人間遺伝子の未来

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竹林

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ホモ・サピエンスが最初に出現してから100万年以上たったといわれている。それ以来さまざまな人種が適者生存の法則に基づいて、現れたり絶滅したりした。気候、地理、日照期間、文化的相違が地上のさまざまな人種を作り上げる中心的な要素であった。地理的に孤立すると、人々は混じり合うことが妨げられ、はっきりと異なった現在の人種が形成されたのであった。

しかし今や、交通機関の発達のおかげで、人々はその遺伝的な蓄積をすこしずつお互いに交換し合うようになった。ほんの数十年前には、国際結婚は、ラテンアメリカを除いては、たいていの国々ではまれなことだった。というのも昔ながらの文化的相違のせいで、愛する二人は新しい子孫を作ることが執拗に妨げられたからである。

flowers04今日、事情はすっかり異なっている。生活水準の相違が二種類の集団を作ってしまった。つまり北方の国々と南方の国々である、というよりむしろ、先進国と開発途上国である。一人あたりの国民所得があまりに低いところに住む人々は豊かな国々に職を求めることを熱望する。つまり「Dekasegi 出稼ぎ」の国際化である。これは日本の百姓がより高い収入を求めて都市部に季節的な移動をした習慣だ。

この地球規模での人間の移動は世界中で目にすることができる。アフリカの国々からヨーロッパの大都市へ。これらの国々はかつてはイギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、オランダの植民地だった。農業中心の南ヨーロッパから、工業の盛んな北ヨーロッパの国々へ。共産主義の東ヨーロッパの国々から資本主義の西側諸国へ、ラテンアメリカから合衆国やカナダへ、そして東南アジアから日本へ。

この大規模な人々の移動は人種間の対立から生じる、多くの混乱、都会のスラム、犯罪、数多くの社会問題を引き起こすかもしれないが、何とかしてこれらの人々は、落ち着き先の社会に最終的には同化されなければならないのだ。

一方、先進国では、特に豊かな人々が自国でやたらに高い税金を払ったり、金のかかる隠退生活を送るよりは、生活費がずっと安く住む場所を探すことを望んでいる。主要通貨の急激な上昇により、このような人々は開発途上国に税金逃れのできる場所や年金で生活できる村を探すようになっている。

このような人々により、子孫が増えることはないにしても、異文化の混合が促進されることだろう。一見ゆっくりに見えるが、この傾向は次第に定着してゆくようだ。多民族の家族に産まれた子供たちは、より知能が高く健康的だといわれている。女の子は単一民族に産まれた子供に劣らず美しいという。これは根拠のない思いこみかもしれないが、遠い祖先を持つ人々の混じり合いは人類全体の再活性化を促すかもしれない。

だが、たいていの人々が見逃しがちであるが、大変深刻な問題が現れているらしいのだ。それは医学の発達である。きわめて皮肉なことに、危険は、特に幼児期における、急激な死亡率の低下にあるのだ。

一世紀前には未熟児は確実に死んでいただろう。今やほとんどの赤ん坊は生き延びている。それは歓迎すべきことか、それとも悪夢か?確かに、赤ちゃんが複雑な生命維持装置のおかげで死から救われたとか、重い心臓病の少年が体に取り付けたペースメーカーのおかげでサッカーができるようになったというような話は心温まることだし、人間的な立場から、新聞はいつでもこのような医学の勝利の話を賞賛する。

宮城県桃生郡鳴瀬町野蒜海岸 だがそこからは、ますます多くの精神的、肉体的に障害のある人々が、現代医学の特別な治療がなければ救われることがなかったはずが、幸せに暮らすことができ、また心配の種になることだろうが、自分たちの子孫をこの世に生み出している。

すべての健康に問題がある人々が親になることを禁止すべきだというつもりはないし、ましてやナチスが実際にやったように、消滅させるべきだというのでもない。(こんなわけで、この問題を解決しようとすることがしばしばタブーと見なされることが多い)ただ、事実は人類が適者生存の法則を無視していることだ。つまり今日の生物の繁栄を現在ならしめている、まさにそのものを無視していることだ。

戦争では無数の若者を殺し、適者生存の法則を無視し、現在では自分たちの遺伝的未来に全く無関心であることによって、この法則を無視しているのだ。自分たちの命を人間的なセロファンで包みたいとすれば、将来のわれわれには何が待ち受けているのか?

我々は自分たちをすっかり家畜化してしまい、もう元に戻ることはできないだろう。我々の大部分は野生に戻り、原始的な生活を送り、文字通り「ジャングルの掟」の為すがままになることもできないし、病に苦しむ者たちを見捨てるようなこともできない。我々は道徳的な泥沼の中にはまってしまったのだ。

我々自身を、あらゆる生存競争にさらすことはほとんどできないでいるが、自然選択の作用しないところでは進化は存在せず、退化のみがある。取るべき道は三つしかないようだ。

一つにはもう成り行き任せにして、人類がどんどんだめになっていくのを放置することだ。過保護な医療や衛生、機械化された生活によって人間は確実にその活力、つまり生命に最も大切なものを失う。全人類の歴史のなかでの黄昏時だろう。人々が高度に発達した文明のなかで衰弱してゆく。

二つ目には、強権的な選択であり、政府によって規制される、強制的な子孫の誕生である。遺伝子学者は両親の遺伝子を検査し、子供を産むことの適合性を決定する。あらゆる出生と死は厳格に管理され、その上、欠陥的な遺伝子を持つ者は、たとえば断種によって、子孫を残すことを禁止される。

カルカッタの人力車この場面はハックスリーの「素晴らしき新世界」を思い起こさせる。もちろん、決定のための基準は恣意的なものであり、大部分の SF作家たちの物語にあるようにそのときの統治者に奉仕するようになっている。

三番目の選択肢は、二つの世界を作ってしまうこと。一方では欠陥を持つ遺伝子の持ち主は進歩した医学によって守られ進歩した社会のあらゆる恩恵を受けられるというもの。もう一方では人々は原始的状態に住み、自然の猛威や病気にさいなまされ、体力があるか、運のいい少数の者を除いては死んでしまうようなところ。

前者における人々は後者に住む人々を軽蔑し、両者の間のコミュニケーションは存在しない。最終的にはそれらは別々の種を形成することになるであろう。

このどの見通しも暗いものだが、ほかに道はなく、前進するしかない。遺伝子を健康に保つ最良の方法は見つかるかもしれないが、それを強制することは基本的な人権を侵す。何が健康的で何が不健康なのかを判断する立場はわれわれにはない。この矛盾そのものが、成り行き任せか、強制管理か、その両方の道へと続く。

三番目の選択肢はあとの二つに比べればましかもしれない。が大部分の人々は、いったんイブが禁じられた木の実の味を覚えたら、その喜びを忘れることはできないことは十分承知している。歴史は後戻りができないものなのだ。

1987年2月作成
1999年10月改訂

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