宗教としての
精神分析

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竹林

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今日では教会への出席率は30年前の70%からたった24%にまで低下している。この傾向はどこにも見られる。イタリアでさえ、住民への強力なカトリックの影響力が15世紀以上も続いてきたが、今日では新しい信者の著しい減少に悩んでいる。ほとんどすべての西欧の国々が、この伝統的宗教における広範囲の弱体化から免れることはできない。

なぜそのようなことが起こるのか?もちろん多くの人々が、産業革命が開始されて以来、このことを予言してきた。物質的な裕福さは人々から信仰心、理解や把握できないものへの言葉にできない畏怖心というものを必ず奪い取ってしまうだろうと。もし貧困が宗教性の主要な原動力だとすれば、人々がもはやその助けや慰めを必要としなくなるのは当然である。人々は物質的な不足に基づく不安の解消を、自分たちの生死の問題についての不安の解消と、同じものだとみなしているようである。

文明世界の多くの人々が心ゆくまで奢侈な生活を享受し、その快楽に浸るのがますますエスカレートしているのは驚くにあたらない。そこから生じる結果は神への信仰心が失われたことと、精神世界からの乖離である。人類はごくわずかな特権階級の場合を除いて、今までこのような生活状態を経験したことがなかった。そしてこのことで、我々が何者でどこへ向かおうとしているか、という新しい問題が生じている。

当然の結果として、多くの現代人が、ノイローゼから精神分裂症に至るまでの、様々な種類の精神的な調和の乱れに苦しんでいる。今や心理学と精神分析学がそれらを治療するために必要とされている。まるで風邪を治してもらうかのように気軽に、精神分析医を訪れるアメリカ人が増えている。現代人にとっては、伝統的な信仰心の代わりに、現代科学をたのむことは意味のあることなのだ。大部分の人々が宗教的な考えを何か迷信的なものと思うようになっているからだ。

好むと好まざるとにかかわらず、人々はたいてい自然科学の近代的方法を信頼している。ちょうど近代以前の時代の人々がさまざまな神を崇拝していたように。たとえ心理学と全能の神の本質的な違いが十分に分かっているとしても、それにも関わらず人々は、精神分析医という現代の「神父さま」の前で告白してしまうのだ。

彼らの「信者たち」への接し方は、伝統的な宗教上の神父たちとは全く異なっている。まず第一に、人間というのは成長して「成熟」してゆくべきであり、自分のまわりの人間と調和をとらねばならないのである。成熟というのは、さまざまな状況に対して「理性的に」「正しく」「公平に」対処できる能力のことをいう。成熟するということはモーゼの十戒とは違い、むしろ、望ましい期待のよせあつめである。確かに、現代人はもし医者の指示であればその通りに行動するであろうが、「調和のとれた人間関係」とか「バランスのとれた人格」というのは何となくインチキ臭い。画一主義の影がちらりとかすめ、個人の持つ個性が失われるような気もする。いずれにせよ、現代心理学は「経済人間」あるいは「資本主義志向」の考えに基づいているのだ。社会的な流れもこの学問の「理想的人間」の形成に大きな影響を与えている。

たとえば、我々はノイローゼを一種の精神的な病気と見なすことが多く、それは「治療」すべきだと教えられる。それはこれが普通の行動パターンに属していないからである。ノイローゼはどこか異常である、だから、これを「正常」の枠内に押し戻さなければならないというわけだ。だが、汚染された空気の中では喘息を予防することはできないのと同じように、重度にストレスを感じているビジネスマンの間では、ノイローゼの増加を止めることはできない。ノイローゼは異常にストレスを生む環境の中での純粋に防御的な反応なのかもしれず、それゆえこれは治すべきものではなく、周りの環境がその人間が精神的な健康を保てるように変えられるべきである。

多くの心理学、あるいは精神分析的な理論は、軽度の精神的な不調に悩む人は総て、医学によってまたはカウンセリングによる正しい治療をする限り、治癒可能だという考えに基づいている。その結果、「異常」を正常に変えるだけでなく「狂気」や「風変わり」も同様に「正常」に変えることに成功するだろうと確信している。(図1を見よ)この危険な傲慢さは、精神分析学のもつ優位性の増大を反映している。精神分析学は「働きバチ的な精神構造」を持ち上げているように思え、このような精神は、感情的でもなく自己中心的でもないが単調で特徴がなく、微笑みを絶やさずバランスがとれていて、激烈な競争では負けることがない。

図1
異常
狂気
風変わり
正常
画一的
ひたすら同調

怒りっぽいとか、ヒステリー気味であるとか、熱狂しやすいとか、風変わり、放浪癖がある、人付き合いを好まない、などという人々のどこが悪いのか?「狂気」や「風変わり」の存在を許さないような社会は死んだも同然である!

人類の未来は、はみ出し者や異端者へのこの寛容さにかかっている。現代の魔女狩りの脅威が強烈に感じられるのはいつでも、効果的で一見合法的な対策がそのような理想主義者とか、いわゆるならず者に対してとられる時である。政府や教育が高度に中央集権化された元ソ連や他の国々に見られるように、多くの政治的反対者たちがいわゆる精神病院の中で苦しい生活を送ってきた。西欧の国々では、そのような過激な手段が取られることは無いかもしれないが、にもかかわらず絶え間ない監視や管理下に置かれていることが多い。

誇張ではなく、世俗的な現代世界に住んでいる限り、言葉の持つ真の意味では決して自由を手に入れるチャンスはない。他方、伝統的な宗教は、教会やその他の機関によって何度となく統制されてはきたが、おかげで人間は自らを全能の神の前に身を置くことはできる。野生の獣たちでさえ、創造主の作品であり、そのため自然界の為すがままではあるが、文明社会に置かれている人間と比べれば、完全な自由を持っている・・・このように考えてみると、唯一の主人が神であるような人間は、いったん現代社会の触手から抜け出れば、完全な自由を持てる。主人はただ一人であるべきだ。そうでなければ、自由を求める奮闘努力の網と駆け引きの中に、いつまでもからめ取られてしまうだろう。

無神論というものは存在しない。というのも人間の思考は、意識的であれ無意識的であれ、いつでもある絶対的な主義に依存しているからである。もし人が形而上学的な意味での神の存在を信じないとしても、何か他の偶像、いわば神の代理を捜さねばならないだろう。現代人はその大部分が物質的な豊かさにのめり込み、形而上の世界について考えることを止めてしまい、いかなる統制を及ぼすものからも自由になっているように一見見えるけれども、実は微妙な心理操作や、あからさまな洗脳に引っかかりやすく、いかなる精神的な脅威にも自滅するかもしれないのだ。

だが伝統的な宗教も現代心理学も、人類を画一性から自由にしてくれるような決定的な方法を提供してくれそうもない。この地上のいかなる組織も、人間精神を束縛する運命にある。社会が中央集権化し制度が確立すればするほど、我々の享受できる自由は減ってゆく。これは進歩のもたらす皮肉である。ただ、個々の人間の精神の中に完全な自由の源泉を見つけることができる。それは良心と呼ばれるものだ。

初稿1986年11月
加筆2000年1月

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