政治時評

杭州・西湖

法制度や行政によって社会に実現するべきだと思われる具体的方法

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民度について

民度とは何か?本田勝一氏の定義を一部借用すれば、国民がまわりの流れに押されず、自分でものを考え、歴史や地理からどのくらい教訓を得ているかの度合いである。そしてそれは政治の世界に重大な影響を及ぼす。

民主主義はその制度ももちろん重要だが、その中に住む国民の意識が低くては、入魂しない仏像と同じで意味がない。現在世界中で形式的には民主制度は整いつつあるが、民度の問題があまりにもおろそかにされている。

では日本の民度はどの程度かと問われると、残念ながら世界の平均に遠く及ばないほど低いと言わざるを得ない。絶え間ない流行、同質性を最重要視する気風、戦争の被害を被っても相変わらず跋扈する軍国主義、私生活に逃避する社会的無関心、などどれをとっても悲観的な材料ばかりである。

これに対してイギリスなどは、少なくとも現在においては、国内的には民度は比較的高いといえる。過去においてはかなりひどい時代もあったが、国内政治に関してはそれなりの経験を積み、能率的な自治体、適当な政権交代など、それなりのバランス感覚を獲得しているようだ。「国民はその程度にふさわしい政府しか手に入らない」と言ったのもイギリス人だ。

だからイギリスのように民度のかなり高い国であれば、君主国であっても別に心配はない。一方、日本が共和制に移行した方がいいのは、民度が低く、天皇制を担ぎ上げる狂信的な人間が多く存在して政治的に利用しようとし、それを効果的に防止する意識も国民の間に欠けているからである。。

ところで、国外に出ていった(元)イギリス人は概して民度が低い。それとも民度が低いのが出ていったのか?(これは歴史的調査が必要だ。)その典型がアメリカであり、奴隷制度、禁酒法、ベトナム侵略、マッカーシーの赤狩りなど愚かな過去の事件が、国民のサイレント・マジョリティ(声なき多数)の合意のもとに行われたことを考えると、大国としての危うさを感じる。

第2次世界大戦で戦って勝利を収めたのにも関わらず、日本を依然として中国の一部だと思っている人がごく最近までアメリカの田舎におおぜいいたことを考えるとうなずける話だ。またアメリカの大統領選挙は、政治の選択ではなく単なるお祭り騒ぎだという人もいる。但し、この国のふところの広さを過小評価してはいけない。アーミッシュもアメリカ人だし、ベトナムや環境問題に勇敢に挑んだのもアメリカ人だから。

オーストラリアにおいては、「白豪主義」は決して消滅したわけではない。その他、民衆を分割統治する、イギリスの植民地経営の「巧みさ」は、イギリス国内とは全く違う事情のもとに、それぞれの独立国の政治体制の中に取り入れられていった。

だが、イギリス国内では、帝国主義に走らずに、しっかりした考え方を持つ市民が多数輩出したのもまた事実である。特にマルクスが勉強し、社会主義を実現しようとフェビアン協会が生まれ、労働党が社会保障制度を生み出すに至った経緯は大いに興味あるできごとである。

このように地理、歴史から教訓や知恵を引き出す能力は、非常に大切なものなのだが、絶え間ない教育と啓発がないと、とたんに途絶えてしまう、か細いものでもある。

だから日本では元々熱しやすく醒めやすく忘れやすいと昔から言われているだけに、軍部の横暴と戦争の悲惨な体験は全くと言っていいほど後世の世代には伝えられていないのである。これでも戦後60年近く何とか形式だけは民主主義の体裁をとってこられたのはあの「押しつけ」憲法のおかげである。

憲法を改正しようという人々は、とかくアメリカ駐留軍によって押しつけられたことを強調しようとするが、押しつけられることと、自分で決めることは、その良否とは関係ない。それを無理に関係づけて違った方向に憲法を変えてしまおうとするのがおかしい。

余り悲観的にはなりたくないが、おそらく憲法改正が国会で今後論議されると、改正案が実現してしまうだろう。それは先に述べた日本国民の民度の低さによる。宣伝の大変上手な改正論者に、かんたんにのってしまうと思われるからだ。彼らは用意周到に、平和憲法は無意味だという風潮を作ってしまうはずだ。

日本の民度は、まわりのアジア諸国にも確実に追い越されつつある。優れたリーダーが輩出すると、そこで民度は大きく進歩するものだ。マルコスを倒したフィリピンのアキノ、スハルト追放のあとに登場したインドネシアのワヒド、代々の軍事独裁政権からやっと脱皮できた韓国のもとでの金大中、などはそれぞれの国の国民の意識を大いに高めている。南アフリカでは、アパルトヘイトをなくした、マンデラの名前も忘れられない。

実にうらやましい。これに対して日本での総理大臣は完全にクズばかりであり、特に終戦間もない頃に戦争犯罪人や、アメリカや財界と癒着した政治家が、首相になったために、すっかりそれが現在に至るまで定着してしまった。昔からある、談合、密室決定、順送り、問題の先送り、など悪い習慣を総て受け継いでおり、国民もそれらに慣れているから、余りそれらに文句をつけることもない。

しかも、日本では政治家2世が横行し、汚職議員が何度でも「郷土の誇り」として再選される。選挙民には羞恥心は存在しない。「ドン百姓」という言葉が差別語ならそれでいい。差別せざるを得ないほど、民度は絶望的に低いところにとどまっているのだ。

どこの国でもポーク・バーレル、つまり民度の低い選挙民に甘いエサをやって選挙で勝つというパターンは存在するが、日本ではそれだけでなく大企業との癒着もあって、益々動きがとれない状態になってしまっている。

このとき民度が高ければ、それを徹底的に調査し糾弾して、自分たちの置かれている状態を改善できるはずなのだが、それを指導する者も、勇気を持った者もほとんどいない。仮に出てきても、「アカだ」というようなステレオタイプによって葬り去られる。民度が低い場合、のけ者にされることが最大の恐怖だから、離脱者や独立独歩の者がいないのである。

歴史的に見れば、徳川家康以来、徹底的に庶民を押さえつけ、お上にものを言わない風潮を作り上げた徳川家の初期の統治にさかのぼることになろう。思えば不幸な支配者を日本は持ってしまったものだ。これによって国民は、役人や官僚に対して主張も不平も言わない伝統ができてしまった。

民度はさらに、同質性を重んじる風潮によっても低くなる。隣の家と同じ家具を持ったり、同じ年代で同じ服装をしないと不安を感じる社会心理は、太古の昔から独裁者たちのかっこうの道具になっていたのだが、残念ながらそれに警鐘をならす人はすくない。

たしかに現在のような大量消費社会では、流行が経済繁栄の大切な基礎にされている。みなが同じ大量生産の製品を買ってくれるから、大量消費が起こり、経済が成長するという段取りだ。だが、それが社会意識の領域にまで入り込むと、人々の判断力まで奪う。

テレビが出現したとき、国民総白痴化を危ぶむ声があったが、元々民度の低い地盤にマス・メディアが入り込むと、ほとんどの人々は無批判に情報を取り入れるようになる。

今の時代は情報があふれているといいながらも、実はそれは特定の分野、たとえば娯楽とか消費の分野にのみ集中していて、実は意外にいびつな広がり方をしているのがわかる。さらにたいていの人々は、理解するのに精神的努力の最もいらない情報だけを取り入れる傾向があるから、それはなおさら偏ってくる。

かつて衆愚政治の危険を唱える学者がいたが、現代ほどその危険が差し迫っているときはないのではないか。もし通信網が不備なら、情報の行き届かない人々を統制することは難しいが、民度の低いところに持ってきて、情報操作を巧みにやれば、多数派を形成することは実に簡単だ。

この「多数派」という、民主制度を逆手にとった権力の握り方が民度の低い社会では最も怖い。民主制度の根本は多数を占めることではなく、話し合いによる少数派との「妥協」のはずなのだが、それを認識できる人はごくわずかだ。

それは学校での学級会の運営を見てもわかる。発言する人が立ち上がり、自分の言いたいことをいい、最後に手を上げて数が多ければそれでおしまい。少数派の言い分はせいぜい発表されたというだけで、多数決の果てにはゴミ箱行きとなるだけだ。「決」をとるのが最終段階だと思いこんでいる。民主主義の根本はゴミ箱行きを全くなくすことのはずである。

このような状態では民度が高まるはずはない。せめて、世界中で時おり見かけるような、賢い指導者が現れてくれればいいが、残念ながら、日本はそのような指導者がのびる余地はない。この国は、大部分の南アメリカ・アフリカ諸国やかつての韓国や南ベトナムと同じく、軍事独裁的な人間が人気を博すレベルの民度しかないのである。

さらに悪いことには、日本には連帯の伝統がない。イギリスでは、労働組合は今でこそ衰退してしまったが、かつて激しい労働争議が何度も国中を揺るがした。日本の人々は毎日の暮らしに追われ、政治的な不満をいっぱい抱えていながらも、それを声に出すことをしない。既成の政党ではダメだといいながら、だからといって住民運動に積極的に乗り出すわけでもない。

個人の力や意識ではどうにもならないものであるからこそ、団結による集団行動が意味を持ってくるのだが、これはそれと敵対する権力と同党に渡り合えるぐらいのパワーがないと使いものにならないのである。だから今のように原発反対や公共工事反対の運動でも多くは行政側に押し切られ、無力感を強めている。

もっと民度を高めることはできないのだろうか。民度は教育と経験によって培われる。民度は伝統的に個人の判断力を重視する雰囲気の中でのびて行く。ただ、せっかくあるレベルに達しても、ちょっとしたきっかけで世代間の断絶が起こりその蓄積は無に帰す。

これからもさまざまな試練が待ち受けているだろうが、日本人の民度は今のままでは、決定的に壊滅的な方向を向いているとしか思われない。残念ながら悲観論のほうがはるかに強いのである。

2000年4月作成

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