オレに法律はいらない

ー市民不服従と良心ー

Engllish

竹林

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もし誰かが法律なんかいらない、守る必要なんかない、といいだしたら、無法者だと呼ばれるだろうし、少なくとも風変わりな人間だとされるだろう。現代社会は規則や法律によって社会秩序がかろうじて保たれるようにできている。このことがあらゆる社会行動は少なくとも表面的には、書面に書かれた法規命令によって統制できるという考えを生み出している。

歴史的に言えば、アレキサンダー大王によるような帝国の芽生えは、刑法の形成が特徴とされる。初期の法律は巨大な帝国の全体の体制を秩序づける目的で制定された。民主的な体制の存在しないところでは、書面による支配者の意志の強制だけが国事を処理する最も効率的な方法だったのだ。

ヨーロッパにおいては、人々が気まぐれな領主の意のままになっていた中世が過ぎてやっと、絶対主義の衝撃が大陸をおおい、強力な政治的権力が諸国民の身近に感じられるようになった。

法の概念はこれらの絶対主義権力者たちの登場と共に広がった。彼らは自分たちが強制しなければならないと思ったことは項目化することによって最も効率的に支配できることを発見したのである。これらの支配者たちは別にしても、裁判制度と警察組織が法の無謬性を加速化した。

現代社会における人々は、法を日常の問題に対処する最も明確な基準と見なしている。工業生産中心以後の社会では、コンピューターの複雑なネットワークが個人や企業の行動をしっかりと見張っているが、この社会の極度な複雑さに加えて、コミュニティーの崩壊が法の必要性を増大させた。「ゲマインシャフト」に属していた人々は、もはや紛争が生じても効果的な仲裁者を見つけることができなくなってしまい、法の裁きに頼るようになってきたのだ。

法の持つ相対的な重要性によって、人々は日々のささいなできごとについても次第にその判断を法に求めるようになってきた。実際のところ交通事故から離婚に至るまで、生活のあらゆることが民法または刑法に照らして判断されなければならない。しかしかつての聖者が言っていたように、法に頼れば頼るほど、法や規則の体系はますます複雑化する一方なのである。

道路上に空き缶を投げ捨てることは環境を汚染する故に厳罰に処するべきか?シンガポールでは、リー・クァン・ユー首相の厳しい統治のもとで、公園にゴミを捨てたり、ペットの排泄物をほったらかしにした人々に目の飛び出るような罰金を科している。この厳罰主義により「ガーデン・シティ」は汚いゴミが全くないと言われている。少なくとも観光客の目にはそう見える。この港湾都市に住む人々は道徳的に鍛えられたといえるのだろうか?もしこの清教徒的な首相が引退しても、人々がものを捨てるのを気にするかどうかは疑わしい。

自由の女神ードラクロワ作法律が存在する限りそれを強制しようとする傾向は、社会のまともな成員としての基本的資質、つまり良心を人間から奪ってしまうようだ。元来法律は支配者の意志を反映するために作られたものであり、その後ジャン・ジャック・ルソーのような近代の思想家による追認のもとに強化されてきたものだから、立法者自身は人間性は悪であるという倫理観を心に抱いている。だとすると現代社会には強力な統制を課す以外に方法はないのだろうか?残念だがそれが現実なのだ。

情報を操作する技術の発展によって法を強制することはますます容易なものになってきている。その結果、法が優れた思想の所産であろうが悪意に満ちたものであろうが、すべての規則や命令を受け入れなければならないところまで来てしまっている。ここに危険が潜んでいる。

日本の小学校や中学校は、制服の指定はいうまでもなく、靴下のデザインや髪の毛の長さまで指定するこまごまとした校則で悪名高い。これらの息の詰まるような規則は、時に相互監視をやることも含めて、体制順応者や密告者を生み出し、ついには彼らから本当に必要なときに自分自身で判断を下す能力まで奪ってしまっている。

もし人間が自由という言葉の持つ真の意味での自由でありたいならば、法の影響下にあるべきではない。このことはヤクザや無法者のように振る舞えということではなく、まったく異なった法制度を作れということでもない。社会行動の唯一の基準は偉大な聖者たちの教えの中に見いだすことができるし、またそうでなければならない。それは教条的であったり、複雑であったり、人を罰するようなものであってはならない。真理を吸収しそれを良心の中に収めることができて初めて、自由な人間になる心の準備が整うのである。そういう人は法によって統制されるのではなく内なる声によって行動するのだといえよう。

それが法に従う必要がないという理由の一つだ。正しい考えに基づく判断を下している限りは。人類の歴史全体を通じて経験してきたように、法への盲目的な服従は壊滅的な結果をもたらすことが多かった。さまざまな市民的不服従にもかかわらず、大部分の人々は強い歴史の潮流に押し流されてきた。だがそれでも自分の信念に反する法の成立には監視を怠ってはいけないのは自明のことである。もしもそのような法が成立するとあらば、自分の意志とそのような法を生むに至った体制との間のへだたりを明らかにするために、直ちに行動をとらなければならない。

もしも法の掲げる理想と我々の良心が一致したらそれは結構なことだ。だが不幸にも一致しなかったならば、ためらわずにそれに反対し、その法を破ることすらしなければならない。人類の未来は、法の成立過程に対するたゆまぬ監視にかかっているのだ。

1987年5月初稿・2000年11月改訂

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