言語と思考

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生まれながらに口が利けず、耳が聞こえず、目の見えなかったヘレン・ケラーが初めて、自分の指に綴られた「み・ず」と「私の手の上をほとばしる、あの冷たくすばらしいもの」との間の関係に気づいたとき、言語を学習する、彼女の長い旅が始まったのだ。

これと同じように、幼児期のある時期に、子供は突然、言葉の存在理由を知る。この発見はまさにひらめきであるが、どの子供にも遺伝的に組み込まれているものでもある。あらゆる子供には言語を学習する、潜在的能力があるのは明らかであり、これはその子供の脳の中に遺伝的に備わっているのだ。

チンパンジーにどんなに一生懸命言葉を教え込んでも、たかだか50語も覚えればいいほうだろう。でも言葉と実体との間の関係に気づいているのは確実である。このことから、もちろん人は言語を学習できるが、類人猿たちも非常に初歩的な段階ながら、ことばを覚える能力があることがわかる。

ここに述べた言葉と実体との関係は、思考の複雑な過程を理解するのに欠かせない。外の世界の現実に即して、記号を操作できるのが人間である。感覚器官を通して知覚するものと、頭脳の中で生み出したものとの間を区別することができるため、頭の中で互いを関連づけようとするのである。

外部の実体と記号との間を結ぶものが何であるかは、まだ解明できていない。これをブラックボックスと名付けよう。それは何か雲のようにはっきりしないものであり、ほとばしる水に手を差し出してヘレン・ケラーがかつて感じた、ときめきのようなものだ。このブラックボックスの過程はすべての動物に、最も原始的な形態では、アメーバにさえ共通だと考えられる。動物には、自分たちの感じたことを記号化する効率的な方法を持たないため、それぞれの発声器官や他の表現部位の構造的特徴に応じて、ただ吠えたり、クークーとささやいたりすることなどに終わってしまう。

ホモ・サピエンスが進化してやっと、自分の感じたことを何らかの明確な記号に変える効果的な方法を作ることができた。これも咽喉の見事な構造のおかげであり、それによって多様な発声の区別を行うことができた。このようにして言語の発生をたどることができる。厳格な文法構造を備えた、言語の発生そのものが、今度はブラックボックス中の過程、つまり思考というものを刺激した、または、作り出したように思われる。言語と思考のこのような相互作用が、脳の容量を増大させ、仲間同士のより確実なコミュニケーションを生み出したのである。

ブラックボックス内の過程は神経生理学によって急速に解明されてきているが、これによって「意味」を得ることもできるのである。「分かったぞ」とか「彼女の言いたいことが理解できた」と誰かが言うとき、何らかの意味を感じ取ってはいるが、それを適切な言葉に置き換えることができないでいる。意味は人間がそれをすべからく、いつでも取り入れて、言葉に変換されてゆくのである。たとえば、年季の入った演説家が演壇に立つとき、頭の中に言いたいことがいっぱい詰まっており、それは2,3のキーワードとして取り出すこともできよう。前もってこまごました原稿を暗記しておく必要などないのだ。

意味とは雲のようなものであり、いかなるときでも水滴に凝縮される。体系的に整理される必要もない。言葉に翻訳されてはじめて、それは明確な形をとる。そうでなければ人間の脳はあまりに言葉がつまりすぎて破裂してしまうだろう。語彙のための脳の空間はそれほど広くないのだ。意味は複雑さと論理の点で、単に感じ取ることとは異なるが、これはこの2つが進化のレベルが違うことを意味している。つまり、ブラックボックス過程は、感じ取ることから意味を得ること、に進化してきていると言っていいだろう。

意味と言語の間のこの関係は、外国語を学習する際によくわかる。初心者は自国語から外国語へ単語を一つ一つ訳してゆく。しかしそのうちに、自分の言いたいことから、ことばを直接引き出してその外国語をしゃべるようになる。ここで、その人はその外国語が流暢に話せる段階に達したといえる。意味とは普遍的なものである。というのは世界のすべての言語はたがいに翻訳可能と思われるからだ。だからたとえ人々が異なる言語をしゃべっていても、その人々の意味するものは本質的に共通な地盤に立っていることになる。このように言語は意味を通じて思考過程とつながっているのである。

では人間の思考に特徴的なことは何か。2つの傾向がある。言うまでもないことだが、思考とは実際の試行錯誤を伴わない、一種の行動的適応である。迷路に入れられると、ネズミは壁にぶち当たり、迷い、何度も何度も走り回り、最後に目的地に到達する。人間は(そしてまた頭のよい類人猿や犬もそうだが)わざわざ立ち上がりもしないで、問題を解決することができる場合がある。

あるチンパンジーは長い棒をもらうと、椅子も使って、天井からぶら下がっているバナナに届かせることができる。この猿は状況を全体として捉えることができ、不必要なステップを捨て去ることにより、行動する過程を「単純化」することができるのである。これは演繹の初歩といえよう。一方、どこにでもある物体にすぎない、椅子や棒を拾い上げることは、一つの目的に向かっての生産的行動を示し、置かれた状況を「複雑化」している。そこには帰納の芽生えが見られる。

単純化と複雑化というこれらの二つの能力は思考過程では互いに連携しながら働いているようである。ではこの2つについての、言語の側面を見てみよう。ブラックボックス中で人間は、想像上の試行錯誤を通じて、意味の雲の中から、利用できる語だけを拾い上げてゆく。これは単純化の過程にあたる。チェスの手を探している人はまさにこの典型的な例である。それから、「アイディアに行き当たった」のは何か重要なこと、「手がかり」をつかんだ瞬間を示す。これは原則をうち立てる過程と言ってもいいだろう。

いったんアイディアを思いつくと、そのまわりに何かを付け加え、言い換えると、組み合わせ方を変えてみる。言葉とは想像上の棒であり椅子なのだ。材料となるものは意味の海に浮かんでいる。そのいくつかを拾い上げ、あるものは捨て、最後に文法規則に従って文の中にはっきりした形を作り上げるのである。これは創造的思考と呼んでもいいだろう。

まとめ

人間の脳の中では、思考と言語の機能は切り離せない。近い将来に、言語の果たす役割は生理学的に完全に解明されるに違いない。言語と思考のこの驚くべき関係が生命の発生にさかのぼる、進化の産物 であることがそのとき、明らかになるだろう。その上、地上のすべての言語は、すべての人類が共通に持っている、単一の、普遍的特徴を含んでいるのである。今のところ、それは依然としてブラックボックスのままであるが。

1986年2月

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