政治時評

杭州・西湖

法制度や行政によって社会に実現するべきだと思われる具体的方法

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天皇制を考える

 

フランスは1789年に始まる革命によって、国王をギロチンにかけ、共和制となった。その後、ナポレオンなど、さまざまな紆余曲折があったが、今日に至っており、ルイ王朝は歴史の教科書の中に記憶されるに至った。これに対し、保守的といわれるイギリス人は王制を現代に至るまで、保持している。

イギリス人はステレオタイプではあるけれども、実際的な国民だといわれ、あえて海の向こうのアメリカとは異なり、何らかのメリットがあると見たために世界に先駆けて議会制度をはじめとする民主制度を開始したにもかかわらず、依然として国王や女王を戴いている。

ところがチャールズ皇太子の離婚をはじめとして、エリザベス女王の子供たちは女遊び、男遊び、離婚を繰り返し、大衆新聞の格好のタネとなり、国民のひんしゅくを買った。このためさすがに我慢強いイギリス国民の中にも王政廃止の声があがりつつあり、もしチャールズ皇太子の二人の息子たちが今後、叔父や叔母たちと同じ行動をとるようなことがあれば、廃止は急速に実現することになろう。

もともとイギリスでは国王を海外、たとえばオランダのオレンジ家に求めるなど、余り家系にこだわらないところがあり、今後ももし王家がイギリスの威信を汚すとか評判を落とすようなことがあれば、彼らは実際的な国民だから、ためらいなく共和制に移行することも十分に考えられることである。

振り返って日本の天皇制を見ると、宮内庁という厳重な監督のもとに、イギリス王家のような放縦な行動は考えられそうもないが、一方で国民に対する魅力度からすると大変インパクトが低いと言わねばならない。つまり憲法における「国民の象徴」としての一国を代表して、海外に日本を紹介し、引き立てるという役割に乏しい。

スポーツ祭典での開会宣言や、大事業でのくわ入れ式を越えた、国家元首としての役割を果たさなければならない。ところが、過去の歴史的なこともあり、発言も行動もただ優等性的なものとなり、放送局や新聞社もただ、言葉遣いに気を使うばかりで、これではますます存在が薄くなるばかりである。

日本の歴史を通してみると、征夷大将軍、南北朝、と政治の実権は外部の者たちに握られ、都合のいいときだけ担ぎ出され、現在においてはただ伝統的な行事を踏襲することのみ強調されている。つまり例外的な時期を除いて、常に「象徴」だったのだ。

特に日露戦争終結から、太平洋戦争の敗戦にいたるまでの期間が尋常ではなかった。日露戦争による、「奇跡的な」勝利が、いつの間にか天皇の神格化・絶対化に結びつき、取り返しのつかない悲劇を生じたのである。

このような事態はひとえに日本国民の「政治的未熟さ」に起因するものである。2・26事件はいうまでもなく、長崎市長に対する襲撃事件は記憶に新しい。この種の狂信的行動は小さいものも数えると無数にあり、今なおまた事件を引き起こそうと計画している者が少なくない。

しかも終戦後の処理が、アメリカまかせになってしまったことも問題を大きくしている。フランスのように大変な犠牲を払ってここまできたのでなく、降伏によって、一挙に民主制度が手元に転がり込んできてしまったからである。そのときにも天皇制は十分に議論をつくされることなく、ただ上層部の者たちが「国民的感情」を配慮して勝手に決めてしまった。

「政治はそれを選ぶ国民の質に比例する」とは昔の有名なイギリスの政治家が言うまでもなく、まさに現在の日本の政治制度を支えるもろさを如実に示している。このようないわゆる「民度」の低さが、天皇制がいつまた政治的な道具に利用されるかもしれないという危険性をはらんでいる。それでなくてもこの国は「強行採決」が日常茶飯事である。

世界中には、スエーデンやオランダの国王のように全く市井の人と変わらず、それでもなおかつそれぞれの国のイメージを高めるのに一役買っている王族もいる。そしてその背後には政治的に成熟した国民がいる。

大切なことは、それぞれの国における元首の国家的・歴史的使命を考え合わせそれにふさわしい行動をとるべきなのだ。だとすると日本の場合、天皇制を維持することによって陥る政治的リスクのほうが大きいのではないか。

日本史の研究で明らかになったのは、天皇の祖先は日本に大きな経済的文化的恩恵をもたらした渡来人だったということである。もちろん、蘇我氏のように明らかに朝鮮半島から移住してきた人々の血も混じっている。

だとすると、天皇を「純」日本の中心とする考えがおかしいわけで、しかも長い間の朝鮮人差別の空気が、ますますこの問題を複雑にしている。かつての天皇陵の発掘を宮内庁が許さないのも無理もない。

イギリスなどの場合、先に述べたように、名誉革命でイギリス国王を退位させ、オランダあたりから呼んできて新しい国王にするような鷹揚さがあるが、日本ではそんなアイディアには、血相を変えて反対されるのは火を見るよりも明らかだ。

しかも日本には宮内庁という役所があり、昔のしきたりを保存するのはいいことだが、先に述べたように天皇の墳墓の発掘をかたくなに拒否したり、皇族が「山登り」が好きだとあらば、彼らが登りやすいようにブルドーザーで、草木をなぎ倒して登山道を造るような神経があまりにもむき出しになっている。

このような背景を考えると、やはり日本は共和制として再出発したほうが、未来の進む道に合っているのではないだろうか。人口が将来減少し、多くのアジア人が移り住んで仕事をする、というような国際社会を想定するとき、現在の天皇制では、ただ排他的な風潮をあおる道具にされるだけだろう。

かつて日本列島が、大陸と陸続きで、日本海が大きな湖だった頃のように、人も動植物も自由に行き来できた、本来の姿に戻るべきである。日本人も朝鮮人も中国人もないのだ。我々は単に湖の対岸に住んでいるだけなのに、ばかげた偏見と確執に捕らわれて、歴史の流れを後退させている。

この際やはり過去の遺物はいったんきれいに除去すべきだろう。たとえば国歌「君が代」はたいていの人がどんな意味を持つのか考えもせずうたっている。これを現代日本語に訳せば、賛成できない人も多く出てくるはずだ。戦争で家族を殺されて、天皇だけ長生きすればいいなんて納得できない人も大勢いるはずだ。

何も昔通りに続ける必要は全くない。もっと人々の共感を得られる歌を国歌に選ぶべきなのだ。たとえば「うさぎ追いし、かの山・・・」のあの「ふるさと」を国歌にしようという人がいるというが、大賛成だ。もっとも、森林や田んぼをつぶして工業団地にしようという人には気に入らないだろうが。

初稿1999年12月

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