生命を宇宙へ運び出す使命

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定義の竹林

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かつて、北アメリカで生まれた小さな国は、自らが西部へ進んで開拓し、最後には太平洋岸に至る、広大な国家を作ることを Manifest Destiny (明白な運命)と呼んだ。歴史は進み、確かにアメリカは二つの海を繋ぐ巨大な国家になってこの運命は実現した。

我が地球この言葉が当時の人々を勇気づけ、開拓への速度に一層の拍車をかけたことはいうまでもない。ただ、その疾走する機関車にひかれた犠牲者もたくさん出たことも忘れてはいけないが。インディアン、その文化、バッファロー、肥沃な草原や森林など。

ふりかえって21世紀に入った人類はどのような目標に向かっているのだろうか。19世紀後半から20世紀にかけて人類の運転する機関車はますますスピードを増し、ばく進してきたが、途中でひき殺された犠牲者は無数にのぼり、その余りの多さにこのスピードでは22世紀が本当に存在するのか危ぶまれている。

アメリカ国民と違って、地球市民がどこへ向かおうとしているのか、意見は様々である。進む先がわからないから、どんな逸脱行動も正当化される。グローバリズム全盛の現在、金を儲けること、富を蓄積することが最大の徳として奨励される。だがまさか人類の目標が金持ちになることではあるまい。

技術革新が猛烈な勢いで進み、かつては夢物語だったことが次々と実現しているが、はて、一体行き着く先は何なのだろうか。限りなく便利に、限りなく豊かに、限りなく長命になったとして、それが人類にとってどんな意味を持つのだろうか?しかもその実現が他の人類の犠牲の上に立っているとしたら。

ハッブル望遠鏡からの眺め差し迫る環境危機を目の前にしてもなお、自らの生活水準の向上に走り、まだそれに達していない人類がもし自分と同じ水準に達すれば、間違いなく地球は滅亡することはわかっていながら、それを続けられるのはいつまでなのだろうか。

自分の生活水準を上げるためには最高の努力をしながらも、結果的にそれが地球規模でどのような結末を引き起こすのかまで思い至る人はごく少数にとどまっている。むしろそのような警告を発する人々は変人とみなされる。

このように200年前の「ムラ」の共同体の時とまったく変わらないような状態で、科学技術の持つ影響力だけが異常に肥大した現在、各自が人類の運命を自覚しないことには、「第2の恐竜」といわれても仕方があるまい。それこそ映画「猿の惑星」のストーリーのように他の生物にその主導権を譲り渡すことになるかもしれないのだ(ただし他のどの生物が引き継いでも同じ結果になるような気がするが)。

今必要なのは、人類を前進させる明確な目標である。それが金儲けや物質的豊かさでなく、もっと長期的な目標でないと、サバンナから出てきて二足歩行を始め、苦労して世界中に広がった意味がないし、環境を守る努力をする意味もない。

この地球という限られた空間で、他の人間や生物たちと致命的ななわばり争いを続けたところで、いったい何の価値があろうか。すでに海洋も森林も川も陸地も人間活動によってほとんど取り返しのつかないところまで破壊されてしまった。

経済と技術が勝手に一人歩きし、それをコントロールする哲学も方針も「試論」さえもない。誰もがかつての貧困や不便に戻ることだけを恐れてめくらめっぽうに前進することしか考えていない。
振り返って人間が生まれてきた経緯を考えてみると実に不思議なことが起こっている。ビッグバン以来物質がその複雑さを加えてきたことは確かだが、それがとどまることを知らず、いつの間にかこの地球という理想的なゆりかごまで出現し、そこに生物反応が生じた。これは一体偶然なのか、それとも必然なのか。

フラクタル画像自然界の持つ特徴は、条件さえ整えば常に複雑化、組織化する傾向を備えているらしい。「フラクタル画像」を見ると、大きな波があってそれを拡大してみるとさらに小さな波が見えて、さらにその部分を拡大してみると、さらに細かなギザギザがあって、無限に小さな波が含まれてゆくことがわかる。全体はリアス式海岸のようだ。

この傾向が全宇宙に当てはまるとすれば、(直感的にだが)条件の整うところには、すべて生物が発生し、その複雑化が一層進むということが考えられる。つまり人間の出現は必然であったのだ。すでに計画されていたと言っていい。

だから宇宙発生以来の一貫してきた傾向は複雑さが無限に広がることであり、この地球上での生物の発生はその端的な現れだといえる。だが、すでに月や火星の探査でわかるとおり、宇宙の大部分はその条件が整わないために、まったくの死の世界だということがわかっている。いくら人間が宇宙人について想像力をたくましくしても、生物が育つ環境にしては、この宇宙は厳しすぎる。

温室と同じで、誰かが環境を整えてやらなければ、ビッグバンから宇宙の終焉まで、単なる物理的現象の繰り返しのみで終わることだろう。そこへ、ちょうど木の股にたまった雨水がさまざまな昆虫の発生の場になるのと同じように、生物の繁栄する場所が確保されたなら、この無味乾燥な宇宙も、何か希望のもてる場所になるだろう。

実際、多様性とか複雑さとは実に価値のあるものなのである。単純な構造よりも複雑な構造へ。少ない種類から何億という種類へ。海洋を見よ。その中にうごめく無数の生命の数も種類も我々の想像を絶する。それでいて、それらは環境が一定である限り、滅びることなく永遠に栄え続ける。

このような状態を認識できるのは人間だけである。ここで人間の使命がどんなものかわかってきたはずだ。生命という奇跡が生まれたのはこの地球においてである。このような奇跡はこの広い宇宙といえども、滅多に起こることはない(いや絶対に起こらないかもしれない)。しかも環境の整った場所はお互いにすごく離れていて、永遠に結ばれることはない。だが、一つだけ希望がある。それは科学技術を備えた人間である。

月へ「種まく人」という童話があった。ひどく寒い冬の日、ある人が種を誰もいない公園にまいてゆく。それをアパートの窓から見ていた女の子がふと暖かい春の日に行ってみると、そこに小さな芽が出ていたのである。その芽生えに感動した女の子は近所の人と協力して、何もなかった公園にさらにたくさんの草花を植える。春が終わる頃にはそこは一面の花園になっていた・・・

人類はこの種まく人の使命を帯びている。つまり生物伝搬のエイジェントである。宇宙規模の農業である。これまで不毛の死の世界だったこの宇宙に、人類が転々と移り住み、それぞれの「島」には新しい生命が次々と芽生える。地球だけの「奇跡」が全宇宙にひろがってゆくのだ。


この究極の目標を達成するためには、われわれは死を導くものと闘わねばならない。ブルドーザ、化学薬品、ゴミ、欲望、その他この地球を汚染するもの一掃し、生命をはぐくむのに最適な環境を再び作り上げること。そのあとは得意の科学技術の力を借りて、宇宙への旅立ちの準備をすることだ。

いつの日か、生物のもとを満載した無数の「ノアの箱船」が宇宙空間を、ちょうど風の強い日にタンポポの種が空を曇らすほど漂うように、無限の彼方へ広がってゆくかもしれない。もしそうだとすれば現代の知識と技術の進歩は無駄なものとならないだろう。

2001年2月初稿

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