多様化するメディアに対処するには

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竹林

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21世紀が近づくにつれて、情報機器の開発の驚くべき速さに、特に40歳以上の人々にとっては絶望的なほど取り残された気持ちにさせてしまう。このような情報の渋滞現象にどう対処すべきなのか?これらの機器の操作に習熟すべきなのか?

まず第一に頭にとどめておかなければならないのは、生物として我々人間は長い進化の産物であり、これが意味するのは新しい知識を取り入れる個々人の能力はこの過去百万年の間不変のままであったということだ。情報処理能力についての人間の脳の能力は他の動物と比較すればもちろん格段に大きいが、人間社会の長い歴史では新しいことを学ぶ基本的な能力は殆ど変化していない。限られた数の天才たちを除けばどんなにがんばっても無理なのだ。てみじかに言えば、我々の能力は限られており、それによっては情報の量と質の急激な変化についてゆくことはできない。

紫陽花情報を摂取するもっとも目に付く方法はテレビとラジオだが、これらは生まれてから50年かそこらしかたっていない。自称「知的な」人々はラジオの出現を嘆いたものだった。これが読書のための貴重な時間を奪うのだというのである。また無線受信機の助けを借りた政治宣伝が自分たちの精神を洗脳するのではないかとも恐れた。だが、テレビは、はるかに侮りがたいメディアであり、ラジオが普及した直後に現れた。評論家の大宅壮一が言っていたように、テレビは国民を総白痴化すると主張する人々もいる。

だが人々の大多数は白黒の動く画像受像機を歓迎したのは、夜の時間に退屈していたからである。人間というものは生まれながらにして極端に怠惰であり、安楽と刺激を与えてくれるものをいつだって喜んで取り入れる。人々は長い間、日没後に何かおもしろいことを考えつかずに困っていた。何かやる価値のあることを思いつくには苦痛を感じるほどの精神的努力が必要なものなのである。テレビは夜間の大衆の生活をすっかり変えてしまった。スイッチをちょっとひねりソファの上に気持ちよく座っているだけで視覚世界が味わえるのだから。視覚的刺激は人間の脳にとってもっとも興奮を起こさせるのであるから、特に老人、失業者、主婦がテレビを見ることにすっかり没頭してしまったのはごく当然のことだといえる。

テレビの主たる欠点は視聴者に細切れの情報を提供することだ。それでも彼らの注意を何時間も引きつけておくのに十分なほど刺激的なのだ。実のところ、映画と違って外出し高価な入場券を買う必要がないから、街の映画館、劇場その他の娯楽が衰退してゆく。子供たちでさえ外に出てサッカーをするより家にいてテレビを見る方を好むのも驚くことではない。

キャベツ外出して入場券を買う必要がないという利便性そのものが人々の日常生活をくずしてしまっている。テレビは全体としての知識は与えてくれず、ただ刺激のみだといっても誇張ではないだろう。テレビはほとんど時間つぶしの機械なのだ。直ちに新しいニュースを送ってくれるときだけ、テレビの長所を感じ取ることができる。

だがそれもラジオによって置き換えることはできないか?視覚情報は期待したほどには役立たないものだ。テレビニュースでの半分以上がニュースキャスターのきまじめな顔を映している。彼らがテレビカメラを見つめているのは自分たちの声帯でニュースを発表する以外にほかにすることがないからだ。一方ではタクシーやトラックの運転手は最新のニュースはラジオだけに依存しているが、それで何も問題がない。

映画や演劇はかつての主要な役割を取り戻すべきだ。ひどい近眼を引き起こすかもしれない14インチの画面より、巨大でくっきりしたスクリーンのほうがはるかによい。もしもっと多くの人々がリビングルームを抜け出して繁華街の劇場に向かえば、入場券の価格は観客の増加によって引き下げられるかもしれないのだ。外出してみたらどうだろう。気分転換にもいい。

ビデオはこの状況を悪化させたようだ。人々が映画を見るのに高価な入場券を買うのがばかげていると思うのは、驚くほど値下げされた価格でビデオカセットを借りることができるからだ。どうやらすでに戻れないところまでわれわれは来てしまったらしい。つまり禁断の木の実を味わってしまったのである。それは家庭内で楽しめる娯楽の完備である。将来においては視覚的娯楽はますます分野が広がり、専門化され、個別に楽しむものになってゆくであろう。大道芸やその観客も姿を消すだろう。

もしテレビが単に刺激を与える機械だとすれば、ビデオゲームを備えたパソコンはチェスやトランプのような古くからのゲームのほとんどすべてを飲み込んでしまうだろう。新製品は習慣性があるだけでなく、いったんそのような機械を購入し始めると価格が下がってゆく。そのようなゲームにとりつかれた者の中には、ちょうどパチンコ愛好家の場合と同じように過激で絶え間ないボタン押しのために指が曲がってしまった者もいるという。

フランスは国民にテレテキストとキャプテンシステムを提供するのに成功したと言われている。これらはいついかなる時でも視覚情報を希望者に提供し、もし必要が有ればそれを印刷して出してもくれる。建物の内部の詳細な地図、駅への道順、天気予報などはとても有効だろうが、電話はこの高度なシステムによって置き換わるのだろうか?大部分の仕事のできるビジネスマンはそのような道具の助けを借りずに仕事をこなしている。電話で情報を求めたり、都市案内の雑誌を調べられるなら、それらは絶対に必要というほどではないのだ。わずかな値段でポケットサイズの時刻表を買えるのにどうして列車の時刻をを知るのに面倒なボタンを押さなければならないのか?これらのシステムはビジネスマンにとっては必ずしも不可欠ではないし、ましてや家庭には必要とは思えない。

今日一つ一つの情報の質が全体量の急激な増加と反比例してどんどん低下している。初期のテレビ番組制作者たちは熱心で、自分たちの住む社会に対して深い洞察力を持っていた。そのころは混乱した戦争直後の社会であった。その理由はほとんどすべてのプロデューサーが映画産業出身であったからだ。60年代の文化革命の大波から影響を受けていたことは別にしても。少なくともそのある者は芸術志向であり、広告業者の意向にそれほど強く影響されてはいなかった。

今日では視聴率が放送内容を決定し、最終決定権はスポンサーの手に握られている。控えめに言っても10の番組中、1つも見る価値がない、と苦情を述べる者もいる。テレビ番組制作は映画製作とははっきり違う。本格的に物事を見通す目はほとんど失われ、気まぐれな大衆が喜ぶような浅薄な娯楽だけが大急ぎで作られ繁栄している。貴重な時間をどうしてそのようなつまらない時間つぶしに費やすことができようか?

花壇もし代わりになる娯楽が見つかれば、視覚的な機械をなくすことができるのは明かであるが、そんなことが起こりそうもない。十分な量の情報が聴覚的機械、つまりラジオや電話から得られはする。複雑で刺激過多のシステム、つまり視覚的な機器類は目を使った継続的で神経を疲れさせる集中と貴重な時間を人間から要求する。コミュニケーションネットワークの驚くべき発展は必ずしも我々の生活に革命的変化を起こしたわけではない。むしろ良くない影響を及ぼしている。

ケーブルテレビのシステムは、アメリカでは急激にのびている産業だが、日本では厳しい政府の規制もあってそれほど顕著な伸びを示していない。でも番組づくりやアート関係にうるさい視聴者には新しい楽しみを与えてくれるかもしれない。いずれにせよ全国的なテレビのネットワークはほとんど見る価値もないありきたりの会話を提供するだけで、特定の好みを持っている人々の期待とは裏腹に、一般的な話題に基づくトークショーに過ぎない。テレビはまるで何も文化的刺激を与えてくれないと言う人もいる。

一方で書物は視聴覚機器の驚嘆すべき発達のせいで近い将来にはすたれてしまうのだろうか?決してそんなことはない。グーテンベルクのおかげで印刷術が発明されたから、書物は比類なき、非の打ち所のない地位を確立している。複雑なコンピュータがどんなに洗練されようとも、印刷された紙が有用な知識を伝えるにはも考えられる限り最高の手段であることは否定できまい。

まず第一に書き言葉は煮詰めた表現の長い歴史を持っている。無数のコラムニスト、随筆家、小説家が言葉を微妙に組み合わせるもっとも効果的な方法を作り出そうとしてきた。その結果は驚くべきものだ。たとえテレビやラジオが最新のニュースを知らせるが素早くても、具体性や論理的構成においては次点に甘んじなければならない。

第二に、何かを読んでいるとき精神集中の継続時間や程度、テーマの種類、いろいろなテーマのうちの選択を自由にできる。これに対してラジオやテレビの場合はこの点で非常に大きな制限がある。それらは番組づくりの段階であらかじめ決定されており、視聴者にできることといえば、すでに作り出されたものを受け入れるだけだ。視聴している間にいったん眠ったりしてしまえば、録画や録音をしない限り、話の筋をもはや追うことはできなくなっている。

個人の持つ傾向や能力の違いは番組づくりには考慮されない。だからテレビのディレクターとプロデューサーは無数のこれといって特色のないバラエティショーを作らざるを得なくなる。

第三に、広告主や政府の規制に踊らされている。ごく少数の放送局だけがかろうじて独立を保っていられるが、それらでさえ財政的な危機にはもろい。もちろん本や新聞はそれらの要素の影響を強く受けているが、その程度は比較すれば小さいし、圧制的な政府を持つ国々の場合、時には地下に潜ることによってより大きな役割を果たすこともある。隠れた努力のおかげで多くの傑作が生き延びた。レイ・ブラッドベリーの「華氏451度」では、ほとんどすべての人々が読書をしたり印刷物を所有することが禁じられた未来世界を生き生きと描いている。

第4に、印刷物が簡単に手に入り、持ち運びやすい点についてはこれに勝るものはない。スクリーンも電池も優秀な集積回路も必要ない。ただ一冊の本を持ち歩けばいいのであってそれ以外何もいらない。好きなところで読み始め、読むのをやめることができる。ある部分が理解できなければ、そこを何度も何度も読み返せばよい。もしあるくだりがどうしても頭を離れなければ、そのページをめくって心ゆくまで研究するがよい。これ以上単純なことがあろうか。人間の思考の論理的流れを吸収するとなれば、誰にとっても書物が考えられる限り最高の方法である。

桔梗もし思考というものが重要だという結論が出たとすれば、精神的な遺産の万巻の書をひもとかずにいられないだろう。テレビは断片的な情報を伝えるだけの道具に過ぎない。このようなわけでテレビの視聴者を組織化することはきわめて困難である。ましてや、例えば政治運動の重要性を自覚させるなどということはとうてい無理である。テレビやラジオは人々に自分で考えることを奨励したりはしない。ましてや自らの信念を形作ることなどとは全く縁がない。

漫画本以外は読書をする習慣を持たない若者が増えていることは(漫画でさえテレビに取って代わられているという!)最終的には、社会全体を、政治的文化的社会的に未成熟な状態に引き戻してしまうかもしれない。この傾向はテレビの支配によって加速され、未来に暗い影を投げかけている。感覚的で目を引くメディアによって人々は生活のあらゆる面で、正しい判断ができなくなっている。民主的な思考方法や個人主義の伝統は、視覚的なマスメディアを前にして衰えてゆくかもしれない。バランスのとれた国民的性格を発達させるには絶えざる訓練が不可欠だからだ。首相が記者会見に現れるやいなや、日本製のカメラを抱えた大変な数の、言われたことしか書けない記者たちの分厚い壁ができ、首相の姿が見えなくなってしまうような国では、最も有能な政治的指導者を選ぶことはほとんど不可能に近い。

こうやってみると、書き言葉の優位性は当分の間不動だが、エレトロニクス時代の即興的な性質は、侮りがたい勢いで、書き言葉に基づいた思考の構造を脅かしている。ある記者がかつて言っていたように、独裁者はテレビを好み、新聞を憎む。

初稿1987年6月・改訂2000年7月

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