なにもしないをしよう

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定義の竹林

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JR東日本の広告コピーに「なにもしないをしよう」というのがあった。絶対実現不可能なだけに、まさに日本人にはぴったりの言葉だと思う。一種の皮肉とも受け取れる。

我々は何もしないでいる状態に我慢ができない。たとえば理髪店で順番を待っているとする。あるいは一人で飲食店に入って注文を出し料理が出てくるのを待つとする。

大部分の人々は話し相手がいなければ、雑誌か新聞を引っぱり出す。いつも読むための本を持ち歩いている人もいる(これは私)。スケジュール表を開いている人もいれば、店内の規則にもお構いなく携帯電話をかける人もいる。

人間は巨大な大脳を持つ動物で、絶えず刺激を与えておかなければダメになってしまうと言われればそれまでだが、それにしてのそのせわしなさ。しかも日本人の場合には文化的なせわしなさが加わるからはた目から見て一層忙しそうに見える。

日本人が勤勉だという評判が立ったのは、日露戦争以後のことだろうか。第二次世界大戦後の高度成長のおかげでますますその評判は世界中に広まった。日本人の働き好きにさらに拍車がかかったのは、アメリカ仕込みの「ビジネス」という言葉が入ってからだろう。

何しろ形容詞の「忙しいbusy」の名詞形が「business」であり、まさに「(やる価値があるかは別として)忙しさそのもの」を表す言葉なのだ。この名前を付けた人は、現代社会のやみくもに動き回り、しかも何らかの目的を完遂しなければならないさまを見てこんなぴったりの言葉を考え出したのだ。

「パパラギ」の作者は、ヨーロッパへ留学した南洋の住人だそうだが(意外とヨーロッパ人かもしれない」)、南太平洋ののんびりした生活と対比させて、白人たちの活動好きが、戦争、搾取、汚染へとつながっていったことを鋭く批判している。

だが、不思議なことにこのようなのんびりした生活を営む人々よりも、スケジュールに追いまくられストレスだらけの人々の方が長生きする。これは単に医療システムが整っているというだけではないようだ。のんびりした生活を送る人々は一般に早老なのだ。

これはおそらく、人類が進化する過程で大脳に多大な刺激を与えそれに対する反応を生み出すことを繰り返してきたために、それがすっかり習い性になってしまったのだろう。つまり人類の生物学的基盤の中に活動的であることは必須条件となっているのだ。

これは飲まず食わずの厳しい環境条件の中に生きていくためには非常に役立ったことだろう。事実、自然の中で大脳を働かせて対処する方法を考え出せない個人や種族はみな消えていった。我々は「働き者」たちの子孫である。

だが、現代文明はそれだけでは不足で、我々一人一人に「勤労精神」という名の洗脳を行った。たとえばヨーロッパにおけるプロテスタンティズムから生じた資本主義の精神。これによって西洋では商工業を営む人は、自分の宗教的救済のために毎日の仕事に精を出した。

無宗教である日本では、現世における利益の確保という実に明快な視点から江戸時代にはすでに自然に競争社会が生じ、明治維新によってこれが制度化された。しかも外国との競争に勝ち抜くという大きな大義があったために、これらは日本人の間に自然に受け入れられたと言えよう。

働き好きも、のんびり派も、小さな社会で生きている限りはまわりに大きな影響を与えることはない。ところが現代のようにグローバルな世界では、これが人々の生活に深刻な影響を与えるようになった。

自動車も数十台ならおもしろいおもちゃとして扱えるが、何千万台と増えれば地球環境を破壊するのと同じである。勤労を行うのが社会全体の大きな方向になってしまった今、そうしない人々にとっては非常に暮らしにくくなっている。たとえばラテン諸国のシエスタ(ラテン諸国での伝統的な午後の昼寝)は急速に姿を消している。

失業者になれば刺激がなくなり、しかも周囲の目が冷たくなり、何よりもあふれかえる商品を手に入れることができなくなる。何もないところで失業者になるのに比べて、今日のようにテレビで絶え間なく欲望を刺激する環境で暮らすことは大変な苦痛でありストレスである。

アルバイトやパートタイマーにしても、企業の最終目標は競争相手をうち負かすことであるから、彼らはまったくの消耗部品としか考えない、いや考えたくなくては経営上不可能だ。雇われる側の希望が雇う側の希望と一致したときにのみ、雇用関係は成立する。

最も悲惨なのは正社員扱いだ。これは自分の時間のほとんどを会社の仕事のために身売りすることを意味する。日本が高度成長社会を脱し、年功序列制度をやめて能力本位になるにつれますますこの傾向は高まっている。つまり自由競争とはそのために個人はすべてを犠牲にする覚悟が要求される。

家族を持ち、毎日の生活を維持し、老後を安泰に過ごしたいという個人の基本的欲求の成就と引き替えに働くというのが基本的な雇用契約であるから、たいていの個人はたとえその条件が厳しくても飲まざるをえない。現代社会は新しい形の奴隷制度になっているといえる。

しかも驚くべきことに、小さい頃からそのような犠牲的献身に少しも抵抗を覚えない人々は少なからずいるものだ。いや多数派といってもいい。彼らは親の命ずるままに小さい頃からまじめに塾に通ったり、スポーツ大会ではベストを尽くして優勝したりする。彼らは大人になると有能な会社幹部になる。労働組合に属する人々は年々減っているのは不満を口に出す習慣がないからだ。

このような人々は一夜にしてできたのではない。その親、さらにその親というように、多くが家庭環境の中で形成され、あるいは親を反面教師として、自らをプッシュする方向に性格を固めた人々である。彼らが現代社会の根幹を支えている。

このような環境にあっては、有能であることが至上の価値とみなされる。従ってその人の属する組織が巨大な官僚機構であれば、すべては組織体の意向によって動かされる。そこには個人の倫理的判断が働く余地はない。いやなら現在の地位の喪失と引き替えにやめなければならない。

従って運動靴メーカーが開発途上国で児童労働をさせたり、食品メーカーが貧しい国に粉ミルクを輸出したり、薬品メーカーがその特効薬を貧困地域でも高値で売ろうが、そんなことは問題ではない。外部からはいくらでも批判は可能だが、内部から批判できる場合は今までの歴史が証明するとおり、きわめてまれである。

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こういうことが起こるのも、人々が社会規範に100%依存し、それを起点にして物事を考えているからだ。現代人は昔に比べて精神の自立性がなく、しかもテレビなどで情報の集中攻撃を受けるから、ゆっくり考える暇がなく容易に洗脳されやすい。

一度、これまでの情報にまみれた頭を白紙に戻す必要がある。こういう場合、コンピュータでは「リセット」という便利なシステムがある。人間の場合には死なない限りそれは不可能だが、訓練によってそれをある程度可能にすることのできる人もいる。

何もしないでいることはその第一歩だ。なぜならこの一見実現不可能な技は、それまでの人間生活を徹底的に見直すきっかけになるからだ。意識的に何もしないでいること、それはインドの行者がいつもやっていることのように見える。だが、何もしないということには「何も考えない」も含むのだ。

だが、何も考えないということは実に難しい。それが可能になると聞いたら不眠症の人々が聞いたら大喜びするだろう。不眠症の人は、ベッドで何度も寝返りを打ちながら眠れないのは、何かを「考えて」しまうからだ。もしなんにも考えなくて済むなら、横になったとたん眠りにはいることができる。睡眠薬は考える機能を麻痺させるだけである。それでも効き目がない人は、麻痺させる力に対抗してでも考えようとする。

大多数の現代人が軽度、重度の不眠症に悩む理由はここにある。何かをせねばならない、という強迫観念がベッドに横になっているときにも働き、体を動かさないのなら頭を働かせなければならないと彼らの頭に埋め込まれた社会規範が命令する。

病院に行かなければならない重度の場合はとにかく、ちょっとした毎日の不眠に悩む人は、現代社会では多数派だという報告もある。社会の病理がそのまま個人のベッドの中に映し出されているのだ。

何もしないでいるということは眠ることでもない。そんなことなら犬や猫は毎日やっているし、これは疲労回復や気分転換のために効果はあってもそれによって社会規範がとれてしまうことにならない。もっとも人は夢によって社会規範を破壊しているとも言われているが、起きてみると現実社会への対応は何も変わってはいない。

何もしないでいるということはボンヤリしていることでもない。これは単なる休息の状態であり、リゾートの海岸で寝そべっている人々はみなこれをしている。が、悲しい人間の習い性で、すぐに探偵小説でも読み始めるが。

何も考えないでいることは、実は人間の脳にとっては絶対できないことなのである。体も一瞬たりとも動かないでいることができないように、頭の中も一瞬たりとも思考や感覚を停止することはできない。だが、そこに近づくことはできる。また自分をがんじがらめにしている規範を振り払うことができる。

そのとき、何もかもから自由になるとはどんなことなのか、一瞬ながら感じ取ることができる場合があるかもしれない。「死」ではなく「生」の範囲でできることは限られているが、それでも貴重な体験になるかもしれない。仏教で言う涅槃もそれに近いかもしれない。

何もしないでいるということは意識的、短時間ながらいっさいの価値を捨て去ることである。それが個人にどんなインパクトを与えるかわからないが、ゴムが常に伸びきったままだとそのままのびて最後には切れてしまうことを思い出し、時にはゴムからすべての張力をはずしてみることも必要なのである。

2003年10月初稿

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