信仰と組織

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定義の竹林

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人々が絶えず心理的肉体的脅威におびえている現代社会では、地上での救済が宗教によって行われている。未来学者やマルクス主義者の推測とは裏腹に、宗教も、そして迷信も、人々の日常生活に強力な地盤を築いている。日本で誕生したばかりの宗教団体の数は絶えず増加し、ストレスに満ちた社会を反映している。

バンコックの仏教寺院不安や心理的な苦痛を取り除いてくれるものを探し求めるとき、たいていの人々、特に教養に乏しい人の場合、啓蒙的な書物を読むとか、瞑想によって解決策を見いだすことはほとんどできない。たいていは自分たちの問題について客観的になることができないか、自分たちで答えを見つけようとすることができない。すぐに精神分析医のところに駆け込む悩めるアメリカ人と違い、むしろ占い師(特に町中での易者)や宗教団体の自称カウンセラーにアドバイスを求める。

新興宗教の週ごとの集会を訪れると、目の澄んだ、幸せそうな顔つきの人々が必ず見つかるだろう。彼らは破産、失業、離婚、交通事故、放蕩息子や娘、病気、家庭内の争いなど、ほとんど耐え難い現実の苦しみから救われたところなのだ。彼らは現実から救われたのではないにしても、いずれにせよ、自分のおかれていた心理的状態から救われたのである。彼らは自分たちの「教会」に規則正しく出席し、寄付を気前よく払い、指導者を完全に敬い受け入れる。

宗教組織の役割は宗教社会学の分野で大いに論議されてきた。そしてカリスマ的な指導者と平信徒たちの結びつきの重要さはいくら強調してもしすぎることはない。そんなわけで、たいていの宗教団体幹部は度肝を抜くような聖堂を建てたり、神々しいシンボルを作ったりして新来者を引きつけ、複雑に入り組んだ組織を見せびらかした。実際のところ、どんな有名な宗教団体も現代の企業にたとえられる。これは人事面での配置だけでなく、財政やさらに利益を生み出す経営の点においても似ているのだ。

このような巨大な官僚組織においては個々の信者は時には顧客のような扱いを受けることがあるかもしれないが、豪勢な儀式や面接、カウンセリング(時に完全な告白を伴うこともある)によって「懐疑的な者たち」が集団からさまよい出ないようにしている。自らの信仰を告白することをためらう者たちは集会や儀式に出席するように繰り返し勧められる。何度も繰り返される祈祷や説教は強力な洗脳作用を持っているかもしれない。

個々の信者の観点からすれば、この巨大なシステムは世界で最も心の和らぐ場所であり、魂に休息を与えてくれる避難所である。自分たちと同じ信仰を持つ人々と出会い、所属感を与えてくれる儀式に参加し、仲間意識の雰囲気の中で心温まる慰めの言葉をもらうのである。

カトリック教会はすぐれた組織を持つ宗教団体の中では典型的な例となるが、貧しい人々や惨めな人々の希望をよみがえらせる中心であった。その豪勢な聖堂は普通の人々のわずかな小銭を寄付やお布施の名目で奪ったのだと非難する人々もいる。これも部分的には正しいであろうが、まさにその壮大な建築物は「人民」のための寺院であって、キリストの生涯や他の聖なる出来事を建物そのもので表現したことによって、人々はそこを休息の場と感じ、厳しい現実を忘れ、そこに避難所を見いだすのである。

カトリックの聖堂やその巨大な組織が人々に安堵感を与えてくれるということは一見矛盾しているように見えるかもしれないが、その長い間にわたる歴史的文化的存在のおかげで今日の姿が生まれたのである。現代社会の激しい社会変化に突き動かされ、そのどちらかというと保守的な立場が非難されてはいるけれども、何とかして未来の人間社会への道を進んでいるのである。

モスクワの聖堂この巨大な組織は信仰の真の意味をぼやけさせるという主張する人々もいる。実のところ、無数の儀式や形式主義の中にかき消されて、イエスを信じるというのはどういうことなのかを見失っている信徒も少なくない。聖母マリア、聖なる父、そして多くの殉教者たちの聖人化などは、ある意味で人間と神との間の基本的な関係の障害になっている。堕胎や安楽死のような現代の難問についての法王が出す保守的なおふれのために一部の人々が信仰から離脱するようなことも起こっている。

巨大組織とは対照的に、宗教的態度のもう一方の極端は、「瞑想」をのみ重視する考え方を生み出した。禅宗、クェーカー教徒、さまざまな宗派の僧たちは澄み切った沈黙と孤独に照らして自らを見いだそうとしている。実際、偉大なる宗教的指導者の言葉は強烈な沈思黙考の生み出したものなのである。

ローマのサン・ピエトロ寺院宗教的生活の本質的な部分は瞑想にあり、社交的な日曜集会にあるのでないと言っても過言ではないだろう。そして信仰の表現は神の言葉を行動に移すことのみにあるのであって、儀式の規範を正確に守ることにあるのではない。たいていの人々は後者を好んでいるようだが、それは決まったとおりの形式化されて生活を送るほうが、現実に直面し自分の宗教的良心に基づいて問題を解決しようと努力するよりたやすいからだ。規則正しく教会に通う人は大部分、自己満足に堕し、すべての罪は許されたと自分で納得してしまう危険が常につきまとっている。

宗教的組織の歴史的形成は反宗教的集団と対抗する必要性から発展してきたものだ。組織のきちんとした教会ができあがっていたら、殉教と迫害は避けることができただろう。この教訓によって敵よりも大きな組織を作り上げるようになった。キリスト教の聖職位階制度が確立してから1000年以上たつ。

今やすべての真理は相対的なもので、あらゆる「生活信条」は平等に許されるべきだという考えが広まり、形式主義に堕した宗教はもはや現代人を引きつけることがない。そして中には葬式を行っているときだけ活気づくような宗教もある。それらは死んだも同然だ。

社会悪と戦い、自らの信仰に忠実であること、これが現代社会の中で生き延びる唯一の方法であり、そのためには宗教集団は単純化され、いわばゲリラ戦法に徹するべきだ。巨大組織の避けがたい欠点ー独裁、教条主義、官僚的形式主義ーはどうしても追放しなければならない。私たちが心から信じていることを実現させたいならば。

1987年4月初稿 2001年3月改訂

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