sitemap

シンプルライフへのすすめ

English

竹林

Think for yourself > 小論集 > シンプルライフ

home

年をとると20年以上前に何をしていたかなど、すっかり忘れてしまう。日本における生活はこの近年あまりに急激に変わってしまったので、一生を通して指針にできるような基準をもはや設定することができなくなってしまった。我々はすさまじい勢いで押し流されているのである。物質的な豊かさは決して幸福も永遠の繁栄も保証してくれない。でもこれだけは言える。人類の全歴史を振り返ってみれば、現在のように贅沢なものに満ちあふれた生活は決して普遍的な現象であったことは一度もなかったし、ましてや地上の楽園でもあり得ない。人間の救済はまだやってこない。それどころか、ますますそれは我々から遠ざかりつつあるのだ。

もし言葉通りに自由になりたいならば、まずは広告の影響力を取り除かなければならない。贅沢な生活を拒否し、開発途上国を搾取することに反対すべきだ。そうするためには個々の個人の生活は変えていかねばならない。今世紀の破滅、アルマゲドンを防ぐ方法はほかにないのだ。もし万が一失敗することがあれば、きっと聖書で予言されたような結末を迎えることになるだろう。「ノアの箱船」に乗船したい者は我々が「分かれ道」に来ているというつらい事実を認識する必要がある。

実際面を考えると、多くの革命主義者が夢想したのとは違って、誰もが一つの理想を追うような社会は作れるわけはないし、歴史を見ればわかることだが、ユートピア社会を建設しようという試みは全て失敗に終わり、成功半ばのこともあれば、悪くすると絶望に終わったものもあった。人民の持つ僅かな力の蓄積だけが、どんなに影響力が小さかろうと、前進を見せているだけだ。flowers01個人の持つ努力だけが、社会を違った方向に向けることができる。どんな中央政府も、もちろん全体主義国家は論外だが、我々の社会を混乱と破壊から救うことはできないのである。というのもあらゆる悪は個人の欲望から生じるからだ。これに対抗するためには、目覚めた人々のエネルギーを新しい生き方を創造することにエネルギーを集中させる以外に方法はない。

いくつかの方策が考えられる。あるものは矛盾するかもしれないが、宗教的信念でも、独断的な規則でもない。どれが正しいかを決めるのは我々次第だ。最も大切な原則は生産者と消費者との距離を縮めることだ。例をあげれば食品である。我々は飲み物や食べ物についてますます輸入食品に依存するようになっている。国際的な分業が一国の経済成長には最も効果的であると我々は信じ込まされてきた。でも今でははっきりそうでないと分かるように、このことが輸送と加工を不必要なまでに重要なものに押し上げた、というよりは不可欠で、あまりに負担のかかるものにしてしまったのだ。輸出入のために、多くの倉庫やトラックや高速道路を必要とし、生鮮食品は缶詰にしたり、冷蔵したり、保存料を加えたりしなければならない。このようなことはすべて、大変なエネルギーと労力を必要とする。もうこれ以上の汚染はいらない。どんなに豊かになろうともわけの分からない化学物質によって癌にかかる危険を望まないのと同様に。

自分たちの暮らしを自給自足的にしたらどうだろう?石油を燃やしている温室で野菜を育てたり、長距離トラックの運転手にその野菜を運んでもらうことはよして、近所の畑でできたもので満足したらどうだろう?食物は腐る運命にあるのだ。必ずいたむものが食物の名に値するのだ。そしてそれらは新鮮なうちに食べるべきだ。これが食物をとる自然な方法ではなかろうか?添加物なんていらない。

flowers02保存食品の進歩のおかげで、食物の大部分が、たとえばテトラパック入りの牛乳は酸っぱくなることはない。人々は次第にこれに慣れてゆき、牛乳がどんなに不自然で不健康な状態に置かれているかに無関心になってしまっている。30年前にやっていたことを振り返ってみるべきだ。我々は近所で作られた産物だけを食べていた。百姓や漁師の妻は荷車や一番列車で新鮮な野菜などをかごに入れて持ってきたものだ。それらは安く、化学物質も入っておらず、なによりもそれを誰がどこで作ったのかが分かっていた。

このような食糧生産を取り戻すべきだ。それも単なる郷愁からではなく、啓発された、現代的な方法で。無責任にも誰が作ったかも分からない人工的な製品を拒否し、自然で人間的で汚染のない生活を見つけだそう。一言でいえば大量生産をやめるのだ。これは工芸品とか教育についてはいうまでもなく、食品について特にあてはまるものだ。これらのものはこの点で、自動車やその他の工業製品とは異なるのだ。

2番目の原則は物質の取り込みと生産の量を減らすことだ。かんたんにいえば、なしで済ませられるものは必要ないということ。我々の消費傾向を分類してみると、5段階の金の使い方がある。まず第1に、食物、衣服、住居空間のような生活必需品。それらなしには生活を続けられないという点で、不可欠のものである。2番目は道具や装備で、ハンマー、鍬、パソコンなどがある。3番目にはラジオを聴いたりテレビを見たりすることによって得られるような知識や情報。現代世界ではそのために一部支払いをしなければならないものもある。4番目には交通、旅行、趣味、スポーツへの出費。このような活動すべてに金を支払うが、これらは心の内部の満足感と固く結びついている。5番目に家具、装飾、アクセサリー、その他の持ち物。

flowers03
この5つはそれ自体は日常生活から生まれるものであるが、それらが贅沢なものかどうかは多くは人がそれに加える「付加価値」によって変わる。たとえば東京の郊外に贅沢な住まいを買うために一生懸命働く人もいるだろう。実際はふつうのアパートに住むのがやっとなのにだ。もしどうしてもそれを手に入れたければ、生活の他の面を犠牲にすることもいとわないだろう。極端な話、贅沢なスポーツカーを手に入れるために牛乳とパンだけの夕食でも何とかやっていける。劇作家の寺山修司がいっているように、これは「一点豪華主義」である。

しかしこれも長い目で見れば十分ではない。社会がますます繁栄してくると、少なからぬ人々は物質的快楽を得ることは、高級な製品とかおいしい食べ物といった付加価値への欲望を決して満足させてくれるものでないことに気づいている。フランスの小説家、アンドレ・モロワがいっていたように、自分の心に秘めていることを行動に移すのでなければ幸福になることはできないのである。単にものを所有することは人を幸福にすることはなく、むしろ慢性的な不満状態に置くだけである。激しい運動のあとの一杯のビールがなんとうまいものか我々は身にしみてわかっているはずだ。我々を幸せにしてくれるのはビールの値段ではなく、肉体的、精神的苦難を乗り越えたという達成感なのだ。幸福感は目標を達成するために行った努力の程度によって決定されるのである。

flowers04「一点豪華主義」と「行動主義」を組み合わせたところに、きっとバランスのとれた生活がある。だがもしバランスが失われれば、何かを達成しようという意欲は失われ、物質主義の中に逃げ込んで生活は澱んだものとなる。たとえば個人所有されている自動車を例に挙げてみよう。かつては有用な道具であったが、都市部では今や、交通渋滞のせいで単に家具か装飾品かステータスシンボルの一部となり果てており、あんなにも自慢した実用的な価値も失われてしまった。もちろん私だって、アメリカ、コロラド州の砂漠にでも住んでいれば、喜んで一台買うだろう。また一方では、もし新鮮なミルクをいっぱいほしいなら、ガラスのコップでなく、プラスチックか紙コップであっても、それについでもらって一向にかまわない。入れ物が液体を入れることができる限り、それがきれいか、そうでないかはどうでもいいことなのだ。俗物根性や虚栄はやめにしたい。これは合理的態度の極端なものに見えるかもしれないが、現実の世界は正反対の極端へと進んでいるのだから、むしろ振り子を敢えて逆に振った方がいいのだ。

我々が所有することが許される物質の量は人類全体の平均的生活水準によって決定される。天然資源の無駄な消費はやめるべきだ。発展途上国から主食を取り上げるなどとはとんでもないことだ。心に留めておいてほしいのは、肉汁たっぷりの100グラムの牛肉を食べると、牛の群に餌をやるための穀物を1キロ消費しているということだ。有名な絵画の原画や宝石を所有する必要など無い。投機目的なんてとんでもない。それらは美術館にあるべきであって、どうしても必要とあらば、金を払って借りればよい。贅沢品となれば、所有という考えは捨てるべきなのだ。

シンプル・ライフの考えは現代文明が我々にやってきたことを見直したことから生まれる。富が平等に配分されるか、物質的幸福とものの所有が我々に幸福をもたらしたかが、今や深刻に議論されているのだから、シンプルな生活への個人個人の態度は人類そのものを新たに定義し直すことになるかもしれないのだ。

初稿 1987年3月
改訂 1999年6月

Think for yourself > 小論集 > シンプルライフ

© Champong

inserted by FC2 system