政治時評

杭州・西湖

法制度や行政によって社会に実現するべきだと思われる具体的方法

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君が代はファシストの歌

日本のある大都市の学校では卒業式などの公式な場では君が代を歌うことが強制されている。教員たちがそれに従わなければ、戒告、減給などの処分が待っている。もちろんこれは21世紀、つまり現代の話である。たとえば有名な作家出身の首長が、これを強力に押し進めている。

彼は、住民の圧倒的な支持を受けて当選した。残念ながら選挙というものは、当選後に立候補者が何をしでかすかを予想しながら投票できる者は少ない。「ルックス」や「知名度」だけが頼りなのだ。そして当選者は、いったん権力の地位につけばこっちのものである。あのときの当選結果が、任期が終わるまでついて回るのだから。

さて、なぜこのような国旗や国歌の強制がおおっぴらに行われるようになったのか。それは日本国民に、そしてその首長の命令を実行する公務員たちに、自分でものを考える能力がないことに他ならない。この首長はもとからいわゆる「右翼」として有名であり、中国のことを「支那」と言ったりしていた。それによって中国の人々から反発を買ったことも少なからずある。

なぜ国歌や国旗の強制をしなければならないのか。それは人々がいやがっているからである。人々は国旗や国歌について触れることをいやがり、できるだけそれらと関わりを持ちたくないと思っているからだ。だから自治体や政府の中には、表向きでも人々がそれを敬っているようにしなければ気が済まない。よく「挨拶運動」などというものがあるが、こういう運動が起こるのも、さっぱりみんなが挨拶をしないからだ。

人々が国歌や国旗を忌避するようになったのは第2次世界大戦の時代にさかのぼる。日の丸や君が代は1945年まではファシストのシンボルだったからだ。天皇はファシストを黙認した。敗戦と共に、その価値はまったく逆さまになった。戦前に敬われていたものは、すべて捨て去るべきはずであった。

司馬遼太郎の「歴史の中の日本」というエッセー集によると、君が代は江戸時代の大奥での儀式に使われる歌だった。それが開国のどさくさから国歌が必要だということになり、政府のごく一部の高官たちによって急遽決まったのである。だから国民的合意も、国歌を守るときに歌われたというような思い出もない。こんなものを国歌にすること自体が間違っている。かつて海軍で演奏され現在ではパチンコ屋でおなじみの「軍艦マーチ」の方がよっぽどましだ。

それを今になって強圧的に持ち出してくると、人々の気持ちに矛盾が生じる。国歌や国旗を敬愛することはファシストを敬愛することにどうしても連想がゆくようになってしまうのだ。そのことを勇気を持って表に出し、脅しをものともせず国歌を歌うことをはっきり拒否できる人はよい。問題なのはそれもできず、それでいながら国旗に対して何らかのわだかまりを持っている人々だ。

この首長はこれらの人々をターゲットにしている。つまりいわゆる「サイレント・マジョリティー」がいることを強調し、これを利用して反対派を封じ込め、孤立させようという魂胆だ。これはイラク戦争におけるアメリカの政策とまったく同じタイプである。これを「なし崩し方式」という。急激な変化は避け、議論にも乗せず知らぬ間に変えて行く、きわめて卑劣なやり方だ。

日本人は特に同調性が強いから、おおぜいの人々がある考えを持っていると、それと同じにしないと不安で仕方がない。たとえばどんな音楽が好きかを自分で決められないから、ランキングの数字を頼りにする。人々の政治志向も「ランキング」で動くのだ。これが政治的には、個人主義的傾向の強いアメリカよりもよほど効果的に利用することができるのだ。

それでは、国旗や国歌に対する敬愛の気持はいけないことなのだろうか。そんなことはない。ただし、それらは自然に生まれ出るものでなければならない。決して政府や自治体によって強制されたり教え込まれたりするものではなく、個人が自発的に思うようなものでなければならない。

第2次世界大戦中、ナチに占領されたフランスでは、レジスタンス運動が盛んだった。ナチを追い払うために、多くの人々が命を失った。戦後、子供たちは、自分の父親や、祖父、あるいは近所の長老などから、そのようにしてフランスの解放のために多くの人々が犠牲になったことを聞かされた。

それらがいつか祖国フランスへの敬愛の念に代わり、国旗や国歌に対して何のこだわりもない自然な気持を抱くことができるようになった。ナチを追い払うために戦ったことは、年上の世代によって「誇り」を持って語られる。

そのような場合には、自治体が校長に国歌を歌っているときに起立していない者がないか「監視せよ」などという恥ずべき事態はどこにも生じないのである。実際、教職につき、子供たちを教育する立場にある者が、部下の監視をするなどというのは、世界中に知られて誇りとすべきことだろうか?

しかもなんと言っても日の丸や君が代には、アジアを蹂躙した恥ずべき過去がある。それを敬愛せよというのは、どう考えても無理な話だ。これらには虐殺されたり強姦されたりしたアジアの人々が結びついてくる。愚かな天皇の姿が目に浮かんでしまう。いっそのこと新しく国歌や国旗を作り直したらどうだろうか。たとえば憲法の前文を歌詞にするのもよい。

さいわいこの首長は相当の高齢である。老ファシストは消え去るべきだ。ただ、残念ながら若いファシストたちも次々と生まれている。この首長の取り巻きの中には、彼以上に政治手腕のある者がいるかもしれない。彼らにとって、選挙民を一時的に喜ばせ、当選後に好き勝手なことをするのは赤子の腕をひねるよりもたやすいことなのだ。

たとえば、教育委員会。この専制的なシステムが戦後の中を残っていたことも驚くべきことだが、これが日本の集団主義的な悪弊を温存した源と言っても言い過ぎではない。彼らの大部分は「国家の犬」なのである(そうでない教育委員もいる、念のため)。教師を監視し、生徒たちを洗脳するのに一役買った彼らは、老ファシストの思想を忠実に受け継いでいくことであろう。

話は変わるが、日本の教育委員会はまたしてもおぞましいことを始めてくれた。これまでは単位として認めていた奉仕活動を必修科目にするのだという。これからの高校生はちゃんと卒業免状をもらえるために奉仕活動をするのである。

以前は何も強制がなく、高校生自身が自分で考えて自分で決心をして活動を始めていたが、これからはほとんど義務となるのだ。なるほどこれまで知らなかった世界を知るという利点はあろう。だが一生奉仕ということに無縁な人間が嫌々ながらそれでも将来のためという功利的な目的のために奉仕を行うとき、それは奉仕でなくなる。

必修科目化は高校生での奉仕活動の「死」を意味する。君が代強制をはじめとして上からの押しつけが若い精神に及ぼす悪影響は計りしれない。これまで物質文明と浪費志向に迎合してきたくせに人間形成の欠陥に驚いて対症療法で済ませようとしている。

現代文明によって青少年がますますゆがみ、経験も乏しくさまざまな環境の変化にたいする適応力を失ってきているのは、もちろんのことだがそれを救ってあげるの役目のはずの教育者の「上層部」はなんと腐敗し、現代の浪費社会に迎合していることだろう。恥を知れ。

2004年4月初稿 12月追加

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