カルトと宗教

どうやって見分けるのか?

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竹林

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第1部

現代は大変な時代である。すでに19世紀末から予想されたとおり、今までののんびりした人類の生活が一変して急激な変化の時代の中に投げ込まれたたため、疎外、搾取、独裁、物質主義の荒波が一度に押し寄せる世の中になってしまった。

人々は今の時代が、100年前からとぎれなく連続して続いているように思っているようだが、実はそうではなく、もうわれわれはわずか10年どころか5年前からもすっかり断絶されているのである。

大木そのことは年若い人と会話を持ってみればよい。いかに価値が断ち切れ、知識の体系もすっかり異なったものになっているかを思い知るだけだろう。「常識」とは自分とその親しい同世代でしか通用しない代物に落ちぶれているのだ。

ただ人々はそのような状況を徹底的に調べる意欲を失っているし、もともと怠慢だから自分の作り上げた価値体系の中にどっぷり浸かって安穏としている人が多い。

だから、仕事や勉強、集団生活がうまくいかなくなった場合、自分の置かれている深淵をかいま見る羽目になり、もとからそのようなことに敏感な人々は自分の頼れる価値を求めて探し回ることになる。

それは「自分探し」ともいえるが、そのような軽い方法では自分の不安が満たされない場合、絶対者を求めて、あるいは現世の御利益を求めて宗教的なものを見つけようとする。

ここで今後の先行きに最も暗い影を落としているのは、人々の中に蔓延している「冷笑的態度」、つまりシニシズムであろう。「宗教なんかにのめり込む奴は異常なんだ、弱いんだ、現実の世界に適応できないんだ」と馬鹿にする態度である。この態度をとることによって自分はこの競争社会では強者であり、正常であり、正しい生き方をしていると自分に納得させることができる。

だが、そのような態度は近親者や友人の死、地震のような災害、そして不況のもとでの解雇、失業、地位の低下などによって粉々に砕け散ってしまう種類のものであることが多い。

だが人々の中には直感的に宗教というものが、何十世紀にもわたって人々を救済してきたことを知っていて、まじめに正直にその中にある真理を探し求めようとする者も多いのだ。その現れは新興宗教の増加において伺い知ることができる。

しかし宗教のイメージが悪くなったのは、今に始まったことではない。キリスト教の宗教改革の発端となったあの悪名高い「免罪符」に見られるように、宗教が権力と結びつき、現世の救済に走るようになって無垢な人々を裏切った例は数え切れないのである。

村上春樹氏の「約束された場所で」という本で、彼のオウム真理教信者とのインタビューで浮かび上がった姿は実に多くのことを教えてくれた。殺人を平気で犯した幹部の連中とは裏腹に、「平信徒」の中には人生をまじめに考え、オウムの教えを自分の行く先の指針にしようとしていた、特に若者が多かったという事実だ。

識者たちは、「社会経験もない若者を引っ張り込んで・・・」などと傲慢にも知ったかぶりをするが、お金や地位や名声だけを追い求めている人生ならば、宗教なんて全く必要ない。でもそれらに縁のない人であれば、「欲のかたまり」「俗物」として生きること以外の道を探し求めて当然である。

正にこの態度は、現代の多くの人々の持つシニシズムとは正反対である。真理を求めたいという人々は,キリストが言った「狭き門」でもわかるとおり、実に少数なのであるが、必ずいつの時代にも存在し、その中でか細い光をともし続けてきた。

死海文書ただ、あまりにもか細く、人間として弱い者が多いために、その弱さに目を付けて利益をむさぼろうとする者たちの餌食になり続けてきたのもの事実なのだ。すなわち宗教の名を隠れ蓑にして、現世の欲をむき出しにした「営業活動」や「政治活動」の横行である。

一体「宗教性」とは何か。このことについてはっきりした結論を出せる人は少ないであろう。というより、ここで極端な立場を出せば、間違いなくまわりからたたかれるからだ。中世であれば下手すれば異端として火あぶりにされるのが落ちなのである。しかも宗教者と自称している人が、「宗教性」について語るのがうしろめたいほど、宗教からかけ離れている人が多すぎる。

宗教性とは笠原芳光氏の著作である「逆説のイエス」の言い方を借りると、今すべての現世の人々が望んでいることとは、全く逆の方向を行く生き方である。敵をやっつけたい人はやめる、金をためたい人は全部捨てる、人の上に立ちたい人は直ちにやめる・・・誰でも聞いたら目をむくような「極端」な生き方こそ、宗教の神髄である。神の存在や天地創造の問題は1義的なものではないのだ。

だから、イエスの「山上の垂訓」やブッダの教えこそが宗教的なものといえるわけだが、それを実行、いや同意している人であっても、いかにその数が少ないかがわかる。人々はわかったように言う。「それは大変立派な教えだが・・・」彼らの真意はこの「だが・・・」のあとにこめられている。

なるほど、キリストが「金持ちが天国にはいるのはらくだが針の穴を通るより難しい」と言ったのは、少しも誇張ではなかったのだ。だから世界中に聖書を読む人は何十億もいても、そしてこの一節を読んでいても、みんな読んだふりをしているだけで、その真意を全く無視していることがよくわかる。

だから世を捨ててさまようヨガの行者や、修行をする禅宗の僧侶、一生の間修道院にいる人々に一種の尊敬の眼差しが注がれるのは、少しでも逆説的に生きようとしている行動のせいかもしれない。だがその人々でも、真理を忘れ、自己満足に陥っているおそれは大いにある。

人間社会ではそもそもイエスやブッダの言葉を実行できるはずがないことは明白なのであるが、最も腹立たしいことはそれがまるでできるかのように振る舞ったり、他の人に勧めたり押しつけたりする人々が多いことだ。

まず第一に創始者の考えは、それが始まって10年も立たないうちにゆがめられ、最初のオリジナルな考えとは似ても似つかないものに変わってしまったことがあげられる。それは伝統的な大宗教であるほど甚だしい。一般の信者はそういうことにはほとんど頓着していないようだが。

イエスがはじめに説いた思想は、その後パウロによって完全に西欧化され、ゾロアスター教のような天国地獄思想を取り入れ、ギリシャ人らの好みに合うように教条を変え、ローマ帝国が国教として制定するに及び、全く新しい宗教として生まれ変わったといっていい。

タイの寺院たとえば、イエスは「異邦人のようにくどくど祈るな」と言ったにもかかわらずそれは完全に無視され、お祈りは毎日の「おつとめ」となっているのがいい例だろう。りっぱな祈祷集などというものも作られている。ロザリオは同じ祈りを繰り返すとき、その回数を正確に記録しておくための数珠だ。

またキリスト教の最大のポイントである、イエスの復活についても、それが不可欠の要素となり、これなしにはこの宗教は存在できないほどになった。もし信者たちの言うようにイエスの復活が歴史的事実だとすると、その場で目撃できた人たちと、我々のように居合わせることのできなかった人々との間には信仰の上で大きな不公平が生じる。

プロテスタントの多くの宗派では、この復活を信じれば救われる、と主張しているが、あまりに信仰のみに重きを置いているため、その危うさが常につきまとう。「たとえイエスが復活しなかったとしても、私はイエス(の教え)を信じる」というわけにはいかないのだろうか?それでは信仰は成立しないのだろうか?

たとえば遠藤周作氏の「沈黙」では日本にやってきたヨーロッパの宣教師たちが大変な苦難をなめて布教活動に従事し、最後に殉教するのも、イエスキリストのためなのである。だから復活が事実でないとすると、彼らの努力は全くむなしいものとなる。その危うさは本人たちも十分わかっているだろうが、もっと意志の弱い普通の信徒の場合、キリストを捨てる道を選んでしまった場合、後に来る人生の何と恐るべきものだろう。

このように信仰のみに宗教の中心を置く考えは、世界中の宗教に見られる。「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば、極楽浄土に行けると説いたのは、法然、親鸞、一遍らであったが、このような単純な考えは民衆に受けいれられやすい。布教の強力な原動力とはなる。だが、もしだまされて幸せになったのだとしたら・・・それは門外漢の余計な心配さ、と笑われることだろうが。

もちろん、裁判ではないのだからこのような考えは無意味であろう。人々が宗教から安心と心の平安を得られれば、それで目的は達せられたのかもしれない。戦乱と貧困の満ちあふれる中では、このような教えは確かに人々の気持ちを引き立たせるのに役に立った。それに先に述べた宣教師たちも、その行いこそ尊いのだと言い切ってしまえば、それで万事いいのかもしれない。

ただ、それは宗教としての次元は低すぎるし安易すぎる。いくら教祖が緻密な理論を考え出し、万人が救われても、人間がこの世を認識して生きている以上、もっと自分自身や、自分が中で生きている広大無辺な世界を捉えることができてもいいのではないか。たとえそれができる人間が少ないとしても。

不思議なことに、キリスト、ブッダ、ソクラテス、その他の大思想家の唱えた思想には類似点がある。それはすでに述べた逆説的な生き方であるが、また直感的なものでもあって、なぜこれほど似てくるのかそれはやはり真理というものが一つしかないためではないだろうか。

人間がサルから進化して以来、その社会生活や精神生活が非常に高度になったため、サル以来の「欲」だけの生き方では、不十分になってきたのは確かだ。それまでの動物的な低次元の生き方では、今後の人類の永続的な生活は無理だからこそ、思想家や宗教家たちはそれに代わるものを探し求めてきたのかもしれない。

だから宗教の発生を人類の進化の一つのステップとして捉える人すらいる。それまでの本能にのみ頼る生活方法では、知的に発達した文化とは相容れなくなってしまったので、状況に適応した、新しい生き方が生まれたというのだ。

もしそうだとすると、現代の宗教組織は皆、その努力を置いてきぼりにして、全く別の方向にのみ関心を持っているような場合が少なくない。宗教組織の中にいるごく少数の人間は別として、他の大多数は今まで通り何も変わりなく日常生活を営み、俗世間との少々の矛盾には目をつぶっているのが現状であろう。つまり何の進化も起こっていないのだ。

だから宗教組織の幹部は、自分たちの勢力を保つためのさまざまな努力に忙殺されることになる。それは蓄財であり、地位の向上であり、組織の確立である。残念ながらそれによって現代における宗教へのシニシズムを強め、ますます宗教から遠ざけていると言ってよい。

聖典にしても、お経や聖書はその中に創始者の言葉が入ってはいるが、後からつけ加えられた部分によってそれは埋もれてしまい、あるいは別の観点から強引な解釈を受けるような状態に陥ってしまっている。だからその中に含まれている純粋な創始者のメッセージをくみ取るのは至難の業だ。

宗教は人々の歓心を買うために、様々な形で変身を行ってきた。そもそも天国と地獄の観念は宗教にとって必要なことなのだろうか。「悪いことをすると罰が当たるよ」「うそを付くと地獄の火で焼かれるぞ」とは日常生活における懲罰の警告とは何も変わりはないではないか。

また、昔から言われていることだが、「今苦しくとも、天国、または極楽へ行ける」という教えは、この世で生きることを粗末にする口実にされてきた。戦争で命を捧げるなど、消極的な自殺を奨励したとしか思えない場合も多かったのだ。

「めざしの頭も信心から」というが、奇跡や魔法を宗教の原動力にするのは、宗教を冒涜する以外の何ものでもない。また奇跡を見ることによって信じるとしたらそれは信仰とは言い難い。「百聞は一見にしかず」と言うとおり、誰でもこの目で見れば、多くを納得するのであるから、病気を治してもらったことで感謝するのはいいとしても、それでもって信じるようになるというのは、やはり本当の宗教性がわかっていないことの現れであろう。

最も甚だしいのは現世の御利益である。これは日本の宗教では著しく大きな位置を占めているが、お祈りをすれば、金が儲かり、交通事故から免れることができ、よい子孫に恵まれる、というのは原因が結果に強引に直結している例であって、一生懸命働けば金が儲かる、というのと何ら変わりはない。ここでは宗教が、迷信と完全に混同されている。しかもこのような場合に、その宗教の幹部がとがめるどころか、さらに後押しをしようとするのが多いから始末が悪い。

世界の宗教で、互いに憎みあえ、と教えているところはない。親兄弟を殺せとか、恩は仇で返せと教えているところもない。当たり前である。つまり「愛し合う」というのはそれが隣人同士であるならば、別に宗教の独壇場でも何でもないのだ。むしろ現代では無宗教である「ヒューマニズム」のほうが平和にとっての実績があるくらいである。「敵」を愛するなら話は別であろうが。道徳は宗教と分離しても十分に育つことがある。

人々は今とても辛い暮らしを送っているとき、「この世の終わりだ」と思い、自殺したくなったり、何もかも捨てたくなる。このようなときに拍手喝采を持って迎えられるのが、「終末思想」である。これほど強力な魅力を持つ教義は存在しない。これによって人々は死んでもいいと思うし、(どうせ世界が終わるのなら同じだからか)行動が大胆になり、一切の考慮はなく、この世が終わるなら何をしても正当化するという考えがまかり通るようになる。

宗教団体の結束力はたいていこの終末思想によって強められている。各地で起こるカルトの集団自殺はその極端な現れである。終末というのは自分の死以外にあり得ないのだが、普段からくすぶる社会への不満、ひどい目にあった体験、これですべてが救われるという教祖の甘い言葉が、信者に決定的な変化を引き起こす。

宗教は組織である。それ故に堕落するわけであるが、その最大の原因は「カリスマ」である。カリスマはもう歴史が証言しているように何度となくそれによって愚行が繰り返されながら、また同じ状況が異なる環境で発生してきた。今日も世界のどこかで人類はこりもせず、だれかを崇拝し続けている。

カリスマによっていったん組織が強固にうち立てられると、今度はその人物がいなくとも勝手にその重みで動きが止まらなくなる。つまり「官僚組織」の誕生である。これによって人々は内省など全くしないで、組織にいる限り、同じ定められたことを繰り返し、逸脱しない限りは安穏としていられるのである。

もし信者たちの数が増えるなら、様々な形での献金が寄せられ、宗教団体は金銭的に豊かになるが、それはもはや宗教集団としての死を迎えたのと同じである。そこから先は政治集団または営利集団となるであろう。ここまで来ると宗教性などというものは完全に姿を消し、単なる連帯感の残骸となる。

このように真の宗教性が様々な形でゆがめられ、本来の姿を見失った集団はもはや宗教団体とは呼ばず、カルトというべきだ。だが、この世の中には、カルトと呼ばれたら憤懣やるかたないのだが、実質的にはカルト以外のなにものでもない集団がほとんどであろう。そのような状況では、一般の人々のシニシズムもいちがいに責めることはできないであろう。

また、魔法、呪術、奇跡の段階から、宗教が「進化」してきたと考えるのもおかしい。前者の三つと宗教は全く別物のはずである。昔の原始人の洞窟にある壁画は、豊作や多産を願って描かれたものだが、これは単なる「他力本願」であって、神や仏を絶対者と見なしてその力を頼りにするだけのものである。自分という視点が全く欠けている。これでは現世の強力な支配者や政治家を頼りにするのと本質的な違いはない。

宗教は何人かの知恵者、直感の鋭い者たちによって「偶然に」発見されたものであって、自分の生き方そのものなのだ。ただそれが精神の最も奥深いところに関わるために、カルトと混同、混合されてしまう運命にあるのだ。

複雑化する現代社会が、行き詰まり、宗教をはじめとしてさまざまな人類の知恵を求めているときなのに、宗教の側がその問いに少しも答えていないのは悲劇であるが、すでに述べたようにいかなる時代にもごく少数しか「わかっている」人は存在しないのである。

第2部

第1部では宗教組織の目的について問題点を挙げてきたが、だからといってこの世界に悪だけをまき散らしてきたわけではない。どんなにカルト的な宗教であれ、それが「信者個人」に対してどんなに大きな力を与えているかを述べなければ、この話は偏ったものになるであろう。

ロシアの教会というのは、受け入れ側である教団には常に世俗的な欲と腐敗が伴っているのだが、信仰を求める個人は何らかの苦悩を抱えている人が多く、その解決の一つとして宗教を選んだからだ。もしその苦悩がいやされる可能性がないならば、どうして教会や寺院の門をたたいたりしようか?

また、道ばたのお地蔵さんに、箕笠や花や供え物がしてあるのを見かけることがある。これが、迷信だとか、といって馬鹿にするのは間違っている。お地蔵さんが腹を空かせたり、雨に濡れたりしてはかわいそうだという気持ちを持った人間の心情があらわれているではないか。暴利をむさぼる宗教団体の首領とは全く別世界の人間だ。

新興宗教は、その点世界中で、多くの都市生活者の心の渇きをいやすもとになっている。伝統的な宗教と違ってその規模が小さく、多くはその教祖かその直属の幹部と直接触れることができるのが最も大きな理由であろう。また、大きく発展を遂げるような団体は、その教祖のカウンセラー的な性格が悩める人々の必要を満たしてくれるのである。

宗教はそのような人々に「約束」をしてくれる。それが天国であろうと極楽であろうと、実際に死んでみないとそこへ行けるかわからない以上、どんな約束でも可能である。懐疑的な人ならまず近づかない。

ただ、人はわずかな可能性や希望の光だけでも、それにすがって生きていけるほどせっぱ詰まった状況にある場合もあって、その時まさに目の前で提示される約束に、安堵感を覚え、つかの間の安息を得ることができる。

しかし多くの場合それで終わり、実際の問題の解決には何もなっていない場合が多い。人々は苦しみを忘れ、一時的な幸福に浸れるが、だからといって急に病気が治ったり、死人が生き返ったりするわけではないからだ。再び不幸のどん底に落ちてしまう場合もある。

マルクスが「宗教は人々の阿片だ」と述べたのはこの点にある。ここまでの考察の範囲内では彼の言っていることはまさに正しい。実際、そのもたらしてくれる「一時的」な幸福は、そのお布施の金額で十分にはかることができる。

だがすでに述べたように、このマルクスの言葉では、正しくは「宗教」を「カルト」と置き換えねばなるまい。なぜなら、優れた宗教者はその点を超えて、人々に生きる力を与え、場合によっては現世における真の解決をもたらす力さえ与えてくれる場合があるからだ。

もちろんそのような人々は数えるほど少なく、たいていは組織の中に埋もれてしまっているものだが、それによって真に宗教的な意味で救済された人は数限りなくいたと言ってよい。

ビクトル・ユーゴーの「レミゼラブル」に出てくる主人公ジャン・バルジャンを救った神父こそ、その好例ではないだろうか。彼はジャンが盗んだ銀の燭台をジャンに与えるが、そこには真の人間性を表しつつ、宗教の腐敗や傲慢とは全く無縁の世界がある。

このできごとによってジャンは自分という人間を変え、その後の人生の進む道を自分で造る力を獲得したのである。宗教はかくのごとくでなければならない。

お祈りをしたり、マントラを唱えたり、ろうそくに火を付けたりする日常的な事柄を離れて初めて、宗教が成立するのであり、それは個人の心の中で実際におこっているのである。

また、重い病であと数ヶ月の命、という境遇にある人にとっては宗教の教理そのものが生きる力、死の直前まで有意義に生きる力を与えていることは否定できない。それは私にもあなたにも明日にも降りかかってくる運命でもある。そこには宗教もカルトも大きな違いがないかもしれない。

この点カトリック教会は、大きな包容力を持っていて、官僚組織、強権組織の悪名が高い一方で、「迷える子羊」をやさしくつなぎ止める雰囲気があり、また一方で「自ら目覚めた」人の参加も少なくない。

個人の救済という観点からみれば、豪華そのもののカトリックの聖堂などは、人々の財産を吸い上げたということで、とんでもないことなのだが、静まり返った教会の中で祈りを捧げるときの、一般信者に与える安堵感を無視するわけにはいかないだろう。

イスラム教諸国に見られるモスクもそうだ。必ずしも静寂だとは限らないが、そこに集う信者たちには間違いなく一体感が生じている。

ただ、宗教組織の側での受け入れ態勢があまりに現世的であるために、せっかく真理を求める人がいるのに、その探求に十分に答えてやれないのが悲劇なのだ。また一方で個人で真理を求めよと突き放すこともできないのだ。

これは明日から急に改革してどうなるというものではない。すべての牧師、僧侶、神父が、「レミゼラブル」の神父のようなわけではないし、やはり求道する側にも受け入れ態勢が整っていなければならないからだ。

これからも死に臨む人、この世に絶望した人、生きる意味を失った人らは次と次と出てくる。不完全ながら、既存の団体も、新興宗教も、もしかしたらそれらの人々を良い方向へ導ける可能性を秘めているだけでもその存在価値があるのかもしれない。

個人に関わる、もうひとつの問題として、もし「さとり」や「認識」だけが宗教の神髄だとしたら、絶対者の存在は必要ではなくなり、同時に天国や極楽もいらなくなるのでは、という考えが生じる。

だから極端に言えば、ブッダの教えは本質的に「無神論」なのだという考えも成り立つ。儀式や聖典が布教の道具だという割り切り方をすれば、ほかの宗教も同じように扱えないこともない。

だが、個々の信者は納得しないだろう。神のふところに抱かれるのではなく無に帰する、という考えは平凡な市民の感覚にはとても合わないからである。

そういう点からもまじめな宗教であれ、カルトであれ、人々の「慰め」という点ではその中身が何であれ、人々の希望を満たしているのである。

最近の宇宙物理学の急速な発展によって、この宇宙は「ビックバン」という大爆発によって生じたらしいことがだんだんはっきりしてきた。宗教に興味のない人々はこの話を冷静に受け止めるだろう。

だが敬虔なる宗教者にとっては、ビックバンを作った絶対者と、自分の魂をゆだねられる愛に満ちた絶対者を重ね合わせることはいよいよ難しくなるに違いない。

ここに知識だけが発達しすぎた現代人の悲劇がある。われわれは宇宙の秘密を知った代わりに、冷たい何もない宇宙空間に投げ出されてしまった。

かつて岩手県遠野村には、あの柳田国男が書いているように、カッパや神様やさまざまな化け物がうようよしていた。今はその「痕跡」が残っているだけだ。

一体どちらが幸福なのだろう。宇宙の実態を知っていることと、妖怪たちと一緒に暮らすことと。この物質的社会に埋没するあまり、人々は、特に宗教者以外の「進歩的な」人たちは、自分の心が作り上げた「世界」の中で暮らす習慣から永遠におさらばしようとしているようだ。

初稿2000年4月

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