政治時評

杭州・西湖

法制度や行政によって社会に実現するべきだと思われる具体的方法

HOME > Think for yourself > 政治時評 > コンパクト・シティ

郊外開発を規制し、
コンパクト・シティ
を目指そう

狭い日本、幸いなことに山国であるおかげで、森林地帯の開発はダムと林道を除いてそれほど進んでいない。だが平野部ともなるとほとんどの地域がまず田畑に、そして戦後の都市の膨張により、スプロール化が途方もなく進んだ。

特に重要なことは先祖代々営々と築いてきた田んぼを、いとも簡単に土砂を埋め込んで住宅が建設されてしまったことである。田んぼを作り維持することは、機械のなかった時代には想像を絶する苦労が伴ったのだが。

そして米が常に豊かに実るように投入された肥料の量も、こまめな日本の農民のことだから膨大だったと想像できる。このような豊かな水田が、今まで世界一の単位面積あたりの収量を誇っていたのだ。

都市の膨張はどこにでもあることである。だが始末の悪いことに日本人には一戸建て信仰がある。マッチ箱のようなアパート暮らしはいやだ。少しでも収入が増え、しかも会社での地位が上がれば、すぐに庭付きのたとえ狭くてもいいから家を買いたいという願望を持ってきた、いやそう思いこまされてきた。

それが町を中心から離れた、価格の安い場所に次々と住宅を造らせた。一戸建てを持つことのできた人々はたとえ交通が少々不便であっても、「自然」が近くにあるからそれで満足だという。

だが、都心部から離れるということは、従来の商店には遠すぎてゆけないことを意味する。また自然が近いといっても、実はブルドーザーが入った、偽の自然であって、無責任な開発業者や先見の明を全く持たない役所の職員の手になるものだから、当然不満だらけのものが大部分だったのである。

だが戦後、平野部の少ない日本では、ついに平野だけでは住宅地を供給できないところまで到達してしまった。関東平野は言うに及ばず、仙台、広島、札幌、そして盆地にある都市は、その宅地を山間部に求めるようになってしまったのだ。

これは当然、山や丘陵地帯を徹底的に伐採し切り崩し、ひなだん型の団地を作ることを意味する。野や山の動物は追われ、わき出ていた泉は止まり、ブルドーザーによる成形が行われ、その場所の生態系は完全に破滅する。

典型的な実例は横浜市の磯子区や根岸区に見られる、小さいが多様な生物があふれかえっていた、谷戸「やと」を埋め、平坦な場所にならして作った団地だろう。

今そこの住民の大部分は勤めに出るために、バスで駅まで行きそこから会社まで電車に乗り、ドアツードアで1時間半以上かけてゆく。高度成長期の住宅ブームにのって分譲を受けたり借りたりした人々だ。

このようにして郊外が無秩序に広がり、まわりの野山を浸食する一方、人々の生活圏が拡散し、しかも自家用車を持つようになったために、都心では従来の商店街がさびれるという全国共通の現象が生まれている。

郊外で交通が不便、自動車を買う、遠くのスーパーまで買い出しにゆく、都心がさびれる、郊外の渋滞がひどくなる、という悪循環が今後ますますひどくなり、都心の空洞化はますます進むと思われる。

もしこの流れに歯止めをかけなければ、アメリカの中都市のように、孤立した郊外、つまり車がなければにっちもさっちもいかないコミュニティーが多数生まれることになるだろうし、これでは今後の高齢化社会にとっては大きな脅威である。

かつての「都市」と「田舎」の間に、中途半端な「郊外 Suburbs 」が入り込んできたために、文化も発達しない、「ベッドタウン」と揶揄される、ただ寝るだけの場所としての機能しか持たない地帯が発生したのだった。

狭い日本の国土に、いや全世界の流れの中ではコンパクトシティを作り直していかなければならない。実はこれは別に新しい考えではなく、かつての城下町、城塞に囲まれた街はみな自然にコンパクトになっていた。

このシステムでは、まず街は徒歩圏、少なくとも自転車で出かけても苦痛がない大きさでなければならない。そのためには半径5キロを超えてはいけないのである。もしその大きさを越えるようであれば、地下鉄かモノレールによる拠点の分散化が求められる。

バスはいけない。安易なバス路線の敷設が、今の無秩序な団地の乱造を招いたのだから。誰でもバスさえ来れば、それで都心とは結ばれたと思っている。だが、バスによる交通は必ず自家用車による渋滞に巻き込まれるし、バス専用路線を造るような大きな犠牲を求められることもある。

団地を作って開発業者は、市などが当然のサービスとしてバス路線を敷設するものと思っている。これがそもそも間違いなのであって、水道、ガス、電気、電話の基礎的なインフラを整備するなら、確固とした交通を確保するのも業者の義務のはずなのである。そこの肝心なところが甘やかされてきたから、今のように手の着けられない事態を招き、バス路線はどれも慢性的な赤字に悩むことになる。

現代のコンパクトシティを可能にするのは、超高層ビルの建設を可能にした技術の発展である。40階以上、60階ぐらいまでの地震に負けない超高層ビルの建設こそ、その地域の人口密度を高め、商店への人の出入りを増やし、これからの都市を活気づけるものなのだ。

例えば40階のビルを造ると、ワンフロアにつき10所帯が入居できるとすると、全部で400所帯、これを一戸建てに住まわせたらどれだけの面積を取ることか!たとえ20平米の「猫の額」であっても、8000平米もいる計算になる!しかも街はずれに住む人は最寄りのバス停まではるばる歩かなくてはなるまい。雨の日も風の日も。

高層ビルであれば、高速エレベータで一瞬にして地上に降り立つことができる。垂直移動は、水平移動に比べて遙かに容易だし、エレベータが有料なんて聞いたこともない。高層化によって浮いた土地は、鬱蒼とした森林を作ればよい。一戸建ての狭苦しい庭で遊ぶより、迷う心配があるような森の中で遊ぶほうがどれだけ子供にとっても健康的なことか。

さらには、商店の活性化が起こり、近くだから自家用車は不要、買った荷物もエレベータで瞬時に運べる。住民が狭い場所に集中することによって、専門店や特殊な用途の店が余裕を持って営業できるようになる。団地では日用品のような「売れ筋」しかおけなかったのに、多様な要求に応えられる品揃えが可能になる。

結局都市の魅力は、「自然」以外の何でもが手に入り、体験できることなのだ。そして職住接近のおかげで貴重な時間を空費せずに済む。どうしても自然の必要な人は、腹をくくって「完全な」田舎に住むべきだ。そして心ゆくまでその恵みを味わうべきだろう。そこまで徹底できなければ、ロシア式に「ダッチャ(別荘)」を手に入れたり借りたりする選択もある。

大切なことは、人の住む地域と、自然の地域、農業の地域の3つの明確な区分だ。そのためには現在のような開発業者の好き勝手な振る舞いは絶対許されるべきではないし、ゴルフ場なども速やかに山に戻さなければなるまい。大規模小売店舗を郊外の勝手な場所に作らせてはならない。これが車を集中させ、中途半端な開発を誘発する原因となる。

また何よりも急速に行うべき事は、住民の郊外から都心への移動である。強制移住ができないなら、それに代わる名案を考え出さねばなるまい。まず都心での交通網を完全なものにして、例えば100万都市であれば、市街地の人口密度を高め、地下鉄か路面電車を便利なものにして、それぞれの駅前を商店街と超高層ビルによる核を形成する。またその周辺をゾーン化して、地価がむやみに上がらないようにする。

少なくとも遠隔団地よりもはるかに便利でありながら、価格は同等ぐらいという状態を作り出さねばならない。また団地への交通をできるだけ不便にして、住民が都心へ引っ越すような雰囲気を作ることも重要であろう。ここで不動産価格の野放図な動きは、反社会的なものとしてしっかり監視する必要がある。

今までのように団地から都心に通じる片道2車線の道路をむやみに造って、いたずらに交通量を増やすような愚策は採らずに、逆に意図的に1車線に減らすなどして、不要不急の車が通らないようにする政策も必要である。今までのように自動車におもねるやり方では、解決の道は開けない。道路建設はコンパクト化に逆行する。

かつて多くの人々が団地に移ったのはその価格の安さのためであった。安ければどんな不便でもいいから、という人さえもいた。水は低い方に流れるのである。この点を市場原理に任せていたのでは事態は悪化するばかりだ。ここで強力な施策を実行し、郊外と都心の価格差があまり開かないようにすべきだ。

そしてすでに述べた一戸建て信仰を打破し、それが自然破壊につながり、都市機能の悪化の原因の一つであることを人々に理解させることが必要なのである。一つはマンション設計の改善が求められる。「狭いアパート」ではなく、「広いプライベート空間」の創造に建築家は努力すべきだ。

マンハッタン島と香港島はビジネス中心ではあるけれども、まわりが水に囲まれているという制約のおかげで、それなりにコンパクトな構造を作り上げてきた。地下鉄を使って快適に移動でき、街のイベントに直ちに参加できる。徒歩で街が歩けるので短時間に街の雰囲気を楽しめる。娯楽施設のハシゴも可能である。

逆にひどい例はロサンゼルスだろう。重要な施設がてんでバラバラに散在するために自動車が欠かせない街の構造。片道6車線の高速道路を建設してもなおひどくなる渋滞。谷間に澱むスモッグ。もともと乾燥地帯だったので、はるか遠くから水を運んで生活用水とする、もろい給水体制。かつてはオレンジ農園と水争いをして死者を出したこともあった。

東京都区部は地下鉄と鉄道網に関しては優等生だが、山の手線内部の再開発が不十分だ。だから千葉、埼玉、神奈川での「都民」が大量にできてしまい、区部の人口はむしろ減少気味だ。これ以上武蔵野や房総、関東北部の田園地帯が破壊されないためにも、もっと中心部への人口集積を計らねばなるまい。

そして地方都市だが、人口が100万以下の都市は今すぐにでも具体的な施策を打ち出せるはずである。特に盆地の都市は決して山間部に開発の魔手が及ばないように有効な対策を必要とする。高山市のように背景にくっきりと緑の山を持った都市は美しい。逆に山の頂上にまで宅地がへばりついているような景観は醜悪の一言に尽きる。

100万を超えた都市は政策の選択が難しい。地下鉄を建設するには財政的にあまりに負担が大きく、また一方ですでにある郊外団地へのバス路線は大赤字で苦しんでいるからだ。ここである程度住民に苦痛を忍んでもらって大鉈を振るい、強力な住民移動策を考えるしか方法があるまい。昔から地元に住んでいる人ならともかく、新しく住み始めた人なら、比較的都心へ移動することに心理的抵抗は少ないだろう。

幸いなことに、少子化高齢化の波は郊外団地の人口減少を招き、将来的には住宅地が自然消滅する可能性もある。これなれば、再びブルドーザーに登場願って、もとの地形に戻し、動物学者や植物学者の協力を得て、もとの生態系を復元すればよい。

21世紀はこのようにして、都市部の集中化を図り、少しでも破壊された自然を元に戻すべきだ。失われた沼に水を戻し、魚を復帰させ、キツネや狸を導入し、かつての植生を学者に研究させて復元し、ヒトにも動植物にも快適な環境の再生を図っていかなければならない。ヒトの住む領域と自然の領域を明確に分離し、それぞれの影響を互いに及ぼさないようにするのが望ましいのだ。

各都市の試み;都市問題の解決と今後の進む方向については机上の理論では何も生まれない。実際にやってみてうまくいくかいかないかを判定しなければならない。つまりこれには「実験」が必要なのだ。ここに3つの都市のホームページがある。それぞれ意欲的な模索を行っている。

2000年6月初稿2006年2月追加

HOME > Think for yourself > 政治時評 > コンパクト・シティ

© Champong

inserted by FC2 system