政治時評

杭州・西湖

法制度や行政によって社会に実現するべきだと思われる具体的方法

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自由競争は何をもたらすか

資本主義の国々の経済政策は、20世紀に入ってさまざまな変遷を遂げてきた。その大きなきっかけになったのは世界的な大戦と、好景気や不景気の波、さらに時折訪れる恐慌である。

これらの国々は、共産革命は起こらなかったが、斬新的な社会主義など、別の名の政策が常に政治の舵取りを左へ持っていこうとした。それらは「社会党」とか「社会民主党」などという名前で呼ばれた。

政治の世界は時計の振り子のようなもので、左や右に振りすぎると、必ず揺り戻しが起こり、健全なバランスを生じるように働くらしい。一方、バランスをうまくとれなかった国は、革命やファシズムへと極端へ流れていった。

ところで、「左」と「右」とは何を意味するのか?資本主義国、または自由主義国におけるこの二つは、次のように理解することができる。

まず「左派」だが、これは極端に進めば共産革命、社会主義革命となるが、そこまで行かない場合でも、私的財産の制限、国家による管理の増大への傾向を持つ。また、福祉重視、公共事業の推進、労働組合活動の擁護、という傾向も持つ。さらに国家主義よりむしろ国際主義に好感を示す場合が多い。イギリスの労働党、アメリカの民主党がこれに近い。

これに対し「右派」とは、これが極端になれば、ファシズムになるだろうが、西欧の多くの国はそこへ行くまでに歯止めがかかるので、実際にはそういう想定はしにくい。全体としての傾向は、資本家や経営者による経済活動の自由放任、小さな政府、社会福祉の代わりの自己責任重視、規制撤廃が特徴となる。

「右派」の誕生はイギリスの産業革命のときだといってよい。当時、全く野放しの状態で、資本家は労働者を好きなだけこき使い、海外の植民地から資源をかすめ取ったが、これに対してしばらくの間、だれも制限を加えようとしなかった。そのために悲惨な搾取が横行し、労働組合が生まれ、資本家に対する対抗勢力をやっと確立することができた。

しかし経済繁栄の果てに、1929年に始まった世界大恐慌の後始末には、「左派」が大活躍した。フランクリン大統領のニュー・ディール政策が最も有名である。第2次世界大戦後の西欧では、戦争被害の後始末のために、これまた「左派」が中心的役割を果たした。スエーデンの福祉国家としての名声もそのころできた。

だが戦後30年ほどたって各国の経済が順調に成長し、欧米の国民はそれまでの社会主義的政策がむしろ成長の足かせになると感じたらしい。「左派」的政策が飽きられ、もっと自由に経済活動を行いたいという欲求が高まっていた。

その時期に現れた「右派」の教祖が、イギリスの女性首相、サッチャーである。彼女の労働組合に対する徹底的な弾圧、ロンドンの株式市場の大幅な自由化に代表される、大規模な規制撤廃により、一躍世界の「自由競争化」のチャンピオンとなった。

戦後は「ヨーロッパの病人」とまで言われたイギリスが、これによって息をすっかり吹き返し、フランスやドイツに伍してヨーロッパの経済を牛耳るようになったのは彼女の時代からである。ロンドンの金融の中心シティーは世界の金融の中心の一つにもなった。

サッチャーと気の合った友人は、アメリカの当時の大統領レーガンである(共和党)。彼は彼女の政策に意気投合し、さっそく同じことを始めた。特に彼のやったことで有名なのは、航空料金や航空路線の全面的な規制撤廃である。それまで政府の管理でがんじがらめになっていた航空業界がにわかに活気づき、これが他の産業に次々と波及していった。

1980年代が「貪欲 greed の時代」と言われたのは、たがをはずされた経済界が一気に最高速度を出して走り始めたからである。結局イギリスで始まった自由化の波は、アメリカで完成し、その経済刺激効果の大きさが、多くの人々に「自由競争崇拝」の態度をとらせたのである。

イギリスでは地域的な効果だったのが、アメリカでは世界貿易の増大(特にアメリカの輸入増大)と結びつき、これが「グローバリゼーション」と呼ばれるようになった。まさに「右派」の大勝利である。

グローバリゼーションの最大の特徴は、それまで関税や輸入制限によってモノの移動が各国の裁量で制限されていた国際貿易に、全く自由な流通を許したことである。だがこの実現には、いくらアメリカだけがその方式をとっても意味がない。世界のすべての国がそのやり方に協力することが大前提となる。

かくして、アメリカとヨーロッパ、アメリカと日本がまずそれぞれの関係に新たな方式を取り入れることになった。次に中進国、そして最後に後進国ともこの原理を使って世界経済の共存共栄をはかるというのが、この看板政策であった。しかもほとんどの国はアメリカの要求に異論をたてられなかった。どこもアメリカへの輸出によって外貨を稼いでいたからである。

自由な物資の行き来、活動が活発になることによって、各地の経済が成長してゆくのだと、いいことづくめのように最初は見えた。実際90年代前半には、グローバリゼーションは普遍的な真理ということになり、これに反対する者はキチガイ扱いされる始末だった。それどころか、この政策は、本来受け入れられないはずの民主党にも継承され、クリントンのもとで、民主党の「共和党化」が進んだ。

だが、本家本元のアメリカでは特に、「右派」の政策がいきすぎたと感じ始める人々が少しずつ現れてきた。揺り戻しの流れが始まったのである。グローバリゼーションによって起こるさまざまな弊害を指摘した本が次々と出版され、人々もその問題点に気づき始めた。

アメリカが、世界中に「自由貿易」教を広めるために使った道具は4つある。一つは昔からあった GATT そしてその後を継いだ、世界貿易機関 WTO だ。これはもともと各国間の関税撤廃を促進するために戦後間もなく作られたものだが、これがさらに少しずつ決定事項を増やして参加各国に守らせるという方法を取ってきた。

もう一つは世界銀行であり、出資国であるアメリカが大きな発言権を持ち、世界中の開発途上国に貸し付けるのである。借りた国は、その返済、運用について世界銀行の要求に従わなければならない。債権者の強みを自由貿易の普及に一役買わせたわけだ。

さらに国際通貨基金 IMF である。アメリカが主導権を握り、自国に最も都合のよい、だが表面上は世界のためになる政策を次々と打ち出した。借金を返せない貧しい国には、厳しい処方箋を与えて経済を立ち直らせるというものだが、この前のアジア通貨危機の時は、やり方が一方的すぎると批判をあびた。

だが、これらはすべて国家主導であり、最も大切な存在が忘れられている。それは多国籍企業だ。それが拡大し、世界という舞台に活躍するには、それまでの各国の制限が邪魔で仕方がなかったのである。グローバリゼーションは彼らのために用意されたようなものである。

この4つの「伝道師」を通して、自由貿易のイディオロギーは急速に世界の隅々まで、絶海の孤島にさえ広まっていったのである。

規制撤廃というと聞こえはいいが、実は産業革命当時の状況に逆戻りを意味するのである。なぜなら、すでに述べたように、労働者や資源の猛烈な搾取の及ぼす悲惨な状況に、当時の腰の重い政治家たちもついに世論に押されて、さまざまな法の網を企業活動にかぶせてきたわけで、網があまりにがんじがらめなのでもっと自由にしてくれ、というのが今回の動きだからである。

となれば、再び昔のような悲惨な状況が姿を現すのは当然であり、違っているのは、それが世界的規模で起こり、被害者は主に先進国での貧困層や、最貧国に集中し、その場合かつてのイギリスのような、比較的効率的な政治制度が機能しないということだ。救済は無視される可能性が大きい。その被害は、労働者、地場産業、環境健康の3分野で起こる。

まず第1に、労働者の賃金や雇用に対する規制が撤廃されるとどうなるか。企業は当然のことながら、できるだけ人件費を抑えたいから、人員整理が直ちに実行に移される。社会保険や退職金のような付随するコストのかかる正社員はできるだけ切りつめられ(リストラ)、そのかわりに臨時雇いに置き換えられる。

さらに雇っていると、年々個人の給料が上昇してゆくので、これをくい止めるために早期にやめさせ、若者を雇う方針を置くようになる。もちろんそのためには、非熟練でも間に合うような体制を作っておくので、多くの人員が回転しても平気だ。もちろんそのような仕事は賃金が安い上に、単調きわまりない性質のものである。

また労働組合の結成は徹底的に妨害する。これは当該国の法整備の状況にもよるが、開発途上国などでは労働三権、つまり交渉権、団結権、争議権などは全く存在しないと思っていいし、それどころか多くが児童労働に頼っているのが現実だ。

それでもその工場での労働者に払う賃金の額がその企業にとって重荷になってくれば、企業はためらわずに工場を移転する。行く先は、もっと賃金の安いところであり、それは同じ国内の辺境地であり、また海外の通貨価値の著しく低い貧しい国かもしれない。企業はさらに人件費が安く済むところを求めて地球上をさまよう。

従って労働者の立場から見れば、仕事に生きがいを求めることのできるような職種はごく僅かで、後は低賃金かつ単純労働を強いられることになる。さらに対抗手段も見つからず、立場の弱さから使い捨てが続く。

能力のあるものが職を得、そうでないものはいつまでたっても職がないという状況に加えて、幸運にも職を得たものはその能力故に、二人分も三人分も徹底的にこき使われる。それを拒否したりすれば直ちにもっと働くことを望む人に取って代わられるだけだ。失業と過重労働の両極化が進む社会になってゆくのだ。

最近は小売業界での営業時間が大幅にのびた。コンビニはもちろんのこと、普通の店まで夜遅くまでやっており、元旦にまで店を開くことによって収入を増やそうとしている。犠牲になっているのは長時間働かされる従業員である。競争で小売り店同士お互いに背伸びをしあっているうちに、全員が伸びきった状態で立つ羽目になっている。

最悪の場合にはその国で定められた最低賃金さえ守られることはない。例えば貧しい国からの移民が大量に移住してきた場合など、彼らにとっては最低賃金の半分でさえも「高給」に見えるのだから。アメリカとメキシコの国境地帯では現にそういうことが起こっている。

かくして、労働者間の賃金格差は開き、貧富の差はいよいよ激しくなる。一握りの幸運な者たちが高給を手に入れ、残りの大多数が驚くべき低賃金に我慢し、長時間労働で健康を害し、あるいは失業して路頭に迷う。

第2に各国の地場産業の衰退である。それまで人手をかけて少量生産できた農業など、機械や化学肥料を大量投入するような方式にとうてい太刀打ちできるわけがない。あっという間にその地域の産業はより大量でより安く作れる外部の産業に征服されてしまうのである。

自由競争では「効率」がすべてである。牛を飼うにも今までのようにのんびりと餌を食わせているわけにはいかない。濃厚な飼料を無理矢理口の中に押し込み、それで健康を害したら、抗生物質を投与し、少しでも短期間で肥育を済ませる。大切なことは牛を食肉製造機械に徹することなのだ。これが他の牛飼いに勝つ秘訣だ。

こういう場合の申し訳は、「消費者は安ければ利益を受ける」である。価格がすべての自由競争では、地球上のある地域の産業が消滅したとて、何の関係もない。競争に勝つということは、数多くの生産者に廃業させることを意味する。すでにアメリカではパパママ・ショップはもう見あたらない。すべてがコンビニと大規模スーパーに取って代わられてしまった。モールという画一的なデザインの店舗が国内を荒らし回り、多様で雑多な小売業界はもうない。

農業だけではない。漁業においては強力なエンジンと漁法を備えた船が沿岸を荒らし回り、細々と暮らしていた漁民たちの生計の糧を奪う。そのうちその地域の漁業資源は枯渇してゆく。優秀な自動車を輸入することは、その国にとって一時的な恩恵になっても、自らの手で開発した車を生産する機会を永遠に失う。いや、自転車すらも国内で作る機会を逸すると、すべてを外国産に頼ることになる。

関税によって保護されない場合、国内産業が外部の売り込み攻勢に勝つ見込みは殆どない。さらに投資という麻薬によって国内は一時的に潤うように見えるが、実はしっかりと外国の経済力にくわえ込まれてしまうのである。

現在の途上国は、借金と投資に頼っているため、外国のくびきから完全に逃れることができるようになるためには、100年ぐらいかかるだろう。その間、生産される物も外国企業の指示によって決定されるのである。例えば、コーヒーが特産物だとすると、自給のための野菜とか穀物を作付けする畑にすら、コーヒーを植えて生産が最大になるようにさせられる。いわゆる飢餓輸出である。

グローバリゼーションは世界貿易による「分業」を唱えている。だが実際には互いに貿易なくしては、たちゆかないような依存関係を作り出すだけで、地域の自立を妨げる結果だけを生んでいる。そのため、戦争や自然災害や経済制裁によって貿易がストップした場合に、大規模な飢饉や、生活機能のマヒを招くことが憂慮される。

むしろ「分業論」は、各地の産物の多様性を消滅させ、世界中が単一の製品に満たされることを目指している。つまり特定の製品を永続的に買わせるための戦略に過ぎないことがわかる。世界中どこへ行っても同じ味のマクドナルドを食べさせられるわけだ。

第3は環境・健康問題である。多国籍企業は、賃金の安いところを求めて地球上をさまようが、同時に環境規制の緩いところも探し求めている。企業にとって一つだけ心配なのは「企業イメージ」である。これが汚されない限り、利益の追求に手段を選ぶことはない。さすがに煙突からモクモクと煙を出したり、海面が一面真っ黒になるような19世紀的汚染は、グローバル企業の間では影を潜めたが、より高度な技術の隙間であいもかわらず危険なことを続けている。

遺伝子組み替えがいい例で、数多くの学者の憂慮にもかかわらず、その輸出をごり押ししようとする力を緩めないし、最もその体質をよく表しているのは、組み替え表示の拒否である。

熱帯雨林でバナナやヤシが儲かるとなれば、広大な地域の伐採を行い、そこにプランテーションを作る。雇われた現地人は自給用の食糧を作ることを忘れ、そこから得られる現金収入だけで暮らすようになる。

(日本人の好きな)エビが儲かるとなれば、海岸の保護に欠かせないマングローブの木を切り払って池を作り、抗生物質を投げ込みながら、エビを養殖する。

優れた木材があるとなれば、腐敗した政府の役人に金を与えて、法律に無知な原住民をその居住地から追い払い、好きなだけ伐採をする。抵抗する者には、殺し屋を雇うことすら辞さない。

都市のスプロール化にも、自由企業のどん欲さがよく現れている。いわゆるデベロッパーは、開発規制の撤廃をいいことに、山も川も平原も砂漠も浸食し、世界中に同じような宅地を次々と造成している。ここにも価格の法則が通用していて、値段の高い都心を避け、土地価格の安い郊外へ、田舎へと止めどもなく広がってゆくのだ。

最近はゴミも貿易の重要な品目になった。自国内での規制が厳しくなったため、国際的な企業は、法の整備されていない国を狙い、多額の報奨金を提示して先進国で出たゴミを遠慮なくよその国に捨てに行っている。かくしてアフリカのジャングルや、中央アジアの砂漠地帯に、産業廃棄物の山ができ、そこから流れ出たどす黒い液体が、美しい自然の中で土の中に吸い込まれてゆく。まわりの住民は何も知らず暮らし、いつの間にか病気になっている。

法整備の抜け穴は、児童労働にも見られる。世界中では、児童が労働することを黙認している国のほうが多い。極め付きの低賃金に目を付けた多国籍企業が見逃すはずはない。企業イメージが落ちることを恐れて多くは下請け、孫受け、曾孫受けにしておいて、たくみに世間の目を逃れようとする。

自由競争の与えるインパクトを3つの側面から見てきたが、社会正義を貫くために、いかに法整備と多国籍企業に対する対抗勢力が必要かを痛感させられる。規制緩和、規制撤廃とは、無法状態を作り出すのに似ている。企業活動、利益追求は必ず害を及ぼすことはわかり切っているのだから、これまで築き上げてきた人類の経験に照らして、あらゆる面での制限を加えなければならない。

グローバリゼーションのメリットはただ一つ、消費者が安くモノを手に入れることができることだけである。だがこれを実現するには今まで述べてきたようにあまりに犠牲が多すぎる。そろそろ右寄りから、左寄りへ揺り戻すべき時が来た。大恐慌や大戦争、その他の要因で現在の経済成長が壊滅的な打撃を受ければひとりでに左寄りへ方向転換してゆくだろうが、そうなる前に手を打っておくのが政治家の英知というものである。

今日の現状 競争より共生へ。人間の間で自由競争を任せるわけにはいかない。その止めどがない欲望によって歯止めが利かなくなる。かつてコンビニが生まれた頃、たくさんの店がその地域の需要をはるかに越えて乱立した。おかげで多大な投資が無駄になり多くが「テナント募集」の看板を掲げている。

これが効率的といえるだろうか。確かに生き残った店の内部では効率的経営を心がけるだろう。だがそれに行き着く淘汰の過程で途方もないコンクリート、建材、ガソリンが消費された。それが社会の経済を活性化させるという考えは、結局資源の枯渇とその奪い合いの構図を招くことになる。

自然界の自由競争は必ず終わりが来て、安定状態に達する。競争で負けて倒れたものも無駄にならない。ほかの生き物のエサになったり肥料になったりする。そして安定状態は森林では「極相」とよばれ永続性を持つ。

火山の噴火や海が進出したり後退したり気候の急変によって環境が急激に変化するときだけ競争が出現した。だがそれは相手を敗退させるための競争ではなく、それぞれの居場所(ニッチ)を決めるための競争なのである。だから自然界は速やかに安定に向かっていく。

自然の根本原理はだから競争ではない。根本原理は共生である。競争は共生が生まれるまでの一時的状態にしかすぎないのだ。人間社会もその政治や経済の組織を工夫して共生の状態へ持っていく努力をしないと、(たぶんできないだろうが)人類に22世紀は存在しない。

イギリスのサッチャー首相やアメリカのレーガン大統領たちは、その在任中に「規制緩和」を始めた。これはそれまでの停滞した経済に活を入れたという点で短期的に賞賛されたが、これが現在にいたり、貧富の差の拡大そしてさまざまな残酷な結末を産むに至った。

たとえば、今日本の地方都市ではタクシー業は存亡の危機に瀕している。それは規制緩和のために次々と新しい人間がこの業界に参入し、少ないパイの激しい奪い合いになったからだ。しかも「価格破壊」は運転手の収入を著しく下げ、副業をしない限りほとんど生活していくことができないようになった。

地方都市の駅前に行ってみるとよい。駅前のタクシー乗り場には、客街のタクシーが駅前広場を何重にも取り囲んで降りてくる客を待っている。一つの生業としてのタクシー業は今にも崩壊せんとしている。そして政府はただ「緩和」だけが経済の回復の特効薬といわんばかりにますますその政策を進めている。

だが欧米ではすでに規制緩和のバックラッシュ( backlash 反動)は起こっており、もとの体制に少しずつ戻っていこうとしている。寄生というものは、ある程度まではその業界の保護と安定成長を狙って作られている。それをむやみやたらに破壊しても社会全体にとっての無駄が起こるばかりだ。

昔からのすぐれた製品を作り続けてきたいわゆる「老舗」もこの十数年の間に多くが消滅した。もちろん一度消えたものは二度とよみがえることはなく永久に失われる。空の老舗、パンアメリカン航空も、かつては世界の空港で見かけられたが会社そのものが消滅した。いくらか航空料金が下がったというだけで、自由競争が安全性、効率性を高めたわけではない。単に残された会社の従業員の給料が下げられ、労働条件が厳しくなっただけである。

文化的伝統を担った会社が消えて行くだけではない、リストラ、コスト至上主義、そしてその結果引き起こされた人的資源の枯渇である。アルバイトでも十分できる程度に仕事の質が単純化されているために、高度な熟練を必要とする労働者は姿を消していく。おかげで日本が世界に誇る手先の器用さを生かした技術の粋も風前の灯火である。

2000年8月初稿~2004年10月追加

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