21世紀

ー成熟社会へのアプローチー

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竹林

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あとわずかで21世紀を迎えるとき、我々の心によぎるものは、かつて人類が全く経験したことのない未知の世界に足を踏み入れようとしている事実である。そしてこれからの世界を考えて行くとき、世界の様々な思想家が我々自身について述べた考えが次々に思い浮かんでくるはずである。

20世紀後半のもっとも特徴的なことと言えば、あらゆる分野での加速度的変化と世界的規模での画一化であろう。かつての西欧文明という視点からコンピュータ主導の能率的な人間活動の追求が目指され、そこから我々が気づかないうちに、広大な管理社会が作られていることに気づく。社会学的見地からすると、人間個人の立場は、かつての伝統社会から解放されたのも束の間、今度はテクノロジーによるがんじがらめの網の目に絡みとられたという見方が強まってきている。

しかし非人間的な状況が増すという悲観論に対して、一方では人間の持つ無限の適応性を信じ、人々のライフスタイルの多様化とともに、21世紀を生きるための新しい人生観ともいえるものの芽生えも至る所に感じ取ることもできるのである。確かに人間の持つ生物学的限界は変更のしようもないが、数百万年前に二本足で立つようになった我々の祖先が備えていた柔軟な思考態度と計り知れない学習能力は、将来に明るい未来をかいま見せてくれないこともない。

これから人類の明暗両面を考えるとき、従来のような地域的時間的伝統的な制約のもとでの歴史観から脱皮して、新たに個人と社会、そして国際関係という考えられる限り広い視野から眺めてゆかなければならない。本論では、この2つの視野から、次の人類社会の様相を考察する。

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人間個人に対する考察は19世紀にさかのぼって、心理学の発展にたどることができる。文学作品にもそれに劣らず、それどころかまじめな科学的研究を遙かにしのぐ、人間に対する直感的な洞察を示した作家たちも少なくない。ところが今世紀に入っての急速な物質的繁栄は、この不可解な動物に対する研究を一層袋小路に追い込んでしまったように見える。確かに人間性は一昼夜で変化するものでもないし、金品地位名誉は依然として世俗的人間の変わらざるテーマである。しかし今世紀後半からいよいよ本格的となった物質的飽和状態は、個々に新たな問題を付け加えることとなった。

庭の花7月 人がひたすら物質的幸福を追い求め、それが本当に実現した場合、その人にどんな心理的変化が起こるか。一般に「モノからの卒業」と呼ばれているものである。好景気に沸く1999年のアメリカ人の大部分は、消費に酔いしれ、まだ卒業できていないようであるが。実はその卒業現象は1960年代に一時見られたのである。勤勉の結果、裕福になった両親に嫌気がさして、アメリカをはじめとする先進国では、多くの少年少女が家出をして、ヒッピー的生活の中にそれまでの倦怠退屈無力感からの解放を求めようとした。しかしその結果に対する好意的な評価は今のところほとんどでていない。しかもその少年少女たちも今はアメリカ経済の現役の牽引役である。大部分にとって、一時的な青春の迷いにすぎなかったのだ。

それ以前の戦後好景気によった物質万能主義に対する反省と人種や性に対する差別に関してかなりの前進が見られたものの、人間の将来に対する新しい生き方については特筆すべきことも現れないまま、40年が過ぎ、世紀末を迎えようとしている。それどころか、レーガノミックス、サッチャー革命、アジアの経済的勃興に見られるような、新しい物質万能主義が途上国のみならず、再び世界の「恵まれた国」々を中心に席巻しようとしている。その中心にいる人々は、アメリカではヤッピーと呼ばれるような新種のブルジョア階層を形成せんとしている。60年代の混乱に身を置いた、特に理想主義的な人々は当時、それから2,30年後にこのような状況になるとは夢にも思わなかったに違いない。

現在と40年前とを比べると、もっとも大きな違いを示しているのはなんと言っても「理想的」風潮の欠如である。それは宗教、政治思想あらゆる面にわたって保守化の波に洗われていることでわかるし、何らかの革新運動の先頭に立つべき若者自体が、社会の機動力の中で、相対的に大きく後退している。変わって台頭しているのは老人政治である。このような状況が一過的なのかそうでないのかは21世紀を見渡す際には非常に重要な要素である。まず第一にいえることは、先の60年代の混乱が人間の「モノからの卒業」にはほとんど貢献しなかったという事実であり、そこから出発すると我々の未来は飽和とそれに対する揺り戻しというパターンの繰り返しだということになる。

人類の誕生から19世紀までは人類にはいわゆるフロンティアというものが常に存在したので、物質万能主義の考えは他の無数の問題によって常に拡散されていた。しかしフロンティアの消えゆく今、我我は社会全体として人間の持つ欲望の問題と直面せねばならない。この問題の典型的なものとして余暇が引き起こしている文明国人の実態がある。夏休みに都会から何百キロという車の渋滞をかいくぐってリゾート地に到着した人々は何をしているか。「どうやって海辺の一日を過ごしているのですか」とリポーターが問えば、「いや午前中は日焼けをして、昼は近くのレストランで食事をして、その後ちょっと散歩をしてから昼寝をします。それから夕食まではそう、何もしませんね」。フロンティアのない社会では、このような人々が昔は王侯貴族に限られていたものが、ごく普通の一般の人々の間にどんどん広まってゆく。昔の貴族は金にあかせて豪華なことや猟奇的なこともしていたものだが、今の中産階級ではそれほどの財産も好奇心もない。その反面、広告業界をはじめとする欲望刺激のための装置は日に日にその活動に巧妙さを加える一方である。

庭の花7月フロンティアのない世界での目標達成の手がかりは、付加価値商品である高級車や豪邸に求めることができる。人々は余裕ができると争ってそれらの商品を買おうとしている。カローラからメルセデス・ベンツに取り替えたところで、人間性の発展にはほとんど求めることはできないはずなのに、そして歴史や自分自身の経験からすでに学んでいるはずなのに、そのようなことに人生を費やすのは、これがいわゆる、「成熟社会」の前触れだからだろうか。成熟が物質文明の爛熟を指すのであるとすれば、歴史をひもといてみればいくらでもその例を挙げることができる。ただ、過去と違うことは現代人がその繁栄を科学技術という、今までの積み重ねのおかげを被っており、ちょうど莫大な遺産が転げ込んできた跡継ぎみたいなもので、それによって受ける生活意欲の喪失の危険性の方が遙かに大きい。

今でも東南アジアを旅行すると大都市には露天商や大道商人の姿が目に付く。これは観光客を喜ばせるものであると同時に、その国のハングリー精神やバイタリティーを示すものでもある。たとえ今日は香港の場末に陣取るしかない、しがない一杯そば屋であるにしても、「青年よ、大志を抱け」。明日は香港一のタイクーン(大君)になっているかもしれない。発展途上の国々には、まだフロンティアがたくさん残されているから、そのような夢を抱くことが可能である。

日本は発展があるポイントを過ぎ、流動性がかなり失われて、受験戦争で勝ち抜く以外には大きな夢を抱くことが困難になった。「私は小さな町工場で電気器具を工夫し、最後には日本で一番の電機メーカーを作って見せます」と、作文に書いて出せば、今の学校では先生からも仲間からも、子供っぽいとして一笑に付されるであろう。いや下手をするといじめられるかもしれない。このような閉塞的な状況は、かなり経済的発展を遂げた国々には共通してみられる。確かに法律的には経済の自由や言論の自由とうたってあるけれども、自由になっても、実際に自由に振る舞う場がないのだ。

以上なことを閉塞的状況と呼ぶなら、日本もヨーロッパもたいていの国々もその状態にまっしぐらに向かっていると言えよう。このようなときに産業革命以来の経済における繁栄を図る尺度だけで人間の進歩を推し量っていいものだろうか。今のところ万人を納得させるものとしてはそれしか存在しないし、つい最近まで GNP 信仰が幅を利かせていたばかりなのだ。確かに今までは経済的尺度を測るだけで一国の状態を示せるほど社会構造は単純であったといえる。しかし現代社会は多変数解析を要求する。その中でも特に我々自身が生み出した科学技術そのものが人類の滅亡の先鋒に立っていることは周知の通りだ。

最も有名な例に、エネルギーの問題がある。原子力で莫大なエネルギーは欲しい。さりとて放射能が怖いが、だからといって石油や石炭に頼ることは地球の温室効果を生みだし、世界全体の温暖化や異常気象を引き起こす。我々はいずれどれかの道を選択しなければならないであろうが、どのみちも災厄の可能性をはらんでいる。その点は我々は袋小路にあるし、そこから脱出するためには今までの人類の英知では到底まかないきれないような、全く新しい方向転換を迫られているのかもしれない。いずれにせよエデンの園から追放された人類はこの地に新たなエデンの園を築き上げる夢は持っていたようだが、ある見方からすればこの地球こそ、もともとエデンの園であって、それを自ら我々は破壊してしまおうとしているのではないだろうか。

桔梗7月ソクラテス、キリスト、釈迦、マホメット、そして幾多の思想家、哲学者たちの英知から生み出されたさまざまな「人間いかに生きるべきか」という人間一人一人に課せられた問題は21世紀を迎えてどのような形をとるようになるのだろうか。すでに述べたように人間性は変化せず、急速な物質的繁栄だけが大海の荒波のように個人に向かって打ちつけている。だからここに暗いエピソードを挙げなければならない。エスキモー、ニューギニア原住民の運命が文明の荒波を受けてどう変化したかを考えてみるとよい。古代から延々と続いた狩猟または農耕生活は一瞬にして破壊され、人々は全体的な統一を失い、失業、倦怠、そしてそもそも生きる意味をも失っている。

そのような先史時代からの生き残りだけでなく、工場や原子力発電所を作るための用地買収にまつわる巨額な札束の舞う中で人間性が破壊され、子が親の財産を狙い、親戚同士が遺産を狙ってハイエナのごとく(ハイエナに失礼か?)つきまとう。このように素朴な人間性、文明による害に対する免疫のできていない人々には物質的生活の持つ魔力に対して全く無防備である。このため、何万年と継続することのできた原始民族も、瞬く間に滅亡の道をたどることになる。冷蔵庫やテレビと引き替えに。

では、我々のようにはじめから文明の中にどっぷり浸かって暮らしている人間はどうなのか。そのような強大な力に対して対抗する力を持っているといえるのか。残念ながらそのようなことを保証するようなことは何一つない。先に述べたエスキモーのような状態は大なり小なり現れているし、その最も顕著な例は麻薬ないしは覚醒剤の乱用である。今のところ大部分の国々では、法律と国家権力によって、何とかそれを抑えておくことができるが、少しでも監督の手をゆるめれば、たちどころに蔓延するのではないか。その理由は何だろう。文明の何が人々を狂わせるのか、その原因を少し探ってみたい。

1988年12月作成
1999年5月改訂

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