政治時評

杭州・西湖

法制度や行政によって社会に実現するべきだと思われる具体的方法

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大規模店舗展開を
大幅に規制しよう

駅前商店街の衰退は、目を覆いたくなるばかりだ。日本中どこに行っても、シャッターの下りた、人気のない駅前通りが目に付く。もうこの流れを止めることはできないのだろうか。アメリカと同じように、「パパママストア」は完全に姿を消してしまうのだろうか。どうやらそのような趨勢である。商店街のグループが、いかにイベントを企画しても、「お買い物バス」を運行しても、それは一時的な効果しか望み得なく、中小規模の商店はもはや望みがない。

買い物客はどこへ行ったのか。それはいうまでもなく郊外の駐車場完備の大規模店である。大量展示と薄利多売によるこれらの店に、衰退する商店が太刀打ちできるはずがない。だが、一方でこのような状況は実に大きな危険をはらんでいる。もし何らかの理由で燃料が手に入らなくなり、ガソリンが大変な高値になったら、(そんなことはあり得ないと本気で信じている人々がいるようだが)これらの店へどうやって出かけてゆくのだろうか。

郊外店は自転車で行けるような近さではない。車が使えなくなれば、人々は食糧の買い出しに大変な困難に陥ることになる。そのときには近くの中小店はつぶれてしまっていて、ほかに行くところがない。中小店の消滅は止められないが、郊外店と自動車だけに依存した町づくりは、将来やっていけるのだろうか。

あとで後悔しないためには、郊外店と近所の中小店との両立が絶対必要である。両者のバランスよい発展を望むなら、大規模店の出店をいままで以上に規制する必要がある。また売る品物の種類の規制を行い、それによって中小店との「棲み分け」をはからなければならない。だが、グローバル化の勢いが強まるにつれ、事態は逆の方向へと進んでいる。経済が順調に成長しているときはそれでいいが、いざそれがうまくいかなくなったとき、今のような大規模店優先政策では、事が生じたときにパニックが起こるおそれもある。

世界の趨勢は大規模店の優遇と、小さな商店(いわゆるパパママストア)を自由競争の名のもとに消滅させることに向かっている。だがこれは明らかに一家に一台の自動車の普及を念頭に置いた考えであって、浪費の好きなアメリカ国民が始めたことであり、世界中がこれにならえば、破滅的事態も招きかねない。

アメリカ風ライフスタイルは、狭い日本には適さない。何百台も駐車できる広大な駐車場一つとっても、貴重な農地をどれだけ犠牲にしているか。全国的に集計すると大変な広さになる。いったんアスファルトで固めたところは農業生産に戻すことはもう無理だ。

大規模店の取り柄は価格と種類の多さだけである。大量仕入れ、大量販売に基づく形態は、そのいずれかが欠けると直ちに閉鎖となる。したがって出店と閉店のサイクルが短く、地元の住民に迷惑を掛け、愛着がわかない。

さらに問題なのは、従来の卸売市場の衰退である。中小商店の減少と、大規模店の産地との直接取引によって、仲買人の重要性は相対的に低下し、生産者が自由に産物を持ち込んで売るというシステムが崩れてしまう。現在の大規模店は多くが商社と組んで、特定の生産者と契約を結ぶが、そのねらいは徹底的に買いたたくためだ。それは需給関係に基づく相場の原理によるのではなく、取引停止の脅しを込めた交渉である。

生産者は自動車会社の部品下請けと同じく、言いなりになり、奴隷扱いされる。それでも販売がうまくいっている間はまだいいが、安い輸入先が見つかったり、いったん販売業績が落ちると直ちに翌年からは契約を解除される。相場に一喜一憂するのも大変だが、このような大規模店のいうなりになるのは、潜在的に大きな危険をはらんでいる。

そのときには卸売市場の機能は落ち込んでおり、ほかの納入先を見つけようにもどうにもならなくなっているのだ。道ばたで露店をする以外にさばく方法がなくなってしまう。 結局、客は見てくれだけの「清潔さ」「便利さ」のイメージで買い物に行く。そこに潜む害悪には気づかないか、目をつぶり、そのうちその地域にはその大規模店しか残っていなくて、完全にその店に依存せざるを得ない体制となるのである。

もはやこれでは自由競争でもなんでもなく、単なる「寡占」状態になるのだ。そうなれば消費者は食い物にされるだけである。その先の未来像は見えてこない。

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