語順ーまず5文型が大切
我々の言語がヨーロッパ語族とは根本的に違う以上、文法体系の理解促進を図るため、特別な教授方法が工夫されなければならないのは言うまでもない。明治以来この努力は十分になされているだろうか。
たとえば英語と中国語のように全く異なった言語にも関わらず、動詞を中心とする文型や前置詞の使い方に多くの共通点を持つ場合は問題が少ないが、日本語のように S+V+O が S+O+V のように訳される体系では学習者の側にある程度の言語学上の認識がないと、いくら単語や文法の細かい「木」を見ても、英語そのものの「森」を見失っている場合が少なくない。そこのところを念頭に置いた上で、指導に当たってみると、もっと有意義な成果が得られるのではないか。
我々はよく、「後ろから訳す」とか、「訳し上げる」といった表現を用いて語順の問題についてお茶を濁しがちである。しかし「前から訳す」こともあるのであって、個々の説明はあっても、その法則性のようなものは曖昧なままである。たとえば先行詞より形容詞節は一般に先に訳すと中学では教えているが、それが論理説明として納得させられることはなぜか少ない。それどころか生徒は訳を正しく作ることのみ精力を集中させられるので、機械的な翻訳ができても、逆の過程、つまり英作文にはお手上げなのである。
5文型を教えることの重要性は昔から多く言われているが、これを徹底させれば動詞に関する語順の問題を、論理的に理解させることが可能かもしれない。実際には、生徒の立場に立ってみると、5文型をマスターしていないがために、未知の単語を前にして、これは動詞だと指摘できる力は待ったくついていないといってよい。たとえそれが知っている単語だとしても、
HAND は「手」だから名詞のはずで動詞なんて考えられないという結論に持っていってしまう。
一部の学習者は主語「名詞」の後には動詞がくるはずだという基本概念すら、徹底させられていないから、高3になっても同じ繰り返しが続くことになる。要は慣れということになるが、未知の単語であっても
S+V を正確に指摘できるような訓練を積ませるべきだ。5文型の効用は大きい。
日本語は「が」「は」「も」のような助詞があり、おかげで語順に注意を払わなくてもすんでしまう構造になっているが、実は逆にこれがヨーロッパ系言語を習う際の大きなハンディになっていることは否定できない。以前ある外人タレントが書いていたことであるが、英作文をする際に、「私、は、行く、に、学校」と並べ替えてから英語に振り替えてゆくことも語順を意識させる上で役立つかもしれない。
副詞や形容詞の位置も問題だ。日本語ではこれも位置が完全に確立していないので、「へたな文」では思わぬ誤解を招くことがある。「偉大なギリシャの哲学者」と「ギリシャの偉大な哲学者」の違いが書き手の不注意から、簡単に生じてしまう。これらの多くは、英語における副詞から形容詞へ、そして形容詞から名詞への3段階修飾や、形容詞が途中の形容詞を飛び越えて名詞を修飾することなどが、日本語ではしっかり決まっていないことが原因となっている。英語では語形によって形容詞か副詞かを判断することが可能なことが多いのに対し、日本語では名詞の後に「・・・の」とか「・・・的」といった簡便な語尾を付ける習慣に頼っているからでもある。
慣用表現
「慣用表現を覚えました。でも訳せません。使えません」の声が多い。なぜだろう。あのうんざりするような数のイディオムを覚え込んだ人たちは、さっそくその日から使いこなすと思いきや、なかなか文中に発見することすらできないことが多いのである。
大きな原因は品詞を無視した機械的暗記である。 to be sure が副詞であることを確認した上で覚えていない人が多い。慣用表現を一つ一つバラバラな単語の集まりと見ずに、よく見知った語のコンビネーションと考えるところから、それが文中でどんな役割を果たしているかまで気が回らないのである。 according to と according as の区別も然り、各イディオムの品詞面での徹底理解が必要ではないだろうか。せめて接続詞、前置詞、副詞、形容詞の区別ぐらいはつけたい。
もう一つは覚え方である。単語と違って一応何かの理由があって結びついた固まりなのだから、屁理屈でもよいから覚えた方が賢くはないか。You may depend upon it that などは直訳でも意味が通じそうだ。記憶術では、他のものを連想させるとか、論理的筋道を作り上げておくことが大変効果的だと言われている。また、一見逆のようだが、 It happens that, It seems that のような話の出だしは it が見かけの主語で主節、 that 以下は従属節といった説明は早いところ通り越して、副詞的に処理する習慣をつけてしまったらどうだろう。後にくる文こそ、中心的な部分なのである。
同様に be likely to や tend to のように不定詞の付いた類は助動詞化すると便利だ。それでは、はて動名詞は何だろうと悩んでいるものも多いが、これも enjyoy ...ing や finish ...ing のようなものは助動詞的に見なすとポイントが早く見つかって大変便利ではないだろうか。
たとえば enjoy playing golf は enjoy をさっと読み流して play と golf とのV-O 関係だけに注目するくせを付けるとよい。つまり、もとの文は We play golf であって、その後で、 enjyoy が追加されたと考える。He was an actor からさらに seem を加えて、He seems to have been an actor.ができたと考える。
(現在)完了
従来の文法書は現在完了を「過去において生じた事柄を現在に結びつける」とか「過去の出来事を現在との関連において述べる」時制であるとして、その具体的用法を完了・結果・経験・継続という区分にわけ説明しているのがほとんどである。しかしこうした説明は完了形の本質に言及しているようでいながら、むしろそれをわかりにくくしている。生徒がよく分からないといっても無理はないと思われる。
もう少しましな説明として、現在完了は「過去の動作のあとの現在の状態を述べることに重点がある」と書いてある文法書がある。我々の考えでは、現在完了は現在の状態を表す、と端的にいうのが最もよい。過去における動作うんぬんを言うことを省いて、現在完了はとにかく(現在に至る)現在の状態を表す、というのである。これが最も簡単でかつ現在完了の核心をつくものである。但し、(過去に至る)過去の状態なら、過去完了、(未来に至る)未来の状態なら未来完了が使われるが。
たとえば、あなたが鍵をなくしたとしよう。なくしたのが昨日だった。だが、もう見つかった。いまは鍵は手元にある(過去の出来事)・・・そういうときは
I lost my key yesterday.と過去形にすればよい。ところがなくしてから、方々さんざんさがし回ったが、いっこうに見つからない。だからいまも家には入れない(現在の状態)・・・というようなときは
I have lost my key.と現在完了形にする。
ここで次の疑問が当然出てきてよいはずなのであるが、実際にはなかなか出されない。その疑問とは、現在完了が現在の状態を表すというのはわかるが、それでは現在時制や現在進行形はどうか、これらも現在の状態を表すではないか。これらの時制の関係はどうなっているのか、というものである。これはよい疑問であり、これに答えることは結局完了形の本質に迫ることである。
物事を表現するには一般にふたつの方法がある。一つは直接的方法で、他は間接的方法である。直接的方法とはそのものずばり明示する表現方法であり、間接的方法とは暗示的に表現する方法である。前者を顕在的(explicit)表示、後者を潜在的(implicit)表示と呼ぼう。
英文法においては、完了形と仮定法は潜在的表示なのである(仮定法についてはあとに改めて説明したい)。例をあげると、I have finished the work. --- So I can take a rest. I have known him for a long time.--- So I know him well.のように、真意は---の方にある。---の先の文(真意)はいろいろなケースがあり得るが、いずれにせよ真意は形の外にある。I have been working all day.のような場合も、「私は一日中働いている。だから・・・」というように「だから」の先が問題なのだ。従って現在完了の形を見たらそれにより、どのような現在の状態を意味しているのかを把握することが大切となる。同様に過去完了、未来完了もそれぞれある特定の過去・未来の時点での状態を表す(潜在的)表現なのである。また現在完了が現在の状態を表す以上、過去の副詞と共に用いられないのは当然で、言う必要がないくらいである。
さて前の疑問に戻ってみよう。現在の状態(動作ではない)を表す形式として他に現在時制、現在進行形があるが、これらが現在完了と異なる点は、顕在的であるという点である。ではどうして同じ現在の状態を表現するのに異なる形式があるのかという疑問が出るが、これは簡単で、たとえばある人の現在の状態を述べるとき、その人が現にしていることをずばり言うか、あるいはその人の略歴を見ればよい。
つまり現在進行形は現に進行している状態を表すので、顕在的表示が可能であるが、現在完了形は過去の事件の現在における余波を表現するために、潜在的表現を取らざるを得ないのである。
今度は別の角度、動詞の動作と状態の区別から見てみよう。もともと状態を表す動詞は現在形でよく現れる。I know him well.(彼のことをよく知っている)しかし動作を表す動詞は現在形で、たとえば、I write a letter.(理想モデル)のように使うことはまれであって、むしろ I am writing a letter. A letter is written. I have written a letter.のように進行形、受動態、及び完了形の形で使われるのが普通である。
受動態について大事なことは、これも状態を表すのが普通だということである。be動詞は状態を表す場合、普遍的に使われる動詞であって、形容詞と結びつく。従って動詞からできた~ingか~edも、形容詞としてbe動詞と結びつくことにより、状態を表しているわけである。
同じ状態を表すのに現在完了がbe動詞を使わない点、例外に見えるが( have 動詞はもともと状態を表し、歴史的には I have written a letterは I have a letter written から来ている)古くは自動詞は be 動詞と共に完了形を作ったのであり、いまでもたとえば Spring is come というような表現は残っている。また三人称単数の場合、He has done it.--- He's done it.と短縮形を使えば、聴覚的にも視覚的にもbe動詞を使った場合と区別できない。この事実は現在完了形は心理的効果という面での現在の(動作ではなく)状態を表す、ということをある程度証拠立てているといえる。
結局まとめて言えば、動作動詞を使って状態を表すためにとられる手段が、進行形、完了形、受動態という三つの手段ということである。
態ー暗記ではすまない問題
Mt.Fuji can be seen の訳が、「富士山が見える」となるとおり、通常の日本語の主語は「人」であるか、少なくとも暗に人であることを示している。いわゆる受動態も「人」が外部の力によって何かされるという関係である。このような言語習慣から今度は英語の中で「人」も「もの」も区別なく主語になれるという形式に慣れるのは学習者にとって非常に困難であることは想像に難くない。
なぜ日本語には「人」を中心とする思考方法が定着してしまったのだろうか。これは江戸時代からの自然科学軽視、人間関係や私的感情重視の傾向の反映であると考えられる。このようにして「もの」を話の中心に持ってくるという考えが長い間育たなかった。この言語感覚を英語と比較すると、態に対する関心度が格段に低いと言われても仕方がない。この最大の理由は他動詞が自動詞とはっきり区別されていないためである。英語では他動詞は目的語をともなう。態を変換するとはすなわち目的語を主語とすることなのである。
確かに英語でも need ~ing や be to blame のように be+p.p. の形を伴わない、受動態を装うだけのだけのものもあるが、これらは古くからの英語に属するもので、やはり現代英語では他動詞を基本とした変形に基づく、受動、能動の関係は厳密に守られていると言ってよいだろう。また、leave nothing to be desired (文句のつけどころがない)のように、目的語とその補語との間の能動、受動の関係も正しく守られている。また、不定詞の形容詞的用法では、nothing to do, nothing to be done の二つが存在するところから、nothing をそれぞれ前者では do の目的語、後者では do の主語と定めてそれぞれが形成されている。
また分詞の形容詞修飾では、baked apples は apples which were baked から、girls dancing in the room は girls who are dancing in the room からとそれぞれ、 apples や girls を主語と想定した上で主述関係を明らかにして態を確定している。これらのそれぞれ異なった関係を明らかにして、いかに学習者に説明するかがこれからの課題である。そのためにはなるべく単純化した形で体系化する必要がでてこよう。いつまでも学習者に「これは大事だから暗記せよ」とかけ声をかけるだけで済ませることはできない。
後置修飾ー最初のつまづき
「花、赤い」と言わず、「赤い花」のように、日本語にはうしろから名詞を修飾することが全くないことから、英語における後置修飾構文は、いわゆる「訳し上げ」を必要とする場合の大部分を構成している。involved や concerned や present のようなごく一部の形容詞、前置詞、分詞、to不定詞によってはじまる形容詞句、関係詞によって作られる形容詞節の後置は学習者の悩みの種である。特に形容詞句の場合は、その始まりとなる前置詞などが目立ちにくいので、うっかり見逃してしまうこともあるし、せっかく訳し下げられそうな文がこのためにUターンして実に複雑な順番を形作ることになる。このことは速読にとって大きな障害となる。
調査から見ても、中学生の英語における最初のつまづきは、後置修飾とネクサス(主述関係)だといわれているから、徹底的な訓練を施さなければならないし、論理的な説明も必要である。フランス語ではほとんどの形容詞が後置される。(たとえば
chat noir シャノワール、つまり「猫黒」)、語学的な進化の過程でのはっきりした必然性が考えられる。それはまず、フランス語文法の記述にもあったとおり、「存在はその属性に先行する」ということであろう。存在なくしてそれに付随する性質はあり得ないから、先に存在を明示するということだ。従って中学生向きにいえば、「大事なものは先」ということになるのだが。
副詞だって動詞を修飾するとき、後置する場合が少なくない。これも前のような論法で示してゆくことができるが、むしろ「近くのものに係る」という原則がより効果的に適用されよう。(但し副詞が、形容詞や他の副詞を修飾する場合は必ず前置である。)いずれにせよ、後置修飾という、ヨーロッパ語族の圧倒的傾向に対し、アルタイ語族に属する日本語側の劣性は否定しがたい。しかし日本人が幼いときからなじみ、思考そのものの中に組み込まれている言語構造から組み替えをしなければならないので、本人にとって大げさに言えば、一種の革命的変革を必要とするといえるかもしれない。
その意識変革は、まずその第一段階として、 The flower is red. 「花は赤い」という叙述的表現と、the red flower 「赤い花」という限定的表現の区別を付けること。
第2段階として、後者の限定的表現において、the red flower 「赤い花」と the flower which is red 「花、赤い」という前置と後置の区別が存在することを認識しておく必要がある。
第3段階として、「花がよく匂う」There is a flower smelling well. や「犬が吠えているの(が聞こえる)」 I heard the dog barking. のように英文には後置のように見えて、実は叙述的なタイプ(第5文型)も存在することも知っておかねばならない。
割り込み理論ー英文を肉付けするもの
さて、学習者の英語に対する見方とは、総合的に見てどんなものだろうか。彼らから見た英語の世界は混沌としており、すべて日本語の言語感覚で処理しているといっても言い過ぎであるまい。たとえば、下線部和訳に取り組むとき、まず探すのは既知の単語である。次にそれらをつなぎ合わせようとする。しかし5文型をはじめとする明確な訳のための手だてがないから、自分の頭に浮かんだ勝手な解釈が一人歩きしてしまって原文とは似ても似つかないものがで
きあがる。
速読速解のカギは5文型 このような状態を改善するためには単に個々の学習者の努力を待つしかないのだろうか。彼らの言語感覚がひとりでに磨かれるのを期待するだけなのか。確かに個々の単語の訳についてはそれらが要求されよう。expect を「期待する」ととるか、「予想する」ととるかは、その学習者の文脈を判断する能力にかかっているからだ。
しかし実際にはそれ以前のもっと初歩的な段階で彼らがつまずいていることを忘れてはならない。これからは前回、前々回で述べた「語順」から「慣用表現」すべてに関わる問題であり、学習者の日本語の文法構造からの完全な決別を必要とするものである。もっとも初歩的な段階でいえば、SOV
ではなく SVO なのだということをはっきり認識させることである。
かくして5文型による英文構造の決定が最重要課題となる。SVO とは「 S は O を V する」という単純に割り切った訳でさえも初歩的な段階にいる学習者には大いに役立つ。但し、5文型を学習者に理解させることはできても、自力で文中に発見できるかというと、ことはそう簡単には運ばない。O
と C のくべつがつかない。S や O の品詞がなんだかわからない。C にはどのような種類があるのかしらない。O と C の間のネクサスと何か、
look に at が付いたら文型上どう扱えばよいのか、等々。
困難は山積されているが、いったんマスターした場合の便利さを考えると、5文型の知識なしに英文を読んで行くよりはるかにスピーディーであるし、日本語とのまだるこしいやりとりなしに文を見てゆくことも可能だから、速読速解の足がかりにもなるはずだ。
文を複雑にする「割り込み」 ところが、たとえ5文型をマスターしても次の難関が待ち受けている。His father, who had been in the army, became a president of a firm last year.「軍隊にいた彼の父は去年会社社長になりました」を二つに分離すると、His fatherbecame a president of a firm last year.の部分と、 who had been in the armyの部分とに分けることができる。後者はは間にはさまれた副詞(副詞句、副詞節)や形容詞(形容詞句、形容詞節)の群である。これらを整理し、5文型の骨格となる部分からはっきり分離できないことには、正しい修飾関係を把握できるわけがない。
このように5文型の間に修飾語句がはさまれているのを「割り込み」を称し、、英文というのはすべて割り込み、付け足しでできているのだということを学習者にしっかりと認識させるべきだ。いわゆる挿入句、挿入節も単なる関係代名詞節も、イディオム的表現も、まずは割り込みとして単純化して扱い、最後に5文型だけにした裸の文章を学習者の前に提示すると、一様に驚きの色を見せる。あんなに複雑に入り組んで難しそうに見えた文章が、中学生にも訳せる文に見えてきた、と。
しかしまだまだ喜んでいられない。学習者はそれらを自分では全くといってよいほど発見できないのだ。関係詞や接続詞のように目立つものを見つけ、その部分の始まりがわかってもコンマがないと、どこで終わるのかわからない。つまり、句や節としてのかたまり、センス・グループとしてとらえる力に欠けている。これには言語感覚の問題もあろうが、頭の中で関連する単語を拾い上げて一つのまとまったコンセプトに総合してゆく力を養う訓練が必要だ。
仮定法ー事実と仮想の区別をする
仮定法を日本人にわかりにくくしている原因は英米人(一般人西洋人)の中に存在する心理上の区別が日本人(一般に東洋人)にはないか、あるいは乏しいからである。英米人がある事柄を事実として述べるときと、仮想として述べるときとでは表現形式を変えるということ、このことは彼らが事実と仮想という心理上の区別をする習慣があることを示している。
この種の区別をする習慣は英語には一貫してみられるものである。これは西洋における伝統的思考様式として、実在と思考を分離させる習慣が早くから確立していたことを示すのであろう。またこのことが西洋において分析的思考並びに自然科学が急速に発達できた重要な原因の一つでもあろう。
さて、一般的に言えば、現在(事実)を単なる思考ないし、想像(幻想)と区別することは我々が日常生活を上手に運ぶ上でも、我々の精神上の健全さを保つ上でも必要なことである。仮定法を学ぶ際には、まずこの区別(事実と仮想)を知り、ひいては同じ区別をする習慣を付けることが大切となる。単に英語の日本語への訳し方を学ぶだけでは不十分であって、英語の発想法(考え方)こそ学ぶべきである。このことにより、どう日本語にすべきかは自然にでてくるはずなのである。
またそこで使われる「目印」の規則を正確に知っておかねばならない。つまり、動詞を敢えて「原形であらわす」「 should を付ける」「現在形のはずのところをわざと過去形にする」「過去形のところをわざと過去完了形にする」の4通りである。
命令形 これは命令法として独立させて扱われているのがふつうであるが、広い意味での仮定法の一種といってよい。Be patient! 「がまんして!」Keep your cool,Kathy.「キャシー、落ち着きなさい」のように動詞の原形が使われる。これも当の表現が事実の表明ではなく、こうあってほしいという思考(仮想)の表現だからである。
命令・要求・提案 He insisted that you be invited.「君を招待すべきだと主張した。」米語では should が省略されて be がそのまま使われる。(仮定法現在)
驚き・当然・遺憾 It is a pity that he should miss such a chance. 「そんなチャンスを逃すのは惜しい」 should が使われるが、これも事実として認めたくないという気持ちの表れである。(感情の強め)
It is time ( that ) ~ 「当然・・・してもいい頃だ」 It is time we were leaving. 「もうお暇するときだ」ここでは過去形が使われる。(仮定法過去)
I wish ~ 「・・・であればいいのだが」 I were I were a kid again. 「もう一度子供になれたらいいなあ」不可能な願望を表す表現であるが、現実に対する嘆きの表現である。( wish そのものは直説法である。「望んでいる」というのは事実である。)(仮定法過去)
as if~ 「まるで・・・のよう」 As if you didn't know! 「知っているくせに!」事実がそうでないことを知っている場合である。(仮定法過去)
If 節とその帰結文で If I had more money, I would but it. 「もっとお金があれば、それを買うんだが」(仮定法過去)
この最後の4つのパターンが仮定法として学校で習う代表的なものである。これを単なる未来の予想である条件文と混同してはいけない。仮定法と直説法の形態上の違いは動詞の形にあり、if そのものとは直接関係はない。(仮定法という用語が誤解を生む原因かもしれない。そこで叙想法と名付ける人もいる。この方が確かによいが、文法用語の大半は内容と一致しないのが多く、命名自体にそれほどこだわることはないと思われる。人の名前と同じで、用語自体に特別の意味づけをするべきではない。この点は一般の科学用語と同じである。)
仮定法の真意 以上仮定法が使われるケースをおおざっぱに見てきたが、仮定法は常に事実の認識を背景にした仮想の表現であることが大切である。単なる想像の表現ではない。(もしそうだとしたら、おとぎ話とか
SF 小説は仮定法で書かねばならなくなる。) If I had more money, I would buy it. という表現は現実にお金がなくて、それが買えないという事実を裏から表現したものである。つまり、仮定法は仮想の表現によりかえって実際の事実を鮮明にしようとするときに使われる、潜在的( implicit )表示なのである。これはちょうど、 Who knows? という修辞疑問文が、 Nobody knows. という否定を実質的にあらわしており、また現在完了形 She has come back. が単なる「帰ってきた」というかこの動作ではなく、その結果としての現在の「今この場にいる」状態を表現するのと同じである。
態の考えかたー「する」「される」一辺倒ではダメ
文法書では、動作の主体を主語にすえたものを能動態、動作を受けるものを主語にすえたものを受動態と呼び、一般に能動態は「・・・する」、受動態は「・・・される」と訳すものとされている。しかしこうした定義は、多くの場合一貫できず不適切であることがわかっている。たとえば、 I received a severe blow. (私はひどく打たれた)のような場合 I を動作の主体とは考えにくい。また次のような例では日本語の「・・・する」とか「・・・される」という区別はほとんど役立たない。
He was surprised at the news. (彼はその知らせに驚いた)She was given a gold ring. (彼女は金の指輪をもらった)The room was sparsely furnished. (その部屋は家具が少なかった) Your belief is rooted in prejudice. (君の考えは偏見に根ざしている)
こうした例は無数と言ってよいほどである。従って能動態と受動態という名称に特別の意味づけをするべきではなく、文法用語として、つまり形式的なものと考えるべきである。(これは仮定法の場合にも以前、述べたとおりで、名前自体に特に意味はない。現在完了、現在分詞、過去分詞といった名称も形態上の名前に過ぎない)。
能動 I did. 受動 I was done. / 能動 I did the work. 受動 The work was done.
例のように目的語のあるなしにかかわらず、S + V ( + O ) の形を能動態、S + be + 過去分詞の形を受動態と呼ぶ。I did the work = The work was done ( by me ). のような態の変換は機械的変形と見なし、方程式の式変形のように考えるのがよい。 I did the work. で the work を主語にして書くときは the work を左辺に移項するつもりで ( 2x + y = 1 を y について解くと
y = -2x + 1 となるように) The work was...と書いていく(この際 be 動詞は=のような働きをしていることがわかる)こうした変形に十分なれれば、imform A of B という形を見ればすぐ、
A is informed of B という形も思い浮かぶようになる。P, Q を名詞、 X を動詞として、 P+X+Q の形は原則として(実際に使われるかどうかは別として)
Q + be + Xed ( by P ) と変形できる。( Xed は X の過去分詞)
日本語の「・・・する」「・・・される」は英語の能動態と受動態にうまく対応しない。このため種々の困難が生じている。学習者は be + ~ed の形を見るとすぐ、「・・・される」と訳そうとする。また
interesting と interested のように ~ing と ~ed の形を取る形容詞(分詞形容詞)の違いがなかなか理解できない。大切なことは日本語から離れて、まずどういう動詞が P + X + Q の形として使えるのかを知ることである。そうしてからたとえば、次のようによく使われる表現を一括して記憶するとよい。
The book interests me./ I am interested in the book. / The book is interesting
( to me ). この3つの文はニュアンスは違っても、みんな同じことを言っているのである。日本語訳は「・・・する」「・・・される」にこだわらずに自由に考えればよい。
また、よく受動態で使われるケースは覚えておくべきである。「感情」・「心理」・「被害」が主である。
感情の表現 be surprised (・・・に驚く)be offended (・・・に腹を立てる)be worried (・・・を心配する)be excited (・・・に興奮する)
心理一般の表現be conviced of(・・・を確信している) be inclined to(・・・したい) be absorbed in (・・・に没頭している)be determined to (・・・を決心している)
被害一般be injured / be wounded / be delayed / be taken ill / be drowned / be derailed
/ be lost
また客観的事象の表現としてよく使う以下のような言い方もまとめておくとよい。It is said that~ / It is considered that~ / It is suggested that~ / It
is reported that~
科学技術関係などの論文ではこうした受動形が多用される。これらの受動形は特に助動詞が付くような場合、「・・・される」式に文字通り訳すと不自然になる。たとえば、It can be considered in all its aspects. は「それはあらゆる面から考えられる(考察される)ことができる」と訳すより、能動的に「それはあらゆる面から考察できる」と訳した方がよい。この日本語訳は主語が省略されているが、このことにより目的語に焦点を当てた表現となった結果、英語の受動態と同じ効果を出しているわけである。日本語は英語のように能動と受動の形式が統一した形では存在しないので、どのような表現が実質的に能動や受動の意味となっているかを組織的に調べる必要が出てくると思われる。
間接疑問を理解するー区別の仕方
疑問詞のある間接疑問文は通例次の二つが区別されている。
(1)Do you know who broke the window? (2) Who do you think broke the window?
(2)のタイプは think と同種の動詞 believe, imagine, suppose などが使われる場合である。それ以外は(1)のタイプとなる。この問題の本質は次のように考えればよい。まず次のふたつの日本文を比較してみる。
(A)誰がその窓を壊したのか (B)誰がその窓を壊したと思いますか
(B) は (A) に「思いますか」が付いているけれども (A) と (B) の文としての情報量は等しいと考えられる。「思いますか」はいわば余計で、実質的な質問内容は増えていない。従って疑問詞に重点があるために
do you think 等が先頭に来ることはないのである。別に答え方が影響しているわけではない。(1)(2)に対する答えは原則として(1)では
Yes, No で、(2)は I think... となるが、これは当然のことで、(1)(2)の疑問文としての性質から自然に決まるものである。
時制の一致ー原則を見極める
従来の文法書では主節の動詞が過去の場合、従属節の動詞は、現在形が過去形へ、過去形が過去完了へと変化すると書いてあるが、実際には例外も多く、まともな文法規則として一行をたてることに異議を唱える人もいる。この問題は次のように考えるとわかりやすい。
Mr.Baker said that he could come. / I said that the plan was very good.
主節の述語動詞の said で基準となる時間が決まるのであって、いわば、舞台設定がなされるので、Mr.Baker said~ / I said~
といった時点でこれからの内容は said と同じ時点の過去が舞台であることがわかる。
たとえば時代劇の中で現代のものが出てきたらおかしいように、主節の動詞が過去であれば従属節の動詞も過去(完了)となることが多いのは当然なのである。しかし従属節の内容が現在あるいは未来であれば、当然それに応じた現在形、未来形が使われる。これは例外に見えるが、より大きな原則(過去のことは過去形、現在のことは現在形、未来のことは未来形を使う)から見れば別に例外ではない。
以上まとめると、主節の動詞が過去であれば従属節(特に名詞節)の動詞は過去(完了)となることが多いと言えば十分であるということである。
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