農村生活と
都市生活

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竹林

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汚染が地球を襲い、母なる自然は「開発」の名のもとの無慈悲な略奪に悲鳴を上げている。すぐにも我々の生活スタイルを変えなければ、1999年の運命の日は(少々遅れているようだが)必ずやってくる。個々人の努力はバケツの一滴にすぎないかもしれないが、にもかかわらず全生態系の復活を望むばかりである。これから記すのは私自身の生活スタイルのスケッチである。

宮城県志津川湾実り豊かな春

川のあるところが生活にはいちばんの土地だ。もし、500か1000メートル先に小さな入り江が見えるようであれば素晴らしい。その場所が温和な気候に恵まれていれば、魚、海草、貝類が思うままにとれる。人口密度は1平方キロあたり、20人以下であるべきだ。住まいは川岸に面し、小さな私設の船着き場が建物の端に取り付けられている。船着き場には、小さな帆船(モーターボートではない!)がもやってある。裏庭を流れているのは扇形に開いた小川で、それに沿って肥沃な土地がのびている。そこに育っているのはさまざまな種類の穀物、野菜、薬草である。それらは量的には多くはないが、種類が多い。この農園の最大の特徴は、一種類だけまとめて植えたり、平行な畝を作って植えられておらず、さまざまな種類の植物が混ぜて植えられていることである。

これはとても非生産的な方法に見えるかもしれないが、生態学の法則によれば、多種類の植物を植えるということは、悪質な病気にやられたり、貪欲な昆虫たちが来ないということなのだ。有機肥料、たとえば緑肥がここで使われる。あらゆる余った産物や、台所の残り物はコンポストを作るために集められ、土に戻される。平らな土地の背後には丘がある。丘のふもとには何十羽という鳥たちの隠れ家があり、数頭の馬やヤギは冬期をのぞいて牧草地の草を食べて生きている。鶏のヒナたちは狭いかごに閉じこめられることなく、庭を自由に歩き回る。だから朝起きるとすぐに地面に産み付けられた卵を拾って歩かなくてはならない。丘はさまざまな種類の樹木に覆われており、単一種ではなく、雑木林であり、これもまた害虫からの攻撃を予防する。

三浦半島剣崎森林から生み出されるものを無理矢理奪ったりはしない。低い雑木はそれなりの生態学的統一性を持ち、少量の過剰物を生み出す。我々人類はそのごくわずかだけ与えてもらうのである。クマたちだってその分け前にあずかる権利がある。広大な土地は一種の資本であり、我々はその利子で食ってゆくのであって、元本に手を着けては決していけない。丘では木の実や果物、材木、薪などを手に入れる。だが、時には小さな木を取り除くことは森の維持のためにとても大切なことである。というのはあまりに込み合った藪や雑草は、高い木から不可欠な栄養や成長のために空間を奪うからである。

家屋は丸太で造られている。「湿気部分」と「乾燥部分」の二つに分けられる。前者は台所、食堂、浴室、便所の機能を果たし、後者は書斎や寝室の機能を果たす。尿や大便を含むすべてのゴミはコンポスト容器の中に積み上げられる。そこで次第に堆肥が生成してゆく。部屋の真ん中には薪ストーブがあり、薪、木材、落ち葉、その他を燃やす。石炭と石油は使うべきではないのは環境を汚染するからである。

あらゆることは一つの信念に基づく。つまり人間はもはや自然の一部ではなく、よそ者であるということ。よそ者は自然を搾取すべきではなく、自然がたまたま生み出してくれた過剰なものを、できる限り利用させてもらうならよい。また自己浄化作用の能力を超えるほどに、自然にに負担をかけすぎてはいけない。もしこの初歩的なルールを無視すれば、生態学的バランスの全構造が破滅に陥るであろう。人間の知恵は搾取に向けられるべきではなく、この自然に手を触れないような生活スタイルを作る出すことに向けられるべきだ。もし我々が原野の中に住みたいと思うなら、常にこのことを考慮に入れておかなければならない。そうでないなら、自然から独立した人工的な空間を作り出すしかない。つまり都市である。

安楽な生活

人間自身を究極的に家畜化すると、人間の作った環境の中に完全に適応することになる。人口過剰のために土地を探し求める運命にあり、最終的にはどこかの天体に住むことを余儀なくされるかもしれない人間にとっては、厳しい自然環境と共に住む能力を持つことが不可欠である。これは不可能なことではない。というのもたとえばエスキモーや遊牧民族は数千年の間、緑のない、荒野に、驚くべき柔軟さで暮らしてゆくことに慣れているのだ。環境に適応する、このほとんど無限といっていいほどの能力によって、宇宙のほとんどどこでも暮らすことができる。ちょうど日本人の「二世」「三世」が日本とは完全に切り離して自分たちを考えることができるのと同様に、人類の未来の世代はあるどこかの惑星の「原住民」になることができるであろう。

こんなわけで、「都市住民」になることは何ら難しいことではない。そして近い将来には全人類の99%以上がメガロポリスに集中することになろう。これ自体は悪いことではない、というのも都市地域に集中することは農村地域の人口減少を意味し、それ故、ある面では、自然の破壊はかなり防げるからだ。工業地域と農村地域(農業もまた一種の工業になるであろう。いわゆる水耕栽培という、土を使わない栽培方法の発展のおかげもあって)はやたらに広範囲に広がってはいけない。というのも統制のない開発はさらに汚染を引き起こすからだ。人間の住む地域と原野とを完全に分離するのが望ましい。このやり方への主たる障害は現在の土地制度である。自由市場の原則を土地制度に当てはめることは諸悪の根元である。開発業者は自由に土地を買収する。だからすべての土地は、特に商業地域がわずかしか利用できないような国々では、国有化すべきだ。土地に対する固定資産税は土地の賃貸料に置き換えられることになろう。どんなことがあっても土地が投機の対象になってはいけないのである。

三浦半島立石都市地域における個人生活はできるだけ個人的所有物はなしでやっていきたい。コインランドリー、24時間営業のコンビニエンス、万年筆から棺桶(?)まで貸してくれるレンタル・ショップ、そして低価格の美味しいレストランもある(もちろんそのような店が見つかればの話だが)。てみじかに言えば、何でもあり、そのおかげで、高価な家具や電気製品なしですませられるのだ。都市の住民にとっては欠かすことのできないサービスの大部分は田舎の生活には登場しない。都市では全く自給自足なぞ必要ないのだ。ただ最小限の衣服と台所用品と、大切と思えるもの、たとえば本とかレコードの類があればよい。本が好きなら買えばよい。本は借りるほうがよいが、それは多すぎる本に部屋を占領されないようにするためである。もっとも、自分のための貴重な情報というものは公共図書館ではなかなか手に入らないものであるが。人間を個性的にするのは知識の蓄積ではなく、特定の知識の優れた選択と保存である。だから、外部の情報源だけに頼らない方がいいだろう。自分自身の蔵書というものが必要だ。

たとえ都市生活が自然からすっかりと切り離されていても、いわゆる「カプセル」内の生活を送り、それに満足するようになることはできる。加工され、細かくされ甘みを付けた食品によって歯を失うかもしれない。運動不足で体力を失うかもしれない。エアコンのおかげで体に備わっている体温調節器官が弱体化するかもしれない。便利な戸口から戸口への輸送システムのおかげで足が弱まるかもしれない。だが、そのときには人々は新しい生活を求めて田舎の生活へ向かうことになろう。

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田舎の生活は都市生活とは対立的であり、将来の世代の大部分は後者へ向かうことだろうが、どちらが一方より優れているとか劣るというものでもない。いずれにせよ、現代科学のおかげで我々は二者の間で選択ができるようになっている。選ぶのは本人次第だ。

初稿1986年12月
加筆1999年12月

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