暮らしよい国は? 

- 「バブル」時代の記録 -

English

竹林

HOME < Think for yourself > 小論集 > 暮らしよい国

日本は最も進んだ先進国で、しかも繁栄している国の一つだといわれている。この国の総理大臣たちは、愚かにも国民総生産の数字や自動車の保有台数を自慢にしている。日本は本当に物質的繁栄を享受しているといえるのか?日本は国民が本当に満足している国だといえるのか?悲しいことに、現在の表面的な幸運な状態を否定するような、多くの証拠が手元にあるのである。

.政治的には日本は幼児期にある。日本は巨大なブルジョワ革命の勃発を経験したことはない。たとえば1986年のフィリピンにおける人民パワーの爆発のような。民主主義は1945年に「帝王切開」してもらったものだ。今も熱心にやっているが、秘密が漏れるのを差し止めるような法制化を平気で行う。野党の政治的影響力はあまりに弱く、一枚岩の自由民主党に対抗することができない。このバランスのくずれのせいで、国民は政治に対して無気力になっている。健全な二党対立または多党対立体制を取り戻すためには、国民の側に強力な自覚が必要である。だがある有名なイギリスの政治家がかつて言っていたように、「国民はそれに値する政府しか持てない」ものなのである。

経済的には、日本はある意味では「社会主義国」と言えよう。その理由は日本の歴史的な権力の中央集中のためである。これはバス停の位置設定から、酒屋の開店に至るまで、すべてが厳しく制限され、管理されているからなのだ。「秩序ある」社会を実現しようと必死になる余り、江戸時代から伝統的に著しく保守的であった、政府家は日本社会のさまざまな活動について自由にさせることに難色を示すのである。自分たちの仕事は既得権を維持することだと思っているのだ。だが一方では政府は国内産業に対しては過保護的である。経済的自由や自由競争の原則は日本ではほとんど理解されていない。通産省の現在の態度もまた、江戸時代における排他的なギルドを思い起こさせる。失業率を世界でも最低水準に保とうとして、通産省や建設省は協同して仕事を作り出そうとしている。その方法は次から次へと新しい公共事業を考え出すことだ。その結果といえば、自然破壊と農村地域の著しい過疎化である。

円高が急激に起こると、日本の「生活水準」というものがいかに歪んだものかを思い知らされることとなった。いうまでもなく、大部分の日本人は「安価な」車を買う余裕があるが、大部分の都市部の自動車の所有者は極端に高い駐車料金と激しい渋滞に悩まされている。中には住む場所に払う金がないから車を持っているのだとまで言う人もいるが。

我々は買って月賦を払わされ、その間、週末だけ車を使いそれも渋滞の中を乗り回すようになっているようだ。日本人は車を単なる交通の手段としてではなく、自分たちの住居の惨めさを忘れさせてくれるものと思い込む傾向にある。日曜にパパが洗車場で自分たちの美しい車を磨き上げているのを見よ。表通りは渋滞のため運転の楽しみを味わうことができないのだ。日本のような小さな国が、その道路に極わずかな交通量しか収容できないのは当然であろう。次から次へと必死になって高速道路を造っているが、追いかけっこには終わりはない。

かつてはエンゲル係数が一国の豊かさを最も確実に示すもとのと思われていた。がしかし日本のような脱工業化した国においては、農業が金儲けゲームからはずされて、食品の値段が開発途上国に比べて異常に高くなってしまっている。たとえば一杯の麺類は東京では400円かそれ以上し、これに対し香港では40円以下だ(1987年)。米の生産に対する過保護な政策は米価調整策として悪名高いが、この傾向に拍車をかけているのだ。10キロの米に対して5000円も払うことはばかげている。これと同量が中国やインドではわずかな価格で買えるのに。日本では外食も贅沢なものとなりつつある。特に料理に興味がない限りは忙しい人々にとっては個々で料理をすることが時間や金の無駄になることもある場合、外食は理にかなった生活方法だといえる。中国の大都市では大部分の労働者たちが外食をする。でもスカイラーク、デニーズ、ロイヤルホストのようなレストラン・チェーンは、毎日食べるには驚くような代金を要求する。一杯のコーヒーが300円(2ドル)以上もするのだから!

このように不満で不安定な状況は人々に意識的にも無意識的にも不安を引き起こす。人々は高価な電気器具や家具を買う気にさせられる。そのような品物によって、幻想であるのに、自分たちが最も先進的な国の一つに属しているように信じさせられるのだ。一方では食品、住宅その他の必需品に対して、法外な費用を強いられるというのに。くすぶり続ける不満の理由は自分の意志ではなくて、広告の微妙な心理的影響によって金を使い、怪物のような流通機構に利益を吸い上げられているからである。流通機構は消費者価格と卸売価格の差を食い物にしているのだ。

日本人は昔から「猫の額のような」という言い方をしてきた。だがむしろ、都会の住人たちは、肩こりに効く全国的に有名な貼り薬、サロンパスのように狭い土地に住むことを余儀なくされている。20年以上も前、田中角栄総理大臣が「日本列島改造論」を掲げたとき、地方では至る所、目の飛び出るほど物価が上昇してしまった。今日、新しい種類の「高級化」が主として貪欲な不動産業者に操られて、首都圏地域を席巻している。この動きはニューヨーク、ロンドン、パリ、香港その他の大都市でも同様に見られるが、金に余った住民たちの集中を招き、コンピュータによって管理される金融センターの建設を伴い、同時に大規模に貧民層が押し出されてゆく。1950年代、60年代にはこの傾向は全く逆方向にあった。裕福な人々は郊外に脱出し、貧困層は都会の密集した地域にとどまり、スラムを形成したのである。だが今日ではその動きは逆に転じた。貧しい人々はもはや集中化した高層ビル地域に住む経済力はない。彼らは江戸時代の初期から住み続けてきたのであるが。地域社会が壊滅した結果、貪欲な業者による大量買収が加速化しつつあり、多くの貧困層をホームレスの状態に陥らせている。松本零士のマンガ「銀河鉄道999」にあるように、未来都市の中心部ではスラムがすっかり姿を消し、人工的環境である、鋼鉄とガラスの冷たい列が並んでいることだろう。この傾向は今では世界中で見られるようになってきたが、世界中にいくつかのメガロポリスの形成を生じることだろう。東京・横浜・千葉地域もそのうちの一つになることだろう。

富のおかげで、日本人は戦後すぐに持っていた倹約精神を失ってしまった。誇張とは言えない話がある。一晩の銀座で出る食べ残しの量は、飢饉に襲われた国を一日支えるだけの豊富で栄養価に富んだ食糧に匹敵するというのだ。日本人は自分たちの浪費的な生活ぶりに少しも罪悪感を感じていない。それはこの現在の繁栄を築いたのは自分たちだと考えているからにすぎない。このような傲慢な態度は、南京虐殺は第二次世界大戦中の他の残虐行為と共通するものを持っている。日本人は内省する習慣がなく、罪悪感にさいなまされるということがないので、東南アジアにおける森林破壊や世界的規模の野生生物の絶滅が、大部分自分たちの経済的搾取のせいだとは滅多に思いつかないのである。自分たちのやり方が最高で、他の開発途上の国々は自分たちのやったとおりにするべきだと思っている。たとえば農業面で近隣国を「援助」するときは、巨大規模のダムや灌漑用の運河を作ることしか考えつかない。人々の必要とするものは現代技術の産物ではなく、自給自足のための永続的な技術なのであり、これはただ円を投資するだけでは達成できず、経験豊かな技術者や農民を多数派遣することによらねばならないのだ。十分な国内生産がなければ、これらの国々は強欲な日本の巨大企業にむさぼり食われてしまうだけなのだ。

円高のおかげで、政府は日本村をスペイン、オーストラリア、カナダなどの海外に建設する計画を発表した。そのような場所は物価が非常に安いから、老人たちは裕福で満ち足りた生活を送ることができるだろう。だが問題がある。日本人には江戸時代の鎖国に由来する、生来の外国人嫌いのことだ。大部分の日本人は外国語を学習することを嫌い、現地人の社会から自分たちを切り離す傾向にある。現地社会にとけ込もうとはしたがらないのはもちろんのこと、自分をさらすことも好まない。ブラジルのある女性は60年前に日本から移住したが、現地の母国語であるポルトガル語を話せないままである。日本人入植地の中では日本語だけを使っていても、全く差し障りがないからにほかならない。現地人と同化するには長い道のりが必要なのだ。だが言語の障壁は別にすれば、「ガツガツした」経済成長の洗礼を受けていない人々の中に暮らすというのは何かほっとする経験だろう。

日本人の生活水準となると、幸福のもとになるのは先進国に見られる巨大な富でもないし、底なしの貧困でもなく、中間的な倹約志向である。つまりピラミッド型の生活スタイルであって、必需品が豊かにあり、贅沢品は手に入りにくいような傾向である。毎日の経験から分かるように、まるで達成する見込みのない目標やあまりに満たされた状態では幸福になれない。現在の日本が急激に後者の方に向かいつつあり、不満がたまり生活方法を根本的に転換することを余儀なくされることは目に見えている。

fig.A 理想的な暮らしとは何か?これから述べることは私の試案である。それを決定するには心理学的、道徳的、環境的に健全な見地からなされなければならない。現在平均的なアメリカ人は一日に1キロの牛肉を食べると言われている。1キロの牛肉は、牛に5から7キロのトウモロコシを与えることによって作られる。大ざっぱに言うと、これらのトウモロコシは一日にインドや中国の10人以上の人々を養うことができる。もし全世界の人々が平均的アメリカ人と同量の牛肉を食べたとすれば、現在の3倍の農地があっても足りないだろう。品質曲線と分量曲線が交差する点があるに違いない(図 A 横軸は人口増加)。その点より上での生活を送ることは少なくとも道徳的には間違っているといえるかもしれない。だから全地球的な展望から生活水準のことを考えれば、つまり地上の全人口で割るとすれば、このパイのここの分け前はとてもわずかなものになるだろう。すべての人々が厳密に同じ分け前にあずかるべきだと主張するつもりはないし、それは不可能なことだし、その目標自体が人間性に反することだろう。しかし、このギャップを埋め、貧困者の置かれている悲惨な状態を和らげることが、今日最も緊急性を要するものであることは誰も否定すまい。このことに関して言えば、アメリカは言うまでもなく、日本と西ヨーロッパは重大な責任を負っているのである。

今、私は「半先進」国(都市)に住みたいと思っている。そこではごくわずかな人々しか贅沢品を買う余裕がない。これに対して大部分の人々はその目標に達しようと頑張っている。もしその国(都市)が「完全先進化」してしまったら、そこを離れて、別のところを見つけたい。生活水準が、飽和点に達してしまった国は魅力はない。ニューヨーク、ロンドン、パリ、シンガポール、東京はかつては前者の典型的な例であった。だがとどまることを知らない高級化のため、これらの都市は野火のように特権的金持ちだけが住めるような都市に変貌しつつある。混沌はかつて都市の持つエネルギーの源泉そのものであったが、これらの都市では時間の経過と共にすっかり姿を消してしまうことだろう。だが、香港、上海、カルカッタ、メキシコシティーのような地域ではこれらの都市が持っていた活力を引き継ぐかもしれない。

最近耳にしたニュースによると新宿に15年前にオープンした有名なライブハウスが高級化、つまり急激な家賃の上昇の余波を食らって閉店を余儀なくされたのだそうだ。小規模な事業者や芸術家たちは東京地域で生活を続けてゆくことが困難になりつつある。多くの自動車会社と同様に彼らも海外に自分たちの場所を見つけなければならないかもしれない。とにかく時代は急激に変貌を遂げている。この時代を「バブル時代」と呼ぼう!

初稿1987年1月
改訂1999年11月

HOME < Think for yourself > 小論集 > 暮らしよい国

© Champong

inserted by FC2 system