車を買うことになり、これが会社の売り上げを急上昇させたのである。

多くの人々が自分たちの持っているハイテクな製品を自慢し、それに多額のお金を費やす。自分の持っている CD プレーヤーは最高だとか、自分の持っているオートバイはターボ・チャージャーが装備されているとか、自分のコンピューターは記憶容量が・・・バイトだとか。だが今日、誰も自分の発明工夫によってモノを作った試しがない。実際のところハイテク機器はあまりにも複雑すぎて一般の人には、修理をしたり、改良を加えたりすることは到底できない。ただ買ってきてそれを消費するだけなのだ。

それがすべて。唯一の相違は自分たちの持てる金の多寡であり、人と「区別」を付けたいという気持ちだけである。個人的な工夫が大きな役割を果たした時代は過ぎ去った。自分で作ったモノでもないのになぜ自慢したがるのか?新幹線に凄むゴキブリは普通の台所にいるゴキブリたちに比べて、より文化的に高度だとでもいうのか?

多くの人々は実際のところ、時に幻想を生み出す広告の犠牲者なのである。目に見えない深みに気づかず、もろいガラスの一見華やかなニセモノの表面の上に座り込んでいる。危なっかしくちょっと手が触れれば、粉々に砕けてしまうだろう。

この点で、日本人は最もその影響を強く受けている。電子技術の発展のおかげで、最も高価で優れた製品を買い、自分のものにすることができる。だが、見ての通り、落とし穴が存在する。

たとえば、CD プレーヤーの出現は LP プレーヤを時代遅れにしてしまった。開発の進行に後れをとらないために古いものを新しいものに取り替えることを余儀なくされ、そのスピードは増すばかりだ。

オニユリもしそうしないと、古い方式が消えてゆくから、音楽を聴くこともできなくなるだろう。古い方式は故障した場合、その部品が生産中止後にはほとんど保管されないから、修理をすることもできない。製品を買わざるを得ないのは、古い製品が寿命に達したからではなく、絶えず新しい市場を狙っている製造業者たちによって意図的に時代遅れにされたからだ。

これはハックスリーの「素晴らしき新世界」と全く同じか、ほとんどそれに近いものを思い起こさせる。意識しようとしまいと、産業革命の出現以前には存在していなかった状況に直面しているわけである。われわれはもう一つの「自由」の喪失に脅かされている。

たいていの人々は次のように納得しているはずだ。外部の力によって強制されない限りは、自分たちの決定は自らしたものであり、もし自分たちが何物かを欲しているときは、それを欲しているのは自分自身だと。だが、これは我々が自分に対して持っている、最大の幻想の一つなのである。

大多数の決定は実は我々自身が下したものではなく、外部から勧められたものである。その決定を下したのは自分だと、うまく納得してはいるが、実は他者の期待に自分たちを合わせているのだ。

子供たちに毎日学校へ行きたいかと尋ねると、彼らの返事は「もちろんだよ」とくる。この返事は本物だろうか?多くの場合、決してそうではない。

子供が学校へ行きたいと思う頻度は多いだろうが、どこかで遊びたいとか代わりにほかのことをしたいと思うこともよくあるだろう。もしその子が「毎日学校へ行きたい」と感じたとしても、学校での勉強の繰り返しをいやがる気持ちを押さえつけているかもしれないのだ。

石清水子供は毎日学校へ通いたい気持ちを持つことが、周囲から望まれていると感じており、そのプレッシャーは「行かなくちゃいけないから規則正しく行くだけなんだ」という気持ちを抑え込むほどに強いのだ。もし行きたいときもあれば、行かなくてはいけないから行くだけの時もあるということをはっきり自覚することができれば、もっと楽しい気持ちになれるだろうに。だが義務感に及ぼすプレッシャーは、しなければいけないことをを自ら望んでいるんだ、と思い込ませるほどに強い。

このようにして我々は、目に見えるまたは見えない力によって意のままにコントロールされるあやつり人形になってしまったようなのだ。悲観的な見方をすると、20世紀の我々はことばのもつ意味での自由は奪われてしまっている。現代の文明社会は、ますます能力を高めているコンピュータや情報網によって我々を監視しているのだ。

それに気づこうと気づくまいと、剣によってではなく、政治権力とまでは言わないまでも自分たちの市場を拡大しようとする人々によって行われている心理作戦の、微妙だがますます強まる影響によって我々は隅に追いつめられてゆくことになろう。誇張かもしれないが、不気味な未来への展望は間近に迫っている。

我々が豊富な物質的な恵みを受け取っているのは、心理的な独立を「市場」に売り渡す報酬となっているのかもしれない。60年以上前に、ドイツの社会心理学者、エーリヒ・フロムは第2次世界大戦前のドイツ社会を分析し、これらの心理的な罠の詳細を明らかにした。

今や「自由からの逃走」や「逃走のメカニズム」における彼の警告は現在の状況に照らして真剣に考慮されなければならない。それをしなければ、我々の未来はない。

1986年10月初稿

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